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OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942と1945は、マップは共通、ルールは別で

 OCS『South Burma』(仮)は、まずは基本的に1942年1月~5月の日本軍によるビルマ攻略を扱うものなわけですが、1945年1月~8月のビルマ戦線の崩壊局面も同一マップで再現できそうなら、ぜひそうできるようにしたいと漠然と思っていました。



 ↓現状のマップ割。フルマップ3枚で、一番北のマップはOCS『Burma II』のマップと一部重なります。

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 この件は、リサーチの面からも必要だと思ってました。というのは、OCS『South Burma』(仮)を作る上で最も困難なのはマップ製作の部分だと思っているのですが、ビルマ戦の往路(1942年)の資料だけでなく、復路(1945年)の資料も読めば、地形に関する記述は数倍あるだろうことが見込めるからです(1ヘクス8kmというスケールでは、単に資料の中の地図を参考にしてマップを作るのでは全然充分でなく、文字資料の部分から見つかる材料を織り込んでいかないとダメだと、ここまでの作業でも痛感してます)。


 なので、往路の最初の部分から資料を読み始めて、復路の最後の部分で重なるところが出始めたら、後者も読んでいこうと。尤も、復路の最後の方とはどういうもの(資料)なのか、実は分かってなかった(^_^;のですが、先日ようやく、「シッタン川突破作戦(日本軍の残存部隊が南部ビルマの中央部にいて、その東側が英連邦軍に阻止されていたのを突破し、シッタン川を渡河して南東ビルマに向かおうとする作戦)」が最後の作戦に当たり、戦史叢書にもその作戦を扱った本があるのだということを理解して注文したのでした(そういう作戦行動があったこと自体は知っていたのですが)。






 で、いよいよ少し復路の部分にも手を付け始めそうなので、『South Burma』(仮)のテストプレイ用ルールブックを改訂する上で復路に関しても織り込んでいかねば……と思って、しばらく考えて諦めました。「往路も復路も同一のルールで再現するなんて無理だな! 往路と復路は、別のルールやチャートを使用するということにしよう!」

 マップは同一のつもりですけども、1942年から1945年の間に橋が落とされたり架けられたり、鉄道や道路などの変遷がある可能性はあるかと思います(それらの変遷がかなりの件数あるようなら、別マップ別ゲームということにした方がいいのかもしれません)。ユニットは、1942年は3倍スケール、1945年は標準スケールのつもりですし、全然別となります。地形効果表も、1942年のはかなり移動しやすいのですが、1945年のは(『Burma II』と同様の)かなり移動しにくいものにした方がいいのではないかと思っています。


 ルールを別にするので、ルールブックにはそれぞれ「South Burma: 1942」「South Burma: 1945」とでも書こうと思っています(シモニッチ的な感じがするなぁと思いましたが、良く考えたらシモニッチなら「'42」とかですかね)。

『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました

 古本屋でたまたま見つけて買ってみた『リデルハート 戦略家の生涯とリベラルな戦争観』を読了しました。





 この本、記述の姿勢が個人的に非常に好みでした。

 リデルハートについては今までに読んだ記事等などでも賛否両論がある(自分の功績を大きく見せようとしたとか)ことは少し知ってましたけども、この本はリデルハートに関してその功績を語るものではありながら、その欠点も事細かく大量に挙げていて、むしろ欠点に関して割かれた分量の方が多いのではないかと思われるほどでした。

 私は、人間には長所も短所も両方あるのが当たり前だと思いますし、長所しかないとか短所しかないとする記述には胡散臭さを非常に感じるタチではないかと思われます(ごくまれに、長所しかない、短所しかない人間もいるでしょうけども。大谷翔平とか、短所あるんでしょうか?(^_^;)。

 なので、牟田口廉也の長所に関して非常に気になり続けていますし、あるいは、GameJournal誌で児玉源太郎には長所しかないかのような連載記事(そうでもなかったでしょうか?(^_^;)があったのに対して、「ホンマかいな」という印象を抱いたりしました。



 ミリタリーからはずれますが、『人新世の「資本論」』というベストセラー本を買って読んでみていた時に、著者が晩年のマルクスの論について褒めまくりどころか、現代の思想家の色々な論と比べても必ず勝っているかのような記述を繰り返すのに、私は超絶胡散臭さを感じて途中で読むのをやめてしまいました……。環境問題に関して劇的な変革をしなければどうにもならないでしょという著者の方向性に、私はかなり一致する(ただし、すでに手遅れである可能性の方が遙かに高いと私は思っていますけども)のですが、晩年マルクスに対するあまりの傾倒ぶりとか、変革ができる・できて当然と思っているかのような姿勢には個人的に違和感を感じています(尤も、私なんかは世の中を変えることはできない人間で、この著者のように「傾倒性」が高く「楽観的」な人間が、世の中を変えるのでしょう)。






 閑話休題。

 リデルハートについての後世からの論評は、大木毅さんが短く触れていたものの他は『戦略の世界史(上)』での数ページの記述が私が読んだ今までの上限だったと思うのですが、この400ページを越える本で細かくその長所にも短所にも細かく触れ得たというのは大変ありがたかったです。

『戦略の世界史(上)』で個人的に価値のあった部分(付:OCS『The Third Winter』ネタ) (2022/01/05)



 中でも白眉は、「リデルハートがグデーリアンに戦前から影響を与えていた」という説に関して、戦後ある研究者が否定した後、別の研究者がやっぱり与えていたということを明らかにした……という話でした(もちろん、それがまた否定されるとか、議論が継続している可能性もあるでしょうけども)。

 あと、索引があるのが偉いです。参考文献一覧は当然あります。


 この本の個人的に良くなかった面も書いておきますと、同じ内容の繰り返しが多いです。繰り返しをうまく編集すれば、分量は半分近くになったのではないでしょうか。また、間接的アプローチがうまく実戦に適用できないという話とか、西側流の戦争方法とかに関するもっと具体的な例をいくつも挙げてくれると、個人的にはもっと良かったと思いました。

 この本が書かれた時期が2008年で、リデルハートに発する西側流の戦争方法が良いものであるという主張はまあ別にいいと思うのですけども、個人的には、その後のロシアによるクリミア併合やウクライナ戦争というような「権威主義国家による戦争方法」に対して西側流の戦争方法がどうしていけるのだろうか、というようなことが非常に気にかかっています。

#あなたの周りのインパール作戦:ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー

 『戦慄の記録インパール』の「おわりに」をまず読んでみたところ、NHKスペシャルの放送後に、「#あなたの周りのインパール作戦」というハッシュタグが登場して、今現在の日本人が日常の中で直面したインパール作戦的な経験をつぶやく人が急増したという話が載ってました(文庫版P267)。






 その種別としては、「上司への忖度、曖昧な意思決定、現場の軽視、科学的根拠に基づかない精神論、責任の所在の曖昧さ……」などということなんですが、今話が大きくなっている「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」も、私が思うにインパール作戦的な要素がいくらかあるのではないかと思い至りました。

 たとえば、

1.「つきあい(人間的結びつき)」が優先されて「人道的公正性(フェアネス)」が徹底的に閑却されたこと。

2.「迫力」で反対意見を黙らせるリーダーに、まわりが沈黙していったこと。



 特に1は、日本社会全体の問題である可能性が高そうな気がしています。あ、でも公(おおやけ)よりも個人的結びつきの方が遙かに重視される中国やイタリアとかもそうかも……?

 それに比べて欧米(イギリスやアメリカ?)なんかは、フェアネス(社会的に公正であること)が重視され、人間的結びつきがあるからかばうとかって度合いが少ないらしいと、昔何かで読んだ気がします。


 『アーロン収容所』を読んでいても、当時イギリス人はむちゃくちゃ人種差別的なわけですが、約束を守ること(これも一種のフェアネス?)に関してはむちゃくちゃ大事にしていて、約束が守られなかった時には人種差別の対象である日本人捕虜に対してさえも真摯に謝ったものだった、という話が何カ所か出てきていました。


 日本社会の道徳性は、「みんながそうしているから(同調圧力)」という、人と人との間的なもので維持されるのですが、欧米ではそういうのはほとんどなく、むしろ「フェアネス」(あるいは法律)という概念でもって各人(あるいは裁判所)が判断している。もちろん何が「フェアネス」であるかとか、どこからが「フェアネス」になるかとかは各人で違っていったりもするから、その辺についての議論が活発だったり、訴訟が活発だったりする。


 日本社会が、今日から欧米社会になれ、と言われても無理だと思いますし、欧米社会がばら色というわけでもないと思いますけども、「ジャニーズ忖度によるメディア報道スルー」は別にメディアだけが悪者になるべきものではなく、そもそも日本社会ってそういうことが起こりやすい社会構造らしいね、インパール作戦とか、というような理解の方が、「マスゴミ」論よりも、私は個人的に好みです。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:サルウィン川周辺の小道と、ビルマ人部隊を改訂

 OCS『South Burma』(仮)製作のために、ネット上にあった『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』を読んでいく作業をしてました。


 この本には詳しい地図がけっこう入っているのですが、その中のP119の地図は、1942年2月1日時点(モールメンを日本軍が占領した直後)の英連邦軍の配置図となっています。


 ↓今回改訂したOCS『South Burma』(仮)のマップにその配置図の一部を描いたもの。

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 以前、OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた (2023/07/15)で書いてましたように、英連邦軍側は海岸沿いやサルウィン川上流の方も警戒してかなり広い範囲に部隊を配置しています。

 それはそれで、プレイヤーがそうしたくなるような史実に基づいた状況設定を盛り込んでいこうと思うのですが、その他に2つほど、ちょっと解決しなければならない問題が認識できてきました。

1.史実では、画像の赤い□で囲んだPa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持することが意図されていたようなのですが、これまでに作っていたマップ上では、英連邦軍がそれらを保持することに魅力を感じられないだろうこと(日本軍にとってもっと良い進撃路が他にある感じなので)。


 ↓以前のマップ。

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 小道は、資料で見つけられていたものを描いてみていたわけですが、↑だと、サルウィン川を渡る上では、モールメンのすぐ北のあたりや、Pa-an(パアン)の北にも2箇所くらい有望な場所があるように感じられます。ですから、先に書いてました史実の「Pa-an、Hlaingbwe、Kamamaung等を保持する」などという事に意味はないようになってしまうでしょう。

 そこで、よりそれらを保持することに意味が感じられるように、小道や平地を取捨選択して削ることにしたのでした。




2.Hlaingbwe、Kamamaung等に英連邦軍はどうやって一般補給を入れるのか?

 OCS『Burma II』で英連邦軍が小道を通して一般補給を入れるのは地獄のように大変なのですが、『South Burma』(仮)はそこらへんは緩和しないとどうにもならないのでそうしようとは思ってます。しかしだとしても、史実ではかなり離れた場所に英連邦軍は部隊を配置することをしており、単なる緩和ではどうにもならないと思われました。

 そこで気付いたのが、そういうかなり離れた場所への守備隊配置に使用されていたのが、ビルマ人部隊であったことです。具体的には第2ビルマ小銃大隊、第4ビルマ小銃大隊、第8ビルマ小銃大隊など。

 ビルマ人部隊は現地での食料等入手にかなり有利であっただろうと考えても良いかと思い、『South Burma』(仮)では日本軍だけが使用可能と考えていた「食糧入手表」をビルマ人部隊も使用可能であることにすればなんとかなるだろうと思いました。ただし普通にそのユニットのアクションレーティングで判定していてはやっぱりダメなので、ビルマ人部隊はアクションレーティングに+3できるという方法で。


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 ただしそうした場合、ビルマ人部隊(の一部)が攻撃も可能な戦闘力を持っていては、日本軍の後方でのゲリラ活動が可能になってしまう(史実では後に「そういう風に使った方がよかった」と報告があったものの、序盤ではそう使用するための条件が整っていなかったのでそれができなかったのです)ので、とりあえずすべての部隊に()を付けて防御専用にすることにしました。


 ↓現状のユニット。

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 『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』でサルウィン川渡河のあたりまで読んだら、テストプレイ用のセットを作ろうと思ってます。


台湾有事に関わらない(戦争に関わらない)ことで日本が何を失うことになるか考えるべきだと思っています

 ツイートで↓のように書いてました。





 ここらへんのことで、もうちょっと詳しく自分の思っていることを書いておこうと思います。


 最初の↓ですが……。

「報道特集」が左の立場からどういう風に台湾有事を語るか気になって見てました。

最後のまとめとして、台湾側が過激なことをしない限り習近平が戦争をしかける可能性は低いという総括でしたが、これはツッコミどころだらけだと思います。
【「過激なこと」というのは、独立派が政権を取るなどのことです】


 しかし私が思うに(というか、日本の左翼以外の衆目の一致するところ)、習近平が戦争をしかけるタイミングは、↓のような場合でしょう。

1.台湾侵攻が成功するだけの条件が整った時
2.(条件は完全に整ってはいないが)習近平の権威が危険に晒され、大きな功績を示す必要が出てきた時
3.習近平の任期延長のために功績が必要なタイミング
4.上記3つにも合致しなくても、習近平が「今だ」と思い込んだ時(習近平が寿命を意識した時など)


 ロシアのウクライナ侵攻は、4の時に行われたように見えます(3も少しあるでしょうし、またプーチン自身は1だと思っていたでしょう)。


 日本の左翼は長年、「戦争を起こすのは日本やアメリカである(中国やロシアは平和勢力だ)。平和のために日本は軍備を増強すべきではなく、日本が軍備を増強するから戦争が近づく」と主張してきましたし、そうすると「報道特集」のように言うしかないのでしょう。



 2つ目の↓ですが……。

ただ、「日本民間人の犠牲者に関して考えるべきだ」という話に関しては同感で、日本国内の軍備増強派もそこの話から逃げるべきでないと思います。

数万人の犠牲が出ても台湾有事にコミットするのか、犠牲には耐えられないから台湾が中国に占領されることになってもコミットしないのか考えるべきだと。


 「べき」だとは思います、思いますけども、それは今の日本ではまだ、極度に難しいでしょうね……。

 というのは新聞などを読んでいても、戦争体験者や戦争について考える若い人によって「戦争は絶対にしてはいけない」というフレーズが何度も何度も繰り返されており、日本社会の(考え直すことなど不可能な)ドグマとなっている感があるので。


 それに対して私は、日本社会は「戦争をしないことのデメリット」について考えたり、話題にするべきだと思っています。それが禁忌でなくなって初めて、冷静な議論が可能になる。現状では冷静な議論が可能な条件は全然整っていないでしょう。


 中国に台湾が侵攻された際に、日本が「在日米軍基地の使用を許さない」であるとか、「自衛隊の出動を見送った」場合、どういうことが起こるか。

 メリットとしては、日本人の犠牲は少なめですむでしょう。日本は戦争には関わらないですみます。

 デメリットとしては、シミュレーションによればその場合、台湾は中国に占領される可能性が高いとされています。台湾は香港やウイグルのようになるでしょう。台湾の民主主義は完全に壊滅し、人権抑圧も頻発するでしょう。台湾人は日本(人)を恨むかもしれませんが、元々台湾人は日本が立ち上がってくれるとは期待できていないという話も聞きます。

 それ以外のデメリットとして(素人の)私が思いつくのは、同盟の信頼関係が傷つくということです。特にアメリカと韓国による、日本への同盟の信頼感は地に落ちるでしょう。結果として、アメリカは東アジアへのコミットを減らし、韓国はアメリカよりも中国の傘に入ることを選択する可能性が高まるのではないでしょうか。つまり、中国の影響圏が広がることになるということです。

 そうすると次に、中国は沖縄に対する影響力を増大させようとすると共に、日本が(韓国のように)中国の言うことを何でも聞く(アメリカの影響力を削ぐ)ように要求をエスカレートさせるでしょう。まさに、「太平洋は中国とアメリカの両国が勢力圏を分けあう広さがある」のであり、太平洋の西側は中国の勢力圏に入るべきなわけです。


 ……と、私は思っているのですが、そうでもない? ここらへんの予測に関して、識者の意見も見たことがないので個人の勝手な憶測にとどまってます。

 私の予測がある程度正しければ、こういうことが言えると思っています。「台湾有事に日本がコミットしなければ、将来的に日本(特に沖縄)は香港やウイグルのようになる可能性がかなりある」。

 「日本が将来香港にようになってもいいから、戦争をしたくない」のも一つの意見だと思います。その認識のある非戦主義者となら、議論ができると思う。しかし「日本は戦争をしない。そして今の民主主義も当然、享受し続けることができる」というのは見通しが甘すぎるのではないかと。



 今回のツイートに市川さんのコメントをもらいまして、そのリンク先のブログ記事にこうありました。

特に、台湾在住の日本人が避退できないうちに有事となった際、中国側から「中国の船舶で在台日本人を避難させてあげるから、台湾や米軍に協力しないように」と交渉される可能性も挙げられているのもなるほどなと。そのように交渉されたら、昨今のウクライナ情勢でも見受けられるように「日本人の生命を優先して、戦争には関わるな」と主張する人たちも出てくるだろう。


 中国の認知戦、ヤバいですね……(>_<)。本当にそうだと思います。そういう人は恐らく、50%を越えるのではないでしょうか。

 それらの結果として、中国が台湾侵攻に成功する可能性もある程度あるのではないかと私は思います(中国が数百万台のドローンを活用するとか、アメリカの国内政治の状況が悪化するなどの条件が重なって)。


 日本社会に広くはびこる「空想的平和主義」が健全な程度まで減るためには、私は、一回本当にひどい目に会うしかないのではないかとも思っています。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていた

 1942年のビルマ戦の初期の一時期、モールメン攻略後(2月1日)からビリン川の線からの撤退(2月20日)あたりの期間において、英連邦軍は日本軍が戦線後方へ海岸上陸や河川を遡って上陸するのも恐れていたことに関して複数の資料に書かれているのを発見しまして、OCS『South Burma』(仮)でもそれが可能なように配慮することが必要かと思われました。


 ↓OCS『South Burma』(仮)の現状のマップ。

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 日本軍がモールメン(Moulmein:画像の右下の赤い□)を攻略した前後、日本軍は多数の小さい船を入手していたようです。

 サルウィン川では、マルタバンとダグウィン【画像の右上の赤い□】の間に船が数隻あった。小道や道路はこれらから東【西の間違いか?】へと続いており、そのため船には注意深い監視が必要だった。海岸沿いの多くの河口や小川も同様だった。日本軍は筏、川船、大きなボートを多数所有していることが分かっていたのである。したがって、彼らは我が軍の戦線の背後で海岸上陸を試みることが十分に可能であった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79

 少なくともダグウィンまでは船が遡れたということであると思われ、ダグウィンに日本軍部隊が上陸すればパプンまで移動することもできるでしょうから、それが警戒されたのでしょう。


 【第17インド歩兵】師団長は【サルウィン川沿いのラインという】新しい状況に満足しておらず、シッタン川のラインへの撤退を望んでいた。しかし、彼は却下され、ハットン将軍はサルウィン川の線に固執した。マルタバン(Martaban)は確実に保持すべきであり、また部隊の配置全体はマルタバン湾からの上陸にも配慮されていなければならない。第17インド師団はマルタバン、サトン、パアン、ビリン、キャイクトー、パプンを保持し、マルタバンからシッタン橋までの主要道路と鉄道をパトロールすることになっていた。この地域は、機甲部隊の支援のない小部隊には広すぎた。お互いの連絡手段が失われてしまうほど遠く離して薄く分散配置するのがせいぜいで、横の連絡もなしではこの地域では、一つ一つの部隊が側面から包囲されてしまうだろう。そのうえ、部隊の配置は海上からの上陸に振り向けられ、より多くの部隊がマルタバンからキャイクトまでの鉄道路線に集中し、地形的に潜入が容易なビリン・パプン・パアンの三角地帯にはより小さな部隊しか配置されていなかったのである。このようにして、ラインは薄く引き延ばされた。師団長は、戦線の延長は縦深を不足させるという金言に基づき、戦線を短縮する許可を要求し、ビリン川戦線への撤退を希望した。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxix, xxx



 さらに、英連邦軍側は、ラングーンの東側の海岸に日本軍が部隊を上陸させることをも警戒していたようです。

 ウェストヨークシャー【軽歩兵大隊】はラングーンのすぐ東の海岸線を監視するために派遣された。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P75




 ところが史実で日本軍側は、サルウィン川を渡河したりするのに船を使用したものの、川を遡ったり、海岸からの上陸作戦などは行いませんでした。後者の理由については、どの資料で見たのか忘れましたが、マルタバン湾(画像の海の部分全部がそれです)の制海権はこの時期、英連邦軍側が握っており、英連邦軍側の艦船によって上陸用の舟艇が沈められてしまうのを危惧したからなのだそうです。


 しかしゲーム上では、可能な作戦として提示されるべきでしょうし、またそうでなくては英連邦軍側が最前線にばかりユニットを配置できてしまうことになってしまうでしょう。

 案としては、日本軍がモールメンを占領したら、たとえば2T分の上陸用舟艇が日本軍に与えられると。OCSシリーズルールで、上陸用舟艇は1つの移動セグメントに10ヘクスずつ移動できるので、それで上陸作戦を行えます。上陸用舟艇は陸上ユニットなどの下に隠すことができます。

 上陸用舟艇を外洋に出した場合、英連邦軍側の艦船に沈められてしまうかどうかのチェックは必要でしょう。

 OCSシリーズルールでは上陸用舟艇にユニットを載せるのは港湾でしか行えないため、モールメンを港湾にしてみましたが、色々な理由からモールメンを港湾にするのはやめて、単純にシリーズルールの例外としてどこでも載せられるようにした方がいいかもです。
(色々な理由……モールメンを港湾にすると、英連邦軍側がモールメンに増援を送りやすくなってしまう。かといって、モールメンの港湾能力をダメージで予めゼロにするようにすると、シリーズルールで上陸用舟艇にユニットを載せる際にも港湾能力が必要なので困ってしまう(>_<))


第二次世界大戦前のインド等でイギリス人(白人)が人種的優越感を持っていた理由を探して

 ↓でイギリス人の人種的優越感らしきものについて書いていましたが、どうやってそういうものが醸成されたのかが気になって最近本を探したりしてました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について (2023/06/28)


 そんな中で、↓という本を見つけていくらか参考になるかもと思って買って読んでみまして、少し理解が深まった気がしました。





 1810~1820年代以降は、ヨーロッパ文明の絶対的な優越性と、インド社会の後進性がさらに強調されていく。この背景には、他のヨーロッパ諸国を排斥しイギリスがインドで独占的な地位を占めたこと、産業革命の進展による一等国としての自信などが働いていたであろう。さらになによりも、数千マイル離れた国土を支配する状況を正当化する必要性があった。ここに、「文明化の使命」がインド支配を正当化するイデオロギーとして登場し、【……】
『イギリス支配とインド社会』P10


 これは「マニフェスト・デスティニー」的な考え方なわけですけども、それで「人種的優越感」を持ってインド人を支配することには直結しないかと思います。

 しかしその後、インド人の中に英語知識を持つ者が増えてきつつ、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるようになると……。

 イギリス直接統治への移行がもたらした心理的影響として重要なのは、インドが一介の商社【東インド会社】の領土としてではなく、イギリス国家の所有物としての位置づけが与えられたことである。インド統治は、イギリスの国威に直結するという意識が生まれたのである。インド総督カーゾン卿によるつぎの発言は、こうした意識を明確に示している。「インドを支配するかぎりわれわれは世界最強の勢力である。インドを失うならば、われわれはただちに三流の勢力に転落するであろう」。帝国支配の永続が暗黙の了解事項となるとともに、当初の「文明化の使命」イデオロギーは後退していった。マコーリが望んだような英語知識をもつ現地人中間層が台頭してくれば、当然のことながら「文明化」の意義は色あせてくる。19世紀後半以降は、むしろ支配「人種」としての優越性、インド社会を構成するさまざまな集団の利害を「公平に」調停するアンパイアとしてのイギリスの存在の意義が、支配を正当化する論理として利用されるようになる。また、インド人知識人層からの、統治への一層の参加要求にたいしては、彼らはインドの「一般民衆」を代表していない、むしろイギリスこそが、インド大衆の擁護者であるという主張によって対抗するようになるのである。
『イギリス支配とインド社会』P14,15




 そして、むしろ「人種差別意識」「人種的優越感」が必要とされ、それが強められていく……。

  「人種」問題は、ことに1883年に起きたイルバート法案をめぐる論争で表面化した。この法案は、刑事訴訟法に修正を加え、インド人判事にもヨーロッパ人犯罪者を裁く権限を与えることを内容としていた。これにたいして、インド在住のヨーロッパ人コミュニティから予想をはるかに上回る反対があり、最終的な法律は、ヨーロッパ人には、過半数をヨーロッパ人が占める陪審員による審理を受ける特権を残したかたちで落ちつくことになる。この論争の過程で、ヨーロッパ人系の新聞・雑誌では歯止めのない「人種差別」的な言論が繰り広げられた。19世紀後半、「ニガー」といった蔑称がヨーロッパ人コミュニティのあいだに浸透した事実に明らかなように、ヨーロッパでの人種理論の発達と平行して、「人種差別」意識は19世紀をつうじてむしろ強まったのである。イルバート法案をめぐる議論を典型とする、露骨な人種的優越性の誇示は、イギリス支配の善意、ヨーロッパ思想文化の「啓蒙性」を信じる知識人の意識に冷や水をかけることになった。
『イギリス支配とインド社会』P59



 ここらへん、もし日本という国家(例えば豊臣政権とか?)がイギリスと同じようなことをしていったとしたら、同じ様な経過をたどった可能性も……?



 他にも、『黒人と白人の世界史――「人種」はいかにつくられてきたか』という本の著者は、人種差別意識が元々あったから黒人が奴隷にされたのではなく、黒人を奴隷としていこうという経済的必要性から人種差別意識が必要になったのだ、というようなことを言っているらしいです。






 もちろん、他にも色々な要因があるだろうこととも思えますけども、個人的にはこういう、「誰でもがそういう風になる可能性がある」という理由付けは割と好みです(誰でもが牟田口廉也のようになりうる、というような)。

牟田口廉也の失敗は、誰にでも起こりうる。ただし、そうなりやすい人と、なりにくい人がいる? (2023/01/28)




<2023/07/13追記>

 もう一冊、『帝国主義と世界の一体化』という本も買ってまして、こちらにも参考になりそうな記述を見つけました。





 すなわち、デカルト的合理主義に象徴される西洋近代のアイデンティティはじつは「大航海」以来搾取し、従属させてきた他の世界の「野蛮の発見」をつうじて形成されたのであった。このことは16世紀から19世紀までヨーロッパ人がもっぱら奴隷として接触したアフリカ黒人との関係でとくにきわだっており、そこでは白人は生まれながらの主人であるのにたいし、黒人はあらゆる否定的な性質を集めた下僕、いや家畜並みの存在であった。
 これにたいし、古い文明と「静止」した政治・社会制度をもつ褐色ないし黄色のアジア人ははじめ、「文明化」され、改善・再生が必要にせよ、まったく異質で、下等な人種と見下されていたわけではない。たとえば18世紀にインドに長期滞在する東インド会社のイギリス人社員がインド人の妻をめとるのはごくあたりまえであったし、もしラジャ(藩王・貴族)の娘とでも結婚できればもうけものであった。同様に18世紀、王侯貴族をはじめヨーロッパ人は中国や日本の華麗な陶磁器に熱中し、その背景となる東洋文化の豊かさにあこがれをいだいた。東洋は西洋と別の世界ではあれ、まだ「野蛮」ではなかったのである。
 しかし19世紀にはいって西欧が産業革命の結果近代工業を発展させ西と東の技術=生産力格差が開くにつれ、またヨーロッパ人が進歩や変化を善しとする価値観になじむにつれ、停滞するアジアはしだいに「野蛮」視され、西洋の「文明」によって救済されねばならない哀れむべき存在に変わったのであった。とくに19世紀半ばイギリスがインドで支配を確立し、また中国が阿片戦争やアロー戦争の敗北をつうじ従属的な条件で「世界システム」に組み込まれるにつれ、西洋の東洋蔑視は普遍的な確信の域に達した。そしてこの蔑視での、「進歩」対「停滞」、「文明」対「野蛮」、「男」対「女・子ども」、「白」対「有色」といった割り切りはヨーロッパ人のアイデンティティを支える柱となり、それは相手の価値や要求に一切眼を閉ざす傲慢を育てるとともに、己の側の実態や欠陥を真剣にかえりみる謙虚さを失わせた。

▼「白」対「有色」 人間を皮膚の色で差別する偏見はヨーロッパ人だけのものではない。たとえばインド(ヒンドゥー教)のカーストにおける四姓(ヴァルナ)はもともと肌の色を意味し、バラモン(白)、クシャトリア(赤)、ヴァイシャ(黄)、シュードラ(黒)と明るい色が暗い色より優位にたった。またある人種の肌色をどうみるかもときと事情によって変わり、ヨーロッパ人は中国人や日本人を18世紀には「白」とみていたが19世紀後半には「黄」とみなすようになった。
『帝国主義と世界の一体化』P54~56

 この変化【進化論を根拠として、白人の生物学的優位を強調する社会ダーウィニズムが代表的思潮になったこと】の背景には当時、世界分割競争の激化にともない、列強の国民のあいだに対抗意識が強まり、それとともにジンゴイズム【自国の国益を保護するためには他国に対し高圧的・強圧的・好戦的な態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、あるいは自国・自民族優越主義的な立場を指す言葉】やショーヴィニズム【熱狂的愛国感情が生み出す排他的思想態度のこと】と呼ばれる偏狭な愛国心や白人と有色人種の差異を決定的なものとする人種差別がヨーロッパ人の心に深く根をおろすようになった事情があった。

 たとえば、上述のように19世紀中葉まで - 1857年の「大反乱」(セポイの反乱)後もなお - イギリス本国では、インドの「文明化」とその後に訪れる自治ないし独立の可能性を漠然とではあれ予想する人びとがかなりいた。しかし【18】80年代以降、列強の通商や植民地の拡大を求める動きが活発になり、イギリスの覇権がゆらぎはじめると流れが変わり、インドの「文明化」よりも統治の強化を求める声が主流になった。すなわちイギリス=ヨーロッパ文明の普遍性への信頼、その結果としてインドの「文明化」への期待ではなく、インド人の癒しがたい後進性・弱さが強調され、帝国主義的支配の強化・継続が主張されたのであった。
『帝国主義と世界の一体化』P59,60


 確かに、幕末(1850~60年代)頃の外国人との接触が結構描かれている『風雲児たち』というマンガを読んでいると、(ジョン万次郎がアメリカ本土で差別されたという話もありましたが)日本人が差別されているという感じは受けません。

 しかしその後、欧米では人種差別意識が強まっていって、インド人やビルマ人、日本人らにとってもそれらが堪えがたくなっていったという流れがあったわけですね。


 あるいはまた、太平洋戦争の終盤にはそれまでよりも日本人に対する欧米人の差別意識が強まり、極限にまで達したというような話もあったようです。現在進行形で戦争している相手ですからある意味では当然ではありますけども、ドイツ人やイタリア人に対する見方に同じ様なことがあったかというと……ではありますね。




<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:九七戦とP-40の航続距離について

 『Flying Tigers』を読み進めていましたら、↓のような記述に出会いました。






 指揮下の戦闘機【九七戦】を敵に近づけるため、吉岡【第77戦隊長】はラングーンからわずか200マイルのラーヘンの前方滑走路に【ラングーンから300マイル東のピサンロークから】部隊を進めた。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103



 別の資料を読んでいると、ラーヘンとラングーン(ミンガラドン飛行場)との間などを日本軍の九七戦も、義勇アメリカ航空部隊(AVG)のP40Bも、往復して空戦したり在地機を銃撃したりしています。


 ↓OCS『South Burma』(仮)のマップを作る時参考にした地図のうちの一つと重ねているもの。

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 一番左の小さい赤い□がミンガラドン飛行場です。ナコンサワンにも飛行場があったり、その南の方にドムアンという飛行場があり、そこも連合軍航空機から攻撃を受けていたもようです。


 ところがふと、現状のP-40と九七戦(Nate)の航続距離と、ラングーン~ラーヘン間のヘクス数を確認して青くなりました。

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 ↑P-40の37ヘクス、Nateの40ヘクスに対して、46ヘクスほどあったのです!(>_<)
(ミンガラドンからマップ東端まで38ヘクス、マップ東端からラーヘンまで8ヘクス(ミンガラドンから46ヘクス))



 これはまずい……。


 で、色々調べたところ、↓のようなことが分かりました。

 九七戦の航続距離は627kmらしく、『South Burma』(仮)で使用しているOCSの標準スケールの1ヘクス5マイル(約8km)での片道でのヘクス数は39、まあおよそ40となります。

 ただこれは、翼内にのみ燃料を入れた時のものなのか、「九七式戦闘機の航続距離を教えてください。本気で知りたいのです。」というページのやりとりによると、↓という推測が書かれていました。

(1)翼内燃料のみの280Lのときは航続距離627km(燃費2.24km/L) 【39ヘクス】
(2)胴体内燃量まで搭載した330Lのときは航続距離825km(燃費2.5km/L) 【52ヘクス】
(3)主翼下の落下式増槽まで搭載した596Lのときは航続距離1710km(燃費2.84km/L) 【107ヘクス】

 ゲーム的には、「ピサンロークからではラングーンまで届かないが、ラーヘンからならラングーンまで届く」という航続距離が望ましいかと思うので、航続距離を52ヘクスに変更するのが良いかな、と思われました。ただ今後、九七戦がピサンローク他からラングーンに飛んでいる記述が多く見つかれば、考え直します。


<2023/07/13追記>

 九七戦が落下式増槽を付けていた(ことがある)ことに関する記述を見つけました。

 彼らはミンガラドンと九七戦を同時に視界に入れた。アメリカ人パイロット達が見守る中、24機の日本軍戦闘機が補助燃料タンクを落とした。「紙吹雪のようだった」とニールは回想する。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P154


 また、九七戦がナコンサワンを進発してラーヘンで給油してからラングーンに向かったという記述もあった(P158)ので、ナコンサワンを基地とできるだけの航続距離を持たせても良いのだろうと思います。

<追記ここまで>






 P-40は、これまでのOCSでは航続距離37というケースが一番多いのですが、57や60というのもあります。

OCSにおけるカーチスP-36とP-40について (2022/09/26)


 ただ、Wikipeida「P-40 (航空機)」を見ていると、航続距離は↓となってました。

P-40 2,253km 【141ヘクス】
P-40E 1,529km 【96ヘクス】
P-40L 2,213km 【138ヘクス】
P-40N 1,207km(落下式増槽装備時) 【75ヘクス】


 よく分からないですが、P-40Bの航続距離を96ヘクスぐらいにしても許されるのかもと思いました。が、37ヘクスとは何だったのかということは全然分からないままです(^_^;


 とりあえずは、ゲーム上良さそうなある程度のところの数字でやっていってみようとは思いますが、何か「それはこうですよ」とかありましたら、ぜひご教授下さい(^^)



<2023/07/10追記>

 ↑で引用していた文の直後に、参考になる記述がありました(^_^;

 義勇航空部隊のマニング大尉はヘルズ・エンジェルス【AVG第3飛行隊】に、メルグイに増援部隊を運ぶ兵員輸送船の護衛を依頼した。オーリー・オルソンは、トマホークがテナセリム上空でガソリンを確保できるのは45分と計算し、この任務を拒否した。67戦隊の足の長いバッファローはそのような問題はなかった。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P103,4




 ↓関係地図

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 今回の引用文で「テナセリウム」というのはビルマ南東部、タイ国境沿いの南北に長い地域のことで、メルグイ(Mergui)の町は現在はベイという名前に変わっています。

 「ターク」の辺りが「ラーヘン」で、画像上の各ヘクス数はラングーン(ミンガラドン飛行場)からのおよそのヘクス数見積もりです。


 ここから推測すると、P-40B(トマホーク)は、だいたい85ヘクス辺りまで行くと、残りの活動時間は45分程度となり、危険になったのでしょうか。すると、安全に活動できる限界は70ヘクスあたり……?(全然分かりません。80弱くらいでもOK?)

 一方、バッファローの方は航続距離が1600kmという数値が出てきまして、ヘクス数にするとちょうど100ヘクスとなります。


 すると、バッファローが100ヘクス、P-40Bが70数ヘクス程度、九七戦が52ヘクス、あたりでしょうか……?

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの英連邦軍自動車化部隊の一度の積載量について

 1942年のビルマ戦におけるイギリス人部隊、キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊の兵士であった人物の日記を元にしたという本があるのを発見したので、購入して読み始めてます。






 この中に、大隊の持つトラックの総積載量が非常に少ないものであったということが書かれているのに興味を持ちました。

 この大隊には6両の15cwt【約3/4t】トラックしかなかったが、これは大隊全体はおろか、6個小隊にも十分ではなかっただろう。
『Burma 1942: Memoirs of a Retreat: The Diary of Ralph Tanner, KOYLI』P40



 「15 cwt truck」というのは「CMPトラック」というのの1種であるようです。

 「6個小隊」が大隊のうちのどれだけなのかですが、『WWII戦術入門』という本によると、イギリス軍はこのような編制であったようです(P42)。





1個歩兵大隊=4個小銃中隊

1個小銃中隊=3個小銃小隊


 つまり、1個歩兵大隊は12個小銃小隊から成っていたことになります。ということは、「大隊の半分を運ぶにも十分ではなかった」ということになりましょう。


 OCSでは、ユニットの兵員すべてを乗せるだけの車両(あるいは馬)がなかった場合、移動モードにおける移動力が低めにレーティングされるようになっています。


 ↓現状のOCS『South Burma』(仮)用ユニット。今回の「キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵第2大隊」というのは、左下から2番目の「2 KOYLI」です。

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 自動車化部隊の移動モードの移動力を「10」としてますが、実は最初全部「12」にしてあったのを、先日「少し下げた方がいいかも?」と思って10にしていたのでした。

 OCSの自動車化部隊の移動モードの移動力は通常、12か14あたりで、高いものだと18とか20とかってのもあります。10というのは記憶にはないのですが、あったかどうか……?

 ただ、OCSルソンの第48師団は自動車化部隊であったとはいうものの、師団長の土橋勇逸氏の回想録によれば実態としては1/3は徒歩、1/3は自転車、1/3が自動車であったそうで、私は歩兵連隊は8移動力、捜索大隊は10移動力としてました。


 ↓OCSルソンの第48師団の移動モード面。

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 ビルマ戦における英連邦軍全体が車両不足気味であったのか、あるいは部隊によって足りない、足りてるの差が激しかったのか等、今まで気にしていなかったこともあって良く分からないのですが(^_^;、ゲーム上の必要から設定されていく面もかなりあるとは思います。


 今後またこの件について気にして、情報を見つけたら集積していこうと思います。


<2023/07/06追記>

 他の部隊もトラックが不足していた旨の記述を見つけました(今までにも読んでいた内容とは思いますが、気を付けていなかったので……)。

 動員されたグロスターは、鉄製ヘルメットがなかったため、陸軍型の日よけヘルメットをかぶっていた。装甲ブレンキャリア、迫撃砲、トラックも不足していた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P38

 ジョーンズの旅団【第16インド旅団】は、動物による輸送と自動車による輸送を混合して装備していた。例えば、1/7グルカは、52頭のラバ、6頭の馬、10輌の大型トラック、水タンク車、4台のオートバイを所有していた。車両は砂漠迷彩に塗られ、中東の目印のない荒野を横断するための太陽コンパスを持っていた。すべての兵員や動物を一度に運ぶには十分な数の車輛はなかったが、大隊は少なくとも自前の貯蔵品や重装備を移動させることができた。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』58



<追記ここまで>




OCS『South Burma』(仮)製作のために:パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子

 『歩兵第二一五聯隊戦記』を入手して読んでいて、パアン周辺での戦闘でのインド人部隊の様子がいくらか書かれていて興味を持ったので、抜き書きしてみたいと思います。



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 第33師団の第215連隊がパアン(Pa-an)から対岸のKuzeik(『歩兵第二一五聯隊戦記』の表記はクンゼイク)を確保しようとした一連の戦闘中の記述からです。

 敵は呑気に大きな薪をたいて、身体を温めている。歩哨は居眠りの最中。「突込め」の号令で突込むと、十五、六名のインド兵は銃を捨ててバンザイした。英印軍とはいうものの、最前線にいるのはインド兵ばかりだ。生れて初めて戦いをしたのだろうか。体格は五尺六寸【約170cm】から六尺【約182cm】近い者ばかりだが、度胸のない連中だ。わたしたちもインド兵は初めてなので、ちょっと胸がどきどきしたが、これを見て自信がついた。十五、六名を捕虜にして、三木小隊長は得意の英語で小哨の位置や兵力、装備などを聞く。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P227

 夜が明けて撤収して本部に帰ろうとしたら、森の中から敵の敗残兵が30名近くでてきた。インド人部隊だったが、英国の大尉が一人いた。戦闘開始前、原田聯隊長が英軍将校の捕虜がほしいと言われたことを思い出し、これ幸いと手真似で投降を呼びかけた。インド人大尉とインド兵は全員手を挙げて投降しようとしたが、英人将校だけは敢然と抵抗してきた。その上、彼は友軍であるインド人大尉を我々の目前で射殺してしまった。結局は、この英軍大尉を捕虜にしたが、このことで民族の異なった混成部隊というものは、こうしたことから破綻をきたすものだと思った。しかし、【後に日本の】敗戦というかつてない惨めさを味わった時、日本人の目に彼等を見る甘さがあったことをしみじみと感じたものであった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231


 ↑の例では、イギリス人大尉とインド人大尉の2人の大尉がいたことになってます。大尉は主に中隊長、中隊は約200人とネット検索では出てきました。


 【日本軍の】夜襲だ。敵か味方か近寄らないとわからない。闇の中であちこち銃弾が乱れ飛ぶ。奇襲作戦に驚いた敵のうろたえぶりは大変だった。夜が明けて掃討戦が行われた。わが分隊は敵陣地の裏側斜面に回った。あちこちに敵の戦利品が散らばっている。舗装道路に出た。一人の白人兵が手を挙げて近寄ってきたので、後手にしばり身体検査をすると本国兵であった。彼の胸のポケットから恋人らしい女の写真が出てきた。瞬間、いまごろ、この彼女は何をしているのだろうか、ふと思ったりした。
 戦利品は小銃、機関銃、食糧品などであった。敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。メリケン粉にフライパン、チーズに砂糖、バターなど……。横文字のわからないわれわれは、バターの一缶を持ってきて「よい保革油があった」と乾ききった軍靴に塗りつけ、いささか効果があったと喜んだ。
 進撃は続く、ぽつぽつ敵空軍が攻撃に飛んでくる。昼は木陰を歩き仮寝、夜は行軍、舗装道路あり、山道あり、田圃ありであった。敵機が頭の上で爆弾を落とすのがよく見える。斜めに落ちてくるので真上なら安心だ。歩け歩けで、敵を追って追撃した。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P231,2


 ↑の記述では、「イギリス人の兵」とあります。恐らくインド兵大隊だとイギリス人は士官クラスしかいないと思うのですが、当時ビルマにあったイギリス人大隊のうちの一つの兵かもです。イギリス人士官を「兵」と誤認した可能性もあるかもですけども、イギリス軍の軍服は階級章でしか士官と下士官が区別できないとえはいえ、兵隊さんは階級にものすごく敏感だと思うので、そういうことは考えにくいかなあ? と。

 中段の「敵の歩兵は日本兵と違い歩かない。自動車で行進するので何でも持っている。」という記述も興味深いです。他の資料でも、当時のビルマの英印軍は移動をあまりに自動車に依存していたため、日本軍部隊に後方の道路を封鎖されてしまうと、ジャングルを車は通行できないため、道路封鎖を攻撃して何とか突破するか、あるいは物資を捨てて徒歩でバラバラに逃げるしかなくなってしまったという話がありました。これは1942年のビルマ戦が終わった後に英連邦軍側の深刻な反省事項となり、その後改善が図られていったのでした。

 1942年のビルマ戦で得られた戦利品(チャーチル給与)のリストを作るとものすごい膨大なものになるでしょうし、英連邦軍の物資が豊富なことに関しては、他の資料でも、イギリス人士官?が捕虜になってまず最初に言った言葉が「ウイスキーをくれ」というもので、日本兵は感覚の違いにとまどったという話がありました。

 後段の爆撃の様子も興味深いですし、あるいはまた「舗装道路」という話はこのパアン戦の回想録に何回も出てきまして、想像していたよりもかなり広範囲がアスファルトで舗装された道路であったり、あるいは村の通りがアスファルト舗装されていたようです。

 敵の大部分はインド人であったという。多勢と優勢な火力を頼む敵の真正面から攻める不利を知っている友軍は、横へ横へと回り込んで銃剣を振るってあばれ回ったので、インド兵はすっかりおびえきって逃げ回ったという。彼等は、発砲もせずにいつどこから突っ込んで来るかわからない命知らずの日本軍に、すっかり震え上がってしまった。この一撃でインド兵に与えた恐怖心はその後の作戦を有利にした。一方友軍の損失も大きかった。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P233


 こういう話は他の資料にも出てきます。実は最近、最初にとりあえずレーティングしていたアクションレーティングの数値が、「あまりに極端すぎるかな?」と思って、少し英印軍のアクションレーティングを上げようともしていたのですけども、この奇襲効果の強さを考えると、差はあって良い(攻撃側奇襲が成立しやすく、日本軍はそれを頼りに戦闘をやっていく)ということかもと思ったりも。


 ↓現状でのユニット。グルカ兵はあまりアクションレーティングを下げるわけにはいかないかなと3にしてますが、これでうまくゲームが回るかどうか……。

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 サルウィン河西岸道に沿い南下中、突如、敵幕舎数個を発見した。右往左往する敵兵を縦横に刺突して突進した。戦闘司令所とおもわれる幕舎に突入したところ、数名の部下とともに、負傷した指揮官(英国人中佐)が端座していて「われを撃て」の意志を示した。轟然たる銃声の下に従容として死に就いた。その態度は、まさに英国軍人の面目を示したもので、敵ながら天晴れ、われもまたこうありたいと思った。
『歩兵第二一五聯隊戦記』P234


 ネット検索すると、中佐は主に大隊長を務めるとあり、大隊規模でユニット化してあるので、もしかしたらその大隊長なのかもです。このパアン~クゼイク戦で英印軍側で主に戦ったのはインド人部隊の第10バルーチ連隊第7大隊で、「7-10 Ba」とあるユニットです。今後また英印軍側の資料も調べていく中で、詳細が分かるかもしれません。

 この話は別の資料でも見た記憶があるのですが、今見つけられませんでした。また継続して探してみますが、まったく同文であった可能性もあります。



 『歩兵第二一五聯隊戦記』は「発刊のことば」を見ていると、1969年にようやく同連隊の慰霊祭を行うことができてほっとしていたら、遺族達から「どんな状況で死んだのかが知りたくてやってきたのだが」という声をかけられ愕然として、作られることになったということが語られており、他の聯隊史本よりも各人の死んだ時の状況が詳しく語られている感じがします。

 例えば印象的なものとして、傷が大きくもう助からないと殺してくれる事を頼む兵が多くいて、ある人の場合上官が命じて他の兵士が空へ向かって銃を一発撃つと、その重傷の兵士が事切れた、という話がありました。あるいはまた、「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬ兵士もいて、中国戦線ではそういう叫びは聞かなかったのだが、という記述も興味深く感じました。


『アーロン収容所』から:ビルマ人が日本軍に好意的であった理由について

 『アーロン収容所』から、ビルマ人が日本軍に好意的であった理由についてについても書いておこうと思います。


 実は、著者はその理由について「分からない」と何度も書いており、事実その理由を述べていません(おい)。また、日本軍は(負け戦の中で)ビルマ人達に色々ひどいこともしたのは確かであったと書いていて、実際に日本軍にひどい目にあったビルマ人は日本軍を恨んでいたらしいと述べていますし、あるいは著者らが使役していたビルマ人青年に関して、

 まことに申しわけないが、私たちはこのよく働くビルマ人を可愛がっていたというものの、何もわからぬ上等な家畜のようにしか考えていなかった
『アーロン収容所』P160


 とも書いています(ところがこの青年は日本敗戦となって著者らが餞別などを渡してもう帰るといいよと伝えると、仏教の流転的な所感を述べて、絶望的になっていた著者ら日本兵達を心の底から感動させたのです)。


 ただ、著者の接したビルマ人がどのように日本兵捕虜らに好意を示したかについての記述は、何回も出てきます。日本兵のいる場所に密かにタバコや食べ物を置いておいてくれたり、また著者らがイギリス軍の命令で汚物を処理させられている時にでさえ、そこにタバコなどをくれたこと。ビルマ人のある老人などは日本兵捕虜に出会うといつも道に土下座して手を合わせ頭を下げてくれたため、兵隊一同はありがたいよりは恥ずかしくて閉口したとか(P166)。


 一つには、ビルマ人がインド人やイギリス人を非常に嫌っていたので、それへのあてつけということもあったもののようです(ビルマ人は穏やかで、当時の日本人がよく人を殴ったりするのとは全然違っていたそうですが、インド人とは集団で喧嘩したり、ひどいイギリス人の役人の宿舎を夜ごと襲ったりすらしていたとか)。

 それにも絡むところですが、私は著者の書いている↓のエピソードが、「理由」の部分ではなかろうかと思いました。著者が作業の休憩中にビルマ人達に無理矢理招かれ、食事を出された時の話です。

 私の飯には匙をつけてくれたが、手で食べる方が礼儀なのだということは私も知っていた。しかし自分は捕虜だという気持は抜けきらない。手で食べることが何かおもねるような気がして、しばらくためらった。しかし、この人たちはそんな私の気持には気がついていないらしい。戦争中とおなじように、何か期待して好奇心に満ちた目でにらんでいる。仕方なしに手で食べ出した。
 とたんにみんな、ワッという喚声をあげ何かしきりにしゃべりだした。やはりニッポンのマスターはえらい。イギリス人は自分たちと食事など絶対にしない。手で食べるのは野蛮人だなどと言う。日本人は自分たちをおなじように取扱ってくれるというようなことを言っているらしい。はっきりとはわからないが、幾度もおなじ手まね足まねで、イングリはいかん、いかん、ということをしきりに言って憤慨する。
「戦争は本当に負けたのか。負けても日本のマスターがたくさんいてくれるので自分たちは心強い。どうか帰らないでくれ。武器はどこにかくしてあるか。いざというときは一緒に戦おう。また勝つさ」話はたいへん景気がよい。
 ビールのような泡がでる、アルコール分のうすい、昔なつかしい椰子酒をしきりにすすめてくれる。すこし甘酸っぱくて冷たくてとてもうまいものだ。しきりにいろんなことを言ってくれるが、はっきりしたことはわからないし、それに内容もこんな調子なのでなんとも答えにくい。「帰らないでくれ」と涙まで浮かべ、手を握って頼まれたのにはどうにも答えようがなかった。
『アーロン収容所』P168


 つまり、(当時の)イギリス人はビルマ人を対等などとは絶対に考えないし、そういう振る舞いも絶対にしない。しかし日本人は自分達ビルマ人のやり方を尊重し、対等の人間として接してくれる、ということではないかと。


 今読んでいる途中の『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』という本は、白人による人種差別を糾弾する方向に偏った本だとは思います(ただし、日本人による残虐行為がまったく記述されていないわけではないです)が、その中のマレー人の項にも↑を敷衍するような印象深い記述がありました。




 【マレーで】イギリス人は、国王様のような生活をしていた。「8000人弱の白人が、白人でない者の上に、君臨して」いた。海軍軍人の家庭では、イギリス人の少年にまで給仕(ボーイ)や召使いがいた。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P266

「白人で、自分たちを対等に扱ってくれる者はいなかった。我々先住民が怒りを感じ、日本軍を歓迎したのは、対等に扱ってくれたからだった。日本がついに我々を解放してくれると、思った」【……】
 彼【シンガポールに移住していたインド人】が大英帝国を支持しなかったのは、「イギリス人はアジア人に対して優越感(スーペリアー・フィーリング)を持っていた。我々を差別した」からだった。「インド人は、イギリス人の奴隷だった。それが全てのインド人の思いだった」と、語った。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P269

 彼ら【マレー人の軍隊】は新たな教官である日本人に、訓練を受けることになった。日本人はイギリス人と比べ、はるかに好感が持てた。訓練には40マイル【約64km】の行軍もあった。マレー人にとって感動的だったのは、【日本軍の】将校も、教官も、一緒に行軍したことだった。イギリス人の将校だったら、車で移動しただろう。
『人種戦争 ― レイス・ウォー ― 太平洋戦争 もう一つの真実』P268




 ただし、私の今まで読んできたビルマ戦線での話としては、日本の軍人などは当時の日本では当たり前であったビンタを頻繁にビルマ人に対してもし、そしてビルマ人にとってビンタをされるというのは恐ろしく屈辱的なことであったため、大きな反感を買っていたという話もありました。

 あるいはまた、「男尊女卑(男性が女性を対等だと思わずに差別的に扱う)」にかけては日本は現在進行中で先進国ぶっちぎりですから、「日本はすばらしい」と言うわけにもいきません。しかし、当時のイギリス人や白人の振るまいが、多くのアジア人に当時現在進行形で屈辱を与え続けていたのだろうということは、一応知識としてはあったものの、こういう具体的なエピソードで、ようやく理解が深まってきたかなという気がします。

 もちろん、相反する証言や意見こそを、積極的に集めなければならないと思います。


『アーロン収容所』から:イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について

 『アーロン収容所』を読んでいて、イギリス軍の士官と、下士官・兵の差について書かれているのが少し興味深く、今後もイメージを持っていく上で有用かなと思われるので、ブログに書いてみようと思います。


 しかしまず私自身、「士官(=将校?)」と「下士官(および兵卒)」の間の断絶について、まだまだ良く理解もできておらず、実感も持てていない感があります。実際のところ長い間私は、字面的にも「士官」というカテゴリの中の下半分が「下士官」ということなんだろうなぐらいに思っていただろうとも(いや、そういう人多いのでは!?)。

 しかし、士官というのは士官学校を出た、(上級)指揮官になっていく人達で少尉(小隊長?)以上、下士官というのは兵卒から上がっていった人達で最高で曹長(あるいは特務曹長とか准尉とかってのもあるとか)で、あくまで指揮官たる士官の指揮の下で戦う兵隊である……?(という理解で合ってます? 例外はあったというのは一応把握してます)


 これが何か、イメージしやすいものに喩えられないか考えてみたのですが、土佐藩の「上士(山之内家の家来出身)」と「下士(長宗我部家の家来出身)」とか……一般的ではないか(^_^; あるいは、第二次世界大戦前・戦中だと「大卒なら士官相当」というような話も見たのですが、それは大卒が数%の状況においての話で。(私はしかし、大学に行く人間は社会の数%程度というのが本来のあるべき姿ではないかなぁ、という気もしますけど)

 ともかく、少なくとも私には想像しにくいのですが、士官と下士官(兵卒)の間にはものすごい断絶感があったようなのです。これがどうも、イギリス軍においてはその差がものすごかったようで……。

 イギリス兵の服装は、日本のように士官と下士官・兵のような劃然とした区別はない。士官であるかどうかは腕にある階級章で区別できるだけである。この点はアメリカ兵と同じである。ところがそのうち私たち【日本兵捕虜】は遠くからでも一見して区別できるようになった。動作や態度とか、そういうものからではない。【……】
 【……】それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(1.75メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸【1.63メートル】くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺【1.82メートル】以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。
 体重も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。【……】しかも体格だけではない、動作が生き生きとして自信にみち、しかも敏捷であるのが目立つ。

『アーロン収容所』P109,110


 その理由らしきものとして、著者は↓のようなものを挙げています。

 士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官・兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動は、はるかに敏捷できびきびしているのである。
 考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民(ブルジョア)の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力を奪ったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力にあったことを知らなかった。
『アーロン収容所』P112,3


 後段については「本当かなぁ……?」とも思うのですが、一応見聞の例としてはそういう感じであったらしいのでしょう。ただ、著者らが見たのは恐らく下級の士官達(尉官とか、高くても佐官?)であって、イギリスの上級将校(将官)は貴族で占められていたとか、あるいは背が低い将官も結構いた(オコーナーやハーディングなど)という印象も私は持っています。

WW2のドイツ軍、イギリス軍、イタリア軍の上級指揮官は貴族閥によって占められていた……? (2021/06/26)
コンパス作戦の準備(付:OCS『DAK-II』) (2022/02/01)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:内陸部の重要性&ハーフマップ案はなし?

 以前ブログかツイッターで書いていたと思うのですが、「The Burma Campaign」というウェブサイトがあり、参考になるかもとは思ってました。


 今日、ふとまた覗いてみたところ、先日ユニット化だけとりあえずしていたビルマ小銃大隊×10個に関して、非常に詳細な個別のページがあることに気付きました。しかも今まで手持ちの資料で見たことがなかった、詳細な部隊配置や部隊移動が記されたマップなども!

 「これはヤバいほど有用……」とヨダレを垂らしながらDeepL翻訳で読みつつ、ユニットのレーティングを変更していったりなどしていたのですが、その中で第2ビルマ小銃大隊が2月中に置かれていた位置について非常に興味深いことがわかりました。


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 同大隊は2月中ほぼ、赤い○で囲んだパプン(Papun)という集落に置かれていたというのです。史実では日本軍の進撃路は画像の下の方の矢印のようなものでしたが、上の方の矢印のようにして一部の部隊が進み、非常に重要な障害であるシッタン川を渡ってしまう可能性もあるとして、そうならないように置かれていたのでしょう。

 同大隊は、日本軍がシッタン川を渡ってしまうと、西方へ退却しました。


 ゲーム中でも、日本軍はパプンを経由してシッタン川渡河を図ろうとすることも可能でなければならないということだと思います。逆に、英連邦軍側も、このような内陸にユニットをポツンと置いていても一般補給などの上で問題は(ほぼ)ないという風にしなければなりません。『Burma II』の地形効果表そのままではそれは全然無理なのですが、一つの方法としてはビルマ小銃大隊は(日本軍と同様に)「食糧表」を使用して一般補給を得られる、とかでしょうか。ただ、食糧表はアクションレーティングが高くないとヤバいことになるのですがビルマ小銃大隊のそれは高くなく、そこらへん更に特別なルールが必要にはなります。


<2023/07/04追記>

 その後、『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』という英連邦軍大佐?による本を読んでいましたら、なかなかにこの本は英連邦軍の動向に関して詳細で(ただし日本軍に関しては詳しくなく、英連邦軍を「我々」と呼び、ビルマ人や日本軍に対しての偏見があるように感じられます(^_^;)、別のビルマ小銃大隊も内陸部の監視に当てられていたことが分かりました。



 ShwegunとKamamaungの渡し場は第4ビルマ小銃大隊が監視し、Salween川とDontami川【マルタバン近く?】沿いのパトロールも行った。後に第8ビルマ小銃大隊の中隊がKamamaungの駐屯地を引き継いだ。この場所とShwegunの分遣隊は、我々がSalween川の下流から撤退する際もそのままの位置に留まり、その後Papunで第2ビルマ小銃大隊の指揮下に入った。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P79




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 また、この本を読んでいると、(モールメンを占領した)日本軍側は、多くの筏、川船、大きなボートを所有していることが分かっており、それらを利用してサルウィン川の上流のDagwin(画像の赤い□)や、海岸線上で英連邦軍の背後に上陸することも可能だと考えられたため、それらにも備えなければならなかったそうです。

 日本軍側にそれらが可能なようにできたら面白いとは思いますが、使用するルールは増えますし、あんまり日本軍が好き放題できても困るので、バランスが難しいところかなぁと思います。

<追記ここまで>






 ただ、パプンにそのような重要性があるならば、あることを諦めねばならなくなりました。


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 ↑この画像全体(赤い□内)がフルマップ1枚の広さです。一方で水色の□で囲った部分がハーフマップ1枚の広さであり、ラングーン占領までの第一段階については、このハーフマップ1枚でプレイできるのではないかと考えていたのでした。ところがくだんのパプンは赤い○の位置でして、パプンからシッタン川への小道はハーフマップの領域からはみ出てしまうわけです(^_^;

 ただ、青い○で囲った場所には中国軍の第200歩兵師団がいて、日本軍はシッタン川を渡ったものの、北方から有力な中国軍が南下してくるという情報もあって、ラングーン攻略を急がなければならなくなったという話もありました(『歩兵第百四十三聯隊史』P3)。しかし逆に、日本軍はシッタン川を渡って中国軍が近くにいる段階で、いっそまずは中国軍側に進んでそれに大打撃を与えようかという考えもあったそうです(どこで読んだか忘れました(^_^; また見つけたら書いておきます)。

 そういう様々な作戦案や、あるいはジレンマなどがマップ上で再現されるためにはフルマップ1枚でなければならないだろうという気もしますから、フルマップ1枚が必要ということで全然いいのかもしれません。

 ただ、西の方の1/4は全然関係なさそうなので、折ってプレイしても良いかもですね。この西1/4の領域は、1944~45年の戦いの時にはこの辺りに英連邦軍が上陸作戦を行ってラングーンを奪取してしまうのではないかという恐れがあっていくらかの日本軍部隊が置かれており、その中には非人道的超絶根性主義で味方兵士をも散々苦しめ自殺に追いやった花谷正中将もいました。44~45年の戦いもできればゲーム化したいので、その時には必要になってくるはずです。

第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました (2022/05/08)
『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました (2022/06/11)



OCS『South Burma』(仮)製作のために:第55山砲兵連隊の第2大隊と第3大隊について

 OCS『South Burma』(仮)の戦闘序列で、第55山砲兵連隊第2大隊と第3大隊に関して良く分からないので、備忘録&後に情報が見つかったら集積するためにブログに書いておきます。


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 第55山砲兵連隊のユニットが「55(-)」とあるのは、私の今までの推測では「ビルマ戦の初期にはこれらは大隊単位で運用されていたのではなく、抽出された大砲と人員で運用されていたのかな?」と思っていたのでこんな表記にしていたのでした。


 第55山砲兵連隊のうちの第1大隊は、南海支隊というのの一部としてグアム、ラバウル方面の作戦に参加していたので、ビルマ侵攻作戦には参加していません。第55山砲連隊は、「3大隊から成り、94式山砲27門を持っている」と『ビルマ攻略作戦』P45にありますので、1個大隊の門数は27÷3=9門(1個中隊3門)であると思われます(第33山砲兵連隊も同じ)。



 第55山砲連隊はビルマに入る際に、第2大隊と第3大隊の両方がほぼ同時に入ったのかもしれません。↓のような理由から。

1.『山砲兵第55連隊行動表』の「連隊本部」「第2大隊本部」「第9中隊【第3大隊所属】」の行動表を見ていると、すべて同じように行動し、1月末から2月初めにモールメンに到着している。

2.『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99のモールメン戦の記述に、「山砲の両大隊は」とある。

 山砲の両大隊は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99






 ただし、中隊の門数が1門、あるいは2門に減らされていたという記述があります。

 【第55師団】師団長は、諸隊を国境地帯に推進するに先立ち、車両部隊をすべて駄馬または駄牛編成に改め、特に山砲隊は携行弾数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした(64)。
『ビルマ攻略作戦』P84

 注64の内容は「第55師団参謀であった福井義介大佐回想」とありました。

 今になると聯隊長は小径もない渓谷づたいの長距離のあのジャングルのタイ、ビルマの山脈を横断していかにして山砲兵がモールメン前面に進出するかに苦心されていたのがよく分かる。このため3門編成の各中隊は2門とし残りの火砲と聯隊大行李を石黒築兵技軍曹以下に宰領させて追及を命じた。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P96

 こちらは、飯村茂聯隊指揮班長という方の回想です。


 さらに、こんな書き方をしている資料もあります。

4.第55師団は歩兵団本部の指揮下でグアムに行っていた第144連隊等を欠いていた。師団はヴィクトリアポイントに向かった第143連隊第2大隊と、タボイに向かった第112連隊第3大隊を欠いた状態でビルマに入った。両大隊はモールメンで再合流した。Their two remaining mountain artillery battalions each had six guns.
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 この英文の意味するところがイマイチ分からないのですがDeepL翻訳等は、「残る2つの山砲大隊は、それぞれ6門を保有していた。」という感じで訳してきます。この「残る(remaining)」というのが、戦場に来ている方なのか、あるいはバンコクに残されていた方なのか?


<2023/07/06追記>

 各大隊が6門を持っていたという記述を見つけました。

 【第55】師団の2つの山砲大隊はそれぞれ6門しか持っていなかった。
『Burma 1942: The Road from Rangoon to Mandalay』P56


 欧米ではこの「大隊に6門=中隊に2門」という捉え方が流布しているのかもです。ただその場合、価値が高いとみなされているらしい戦史叢書のうちの一冊である『ビルマ攻略作戦』の情報は無視されているということになりそうです。

<追記ここまで>




 さらに、よく分からないのがこの記述です。

6.【ラングーンを占領した後の3月の】第二段階では、第33師団と第55師団の山砲連隊が27門のフル装備になった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P372

 第55山砲兵連隊の第1大隊はグラム、ラバウル方面に行っていたはずなのに、どうやって連隊定数の27門にするのでしょう……? Wikipedia「第55師団 (日本軍)」によれば、南海支隊の生存者200名がビルマ戦線の第55師団に合流したのは43年11月です。


 しかしそもそもが、「中隊は1門」「中隊は2門」という時点で(記憶に?)齟齬がありますし、間違いのない本なんてあり得ないと思いますので、27門というのは『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の勘違いなのかもしれません(あるいは、2個大隊で27門にしたとか、ラングーンで1個大隊増やしたとか、そういう方法がとられた可能性もあるのかも)。


 これらの件を一応頭に置いといて、今後資料を読んでいく中で情報が見つかったら、集積していこうと思います。

 実は、『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』と『山砲兵第55連隊行動表』は、私が奈良県立図書情報館で取るものも取りあえずコピーしてきた部分のしかないので、今回コピーしてなかった部分にそこらへんの情報が書かれている可能性はあるかもと思います。ので、色々調べるべきことを集積してから、また行こうと思います。



 ただ、とりあえずのゲーム的な解決方法としては、↓かなと思ってます。

 「その大隊の中に史実で欠があっても、定数で登場させる(後に欠が埋められていた場合には特に)」という1つのやり方(「史実で欠があったら減らす」という方法もあります)に従って、しかし、この件の場合、第2大隊と第3大隊の両方を定数の火力で登場させるのではなく、便宜的に、例えば第2大隊ユニットのみを定数の火力で登場させる。ラングーン占領後に第3大隊を増援として登場させ、山砲が追送されたことを表現する。


<2023/10/20追記>

 第55師団の山砲兵第3大隊のユニットをとりあえず作ってみました。ラングーンへの登場時期が不明ですが……。

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<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:最初のシナリオの設定案と、モールメン攻略戦の分析

 OCS『South Burma』(仮)の最初のシナリオの設定案を考えました。



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 今まで『Burma II』の地形の色に合わせていたんですが、『Burma II』では平地/ジャングル/荒地の間の色が似ていて非常に分かりにくいので、最近のOCSゲームの色合いに近いように塗り直してみました。

 東端のエントリーヘクスAの辺りから日本軍は進軍を開始し、第55師団は第5ターンにモールメンを占領。第7ターンにはその対岸のマルタバンを占拠し、また並進していた第33師団がサルウィン川の上流パアンから対岸のクゼイクに渡りました。ビルマ独立義勇軍のモールメン兵団もこのターン中にサルウィン川をその北方で渡っているようです。


 私は元々は、最初のシナリオ的なものは「第5ターン終了時にモールメン占領」だけを目指すものかと漠然と考えていたんですが、↓に書いてましたように勝利条件が複数あった方が絶対に良いと確かに思われるので、第7ターン終了時に「マルタバン、クゼイク(等の複数のサルウィン川西岸)を占領していること」にした方が良さそうだと思いました(あるいは、それらの複数ヘクスに勝利得点を設定し、その中にモールメンも含め、またモールメンの得点を高くしておくべきかも)。

OCSのシナリオの勝利条件改造 or 設定のために:勝利条件が複数あるとよい? (2023/03/21)


 シナリオ名は「サルウィン川渡河」でしょうか。




 また、モールメン攻略やその後に関して、先日コピーを取ってきた資料等にやや詳しい分析的記述があるのを発見しました。

 一月三十日夜から三十一日までのモールメンに対する師団の攻撃は、速やかに占領したという点では成功であったが、聯合国軍、ビルマ第二旅団(約三千名)を補足殲滅し得なかった点では失敗といえる。敵は市街東方の丘陵に陣地を占領する一方、撤退のための船を準備していた。また制空権はどちらにもなく、必要に応じ双方ともに、地上攻撃が可能であった。敵を殲滅し得なかった原因は先ず第一に敵の逃げ足が早かったことであるが、わが方の攻撃が統一されていなかったというか、一部隊が独断で敵陣地に突入したためといえる。問題は山砲部隊が敵の後退前か、その直後にモールメン東方丘陵に進出し、逃げる敵船を撃沈し得なかったことである。つまり三十日夜、師団司令部に出頭した私は、明三十一日払晩攻撃、山砲聯隊は前記丘陵東方の飛行場周辺に展開し、歩兵の攻撃を支援せよとの命令を受けた。ところが三十日夜、徳島聯隊【第143連隊】の第三中隊(土井茂俊中尉)は敵戦線に潜入して寡兵をもってサルウイン河に進出し、拠点をつくり同時にガソリンを含む敵補給物資に火をつけた。同時に丸亀隊の一部が丘陵上のパコダを白兵突撃で占領してしまった。敵はかくして逃げ始めた。山砲の両大隊【山砲第55連隊の第2大隊と第3大隊か。山砲第55連隊の第1大隊は南海支隊に配属されていました】は展開し夜明けに飛行場東端の聯隊観測所をみると、飛行場を丘陵に向かう歩兵主力がよく見えたが、あっと思う間に援護射撃の必要もなく丘陵に到達した。「しまった」と思い、同時に隊長は私に「単騎右丘陵に先行せよ」と命じられた。伝騎のみを連れて最大速度丘陵に達し崖を駆け上ると、山上に松田中隊が展開し、逃げる敵船とマルタバンを砲撃して一隻は漂流し出したが、その他の敵船は最大射程外にまもなく去り、マルタバン北方に列車のあげる煙りが見えた。松田中隊長の判断はさすがであった。戦闘後の聯隊長の反省は深刻だったが、私は結局敵の逃げ足の早さを予想せず、師団の行動を統一出来なかった師団司令部の責任だと思う。その後、隊長がいつも歩兵の大隊、時としては中隊の線まで聯隊本部を進出したのはこの時の教訓の結果と思う。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P99



 あるいはこのような記述もありました。

 しかし、モールメンは南部ビルマの要衝であり、かつ、サルウィン河は南部ビルマ防衛のため、戦略上重要な価値を持っている点からみて、英軍はモールメンを固守するとともに、サルウィン河を利用して頑強に抵抗するであろうと考えられた。
『ビルマ攻略作戦』P90

 騎兵隊【第55捜索連隊】は行軍縦隊で前進中、1月30日夜【モールメン近郊の】標高183高地北方地区で、尖兵中隊が不意に衝突し、直ちに攻撃に移ったが当面の敵は案外軽く退却した。
 そこで川島大佐は、全般の状況は全く不明であったが、今が戦機と判断し、騎兵隊の全力を率いて一気に本道上をモールメン市街に突入し、払暁までに市街の一角を占領した。
『ビルマ攻略作戦』P93,4




 一方で、英連邦軍側からの見方では、このような記述が。

 【1月30日】午後になると、スミス【第17インド歩兵師団長】はモールメンの状況が深刻になってきたという結論に達し、ラングーンのハッ トン【ビルマ軍司令官】にその状況を報告した。彼は、マルタバンにいる第16旅団から2個大隊を引き抜いて守備隊を増援するか、【モールメンを守備していた】第2ビルマ旅団を撤退させるかのどちらかの選択肢しかないと考えます、と伝えた。11時に、増援を行うのは得策ではなく、成功する見込みもないと考えた彼は、必要と思われる時点で守備隊を町【モールメン】から撤退させることを提唱した。ハットンもこれに同意し、時期についてはスミスに判断を委ねたが、撤退後はマルタバンを含むサルウィン川沿いの線を維持しなければならないと述べた。
『The War Against Japan Vol.2』P32



 OCSゲーム的に考えると、↓こういう感じにできるかも?

1.早めのターン(例えば第5ターン)で、モールメンに急いで撤退してきた移動モード面の英連邦軍部隊がいる場合
 日本軍は補充能力が高め(『Burma II』のルールでも)ですし、日本軍側は損害上等で寡兵で攻撃をかけるとします。すると現状私はインド兵部隊ユニットの移動モードは自動車化タイプにしてあり、サルウィン川は大河川で自動車化では撤退できないので、もし退却の結果が出たらユニットごと失われることになります(ビルマ兵部隊ユニットは移動モードでも徒歩にしてます)。

2.遅めのターン(例えば第6ターン)で、モールメンのインド兵部隊ユニットが戦闘モード(徒歩タイプ)になっている場合
 日本軍は全力でもってモールメン攻撃をかけられるかもしれませんが、英連邦軍側もモールメンをより大きい兵力で守れますし、撤退においても大河川を渡れます。ただし、日本軍がモールメンの南北の2ヘクスに戦闘モードのユニット(つまりZOCあり)を置いてある場合、すべての退却ヘクスにZOCが及んでいるので、守備隊がもしDGでなければDGになり、もし戦闘前にDGであったならば1ステップロスします。


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 これはジレンマがあっていいかもです。




 あと、一つの悩みとして、史実で第55師団はモールメン攻略後、約1週間(OCSの2ターン)ほどモールメンで休養していたということがありました。BCSの場合は疲労が重視されるシステムなので休養の必要性も再現しやすいかと思うのですが、OCSは疲労は関係ないのでどうしたものかな~、と。OCSは補給が重要なシステムなので、補給状況を悪目に調整するという案は一応持っていましたが……。

 そこらへん、まさにそうすれば良いかのような記述を見つけました。

 東南アジアにおける他の戦場での物資の使いすぎと、海上ルートがまだ十分には確実でなかったので、迅速な補給ができなかったために生じた小休止の後、これらの師団はラングーンに向かい猛進を続けた。
『ビルマの夜明け』P163


 そうすると例えば、ゲーム上で第55師団のモールメン攻撃は内部備蓄を1~2段階消費して行われざるを得ず、モールメン攻略で得られる敵の補給物資(チャーチル給与)でも再備蓄に十分でなく、追送されてくるSPを待って1~2ターン程度は止まっていた方が安全……という風に調整すれば良いのかもです。まあ、LowとかExhaust状態でそのまま進撃してもいいのですが、そうすると敵に攻撃された場合に戦闘補給が入れられずに半分の戦闘力で防御せざるを得なくなるでしょう。


OCS『KOREA』「長津湖の戦い」&「龍の登場!」シナリオの両軍初動を研究してみました

 OCS『KOREA』5.7「長津湖の戦い」&5.8「龍の登場!」シナリオの両軍初動を研究してみました。


 5.7「長津湖の戦い」シナリオは、5.8「龍の登場!」シナリオの東半分だけを切り取ったもので、中国軍の第2次攻勢を扱ってます。この攻勢でアメリカ海兵隊は山岳地帯で包囲されかかりながら何とか脱出しましたが、戦線はかなり押し戻され、国連軍は38度線あたりまでの退却を余儀なくされました。「龍の登場!」シナリオは8.5ターンの長さで、2対2で2日程度で終了すると思われ、7月の連休のミドルアース大阪で2日連続プレイを予定しています。



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 実はこのシナリオは2月にVASSAL上で4人で第5ターンまでプレイしたのですが、その時の国連軍は最初の共産軍のダブルターンで完全に小包囲を完成されてしまい、どうしようもなくなって多くの戦力を失いながら、ほうほうのていで退却していくしかなくなってしまったのです。

 しかし7月のミドルアース大阪でのプレイでもそうなってしまっては困るので、研究してみたのでした。



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 まずは西半分から。共産軍は赤い○で囲んだ2つのユニットを壊滅させるか退却させて、矢印のように小包囲を狙うのがセオリーではないかと考えました。また、その西側でも矢印などのようにして、国連軍の一番西にいる2ユニット(あるいは1ユニット)を切り離すことも狙うだろうと思います。赤い□で囲った砲兵ユニットが、史実ではこの地域で使用されたようです。

 それに対して国連軍は、画像で5つの予備マーカーを置いてあるようにして予備を指定しておくのがとりあえずの案かと思いました(画像一番南の予備マーカーの下のユニットは移動モードにすべきでしたね)。小包囲を作られないようにするのが第一義的な狙いなので、戦闘モードのままで、相手の進撃を邪魔するようにリアクションすれば良いのではないかと思います(しかし一部は移動モードにしておいた方がいいような気がします)。

 予備モードにすると戦闘力が半減してしまうので、攻撃をかけられてしまう可能性もありますが、多分大丈夫なんじゃないかと……。




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 東半分(「長津湖の戦い」シナリオの領域)です。共産軍は第1ターンには基本的には、32.10にいる10-4-4と、35.12にいる9-3-3を、砲撃した上で全力攻撃というのがセオリーではないかと思いました。砲兵は「長津湖の戦い」シナリオでは9火力のものが2つ自由配置で、コラム的に、片方に1つずつ加配するのが良いと思われました。しかし「龍の登場!」シナリオの場合は、自由配置の砲兵がこちらにより数多く配分される可能性もあります。

 国連軍の予備マーカーは、画像のように置かれるのがとりあえず良いのではないかと思いました。リアクションフェイズに、10-5-4の海兵隊ユニットを33.10に移動させて共産軍ユニットが将来的にこのヘクスに入ってしまうのを阻止し、また興南(フンナム)で予備モードにしていた3ユニットは35.10に入れて、35.12にいる9-3-3が壊滅させられた場合でもこの道をブロックできるようにしつつ、33.12(☆印を付けたヘクス)に30火力で砲爆撃します(このヘクスに中国軍は大兵力をスタックさせざるを得ないのです)。

 海兵隊の砲兵ユニットと専用トラックは、予備のままにしておきます(共産軍がダブルターンを取った時のため)。




 あと、画像の左の方に赤い□で囲ったところの道路ヘクスが、ヘクスサイドで道路の種類が変わっています。通常はヘクスの中で道路の種類が変わるのですが。とりあえずこういう場所は、画像の例なら、右側からは1移動力→ヘクスサイド→0.5移動力。左側からは0.5移動力→ヘクスサイド→1移動力、ということにしようかと思いましたが、どうでしょうか。



 また、5.7「長津湖の戦い」シナリオの注意事項として、

1.サンセット和訳に対するエラッタ:
 国連軍の増援に、「追加のSPを日本から海上輸送することはできません。」という一文が抜けているのを発見しましたので、サンセット和訳をお持ちの方は書き加えておいていただければいいのではないかと思います。
OCS『KOREA』(v2.0)のサンセット和訳で反映済み以降のエラッタ(&エラッタまとめ) (2019/08/02)には追記しました)

2.またそれゆえ、このシナリオで国連軍は海上輸送力が2あるとされていますが、興南(フンナム)以外に港湾はないので、この海上輸送力には意味がないということになると思います。



 それから両シナリオ共に、

1.第3ターン(12月1日ターン)から小河川と湖は凍結します。

2.共産軍のイニシアティブのダイス目は、2.6bに従って+2されます。


OCS『The Third Winter』コルスン包囲戦シナリオをプレイする上での覚書

 OCS『The Third Winter』のコルスン包囲戦シナリオの第1ターンをVASSALで3人プレイしてました。その中で色々と、覚書にしておいた方が良さそうなことが出てきましたので、そこらへんのことを書いておこうと思います。



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1.まず最初に、申し訳ありません、私が訳した『The Third Winter』のサンセット和訳にミスが見つかりました(T_T)

 「サード・ウィンター シナリオ集」のP65(コルスン包囲戦シナリオの2ページ目)の頭、「VPが-4以下、または+19以上になった場合」とありますが、「-5以下」「+20以上」の間違いでした。belowとaboveなので、それぞれを含めないべきでした。単純なミスで申し訳ありません。サンセット和訳をお持ちの方は、赤ペンで修正を入れておいて下さい。


2.これは私が悪いのではなく原文での置かれている位置が悪いと思うのですが、同P66の「ソ連軍の増援」のうち、「44年1月29日ターン以降に5VPを払って使用可能」という増援が「44年2月1日ターン」と「44年2月5日ターン」の間に入っていて、「どういうこっちゃ」という感じになってます。赤ペンで囲んで、良さげな位置へ矢印を書いておいてもらった方が分かりやすくて良いと思います。


3.このシナリオではドイツ軍の大釜司令部はセットアップでマップ上に1 Pzのものがあり、それに加えて4 Pzのものが使用可能である、とエラッタにあります。ところが、OCS Depotの『The Third Winter』のページの(1つ目の)「Scenario Book」のリンクの後に、地の文でこう書かれています。

Scenario Book (Living Version 12 Aug 2021) - Note additional update 2 Sep 2021: In Scenario 8 (Scorpions in a Bottle), the Axis player has only ONE Kessel HQ which starts on the map. No second Kessel HQ is available.


 これを読むと、このシナリオで枢軸軍プレイヤーは大釜(Kessel)司令部を1個だけ使用可能で、2個目のものは使用可能ではないと読めるような気がします(そうでもない?)。しかし、エラッタの方が日付がより新しいのと、もし4 Pzが使用可能でないならば明らかにこのシナリオは破綻するので、4 Pzの大釜司令部は使用できるということで良いだろうと考えます。原文の2文目は、「セットアップ時には」という文言が省略されているという感じなのでしょうか?


4.このシナリオではマップ外ボックスには無限のSPはありません。しかし、シナリオ特別ルールで「プレイヤーは航空輸送任務のために、登場したSPをマップ外ボックスに配置することができます。」とあるので、それを運べます。第1ターンには両軍ともSPは登場しない(ソ連軍には増援でSPが来ますが、これは登場ヘクスが指定されているのでマップ外ボックスには置けません)ので、SPを航空輸送できるようになるのは第2ターンからです。


5.和訳には明確化で書いてありますが、このシナリオでの航空輸送は14.9e(航続距離の半分以内なら積載量2倍)に従って積載量を2倍にできます。ところがと言うか、今回、「マップ外ボックスに置いてあった戦闘機をマップ内に基地移動した場合、その戦闘機は非活動状態になるのだろうか? あるいは活動状態のままで良いのだろうか?(シリーズルールでは、航続距離の2倍までで基地移動して非活動状態になるか、(戦闘機のみは)航続距離内に基地移動して活動状態のままかのどちらか)」という疑問が発生しました。とりあえず、「積載量2倍」という明確化の話から類推して、活動状態のままで良いのだろうと考えました。


6.このシナリオではソ連軍の東側からの攻勢部隊と西側からの攻勢部隊が真ん中あたりで手を繋ぐわけですが、今回、例えば西側からの部隊が、東側から来た司令部からSPの支給等を受けても良いのだろうかという疑問が出ました。3.3bのE)によれば、正面軍の境界線マーカーを横切ってSPを受給したり支給したりはできない(一般補給に関しては制限なし)という話がありますが、このシナリオは境界線マーカーを置かないかのようなので、受給や支給も自由ということで良いのでしょう。


7.戦闘団マーカーはまったく隠して良いと思われます。→OCSでターン毎の補給や補充は非公開情報か、戦闘団マーカーは隠して良いのか? (2021/07/25)

<2023/07/09追記>
 ↑この件は、v1.2ではちょっと話が違ってくるかもということを認識しました。エラッタ等を和訳していってまた確認してみたいと思います。

 また、戦闘団マーカーは「移動フェイズ中にプールに戻して、即座に他のスタックに置く」ことも許されるようです。ただし、一度置かれた戦闘団マーカーを自分の意志でプールに戻せるのは「その後の移動フェイズ」という縛りはあるので、一つの移動フェイズ中に何度も置き換えはできないでしょう。


8.天候が「雪解け(Thaw)」になった場合、同時進行ターンがプレイされます。同時進行ターン中には先攻後攻は存在しなくなるため、雪解けターンでもイニシアティブは決定されるべきなのかということが我々の間で疑問点として出てきました。facebook上で質問したところ、「雪解けターンにも補給のダイスロールをし、イニシアティブを決定する。イニシアティブを獲得するために1SPを払うことができる」ということでした。

<追記ここまで>


 ここからは、ルール的な話ではなく、プレイ上のテクニック的な話です。

1.ソ連軍は歩兵で(損害度外視で)敵戦線に穴を開けて、その穴を通って戦車軍団等を前進させるべきなのでしょう。戦車軍団等で穴を開けて、しかもその戦車軍団等で包囲環を作るのは難しいだろう……との富山のKさんの見立てでした。なるほどです……!

2.ソ連軍は、コルスンから南に通る二級道路を封鎖して、ドイツ軍が逃げにくくすると良いかも。

3.↑のような方法で第1ターンに包囲環がかなり完成してしまう場合、ドイツ軍側はドニエプル川沿いに大釜司令部で一般補給が通せるユニットを確保して、VPを取りに行くべきなのでしょう。ただし、包囲環内の一部のユニットが小分けに小包囲されて、その時その時で補給が通らない状態にされて殺されるとソ連軍のVPになってしまうので、極力小包囲されないように。ドニエプル川沿いにいることによってドイツ軍が得られるVPは最大で20VP(4ユニット×雪解けでない5ターン)。

4.包囲環内に置く大釜司令部の位置は、第1ターン後攻増援フェイズ中の「自軍戦闘ユニットのいるヘクス」という縛りがあります。しかし、セットアップ時にドイツ軍ユニットがいるヘクス以外のヘクスに大釜司令部を置けた方が良い可能性がありそうです。ドイツ軍はセットアップの時点で予備マーカーを6つも持っているので、研究の結果「ここだ!」というヘクスがあれば、第1ターン先攻ソ連軍プレイヤーターンのリアクションフェイズ中に、そのヘクスにユニットを動かすというのはありかもしれないと思いました。


1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?

 ↓で書いてました、「1942年のビルマ戦で、なぜインド軍部隊は日本軍を歓迎せずにイギリス側に立って戦い続けたのか?」ということが問いとして頭の中にありました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ進攻の要約 (2023/03/08)

 ↑から再度引用しますと……。

 この輝かしい成果【ビルマ攻略作戦の大成功】を前にして、二つのことが日本軍を驚かせた。一つは、なぜインド陸軍がこれほどまでに戦い続けたのかということである。同じアジア人なのだから、表向きは「残虐な主人」から自分たちを解放するためにやってきた人たちを歓迎するものと日本軍は思っていた。しかし、そのようなことはなかった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P338





 最近、(昔読んだ)『アーロン収容所』を読み返していたのですが、その中の記述でこの件に関してだいぶ分かってきた気がしました。






 以下、引用等は戦後の日本兵捕虜収容所まわりの話なわけですが、そこで見聞されたことは戦前、戦中でもほぼ同じことだっただろうと推察されます。



1.インド人はイギリス人を極度に恐れていた。

 イギリス本国兵は新兵でさえ、インド人に対しては士官であろうが下士官であろうが、まったく無視するような様子を見せていた。無理に軽蔑しているのでもなく、腫物にさわるようにふれないようにしているのでもない。インド兵の存在を全然認めないような態度である。私たち日本人にもイギリス兵が話しかけることは絶無に近かったが、インド兵とイギリス兵が、何かの公的な交渉以外に話を交わしているのも見たことはない。よくまあインド人はこのような最高の侮辱に耐えられるものだと感心するよりほかはない。
 【……】
 インド人はみんなイギリス人を「イングリ」といって極端に恐れる。黙って【日本兵捕虜の作業の】監督をしている【インド兵の】男でも、その付近にイギリス人が現れると途端に顔色が変る。その「イングリ」が自分の直接の上官であろうが、兵隊であろうが、それはどうでもよい。認めるやいなや「イングリ」とかれらは叫ぶ。それから「イングリ、イングリ、カモン、カモン」の連発である。近くに来て作業でも見ようものなら狂ったように私たちを督励しはじめる。立ち去ってしまうとやれやれという風に座りこんでしまうといった調子である。
 【……】
 インド兵はこちらの文句に対し口ぐせのように言った。
「自分はそうは思わないのだが、イギリス人がそうせよと言うのだ。仕方ない。やってくれ」
 私たちは捕虜である。仕方がない。しかしインド兵が心からそう思っているらしいのはまことに淋しかった。インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。インド人、それはイギリス人に対するとき、どうにもならないほど弱々しく、卑屈で不安気であった。
『アーロン収容所』P122,3


 最後の「インド軍はイギリスから協力を要請されて戦ったのではないか。対等のはずではないか。」という部分ですが、実際にはまったくそうではなく、完全に強制だったのだということなのではないでしょうか。そしてそれは、(当時の)イギリス人にとっては別にやましいことでもなんでもなく、インド人達を使役するのは自分達に「神によって与えられた権利」であり、インド人達(というか有色人種全体)を自分達と対等と見ることなどあり得ないという感覚だったのではないかと。

 というのは、『アーロン収容所』の最初のあたりにこういう記述があるからです。以下はイギリス人女性兵士に関する記述ですが、イギリス人男性兵士だったらよりマシだったということはなかったと思われます。ただし、スコットランド人部隊兵士がイギリス人の中ではいちばん紳士的だったというような話もあります(P85)。

 【……】私は捕虜の全期を通じ、たしかに私用だと思われる仕事をしたことがあっても、イギリス人からサンキューということばは一度も耳にしなかった。おそらくこのことばを聞いた【日本の】兵隊はいないであろう。
 しかも、【私用の礼としてたまにタバコを一本か二本くれる時でも】タバコを手渡したりは絶対にしない。口も絶対にきかない。一本か二本を床の上に放って、あごで拾えとしゃくるだけである。【……】
 この女たちの仕事で癪にさわるもう一つのことがある。足で指図することだ。たとえばこの荷物を向うへ持って行けというときは、足でその荷物をけり、あごをしゃくる。よかったらうなずく、それだけなのである。
 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女【イギリス人女性兵士】が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化も起こらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸い始めた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。

 【……】
 もちろん、相手がビルマ人やインド人であってもおなじことだろう。そのくせイギリス【人男性】兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない。
 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊のなかには極度に反撥を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっとも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人とおなじように、イギリス人はなにか別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気がついたときだけだったように思われる。
 しかし、これは奇妙なことである。なぜ私たちは人間扱いにされないのか。しかも、なぜそのような雰囲気にならされてゆくのであろうか。もうすこし、いろいろの経験から考えてみる必要がありそうである。
『アーロン収容所』P47~51


 我々がたとえば(若い頃に)教室で水着にでも着替えていて、虫だとか鳥だとかウサギだとかが教室に入ってきても、恥ずかしいとは思わないでしょう。仮に猿が入ってきても、驚きはするでしょうが、恥ずかしいとは思わないでしょう。しかし、人間の異性(人種に関係なく)が入ってきたら「やべえ」と思うはずです。

 当時のイギリス人(白人全体?)にとって、有色人種は「猿」と同じような、裸を見られても恥ずかしい対象とは見られていなかったということなのでしょう。同書P46には、「イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。」とすらあります。


 戦前の日本は白人の植民地となることを免れていましたから、白人(イギリス人)による人種差別の話を色々聞いて普段から憤ることはあっても、実際に白人に支配された状態とはどういうことなのかは理解できていなかったということなのではないでしょうか(今の我々にとっては、当時の人よりも想像が困難であるだろうと思います)。


 この人種差別の感覚について、著者は下記のような推察をしています。ヨーロッパは土壌が痩せていて穀物だけでは生きていけないため、家畜を飼ってそれを屠殺したりして冬を越してきたこと等に関する話が関わっています。一方で東~東南アジアは、米の収穫量も栄養価も高いために動物をそれほど食べる必要はなく、むしろ大事にされてきました。

 かれらは多数の家畜の飼育に馴れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送して行くかれらの姿には、まさに羊や牛の大群をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本にはそんなことのできるものはほとんどいないのだ。
 【……】
 しかし、生物を殺すのは、やはり気持ちいいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神によって創造されたという教えである。人間と動物の間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。
 ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるだろう。私たちにとっては、動物と人間との区別の仕方が問題となるだろう。その境界はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間でないとされたら大変である。殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。
『アーロン収容所』P68,9



 インドは第二次世界大戦の頃までに、300年くらいイギリスに植民地支配されていたのでしょうか。その間に、イギリス人に対する反抗精神を多くのインド人が失っていたのではないかと思えました。

 一方で、インド国民軍(日本軍に協力してインド独立を目指したインド人兵士部隊)に所属していた士官がイギリス側の理不尽な扱いに頑として応じなかったり、戦後も依然としてイギリスと戦っていたという話も同書に出てきました。ですから、インド人の中にはインド独立のためにイギリスと戦うということに命を賭ける覚悟を固めた人達もいたけども、「英連邦軍のインド人部隊」に加わったインド人兵士達は、「イギリスに逆らうことはできない」という感覚の中でいたのでしょうか。






2.日本軍がインド侵攻にまで成功したらインド軍部隊が寝返る可能性もあったかもしれないが、ビルマ侵攻成功だけでは無理だった。

 自動車部隊のあるインド人中尉は、水道工事をしている私たちに近よって来て言った。
「日本はよく戦った。えらい。ビルマからイギリスを追い払ったことで、私たちインド人もイギリス人と対抗できることを教えられたのだ」
 私は苦笑した。
「それならどうして君たちは日本と戦争したのか」
「それは君たちがあまりに自分の力を頼みすぎたからだ。君たちがビルマを征服したとき、すぐにインドへ来ればよかった。しかし君たちは傲慢になってラングーンで寝ていた」
 このインド士官は話がうまく、ここでいびきをかいてみせた。
「すぐ来たら私たちもイギリスに反抗したろうに。もうおそかった。
日本は世界中を敵にした。USA、イギリス、フランス、濠州、カナダ。私たちも勝つ方に参加する。そうしないと独立は得られない。【……】
『アーロン収容所』P150


 戦後の著者らの捕虜生活の中でさえも、インド人(ただしシーク教徒は除く)が日本人に友好的なことは、考えられないほどであったそうです。それはどうも、世界の支配者たることが当然なのであろうと自分達が諦めていた白人に対して、日本人は自分達で武器も飛行機も軍艦も作って一時はイギリス軍をさんざんに撃ち破ったとか、あるいは日本兵捕虜にしても何かを作ったり様々な技術を持っていたりすることに関して、感嘆の念を持っていた……ということにあるようです。

 ただそのような感嘆よりも、イギリスに対する恐怖が打ち勝っていたのでしょうね。


 また、もう一つ私が重要だと思うのは、インド人がビルマ人から非常に嫌われていたという話です。ビルマがイギリスによって征服された後、数十万のインド人がビルマ国内にやってきて色々あこぎな商売をやって金持ちになっていたりして、ビルマ人から蛇蝎のごとく嫌われていたそうです(それは「分割して統治せよ」というイギリスの政策であった側面もあったでしょうし、またビルマ征服の際の部隊もインド人部隊だったりしたのかもですね)。

 だとすると、ビルマ人は日本軍を歓迎していたけども、日本軍がビルマの領域に留まっている間は、インド軍部隊が日本軍側に立つのは極度に難しいでしょう。それこそ、引用したインド人中尉が言っていたように、もし日本軍がインド国内にまで入ってイギリス軍を散々に撃ち破っていれば、その時はインド人部隊が日本側に立つ可能性が、あったのかもです(後にビルマ独立義勇軍が、日本側から離れてイギリス軍側に立ったように)。




 一方で、戦中のインド人兵士がどのような気持ちで日本軍と戦っていたのだろうかとか、実際の作戦中のインド人兵士とイギリス人士官との関係性はどうだったのだろうかとか、そういうことに興味も湧くのですが、そこらへんが分かるような本が出てたりしないものでしょうかね……? インドのAmazonで検索したりしたら、そういう本が見つかったりするのでしょうか。


奈良県立図書情報館に、日本軍の部隊史本などが大量にありました

 先日、日本陸軍の「第○○聯隊史」のような部隊史本をネット検索で探しているうちに、奈良県立図書情報館という図書館にそれらが大量に蔵書されているということに気付きました。


 蔵書検索で、1942年のビルマ戦に関して記述がありそうなものを探しただけでこんなにありました(「聯隊」で検索して出てきたものと、1942年のビルマ戦の戦闘序列を見比べてチェックしました)。

歩兵第百十四聯隊史
歩兵第百十四聯隊の将兵達
火砲と共に : 山砲兵第五十五聯隊戦史
山砲兵第55連隊行動表
菊歩兵第五十六聯隊戦記
従軍回顧 : 輜重兵第三十三聨隊第四中隊(弓第六八二八部隊)(杉山隊), [ビルマ編]
砲煙 : 龍野砲兵第五十六連隊戦記
ビルマ戦線の追想 : 龍工兵第五十六連隊第二中隊
戰車第十四聯隊戰記
工兵第三十三聯隊戦記
私 (達) の歩いて来た道 : 第三十三師団 (弓部隊) 歩兵第二百十三聯隊第二大隊第七中隊 (及各隊) の戦跡
独立工兵第二十聨隊戰史, 第1編
独立工兵第二十聨隊戰史, 第2編
菊花清冽たり : 菊歩兵第五十五聯隊死闘のドキュメント
追憶 : はるけき戦場を偲んで


 図書館蔵書のコピーに関しても調べてみると、一冊の半分程度までなら許されるということで、1942年のビルマ戦に関してしか必要でないのでとりあえず問題なさそうでした。


 で、行ってみました。以前利用した大阪市立図書館の経験からすると、書名を検索してプリントアウトしたものを係の人に渡して出してきてもらうのだろう……と思い込んでいたのですが、これらすべてが本棚に並んでいました(「戦争体験文庫」というコーナーが割合としてかなり広く取られており、そこにありました)。しかも、同じ本が3冊ずつあったりとか。

 (一般的に?)コピーは係の人にやってもらう的な情報も見ていたのですが、ここは自分でやるという形でした。「本を出してきてもらう、コピーもしてもらう」だと結構時間がかかるような気がしていたので、そうでなくて良かったです。



 周辺には飲食店などは何もないのですが、館内にカフェがあってカレーやピラフなどが食べられ、また自動販売機で菓子パンなども売ってました。

 私は3時頃までに何とか、事前にチェックしていたもののコピーを取り終え、その後2時間ほどは実際に本棚を見回ってみて見つけた関係資料をコピー。

 すでに大枚はたいて購入してしまっていた部隊史本もあったりしましたが、一方でぜひ読みたい『第百四十三聯隊史』(第55師団所属で、ビルマ進攻作戦に最初期から参加しました)などはありませんでした(徳島県立図書館にあるのは確認しています)。


 また、「野戦重砲兵第○○連隊/大隊」や「独立自動車第○○大隊」というのが1942年のビルマ戦の戦闘序列に第15軍直轄として出てきまして、その戦闘序列に載っていた部隊の本はたぶん蔵書になかったと思うのですが、それ以外のそれらの部隊史の本をコピーはせずとも目を通して、「だいたいどういう部隊だったのか、編制はどうだったのか」を知る必要があるのかな、という気がしてます。他にも今回はチェックできなかったもので関係ありそうな本があるでしょうから、再度行くかもです。


 関西の人で部隊史本などに興味がある方は行ってみても良いのでは。私にとっては「1942年のビルマ戦に関してだけ情報が欲しい」ので、1冊の本に占めるページ数が少ないそれらを何冊もの本からコピーできるという点で大変ありがたかったです。

 なお、ヨーロッパ戦線に関する本は、古い本がほんの少しあるかな、という程度で、そちらに関しては大阪市立図書館の方がよほど充実していたと思いました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:砲兵部隊の具体的な砲の種類と門数

 砲兵ユニットですが、具体的な砲の種類と門数がいくらか特定できるケースがあることに気付きました。



 ↓第33師団の第3砲兵大隊ユニット。

unit8585.jpg


 このユニットは、↓で書いてましたように……。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力 (2023/03/25)
OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)


 75mm山砲(九四式山砲) 13.4ポンド 射程9800ヤード【約8961m】が、9門、ということになります(詳しく言えば史実では1個中隊欠で6門であったはずだけどもユニット化においては欠がないとして9門ではあるものの)。

 偶然ですが、1門で1砲爆撃力ということになってました。この換算は、OCS『Burma II』を参考に3倍スケールしたものなので、OCS『South Burma』(仮)を作っていく上で最も基本になる換算値であると個人的に考えています。




 次に、↓最初に日本軍とモールメンで対戦することになった英連邦軍側の砲兵である第12山砲兵大隊ユニットです。

unit8584.jpg


 この部隊はモールメン戦の時、榴弾砲4門であったそうです(この門数が定数かどうかは、まだ私は分かってません)。

 この榴弾砲は3.7インチであったそうなので、QF 3.7インチ山岳榴弾砲だと思われます。



 この日英の両方の砲のスペックを並べますと、

75mm山砲(九四式山砲)    射程 9800ヤード(約8961m)
3.7インチ山岳榴弾砲(94mm) 射程 5,899ヤード(5,394m)

 となります。


 実は、その昔ワニミさんがどこかで拾ったという「OCS_Unit_Calc_Sheet.xls」なるエクセルファイルがありまして、この中には大砲の口径ごとの係数が入っていました。それが参考にできるのではないかと、グラフを作ってみました。


unit8583.jpg



 エクセルファイルには94mmの項目はないのですが、このグラフで、だいたい0.28くらいではないかとあたりを付けることができます。


 これを参考にしますと、日本軍の75mm砲(係数0.257)は1個大隊に9門なので、

0.257 x 9 = 2,313

 で、砲爆撃力が2か3。OCS『Burma II』では3となっています。それを3倍したのがOCS『South Burma』(仮)の9という数値になります。


 このグラフがある程度参考にできるとすると、英連邦軍の3.7インチ榴弾砲(94mm:係数0.28あたり)が4門だと、

0.28 x 4 = 1.12

 で、3倍スケールだと、砲爆撃力3.36。まあ、3か、4かあたり。



 ただ、このエクセルファイルの出自も分からないですし、試しにOCS班長のチップ・サルツマン氏にメールで聞いてみました。

 すると、これらの係数は、OCSデザイナーの「出発点」を提供することを目的としたもので、その他さまざまな要因により砲爆撃力をデザイナーが決めていくことになる、ということでした。


 とすると、もちろん絶対的なものではないにしても、ある程度は参考にして良さそうです。


 今後、大砲の種類と門数がどれくらい判明するか分かりませんが、参考にしていこうと思います。




<2023/06/19追記>

 また、ミト王子さんがコメント下さいました!

 前に言及した「British and Commonwealth Armies 1939-43」によると、第12山砲兵大隊は特定できないものの旅団支援部隊の砲兵大隊は

 HQ(1 radio van,4 tracks, 4rifle secs,2AALMG)
  2 Troops,each:4×25pdr Mk2,5Quad tractors,radio van,2LMG
  OR 2 Troops,each:4×3.7″mountain guns,6 tracks,2LMG 

とありますから、第12山砲兵大隊も大隊としての定数は4×2の8門だったかも知れません。
 しかし「ビルマ 遠い戦場」では「第12山砲中隊の榴弾砲四門」としていますね。


 ありがとうございます!! 大変助かります~<(_ _)>


 とすると、山砲兵大隊の定数は、

0.28 × 8 = 2.24 を3倍して、6.72

 で、7か、あるいは8あたり。

 野砲大隊の場合だと、25ポンド砲が口径87.6mmだとすると、まあほぼ一緒なので、7か8あたりになりそうですね。


 モールメン戦の時は4門しかなかったとしても、とりあえず定数を基本とする方向で行こうかと思います。

<追記ここまで>


<2023/06/30追記>

 「Rangoon Field Brigade, R.A., B.A.F.」(ラングーン野砲兵旅団)の砲の種類と門数が分かる資料がありました。

Rangoon Field Brigade R.A. Burma Auxiliary Force.
(Armament, one Battery of four 18 pdr. guns)
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P24


 18ポンド砲は84mmだったということで換算でき、4ぐらいになりそうです。

 ところがこの資料で気付いたのですが、とりあえず無視することにしていたビルマ補助軍のものだったのですね。一応数値は変えた上で、オプションマークを付けておきます。

<追記ここまで>

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ小銃大隊、ビルマ国境警備隊等をユニット化してみました

 続けて、OCS『South Burma』(仮)用のユニットで、ビルマ小銃大隊、ビルマ国境警備隊等を、見つけているものはすべてユニット化してみました。


unit8591.jpg



 中段と下段の、緑色のユニット(の、兵科マークの左側に「数字+Bu」とあるもの)がビルマ小銃(ライフル)大隊です。中段にあるものは序盤に前線に存在しているもので、下段に追加したのは、その他のビルマ全土に配備されていた1~14のビルマ小銃大隊です。キャンペーンの初期配置をするならば、それらもマップ上に置かれることになりますので……。


 ビルマ小銃大隊のレーティングに関する考察や、ビルマのどこに配置されていたかなどは↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:英印軍標準旅団の編成定員はおよそ3000名 (2023/03/06)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動 (2023/03/30)



 ビルマ国境警備隊(F.F.)もユニット化しています。それについては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ国境警備隊(F.F.)について (2023/03/17)


<2023/07/15追記>

 その後、ビルマ小銃大隊やビルマ国境警備隊が強力すぎる気がして、全体に弱体化させてました。


unit8561.jpg


 また、『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』P404,5の1941年12月の在ビルマ英連邦軍の戦闘序列を見ていると、ビルマ小銃大隊の11、12、13、14は「Territorial(地域防備?)」用になっており、また9、10、14は編成中であったということだったので、それぞれ防御専用にしたり、弱体化させたりしてみました。


<追記ここまで>




 中段のインド人部隊(茶色のユニット)は、以前作っていたものをそのまま3倍の戦力にしただけです。

 中段のユニットは、所属の旅団名を兵科マークの右側に記載しているのですが、これ以前も、これ以後も、どんどん所属旅団や所属師団が変更されていたようです。なので、これらを書かない方が良いような気もしました。が、とりあえず現状ではセットアップ時などに分かりやすいので、このままにしておこうかと(消すのはすぐにでもできますが、また付けるのは面倒だったりしますから)。



 あと、ふと思いついて、第33師団の司令部の指揮範囲を8から10にしてみました。というのは、第33師団長の桜井省三中将は、第55師団長の竹内寛中将よりもはるかに優秀、かつ積極果敢だったと思われるからです(第33師団は中国大陸での実戦経験も豊富であったので、幕僚達のレベルも、実戦経験のない第55師団よりも優秀だっただろうと思います)。もっと差があってもいいような気もするのですが、テストプレイしてみてから……(第55師団の指揮範囲を狭くするべきかもです)。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:3倍スケールでの日本軍ユニットを作ってみました

 OCS『South Burma』(仮)の、3倍スケールによる日本軍ユニットを作ってみました。


 3倍スケールに関しては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)の1942年部分は、OCS『Reluctant Enemies』と同じ3倍スケールで (2023/03/01)




 ↓戦闘モード(表)面。

unit8596.jpg



 ↓移動モード(裏)面。

unit8595.jpg




 歩兵大隊の戦力値が、第55師団では6、第33師団では7の件に関しては↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の第55師団と第33師団の歩兵大隊の戦力について (2023/03/01)





 砲兵はOCS『Burma II』において1個大隊が3砲爆撃力で、ビルマ侵攻時には両師団とも大体1個連隊の1/3程度の砲兵力であったらしい(いまいち確定しきれてないですが)ので1個大隊程度あったものと解釈し、その3倍で9としました。そこらへん関係のこれまでのブログ記事は↓こちら。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力 (2023/03/25)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)




 第55師団のみは捜索連隊(実質は騎兵の大隊)を持っていましたが、定数からいくつかの部隊が抜かれていました。

25. 第55師団は、3個騎乗歩兵中隊、1個機関銃中隊、1個装甲車中隊、1個対戦車砲中隊を擁する捜索「連隊」【実質的には大隊】を有していた。彼らは自らを「騎兵」連隊(「最後の騎兵」)と称していた。1個騎乗歩兵中隊と機関銃中隊と対戦車砲中隊の一部はグアムへ派遣されており、この作戦には参加していない。

26. 騎乗歩兵部隊は、折りたたみ式銃剣を装着した軽小銃であるカービンで武装していた。両師団の軽装甲車中隊は、ラングーンが攻略されるまで到着しなかった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377

(この引用は、OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について (2023/03/28)から)

 一応、4個騎兵中隊+各種3個中隊のうち1個中隊+αが抜かれていると考え、仮に定数で6戦力だとすると抜かれて5戦力くらいかなぁ……とレーティングしました。

 アクションレーティングはOCSでは通常、捜索大隊とかは高めにされますし、日本軍でもそういう感じだろうと思いますので、第33師団は基本AR3なんですが、4に。OCS『Burma II』を見ると、第18師団と第56師団のみが捜索大隊(騎兵大隊)がユニット化されており、AR5ですが、両師団は基本的に歩兵大隊もAR5なのであまり参考になりません(^_^;

 あと、OCS『Burma II』では捜索大隊(騎兵大隊)の移動力は戦闘モードで4、移動モードで10になっていました。『South Burma』(仮)では現状、移動モードでは8にしてますが、どうでしょうね。10だと便利すぎるような気もするのですが、8でも大差ない?




 日本軍の工兵大隊に関しては、これまでのブログ記事での情報集積は(多分)していなかったようです。

 OCS『Burma II』では日本軍の工兵大隊もおおいにユニット化されているのですが、レーティングに関しては歩兵大隊とまったく同じとなっています(工兵能力もない、単なる歩兵扱い)。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍ユニット。

unit8597.jpg

 「Eng」(Engineer)とあるのが工兵です。



 OCS全体ではこういう扱いは希有なことで、工兵がわざわざユニット化されている場合には通常の歩兵よりは結構弱体で、工兵能力(架橋や建設)のために使用され、敵の襲撃に備えて他の歩兵ユニットを一緒にスタックさせておかないと危ない……という感じが多いかと思います。

 『South Burma』(仮)は3倍スケールですので、工兵に関して『Burma II』より細かい扱いをしなければならないでしょう(>_<)

 参考に、同じく3倍スケールのOCS『Reluctant Enemies』に入っている工兵ユニットは↓こうなっていました(OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍の工兵部隊について (2023/03/13)から)。

unit8636.jpg

 左のが「2/5+6」大隊で3戦力、右のが中隊で(2)戦力。どうも見ていると『Reluctant Enemies』では他の中隊(対戦車中隊とか歩兵中隊とか)でも2戦力となっているので、「大隊は6戦力、中隊は2戦力」というやり方になっているのでしょうか。

 前記の「2/5+6」大隊で3戦力というのは、「2/5」と「2/6」が合体されたものなんでしょうけども、それぞれが中隊? (4)ではなく3というのは、何らかの理由があるのかもしれません。


 日本軍の工兵部隊について改めて少し調べたところ、基本的には3個中隊で1個連隊(実質的には大隊)であったようで、かつ、この時の第33師団、第55師団の両方ともが1個中隊欠であったようです。そうすると4、あるいは(4)あたりが妥当なのかもですけども、個人的には工兵大隊が歩兵大隊とまったく同じように攻撃し、防御できるというのは違和感を感じるので、1減らして3にしようかと。で、日本軍の工兵大隊は防御専用の(3)ではなく、攻撃もできる3でも良いのではないか……(英連邦軍の工兵は防御専用とか?)。

 工兵能力は、ビルマ戦においては架橋に関して非常に重要であったようですので、ありで。ただし、普通の歩兵大隊よりは少し遅れてゲーム上に増援として登場し、後から追及してくるという感じのようです。もしかして、移動モードの移動力を少し悪目にレーティングするとそれっぽいかも?



 またいくらでも様々な理由によりレーティングは変更されることになると思うのですが、とりあえず。

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍は人道的で、現地民に何も悪いことをしなかったのか?

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を再びDeepL翻訳で読み進めてました。






 以前、『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでブログ記事を書いていた時に、「この本では、東部戦線のイタリア軍は現地民に(ドイツ軍がひどいことばかりしたのに対して)人道的なことばかりして、ひどいことはほとんどしなかった……という感じで書かれているが、本当だろうか?」ということが気にかかっていました。

 ↓そこらへんについて書いていたもの。

『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)

東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について (2017/07/17)

東部戦線でのイタリア軍兵士のソ連市民への残虐行為はあったか? (2017/10/31)

メッセ将軍率いるイタリア軍のロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)の人道的な態度まとめ(付:OCS『Case Blue』) (2019/10/06)



 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』にはそこらへんの分析も載っているということで楽しみにしていたのですが、ようやくそこまで辿り着きました。結論としては、イタリア軍兵士がひどいことを全くしなかったとは(当然ながら)言えないものの、そもそもイタリア軍にはどちらかと言えば人道的に振る舞う十分な理由があったということでした。

 ジュスティは、ドイツ軍とイタリア軍の行動の違いの説明として、占領の概念の違いを指摘した。ドイツ軍のレーベンスラウム【生存圏】・モデルが人種階層に基づく完全な【現地民の】服従と絶滅を想定していたのに対し、イタリア軍のスパツィオ・ヴィターレ【生存圏】は現地民を含めようとするものだったのだ。つまり、これは「文明化作戦」であり、「野蛮な」暴力が組織的に用いられたのでは、 うまくいかないというのである。 スコトーニとヴァーチュは、イタリア軍の占領政策における残虐性の低さについて同様の理由を挙げている。すなわち、イタリア軍の占領地域はそれほど広範囲ではなく、イデオロギーの影響は小さく、そしてプロパガンダによりイタリア軍兵士達はソ連国民(特にウクライナ人)を「概して肯定的に見るようになった」。要するに、兵士達の人間性がというよりは、イタリア軍の意図と目標が彼らの行動の基調となったのだと。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P244

それでもなお、イタリア軍は一般的に「戦争中にひどい略奪者とみなされることはなく」、また強姦をしがちともみなされていなかった(同様の証言はルーマニア軍とハンガリー軍に関しても見られる)。とはいえ、ドイツ軍は、長い冬の休息を終えて東に移動した第35軍団(旧CSIR)による「市民住民に対する行動に関して、かなり不快な事例」を報告しており、イタリア軍兵士は村を焼いたり、 罪のない人々を射殺したり、売春を強要したり、略奪をしたりなどの暴虐的な行動に関与したりもしていたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P246,7

 イタリア軍兵士達はヒトラーの兵士達のように犯罪行為への白紙委任を受けることはなかったし、ドン河での敗北後も「イタリア軍兵士が現地民に対してより暴虐になることはなかった」。実際、彼らを聖人君子と見るべきでないが、撤退時に襲撃するジャガーノート【恐ろしい犠牲を強いる絶対的な力や存在】でもなかった。ベルクホフによれば、「1943年夏に再びウクライナを通過した時でさえ、イタリア軍兵士達はドイツ軍が分け与えることを拒否したドイツ軍側の食料を略奪し、現地民のために仕事をして食糧を分けてもらい、食糧をもらうために歌ったり(このため、「やってくるテノール達」と呼ばれた)、ソ連軍側のビラを配布したり、あるいは自分達の武器まで売ったりしていた。都市住民は、自分達もほとんど食糧を持っていなかったのに、イタリア軍兵士達に食糧を分け与えたのだ。」という。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P248,9

 【イタリア兵の】回想録は、驚くべきことではないが、イタリア兵と原住民との間の友好的な関係の話で溢れている。しかし、学者がこうした文書を額面通りに受け取ることには注意が必要である。手記だけでなく、ソ連軍が捕獲した手紙であったとしても、資料としての有用性には疑問符を付けねばならない。民間人への虐待や、捕虜の射殺は、故郷の愛する人達との話題としては相応しいと言えないであろう。だが、スコトーニはロシア軍側の資料に基づき、アルピーニ軍団がヴォロネジ周辺の占領地で過度な強制による支配を行わなかったことを実証している。イタリア兵達は防御陣地を作るために民間人から物資を奪い、強制労働に従事させたが、【占領地での】日常生活を大過なく送るためには、現地の自治体との協力が不可欠だった。このやり方は、イタリアの占領地で一般的に行われており、代表者の選出、司法権の強化、衛生的・精神的な援助が含まれていた。実際、解放後のヴォロネジ行政区の市民に対するソ連側の聞き取りによると、市民、捕虜、パルチザンに対する略奪と暴力事件約175件のうち、イタリア軍の犯行はわずか5%だった(ドイツ軍が60%、ハンガリー軍が35%)。これにより、イタリア兵は戦争犯罪を犯さなかったわけではないが、同じ地域のドイツ兵やハンガリー兵よりもはるかに少ない頻度であったことが改めて明らかになった。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P249,250


 イタリア軍の補給状況は、ドイツ軍のみならず、もしかしたらより本国に近いハンガリー軍やルーマニア軍よりも悪かったのではないかとも思われるので、そんな中での難しさもあったのではないかと思ったりも。

 東部戦線のイタリア軍が現地民に対して基本的に人道的であったことに関して、手放しで褒めるわけにはいかないものの、しかし頻度においてそういう違いがあったということに関しては、より知られるべきではないかなと思います。

ウクライナ戦争における今のロシアよりも、日中戦争当時の日本の方がはるかにダメダメだった2つの点

 先日、↓というのを書きました。

『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』読了:日中戦争はウクライナ戦争とよく似ている? (2023/05/17)



 その後、『図説 日中戦争』という本を読み返していたら、ウクライナ戦争における今のロシアよりも、日中戦争当時の日本の方がはるかにダメダメだった2つの点が目に付いたので、今度はそこについて書いておこうと思いました。






1.軍部が勝手に戦争していて政府がそれを止められないのみならず、陸軍も全体を統括できず、推進派の将軍が勝手に作戦を行っている。

 今のロシアも、ワグネルの存在だとか、当初全体を統括する司令官が設定されていなかったとかありましたが、当時の日本よりははるかにマシだったろうと思います(T_T)




2.占領地を放棄して態勢を立て直した方が良いにも関わらず、「英霊に対して申し訳ない」という理由で占領地を寸土も放棄できない。

 今のロシアは、キーウの占領が無理だとなった後、そちらから全面撤退しました。あるいはまた、ヒトラーが「一歩も下がるな」と命令して戦争後半により状況を悪化させたことに関して私も「ああ、愚かしい……」と思ってましたが、日中戦争当時の日本軍も同じだったのですね(; ;)ホロホロ


 この件に関して、『図説 日中戦争』にはこのような記述がありました。

 それ行け、やれ行け、一撃すれば蒋介石は手を挙げるに決まっている、勇ましかった参謀本部の作戦課が、こうした“中南支放棄案”を作成するほど、ほんとうは困っていたのだ。【……】
 しかし、撤収案は陸軍省の反対で日ならず立ち消えとなった。一度占領したところを放棄するなどとは、とんでもないというのである。
 【……】阿南(惟幾。陸軍省)次官は顔面朱をそそぎ『君は部下を率いて戦場に立ったことがない。それだからそのような暴論を吐き得る。君には数万、数十万英霊に対する感謝も責任も持ち合わせはない。君の意見は一顧にも値しない』というのであった【……】“撤収するのは英霊に申し訳ない”という反論は、いわば殺し文句で、軍人はこれに弱かった。
『図説 日中戦争』P139

「この【撤収の】提案に対して、岩畔(豪雄。陸軍省)軍事課長から後刻もたらされた回答は『皇軍(天皇の軍隊)将兵の血を流した土地を手離せるか』の一言であって【……】
 あまりにも戦争賛美の思想・言論しか許さなかったから、戦争が拡大しきって収縮させる必要がある段階になっても、支持者がいないことに初めて気づいたのである。完全な世論のミスリードだった。
 陸軍は、すでに戦争のために戦争を戦っているにすぎなかった。“英霊のために”を根拠に戦いをつづけようとしていた。いや、戦わざるをえなかった。

『図説 日中戦争』P146



 実は個人的に、この二人に関してはかなり興味を持ってます。阿南惟幾は、終戦時に自決して陸軍のクーデタを防いだということで最も有名らしいのですが、日中戦争での軍事指揮官としての能力はどちらかと言えば低かったようで、実は今テストプレイされているOCS『長沙』(第一次長沙作戦)の時の軍司令官なのです。

 岩畔豪雄の方は様々な謀略で有名らしいのですが、私が興味を持っているのはビルマ戦線の第28軍(アラカン方面)の参謀長であったという側面です。OCS『South Burma』(仮)で、一番最後の1945年の撤退戦がシナリオ化可能なら、第28軍も出てくると思います……(OCS『Arakan』(仮)はどうも製作がかなり難しそうだという理由で放棄されましたので(>_<) →第1次、第2次アキャブの戦いは、OCSには向かない? (2022/06/27)




 それはともかくとして、この「はるかにダメダメだった2点」に関して思うのは、これは日本社会の特性から来る欠点なのじゃないかということです。


 日本社会は、ある程度狭い範囲の「空気」や対人関係(和を以て貴しとなす)が極めて重要で、同調圧力によって(本来あるべき指揮系統とは離れて)物事が推進されていきやすい。この「ある程度狭い範囲」が、戦前戦中であれば陸軍なり、海軍なりであって、縦割りで陸軍が勝手にやりたいようにやる。しかも陸軍の中でも細かく分かれて勝手にやったりする。

 「英霊に対して申し訳ない」というのも、空気こそが超重要で、空気の前には合理的判断などそれこそ「一顧の価値もない」ということでしょう。



 このような日本社会の各組織は、欧米でのような「機能のための組織」(ゲゼルシャフト)ではなく「人間関係のための組織」(ゲマインシャフト)という側面が非常に強く、うまくいっている間はものすごくうまくいくのだけど、うまくいかなくなってきてもどうにもそれまでのやり方を変えることができない……。

 欧米はなぜそういう社会でないのかというと、唯一絶対の神との契約だとか、そういう考え方に基づいているらしく、日本社会がそういう風になるのは将来においても難しいだろうと思うので、まあちょっとどうしようもないんじゃないでしょうか……。


核廃絶がほぼ不可能だと私が考える理由

 試しに「核廃絶」という言葉で検索をかけようとしたら、一番上に「核廃絶 不可能」という検索ワードの組み合わせが出てきました。それで、悩んでいたんですがブログ記事として書いてみる意味はありそうだと考えました。


 私は、核廃絶はほぼ不可能だと考えています。その理由は、

1.核廃絶した後で、実は核を隠し持っていた国がいたら、核の脅しに対抗できない。
2.核廃絶した後で、核兵器を作った国がいたら、核の脅しに対抗できない。

 ということです。

 核廃絶したいなら、この問題を何とかしないといけない。しかし、これが解決できるシステムを作り、維持するのは極度に困難でしょう。一応可能性としては、例えば日本がガンダムのような?超兵器を開発し、その力によって世界の核保有国に核廃絶や非戦を強要し、そしてその力関係を維持し続ける……というようなものが、ないわけではないですけども。

 やむを得ずの次善の策が、相互確証破壊戦略なわけです。

 一応、「核廃絶 不可能」で出てきたページをほんの少しチェックしてみたんですが、この件に触れられているものは見つけられず、しかしこの件の方が遙かに重要だと私には感じられます(もちろん、私の考えが間違っているのかもしれません)。



 以前、平和主義の教え子に説明してみたら「なるほど……」と納得してもらえた説明方法として、↓のようなものがありました。これは、軍備廃絶ができない理由ですけども。

「10の村があって、ひたすらそれらの間で戦争しまくっていました。あまりにも戦争の惨禍が酷すぎて、その10の村は相談して武器を全部捨てることにしました。それでしばらく平和な時期が来ましたが、ある時、1つの村が、この平和な状態がチャンスじゃないかと、再び武器を作り始め、そしてその武器ですべての村を征服してしまいました……」


 進化生物学およびゲーム理論の重要な概念である、「進化的安定戦略(evolutionarily stable strategy:ESS)」によれば、平和主義者が増えると、好戦主義者の利益が大きくなり、逆に好戦主義者が増えすぎると今度は平和主義者の利益が大きくなり……ということが常に繰り返され、ある一定の均衡に落ち着いたり、バランスが崩れたりします。昔読んだ『利己的な遺伝子』に挙げられていた数字では、確か好戦主義者の方が少し多めで均衡するとあったと思います(式にどんな値を入れるかによって変わるようです。ちなみにこれは、個体単位の話に限るものではなく、ある一個体の中に好戦的な面と平和主義的な面があって……の総体的なバランスでもあります)。


 重要なのは、「まわりに平和主義者が多ければ多くなるほど、好戦主義者が戦争に訴えることの利益は、言わば幾何級数的に増大し、そしてそうすることへの誘惑はとてつもなく大きくなる」ということです。軍備廃絶や核廃絶が100%に近づけば近づくほど、隠れて、あるいは協定を無視して、軍備を持つことや核兵器を持つことの実利と誘惑がどんどんどんどん大きくなっていきます。「善意の人しかいない世界」は無法者にとっても楽園であり、無法者の数はナッシュ均衡に至るまで増大することをやめません。

 また、「被爆の悲惨さを全世界の人が知れば、核廃絶が当然になるはず」という考え方もありますが、サイコパスという、他人に対して共感する気持ちを全く持つことがない人が全人口の数パーセントもおり、しかもサイコパスは魅力的で有能で権力を握りやすいという、言わば「不都合な真実」を無視していると思います。サイコパスの実例としてはスティーブ・ジョブズが有名ですが、ヒトラーやスターリンもサイコパスであったと見られています。サイコパスは競争社会のアメリカでは全人口の4%ほどを占めると見られていますが、日本社会はサイコパスにとってそれほど有利な環境ではなく、1%を切ると見られています。無法や裏切りが当たり前のロシアや中国では、アメリカよりもサイコパスが占める割合は高いのではないでしょうか。



 核兵器をなくすことはできるの?わたしたちにできることというページを見ていると、

核兵器廃絶に有効なのは『人道アプローチ』です。『核兵器を持つことは恥』『核兵器では人の安全は守れない』というイメージを人々の中に作っていくこと。

とありました。

 これは無意味ではないと思いますけども、十分条件には全然なり得ないと思います。無法者、裏切り者、サイコパスにとっては、評判や人道などは何の意味も持ちません。彼らに対して効果を持つのは、彼らを制することができる実力と、そしてその際の自分への被害も厭わない覚悟でしょう。

 今、ロシアが「核の脅し」をしていますけども、核を使用させないためにアメリカはかなり上のレベルでロシアに「核を使用したらひどい目にあうぞ」と何度も伝えているそうです。内容は、私の想像では例えば、「アメリカは報復の核を使用しないが、あらゆる通常兵器でNATO各国と共に全力でロシアを攻撃して全土を支配し、プーチンとその仲間達もどこまでも追い詰めて裁判にかけ処刑する。そして旧ソ連の領域をNATO各国によって支配し続ける体制を確立する。それまでにどれだけ、アメリカやNATO各国が核攻撃されて何千万人の死者が出ようともだ」というようなものではないかと思っています。

 つまり、「自分にどれだけ被害が出ても、お前を決して許さない」ということです。最終的にはこういう、「俺も死ぬがお前も絶対殺す」というような覚悟と、そして実力がなくては、無法者には響かない。


 核廃絶は、無法者、あるいは裏切り者をどうするか、という問題に向き合わなくては、どうしようもない、と私は思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:「フライング・タイガース」(AVG:義勇アメリカ航空部隊)について

 『シエンノートとフライング・タイガース ― 日本軍を震撼させた男』を、1942年の戦いのところまで読み終わりました。






 本を読んでいてシェンノートに関して非常に興味深かったのですが、「1942年のフライング・タイガース」についてそれほど詳しいというわけではありませんでした(^_^;(紙幅のバランス的にしょうがないと思います)


 略称のAVG(American Volunteer Group)の日本語訳なんですが、「アメリカ義勇部隊」「アメリカ合衆国義勇軍」というようなのを見るんですが、イメージとして非常に分かりにくいと思ってました。『中国=ビルマ=インド』を見ていると「アメリカ義勇航空部隊」と書いてあって少し分かりやすいと思ったんですが、ふと「義勇が最初に来た方が日本語的にいいのではないか」と思いつきました。なので、今後私は「義勇アメリカ航空部隊」と書いていこうかと思います。



 義勇アメリカ航空部隊は3個中隊から成っており、↓のようなニックネームが付けられていたそうです。

第1中隊:「アダムとイブ」(Adam and Eve)
第2中隊:「パンダ」(Panda Bears)
第3中隊:「地獄の天使」(Hell's Angels)


 『South Burma』(仮)は、通常のOCSの3倍スケールにして、航空ユニット1個で15機程度にしようかと思っています。日本軍の場合、1個中隊=約15機として良さそうだったのですが、連合軍側についてはまだ良く分かってません。しかし、日本軍と同様に1個中隊で航空ユニット1個に出来そうだとしたら、各ユニットに↑の名前を書いても面白いのではないかと思ったのですが、その後読んでいると↓のような話が出てきました。

 開戦【1941年12月8日】後一週間のパターンが以後のAVGの戦闘様式を決定づけたが、これが案外うまく機能しているのである。つまり、一中隊がラングーンに駐留してイギリス空軍と共同で、1942年3月にラングーンが陥落するまで戦い、その間、パイロットが疲れ、機体に修理が必要で作戦の継続が不可能になると、【中国の】昆明にいる二つの中隊の一つと交代するというローテーションなのである。昆明の部隊は基地の防衛と、作戦継続のための人員の休養、機材の修復に全力をあげるというシステムであった。
『シエンノートとフライング・タイガース ― 日本軍を震撼させた男』P129



 この話からすると、ゲームにはアメリカの色の「AVG」と書かれた航空ユニットが1個だけあり、そしてこの航空ユニットは絶対にステップロスしない(OCS『Hungarian Rhapsody』におけるルーデルユニットと同様)……というルールにするのが良さそうで、面白そうかと思いました。

 『中国=ビルマ=インド』を読んでいると、義勇アメリカ航空部隊の整備人員はむちゃくちゃ色々努力してP-40を飛行可能にしていただけでなく、様々な方法で性能向上もさせていたとかいう話で、ルーデルユニットが主にルーデル自身の不死身性によってステップロスを食らわない(?)のに対し、AVGユニットはローテーションと整備人員の頑張りによりステップロスを食らわないというのは面白い対比になっているような気がします。



 ただ、以前書いたOCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦のイギリス空軍の戦闘序列 (2023/03/24)を見返してみると、

1941年12月の戦闘序列(ミンガラドン飛行場周辺)
 アメリカ義勇軍第3飛行隊(「トマホーク」または「P-40」21機)

【2月3日の時点でのビルマにおける戦闘機兵力(可動機)は、
 AVG第1飛行隊トマホーク12機
 AVG第2飛行隊トマホーク8機


 とあって、厳密にビルマに1個中隊だけというわけではなかったのだなと思いました。

 また、↑の例ではビルマに20~21機いますから、15機で1ユニットだとするとそれよりはちょっと多い。そうすると例えば、1.5ユニット分(1枚は完全戦力面、1枚は減少戦力面)を入れておくか、あるいはユニットは1個だけども、レーティングを高くするか……。

 これまでのOCS(ルソンを含む)のレーティングからすると、この時期のP-40は空戦力3(OCS『Sicily II』の頃からアメリカ軍のものは4になる)で、日本軍側の九七式戦闘機は空戦力2です。これでAVGを空戦力4にする……のは、やり過ぎですかね?(^_^; でもユニット1個だけなら、結構ありかも……うーむ。



 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ軍P-40ユニットと、OCS『Luzon: Race for Bataan』の九七戦ユニット。

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OCSにおけるカーチスP-36とP-40について (2022/09/26)



 今後また情報を収集、集積していこうと思います。


『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』読了:日中戦争はウクライナ戦争とよく似ている?

 『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』という、去年出た本を読了しまして、その中で今私が最も興味あるところの、「日中戦争≓ウクライナ戦争」という見方はやはり、ある程度当てはまりそうだという気がしました(もちろん、異なる面も多数あるわけですけども)。





 この本で紹介されている、当時の日本のインテリ層が日中戦争(そしてまた、太平洋戦争も)の意義をどう主張していたかなのですが……。

 中国は、東アジアの国として生き残る道に気づかず、日本を顧みずに、背後のアメリカや背後のソビエトに騙されている【……】
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P125

 中国の民族主義はアジア経済の秩序原理とはなれない。そして欧米の帝国主義はその中国の民族主義を利用しているので、二つとも日本の軍事力で打倒する必要がある【……】
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P124



 もちろん実際の日中戦争の理由は、それまでに獲得していた満州だけでなく、まずは華北圏を日本のブロック経済圏に編入してしまいたいという実利的なものだったわけですが、さらにそこには対抗者との間の時間的制約もあった。

 そういう流れでみると、アメリカが大きな力を持ちつつある時代に、いち早く中国を自らのブロックに収めてしまいたいというのが、日本が日中戦争に進んでいった最大の動機だったということになりますね。一方アメリカはそれを阻止しようとする。その対立がついに日米戦につながっていく。
『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P131



 ここらへん、ウクライナ戦争(特別軍事作戦)に関してプーチンが主張していたり、あるいはその背後に隠されているであろう動機と、かなり似通っているのではないかなぁ、と個人的に思うわけです。

 その前に満州事変→満州国建国がある程度以上うまくいっていたという話もあり、それはクリミア併合と「成功体験」という点で似ている気がしますし、プーチンが「ウクライナは一撃で制圧できる」と思ったように、日本の軍部も「中国は一撃で倒せる」と思っていた。


 そしてまた、日中戦争が長期化した理由についても……。

奥泉 日中戦争はもっと早く終わらせるはずだったけれど、うまくいかなかった。一撃で倒せると侮っていた中国は非常に強くて、むしろ日本軍は弱いというイメージさえできてくる。といっても、点と線とはいえ一定の勝利は得て日本軍は進撃する。しかし、この戦争を当事者はどうしようと思っていたのでしょうか。いろいろな立場の人がいろんなふうに考えていたとしか言いようがないんでしょうけど、出口といいますか、ようするにどう決着しようと思っていたんですかね。

加藤 とにかく、中国の対外政策を日本に都合のよいように変えさせる、中国の国家や社会を成り立たせている基本的秩序を変えようとした戦争でしたので、中国側からの絶対的な反発があるのは当然なのです。しかし、日本側にも同情すべき点はあって、中国を相手にして戦争をしていると思っていると、1937年12月1日には、ソ連から中国に飛行機が供与され、また操縦士もやってくる。そして英米からは借款というかたちで、資金援助もなされるようになるのです。以前の中立法では戦争をしている二国に差別的な振る舞いはしてはいけないはずですね。それが、中国の後ろにはソ連、英国、米国がついているという戦いになりました。中核となる軍隊の三割が死傷すれば、戦争は終局に向かうはずです。しかし、蒋介石は日中戦争に各国を巻き込む、いわば、戦争を国際化しましたので、なかなか終わらないのです。

奥泉 日本は軍事作戦を進める一方で、傀儡政権を打ち立てたり、政治的な打開をはかるが、うまくいかない。日中戦争から日米開戦までの過程を見ていくと、日本はいろいろな政治工作をするんだけど、ほとんど効を奏さない。交渉の相手側の反応や思考をうまく捉えられない。錯誤が重なっていった気がします。

加藤 やはり道理のない戦争、満州奪取が元にあるので、相手国の人心を収攬できないのですね。

『この国の戦争 : 太平洋戦争をどう読むか』P142,3



 蒋介石≓ゼレンスキー大統領で、彼らはうまく「二国間だけの戦い」ではなく、外国からの援助を得られるように持っていった……。

 そして日中戦争の場合、蒋介石を支援するためのルート(援蒋ルート)が結構限られていたので、日本はそれらをすべて閉じようとし、その延長線上にビルマ侵攻作戦もある。ウクライナ戦争の場合には、これは全然当てはまりませんけども。




 当時、日本はアメリカ(「背後のアメリカ」も含む)を相手に色々やって、最終的に失敗しました。今、ロシアと中国は「背後のアメリカ」相手に色々やったり、やろうとしてますが、日中戦争と太平洋戦争の時のように、アメリカが最終的にそれらに勝利できるかどうかは、予断を許さないだろうと思います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:英連邦軍はなぜラングーンを死守しなかったのか?

 OCS『South Burma』(仮)を作ってみようとする上で、私には「英連邦軍はなぜラングーンを死守しなかったのか?」という疑問がありました。

 ウェーヴェルはラングーンの死守を命じたものの、アレクサンダーは「ラングーンは死守できない」と判断したというのですが、なぜそういう判断に至ったのか、私には納得できる理由が見つけられていなかったのでした。


 いくらか収集していた理由に関する記述は、↓のもの。

 もう疲労甚だしく……
『ビルマ 遠い戦場 上』P64

 彼【ウェーヴェル】のいうとおり【ラングーン死守】にしていたら多数の軍人と軍属が日本軍の捕虜となっただろう。
『ビルマ 遠い戦場 上』P65

 この方法でアレクサンダーは戦況を回復し、【……】ラングーンへの進攻を食い止めようとした。計画は失敗だった。日本軍はペグーを鉄環の形で締め上げる一方で、シリアム製油所の奪還をはかり、突撃隊を渡河して浸透させてきた。結局ラングーンは防衛することはできないと、アレクサンダーはビルマにわずか一日滞在しただけで悟った。
『ビルマ 遠い戦場 上』P72


 戦況に関して言えば、当時ラングーンは北と南東から包囲されかかっていた(ただし兵数は少なく、長期包囲戦が可能であるようなものではなかったと思います)ので、そこらへんの問題はあったと思います。

 しかしOCSのゲーム上では、SPをある程度以上抱えていれば都市ヘクス(中障害地形)で死守した方が良いように思えますし、史実のラングーンも、これまで集めた情報では「死守を諦めて当然」とまでは全然思えてませんでした。



 ところが、『シエンノートとフライング・タイガース』を読んでいると当時のラングーンの状況に関する詳述があって、「なるほど、これは守れないだろう」と思いました。

 イギリス軍は出来るだけラングーンを保持しようと計ったが、それはラングーンの埠頭には武器貸与法による軍需物資が山積みされていたからである。その物資をなんとか中国に運び込もうと不眠不休の努力が成されていたのである。
 12月23日に日本軍は放送を通じて、ラングーンの空の守りは瓦解したので、クリスマスには毒ガスと落下傘部隊というプレゼントを進呈するという情報を流している。これがラングーンのパニックの始まりとなったのである。金持ちはインドに逃れ、そうでない者は独立運動家などに動かされて、イギリス人を襲って略奪をほしいままにするという事態になった。ビルマ人のコックなどが逃走したので、AVGも食料にすら事欠く有様であった。またガソリンや酸素の供給もままならぬ有様で、作戦に支障が出始めてきたが、日本軍の攻撃はさらに激しさを増してきたのであった。
 行政や社会秩序が崩壊して、ラングーンは断末魔の様相を呈してきたのもこの頃のことである。略奪と放火がはばをきかしていたし、刑務所、精神病院、動物園が解放されたために、街路の到るところに囚人、精神病患者、動物が徘徊するところとなった。そして3月4日までにラングーンはまったく死の街と化したのである。

『シエンノートとフライング・タイガース ― 日本軍を震撼させた男』P139


 これをOCS上でルール化するならば、例えばこういう感じでしょうか?

 英連邦軍の補給フェイズに、日本軍の攻撃可能ユニットがラングーンの12ヘクス以内にいるならば、英連邦軍プレイヤーはダイスを2個振ります。出た目が、ラングーンに最も近い日本軍の攻撃可能ユニットまでのヘクス数以上であるならば、ラングーンのヘクスに置かれている英連邦軍のSPから、1SPが失われます。


 こうすれば、プレイヤーによるラングーン死守は、まったく不可能ではないものの、かなり苦しいということになりそうな気がします。



 あと、↓の記述からすると……。

 両軍とも、ラングーンがビルマの鍵であることを理解していた。最大の都市であり、唯一の主要港であり、産業の中心地であり、多くの熟練労働者の居住地であり、軍需物資の巨大な集積地であり、優れた飛行場群に近接しており、こことその海へのアプローチを押さえ、十分な増援があれば、ビルマを支配できることは明らかだった。英連邦軍の戦略は、できるだけ長くラングーンを保持することであったが、しかしラングーンを包囲されてもいけなかった。日本軍の作戦は、軽装備の部隊を最大限の速度でラングーン周辺に展開し、【ラングーン港から陸揚げされる増援によって】英連邦軍が十分に増強され阻止されてしまうようになるか、中国軍が集結して北翼が攻撃され始めてしまう前にラングーンを占領することであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P346


 日本軍が例えばラングーンの東方にだけ部隊を集中させて、西側が英連邦軍側のものであった場合、そこから増援と補給を送り続けるということは不可能ではないということになろうと思います。

 また、OCSのシリーズルールでは港湾ヘクスに敵のZOCが及んでいると、そこに海上輸送ができなくなる(ただし一般補給は引ける)のですが、この1942年のラングーンに関して言えば、ここをそのままにしておくか、特別ルールで緩和するかは微妙なところであるように思えます。




 あと、「ラングーンのパニック」は、まず、

1.日本軍の戦闘機がラングーン周辺の航空優勢をある程度握っている。

2.日本軍の爆撃機がラングーン等に(戦意を喪失させるための)戦略爆撃をある程度行っている。

 ということが前提条件になるだろうとは思います。

 とすると、以前に案として挙げていた「日本軍の戦略爆撃用の航空ユニットは省略する(つまり、前線の戦術爆撃用の爆撃機ユニットだけを用意する)」の場合、日本軍の戦闘機ユニットはラングーン周辺の航空優勢を取る必要はないでしょうから、おかしなことになってしまうかもですね……。

 そこらへん考えると、史実で存在していた爆撃機はすべてユニット化した上で、特別ルールとして「戦意を喪失させるための戦略爆撃」をルール化して、それで日本軍としてはその戦略爆撃もやらなきゃいけないし、戦術爆撃にも割り振らなきゃいけないし……という風にした方がいいかも?

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマの都市、町、村などの大きさについて

 『シエンノートとフライング・タイガース』を読んでましたら、1942年のビルマ戦では割と名前を見るトングー(Toungoo)の町に関する記述がありました。





 トーングーは鉄道線路沿いの、シッタン河に接したみすぼらしいビルマの町で、トタン屋根の中国人、インド人経営の商店が軒を並べていた。舗装していない道路が町の真ん中を走っている以外は、ジャングルとチークの林だけであった。温度は日中で38度以上に達し、湿度もまた度はずれていた。ある人の表現を借りると、お湯を入れた金魚鉢の中での生活ということになる。イギリス軍はそこにチーク材でしっかりした兵舎を建てていたが、網戸がついていなかったので、夜になると室内は昆虫学者のパラダイスと化する有様であった。
『シエンノートとフライング・タイガース ― 日本軍を震撼させた男』P116





 ↓『A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain: 1941–45』のMap2から作った地図で、今回のブログ記事の関係地名を赤く囲ったもの。

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 個人的には、トングーの町の規模についてはもっと大きいものを想像していたのでびっくりしました。ただし、ビルマの町については小さなものばかりだったという↓のような記述も見つけていました。

 大きな都市がないこともビルマの特徴である。大都市の名に値するのは、ラングーンとマンダレーだけだ。大半は小さな町と集落から成り立っている。たくさんの地名が1942~45年の戦争で有名になったが、訪ねてみると、数軒の木造家屋と小店とパゴダがあるだけのことが多い。
『ビルマ 遠い戦場 上』P12



 大きさとしては、ラングーンが一番で、マンダレーが二番目、そしてモールメンが三番目であったようです。モールメンは、当時10万近くの人口があったそうです。

 モールメンはOCS『South Burma』(仮)でまず最初に攻略対象になる場所で、私は最初「村(Village)」にしていましたが、今は「小都市(Minor City)」にしています。


 ↓OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか (2023/03/21)で挙げてました現状のマップ。

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 ラングーンは1ヘクスに収まりそうであったので一応1ヘクスにしているのですが、OCS『Burma II』で二番目の都市であったマンダレーを見ると、2ヘクスに及んでいます。ただし、マンダレーはヘクスの一部の小都市×2なので、ラングーンはヘクスいっぱいの小都市にすれば、おかしくはない……?

 OCS『Burma II』には「大都市(Major City)」は存在せず、「小都市」までです(色が他のOCSゲームでの大都市っぽくてややこしいです)が、小都市は結構たくさんあります。前掲地図でマンダレー以北の赤い□で囲んだ地名がそうで、他にメイミョー(マンダレーのすぐ東)なんかも小都市です。


unit8607.jpg





 それらが小都市と言えるほどのものだったのか気になったので、オスプレイのキャンペーンシリーズの『IMPHAL 1944』と『Meiktila 1945』の地図を見てみました。





 すると、インパールの町は確かに都市っぽく描かれており、あとメイクティーラも、規模は小さいですが都市っぽく描かれていました。

 そうすると、OCS『Burma II』で小都市になっている場所はまあ小都市で妥当なのかという感じがしましたし、OCS『South Burma』(仮)においてもいくらかの場所は小都市にしても良いのでしょう。ただ、可能ならそれぞれの場所がどれくらいの規模だったのかの記述が見つかればなぁと思います。

 トングーは、現状では「村」が妥当な感じがしますね(^_^;


<2023/05/15追記>

 また、ミト王子さんからコメントを頂きました! 忘れないようにという意味も込めて、こちらに転記しておきます。

 こんにちは。ビルマの都市について朝日新聞時局新輯「ビルマ」より情報です。
 ビルマではちょうど1941年に人口調査があったとのことでその数字に基づいているようです。

ラングーン 人口50万人 過半がインド人
マンダレー 人口18万人
モールメイン 人口6万人 サルウィン河河口の港町
プローム 人口3万人余 米穀の集散地

その他、人口に言及しない都市?町?としてミチナ、ラシオ、メーミヨー、ペグ、マルタバン、イエ、タボイ(錫の産地)、マグイ(錫の産地)、ビクトリヤ・ポイント(飛行場のある軍事上の要衝)、アキャブ(天然の良港であるが背後の山脈のため物産のよるべきものがなく輸出港としての価値を減じる)、バセーン(ビルマ第二の港で米の集散地で精米工場が並ぶ)

が触れられています。産業の項目ではさらにいくつかの地名が出ていますが規模の記述はありません。

 但し「大東亜共栄圏の地理」昭和18年によると、ラングーンは人口40万、マンダレーは15万としています。

 おおー、またありがとうございます!

 ラングーンとマンダレーの差、ものすごくデカいですね(^_^; そうすると、ラングーンの都市ヘクスは1個だけでは全然ダメな気がしてきました。周辺の3ヘクスくらいには都市ヘクスが広がっていた方が良さそうですね……。

 モールメンは、人口5万という資料も見たことがあったのですが、6万ということであれば、双方の資料ともまあ、外してはいない……という感じかなと思いました。

 プロームが割と人口あったというのも貴重な情報です。大変助かります!(^^)



<追記ここまで>

<2023/06/14追記>

 日本軍がビルマへの侵攻を開始する始点となったタイ側の村メソート(Mae Sot)について、具体的な戸数が書かれている資料があったので追記します。

 戸数は130戸あまり、埃が町を埋めていて、なにかしら寂しそうな寒村である。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P258


 現状Mae Sotは集落(Point of Interesting)としているのですが、130戸もあれば村(Village)という気も……?


 さらに、パアン(Pa-an)の町の様子も書かれていました。

 【……】密林をぬけ、アスファルト道路沿いにパアン市街に入った。市街は空爆や、砲撃にくすぶっていたし、住民のいる様子はなかった。橋を渡って行くと町の中央に精米所があり、野戦倉庫部員がさかんに米を搗いていた。下駄屋にはサンダルがいっぱい積まれてあったし、薬房、絵画店などには商品が散乱していた。
『歩兵第二百十四聯隊戦記』P265


 パアンも今まで集落にしてあったのですが、この様子だと村にして良さそうです。しかし、「密林を抜け、アスファルト道路沿いに市街に入った」というのが、なんかイメージしにくいのですが……(^_^;


<追記ここまで>



<2023/06/22追記>

 ロイレム(Loi-lem)についての記述を見つけました。

 シャン高原をさまよい、ロイレム付近に出た。はじめて見るこの町は相当大きい美しい避暑地のような感じだが、住民は全部逃げてしまい、破壊と掠奪のあとのすさまじい廃墟である。
『アーロン収容所』P180


 元々集落にしてあったのですが、村よりもさらに大きい規模かと思い、とりあえず小都市にしてみました。


<追記ここまで>

<2023/06/24追記>

 キョンドー(Kyondo)についての記述を見つけました。

 ここは「アタラン河」支流々辺にして「モールメン」「マルタバン」に進出する唯一の要衝である。中隊はここに宿営せんとす。目抜商店街は殆んど焼かれ、我が家を求めて焼跡を見つめ、天に哭する住民を見て、敵の悪逆無道を恨む。
『歩兵第百四十三聯隊史』P86


 元々集落にしてあったのですが、村にすることにしました。

<追記ここまで>

<2023/07/07追記>

 トングーの町について、かなり詳細な記述を見つけました。

 トングーはラングーンから北に175マイル、シッタン川の広い谷間に位置していた。そのメインストリートは昼夜を問わずラシオ行きのトラックがゴトゴトと音を立て、鉄道は同じ目的地へ向かう貨物を轟音とともに走らせ、そこからビルマ街道を越えて昆明へと向かった。町は少し西にあり、その狭く曲がりくねった通りには、酒屋やホテルと称して実際は売春宿だった施設を含む、竹材の店や小屋が近接して並んでいた。最も注目すべき建物は赤レンガ造りの広大な鉄道駅で、その中には町唯一のレストランがあった。主な産物はチーク材で、若いイギリス人 "ジャングル・ワラー "の監督の下、象とクーリーの一団によって熱帯雨林から運び出されていた。人口は2万3千人で、インド人数千人、原住民のカレン族がいくらか、それに西洋人数百人が含まれていた。

 トングーの社会は、郊外に住む12世帯のイギリス人が支配していた。彼らは陸軍の将校達であり(トングーには最近編成されたビルマ師団の司令部があった)、マクレガー・チーク社のマネージャーでもあった。勤務時間外にはジムカーナ・クラブに集まり、ゴルフ、テニス、ビリヤード、ウィスキー・ソーダを楽しんだ。黒ネクタイが義務づけられ、その後、女性たちは紳士たちに混じって葉巻を吸い、世界情勢を楽観的に語り合った。日曜日には、墓地にある墓石の数が教壇にいる信者数を上回っていた英国国教会の聖ルカ教会で再び会した。東南アジアはヨーロッパ人にとって優しい土地ではなかった。
『Flying Tigers: Claire Chennault and his American Volunteers, 1941-1942』P57,8


 人口2万3千人だと、小都市にして良いのかもですね……。

<追記ここまで>

OCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオの、北朝鮮軍側の指針案

 今ミドルアース大阪で、超初心者のかわかみさんとOCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオをやってみていってます。


 OCS初心者のしばたさんとかわかみさんはご近所だそうで、お二人でこのシナリオをやってみようとしてみたものの、まずは最初のターンに北朝鮮軍側が何をどうすればいいか分からなかった……という話を最初に聞きました。

 そこで、とりあえずの案を書いてみました。もちろん、これは一つの案に過ぎず、他の色んな案があり得ると思います。OCSは選択肢がものすごく広いゲームシステムですし。



 ↓OCS『KOREA』の5.3 洛東江攻防戦シナリオの初期配置。

unit8610.jpg



 まず、基本方針としては↓のような感じが良いのではないでしょうか。

1.削れる国連軍のユニットを削っていき、自軍はほぼ損害を受けないような戦闘比のみで攻撃するということを基本とする。ダイス次第の低比率攻撃はせず、また土地的な進撃も狙わない(というか、そんなことをできる強力な部隊群がない)。

2.基本的に、砲撃でDGにできた場所を攻撃する。DGにできなかった場合(よほど優位でなければ)攻撃しない。これによってSPを節約し、自軍の損害も最小化し、長期的に攻勢をかけ続けられる余力を確保する。

3.できるなら、(戦闘補給が必要ない)小包囲で敵ユニットを削る。

4.敵の強力なスタックは砲撃でDGにして、戦闘力や移動力を減殺しておく。

5.国連軍側は、北朝鮮軍後方の司令部などを踏もうと思えばそれができるだけの移動力の大きさ、戦力、補給の融通は持っているので、後方の守備は手を抜くべきではない。


 私自身は、このシナリオは北朝鮮軍にとっても国連軍にとっても「我慢が重要」であると思っています。ただもちろん、ダイス目でだいぶ変わりますし、派手なことが好きな方は多いですから、派手なことをやりあうというのも面白いでしょう。勝利条件のバランスとしては、史実で国連軍が確保していた場所を国連軍が確保していれば国連軍側が勝利しますし、北朝鮮軍が勝利するのは難しくなっているとは思います。



 また、北朝鮮軍はセットアップで6SPと2x輸送ワゴンを自由配置できることになっており、この配置も非常に悩ましいのですが、基本的には「(抽象的に)どこにでもある」ということにしておき、消費していくのが良いと思います。そのうちに「作戦上ここに置いておきたい」という案が思いつくようになったら、その時にそこに置けば良いでしょう。もしこのシナリオをガチ対戦することになったら、その時はちゃんと全部セットアップするようにしたらいいと思います。





 それ以外の、「こうするのが良いのではないか」という案を複数挙げておきます。


 鉄道輸送力が2RE(8T)分あり、最初の方のターン中は前線にSPが豊富でSPを運ぶ必要はないので、ユニットを鉄道輸送するとよいでしょう。鉄道輸送は移動モードでしか行えないことに注意して下さい。
 一つの案として、北西端の平沢(ピョンテク)(C33.35)にいる第9歩兵師団を、複線だけを通して金泉(キムチョン)(C44.24:Kumch'on)に運ぶとします。第9歩兵師団は3RE(12T分)ですが、OCS4.7b【移動モードの移動力が1~6の徒歩タイプのユニットは、輸送時のRE換算が半分になる】と、OCS13.3a【積載物が完全に複線だけを通る場合には、鉄道輸送コストが半分になる】により、半分の半分、つまり0.75RE(3T)分しか消費しません。
 西岸の群山(クンサン)(C28.22)にいる4-3-3分遣連隊は、南岸の順天(スンチョン)(C37.10)に送るのが良いのではないでしょうか(ただし群山(クンサン)は国連軍に占領されると補給源になり、大変なことになりますから、長期的には守備隊を置くべきだと思いますが)。1REがOCS4.7bによって半分になり、0.5RE(2T)を消費します。
 この2つを行った場合計1.25RE(5T)を消費しますが、依然として0.75RE(3T)分残っています。この残りの鉄道輸送力でこのターンに天安(チョナン)(C33.33)に登場させたSPを金泉(キムチョン)まで運ぶとすると、すべて複線なので半分で良いため、6Tを運べます。


 国連軍の初期配置のユニットの内、最も北西にいる韓国軍ユニット2つ(第6歩兵師団第2連隊と第1歩兵師団第15連隊)は、攻撃せずに補給源との連絡線を断ってしまうという方法があり得ます(ただしこの方法は気を付けなければならないことがかなり多いのに比して、国連軍側のダイス目によっては全然うまくいかないので、初心者の方はまったくやめておいた方がいいかもしれません)
 その際気を付けると良いこととして、以下のことがあると思います。
・韓国軍ユニットに隣接するヘクスにいると、韓国軍ユニットは戦闘モード(3移動力)でオーバーランが可能になるので、1ヘクス以上離れておくこと。
・平地は韓国軍のオーバーランが成功しやすくなるので、やや強めのユニットを置いておくこと。
・包囲環の中に閉じ込める際に、それらの韓国軍ユニットが5移動力で国連軍の司令部から一般補給が引ける場所には行けないように、東と南方向を完全に包囲しなければなりません。また、戦略移動モードの10移動力でも行けないようにすべきです。
 ダブルターンを取れた場合、より多くのユニットを小包囲できる可能性が生じますので、もし可能なら狙っても良いのではないでしょうか。ただし、自軍司令部のいるヘクスがオーバーランの対象になっても耐えられるだけの戦力をそのヘクスに置いておくべきです。



 北東端の盈徳(ヨンドク)(C59.28:Yongdok)方面では、盈徳(ヨンドク)の南西にいる4-3-3分遣連隊を壊滅(あるいは退却)させることで、盈徳(ヨンドク)にいる残り2ステップの歩兵師団を包囲できる可能性があります。
 この作戦は戦闘補給なしで敵2ステップを削れる可能性があるという点で魅力的ではあるのですが、最初の攻撃自体が失敗する可能性も結構あるのと、仮に包囲できても包囲環の中からオーバーランされたりして結局包囲環が破れてしまう可能性も高いものがありました。
 そこで現在、私はこの方面で包囲を狙うのはやめにして、その西の方のC54.27にいる3-2-3分遣連隊を確実に壊滅させるという方策が良いのではないかという案に傾いています(私はダイス目が悪いので、より確実な方を狙うということもあります)。この場合、その南方に固まっている国連軍ユニット群によって北朝鮮軍側の後方が狙われるのも阻めるので、その意味でも良さそうに思います。



 北朝鮮軍は馬山(マサン)(C49.13:Masan)を占領しなければなりませんが、もう一つの勝利条件都市である大邱(テグ)(C50.21:Taegu)を占領するよりも難しいだろうと思います。それどころかこの方面で反攻を受けて早期に、馬山(マサン)の占領どころではなくなる可能性もあると思います。
 それを防ぐためには、この方面に初期から増援を送ること、また、C48.13にいるアメリカ軍の5-3-3歩兵連隊は最初の国連軍ターンにアップグレードされてしまうので、それまでにできれば壊滅させることが重要なのではないでしょうか。
 また、馬山(マサン)の港湾は北朝鮮軍ユニットのZOCを及ぼしても一般補給源のまま(海上輸送はできなくなります)であり、もし完全包囲したとしてもOCS19.0aのプレイノートにより一般補給源であり続けますが、砲兵で対施設砲爆撃して港湾に1ヒットを与えれば、一般補給源ではなります(司令部で修復しない限り)。状況によっては狙ってもいいでしょう。



 北朝鮮軍は、橋(小河川を渡る二級道路)を確保することに関して、優先順位を高めにした方がいいでしょう。橋の両岸を占領できるなら、いくらか損害を食らっても構わないと思います。橋を確保すれば進撃路が開けますし、一般補給を通すのも楽になります。特に、大邱(テグ)の北西の橋と、永川(ヨンチョン)(54.22:Y'ongch'on)を早期に押さえられるかどうかはかなり重要ではないかと思いました。この永川(ヨンチョン)の初期配置は、ルールブックでは砲兵ユニットも置かれることになっていますが、これはミスで置かれないべきであるようなので、アクションレーティングが0ですから狙い目です。




 もし国連軍が、北朝鮮軍後方の司令部などを狙って攻勢(あるいは小戦力での突進)をかけてきた場合は、北朝鮮軍によって勝利条件ヘクスを狙うのをいったん放棄してでも、向かってきた敵部隊を全力で削るために方向転換するのが有効だと思われました。というのは、敵は地形効果の薄い場所に出てきてかつ補給線も長くなるのに対し、北朝鮮軍にとっては補給線が短くなって後方守備隊をも動員でき、そして敵戦力を削ることのできる絶好の機会であるからです。ちなみに、北朝鮮軍の2つの司令部のうちどちらか1つが踏まれるだけなら、それほどダメージにはならず、依然として全軍に一般補給を通し続けるのは難しくありません。




 北朝鮮軍が第2ターンのイニシアティブを取った場合(北朝鮮軍はずっと、イニシアティブのダイス目に+2できるので可能性は高いです)、悪天候(ノーフライト)であるならば第1ターン後攻・第2ターン先攻のダブルターンを取ればよいと思いますが、もし晴れ(フライト)であるならば、先攻を国連軍に取らせた方が良いと思いました。というのは、

第1ターン 悪天候(ノーフライト) 後攻:北朝鮮軍

 で始まるわけですが、この時点で国連軍の超強力な空軍はすべて活動状態です。この状態でもし、

第2ターン 晴れ(フライト) 先攻:北朝鮮軍

 とダブルターンを選択した場合、この先攻プレイヤーターン中、国連軍の空軍は「全部使わねば損」であり、全空軍力で北朝鮮軍の攻勢が邪魔されることになります。そして続けて、

第2ターン 晴れ(フライト) 後攻:国連軍

 のプレイヤーターンですべての空軍が活動状態にされ、ほぼ全力で空軍力が使用されるでしょう(空軍力をいくつか残しておくとしたら、第3ターンの先攻が北朝鮮軍となった場合のためにですが、先攻国連軍となる可能性もありますから、ほぼ全部使った方が国連軍側は得でしょう)。

 ところが、「晴れたらダブルターンは諦めて国連軍に先攻を取らせる」場合、

第2ターン 晴れ(フライト) 先攻:国連軍 → 後攻:北朝鮮軍

 という流れが確定しますから、もし国連軍側が自軍プレイヤーターン中に全力で空軍力を使用すれば、続く後攻北朝鮮軍プレイヤーターン中には空軍での邪魔がまったくできなくなります。逆に、邪魔するために国連軍プレイヤーが空軍力を残しておくことを選択すれば、自軍プレイヤーターン中には空軍力の使用を抑えなければなりません。

 北朝鮮軍側にとっての最大の敵は「暴威とも言えるほどの国連軍の空軍力」であり、天候はダイス目次第なのでしょうがないのですが、イニシアティブを取った場合にはこの方法で敵の空軍力の使用をなんと半分程度にまで抑えさせることができるわけです。

 「悪天候ターン」→「晴れターンでイニシアティブ獲得」となるたびにこの方法が使用できますから、基本的には(ダブルターンよりも)このやり方をした方がいいのではないかと思いました。



 あと、「対空軍力」という話で言えば、北朝鮮軍プレイヤーは「自軍の本当の主力」のスタックを高くするべきではありません。というのは、高いスタックは国連軍の砲爆撃の対象に選ばれやすいからです。むしろ、「本当は弱い高いスタック(ハイスタック)」を作ってそれがあたかも敵の重要な地点を狙っているように見せかけて、「自軍の本当の主力」は低いスタックにしておいた方がいいでしょう。
 基本的には、北朝鮮軍は低いスタックを広く展開させるのが基本だと思います。例外としては↑のような「囮」の場合と、「敵に狙われることが明らかで地形効果が少ない場合」、つまり司令部のいるスタックや、あるいは平地に自軍部隊を置く場合かと。





『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍の上級指揮官達の評価

 『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』を続けて読んでましたら、次の項目が「GERMAN RATINGS OF ITALIAN OFFICERS」であり、ドイツ軍側からのイタリア軍の上級指揮官達の評価が載っていました。

 私は個人的に、おおむね師団長以上くらいの指揮官の能力やキャラクター像に関して非常に興味がありまして、国籍に関係なくそこらへん好きですが、イタリア軍のそういう情報は希少で、「キター!」となりました(^^)


 とりあえずまず、東部戦線のイタリア軍の編成ですが、当初の「イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR)」(司令官はメッセ)が1942年5月に拡充されて「イタリア第8軍(「ロシア戦線イタリア軍(ARMIR)」とも)」(司令官はガリボルティ)となり、その麾下に3個軍団を持つようになります。しかし、1942年の12月中旬からの小土星作戦、1943年1月中旬からのオストロゴジスク=ロッソシ作戦で大打撃を受け、1943年3月に残余の兵士達はイタリアへ帰還することになりました。


 細かい部隊を除いて師団クラス以上だけ記すと、↓のような戦闘序列です。

第35軍団(元のCSIR)
 アオスタ侯アメデオ皇太子快速師団
 パスビオ(自動車化可能)歩兵師団
 トリノ(自動車化可能)歩兵師団

第2軍団
 スフォルツェスカ歩兵師団
 ラヴェンナ歩兵師団
 コッセリア歩兵師団

アルピーニ軍団
 トリデンティーナ山岳歩兵師団
 ジュリア山岳歩兵師団
 クネーンゼ山岳歩兵師団
 ヴィチェンツァ守備歩兵師団


 ↓OCS『Case Blue』の上記師団や司令部ユニット。

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 まずは、第35軍団の司令官であったメッセと、その後任のツィンガレスについてです。


Giovanni MesseGenerale Francesco Zingales

 ↑左がメッセ、右がツィンガレス(Wikipediaから)


 メッセは、東部戦線のイタリア軍将兵の中で最も有能であったと評されている。彼は、理解が速く、明確な命令を下し、自分が責任を負うことや、任務に適さないと思われる将校を追い出すことを避けない人物として描かれている。それ故、ある報告書はこう結論付けた。 「ドイツ軍の軍服を着ていれば、誰もが彼をドイツ軍の将軍と信じただろう。」 彼がイタリアに呼び戻された【1942年11月1日?】後、ドイツ軍の連絡将校は、彼の強い性格と統率力を部隊の者達が恋しがっていると指摘した(注205:付け加えて言えば、彼の参謀長や他の多くの経験豊富な将校も部隊を去ってしまっていたのである)。メッセの後任のフランチェスコ・ツィンガレスは野心家であったが「軍事能力は平均的」で、あまり親独的ではない人物であると見られていた。実際、1942年3月のイタリア軍の昇格審査会は彼を昇格させることに全会一致で反対票を投じていたのであり、ドイツ側も同様の結論に達したというわけである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220


 メッセ将軍については以前、↓なども書いてました。

東部戦線におけるイタリア軍のメッセ将軍 (2017/05/22)
イタリア軍のメッセ将軍は、ドイツ軍に激怒して騎士鉄十字章を投げ捨てた?(が、その後も佩用し続けた) (2020/10/09)


 メッセ将軍は東部戦線からイタリアに帰った後、北アフリカ戦線で指揮し、最終的にはロンメルの後任(軍司令官)となりました。OCS『Tunisia II』で言うと、マレトラインの戦い以後の、リビア方面からの部隊を率いていたことになります。

 またツィンガレスの方は、最初に東部戦線に向かうイタリア軍の司令官となるはずだったところが病気になってその職をメッセに譲り、一時北アフリカで第20軍団を指揮して「イタリアのグデーリアン」と呼ばれたらしい(『砂漠のキツネ』P132)ですが、その後東部戦線でのメッセの後任となり、イタリアに帰って今度はシチリア島の戦いでイタリア第12軍団の司令官として戦ったそうです。今までゲームをプレイしていた時に、割と軍団長としてゲーム上にいたことになりますね……(^_^;





 次に、イタリア第8軍の司令官であったガリボルディと、その参謀長ブルーノ・マラグーティについてです。ガリボルディは北アフリカ戦線で初期にイタリア軍側の司令官を務めており、その頃のことを↓で書いてました。

イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍 (2017/05/27)
イタリア軍のガリボルディ将軍の解任の理由、その2 (2017/07/08)

ItaloGariboldiGen. Bruno Malaguti

 ↑左がガリボルディ、右がブルーノ・マラグーティ(Wikipediaから)

 ガリボルディは北アフリカ戦線で非常に非協力的なパートナーであったという評判を得ており、それはロシアでも追認されたが、以前の経験がドイツ軍の見方に影響を与えた可能性もある。1942年12月20日にカヴァッレーロは、イタリア軍内でさえも【小土星作戦による?】敗北をガリボルディのせいにする傾向があると指摘している。イタリア軍の撤退後、マラス将軍は1943年3月に戦線との間を訪問した。ドイツ軍のフォン・マッセンバッハ大尉が彼に同行しており、後にイタリア軍上級将校の印象を書き留めた。彼はガリボルディを「年老いた、白髪【原文はwhite-hearedだが、hairedだと理解して】の紳士で、非常に寡黙で、活気が全くなかった。完全に無気力で、諦めたような印象だった」と評している。しかし、彼の参謀長であるブルーノ・マラグーティは、非常に肯定的に広く評価されており、それは撤退後でさえも同じだった。マッセンバッハは彼を、誠実かつ非常に有能(重要な命令はすべて自分で起草する)であり、常に情報を集め意見を聞く、軍の人的管理の中心であったと評した。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P220,1







 次に第2軍団関係の指揮官ですが、Wikipedia上の項目は軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリと最後に出てくるミケーレ・ヴァッカロのみのようで、Wikipedia上では写真は全然見つかりませんでした。

 第2軍団の司令官や幕僚は、あまり好意的な評価を受けなかった。軍団長のジョヴァンニ・ザンギエリは、悲観的な王政主義者で、無能な軍人だと思われていた。フォン・ティッペルスキルヒ【ドイツ軍側の連絡将校】は、彼を「まったく役に立たない、価値のない人物」とまで評した。ガリボルディも、ザンギエリの命令は分かりにく過ぎると考え、実際に実行されたかどうかを確認しなかったと言われている。ザンギエリはドイツ国防軍に対して協力する意志がなく、それは彼の参謀長であったウーゴ・アルミーチ大佐も同様であった。アルミーチはドイツ国防軍に対して「非常にイライラして」おり、ほとんど「敵対的」な態度をとっていると描かれている。第2軍団麾下の師団長達はより良い評価を受けていた。ラヴェンナ歩兵師団では、師団長のエドアルド・ネビアは非常に敏腕であると報告されており、彼の参謀長(後には師団長となった)であるフランチェスコ・デュポンは、このように評された。「活発、有能、意欲的な性格。優秀で思慮深い、まとめ役となる指揮官であり、ロシアでの他のイタリア軍師団長に比しても優秀であり、また彼はドイツ軍に特に積極的に協力する姿勢を示した」。非常に批判的なティッペルスキルヒでさえも、イタリア軍の撤退後(!)に他のドイツ軍将校達との話の中で、デュポンを「東部戦線で最高のイタリア軍師団長」と呼び、彼が兵士達の面倒をよく見たことを強調した。【……】

 スフォルツェスカ歩兵師団の師団長であったカルロ・ペッレグリーニ将軍は、軍人および植民地での将校として経験豊富であり、広く尊敬され、部下達にとって必要な存在であると賞賛された。彼の参謀長であるジョバンニ・フィオーレは、ファシスト四天王の一人であるチェーザレ・マリア・デ・ヴェッキの義理の息子であったが、あまり良い印象を持たれていなかった。ドイツ軍は、(砲兵出身であった)彼の歩兵部隊の扱いにある種の欠陥があることに気づいていたが、危機的状況において彼が堅固であったことを指摘している。【スフォルツェスカ歩兵師団の暫定指揮を執った】ミケーレ・ヴァッカロ将軍は、怠惰で肥満していたが、それでも勇敢な軍人であり巧みな戦術家であると見られていた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P221~3






 最後に、アルピーニ軍団関係の指揮官です。最後のマリオ・カルローニは快速師団隷下の連隊長だと思いますが、アルピーニ軍団と共に撤退戦を行ったのでここに書かれているのでしょうか。

Nasci GabrieleReverberi don gnocchi

 ↑左がアルピーニ軍団長のナッシ、右がレヴェルベリ(Wikipeidaから)


unit8611.jpgMario Carloni

 ↑左がバッティスティ、右がカルローニ(Wikipediaから)


 アルピーニ軍団の指揮官達は、評価の平均値がさらに高かった。【アルピーニ軍団長の】ナッシ将軍は、極めて有能で、兵士達とも身近に接し、1月の作戦【1943年1月13日からのソ連軍のオストロゴジスク=ロッソシ作戦】時の戦いは見事であったと評価された。レヴェルベリ将軍(トリデンティーナ歩兵師団長)は優秀な軍人として賞賛され、クネーンゼ歩兵師団長であるエミーリオ・バッティスティ(1889-1971)は模範的な指揮官であると評価された。彼は退却に際して騎乗して軍の先頭に立ち、その落ち着いた統率によって兵士達に自信を広めたのである。これは、兵士達がその将校達を全面的に信頼していたという主張を裏付けるものであろう。ナッシ、レヴェルベリ、バッティスティは、飛行機で脱出するのを拒んで兵士達と共に前線にとどまり、争奪戦の舞台となった村での反撃の指揮を自ら執った。マリオ・カルローニ大佐(当時)は、勇敢で優れた指揮官であると繰り返し言及されており、ドイツ軍に非常に協力的で、絶望的な状況においてさえ練達した指揮振りを見せた。カルローニが指揮するベルサリエリ第6連隊(快速師団隷下)は12月中旬から後衛を形成し、その後多くのアルピーニ部隊と共に戦った。撤退は混乱し、多大な損失を受けていたにもかかわらず、カルローニの部下達はドイツ軍部隊と共にまとまった部隊として戦い続け、秩序を維持したままゴーメリ(Gomel)まで辿り着いたのである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P223,4


 ナッシ将軍については、同書の少し前でも言及されていましたので、それも。

 1月の【ソ連軍の】攻勢前、アルピーニの防御施設は良好か非常に良好とみなされ、ナッシ中将は、 前線視察、戦術的なスキル、ドイツ軍との密接な協力で高く評価されていた。ドイツ軍の事後報告書には、1日12~15時間の行軍、300キロメートルにも及ぶだだっ広い地域、ほとんど食料も避難所もない退却中の苦しみが生き生きと描かれている。ナッシは、部下達を安全な地域に下げようとする行動と、ニコライエフカの戦いでのリーダーシップが評価された。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P216



 ナッシやレヴェルベリについては、以前↓で書いてました。

OCS『Case Blue』で見る、イタリア軍アルピーニ軍団トリデンティーナ師団の包囲環突破 (2019/08/30)
『雪の中の軍曹』で見るイタリア軍アルピーニ軍団の将軍3人+ドイツ軍の横取り行為について(付:OCS『Case Blue』) (2019/09/18)





 色々、優秀な指揮官がいたことが分かりますが、この本もまた、世界中で有名であるらしい「ヘタリア神話」に対抗して書かれた一冊であることもあり、最後にこのように書かれていました(なお、私は別に、『Axis Power ヘタリア』という作品等が悪いとは思ってません)。

 要するに、ドイツ軍の事後報告書やその他の多方面の評価書は、ガリボルディと第2軍団司令部を否定的に捉えているだけであり、上級指揮官達に関する他のほとんどの評価は肯定的であった。それにもかかわらず、イタリア軍の将軍達は堕落して、想像力に欠け、現実(および前線)から遊離していたという風刺的な見方が、いまだに神話的に語り継がれている。多くの場合、イタリア軍が軍事的に役に立たないピエロであったという「面白い」描写が、出典をきちんと検討することもなく、容易に額面通りに受け取られているのである。したがって、イタリア軍が軍事的に無能であったという主張は、それがドイツ軍側によるものであれ、イタリア人の回顧録によるものであれ、あるいは真面目な学者によるものであれ、再考されるべきである。【……】
 連絡将校達の事後報告書にあるように、イタリア軍の大隊長、連隊長、師団長達に対するドイツ軍側の見方は非常に好意的であった。一方で、イタリア軍の下士官や下級将校達はあまり好意的に評価されていなかった。実際、経験豊富なドイツ軍将校は【イタリア軍の】退却時の混乱した行動を1940年のフランス軍になぞらえており、退却時に規律を破る下士官や下級将校の多さをしきりに訴えていた。では、戦訓を学ばず、兵士達を失望させていたのは、これらの者達ではなかったのか。【……】
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P224,5


 この本によると、イタリア軍の師団長クラスは優れた人物が多く、(私の印象では)軍団長は半々くらいで、しかし下士官クラスの質が悪かった……ということであるようです。なぜそうだったのか、ということに興味が湧くところですが、そのことに関する説明はまだ見つけていません。

『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943』から、東部戦線のイタリア軍師団の評価

 以前半分くらいまで読んでいた『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』ですけども、体調が微妙くらいの時にDeepL翻訳で読み進めていこうと考えました。





 読んでいると、P209からP218までの「GERMAN RATINGS OF ITALIAN DIVISIONS」という項でイタリア軍師団に関するドイツ軍側からの評価がいくらか載っていまして、そこらへん個人的に興味あるのでブログ記事としてまとめておこうと。



 ↓OCS『Case Blue』のイタリア軍師団ユニット。上段は「アオスタ候アメデオ皇太子快速師団(略して快速師団と呼ばれます)」、下段は歩兵師団で、山岳歩兵のマーク(▲)があるのはアルピーニ軍団所属です。

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 12月以前であってもCSIR【イタリア・ロシア戦線派遣軍団】は賞賛と批判の両方を受けており、無用の長物とは判断されていなかった。1942年夏から第35軍団(旧CSIR)との連絡将校であったフェルマー少佐の報告書は、 ドイツ軍の評価におけるこの両義性を示している。彼は、イタリア軍の対戦車戦闘への未熟さ、武器の整備不良、コミュニケーションの悪さ、軍団将校が150人以上もいて多すぎることなどを批判した。しかし同じ報告書の中で、快速師団は「非常によく統率されている」と賞賛され、1942年7月14日のIvanovkaでの戦場での活躍を近隣のドイツ軍師団が称賛していることが記されている。スフォルツェスカ【Sforzesca】歩兵師団は行軍時の規律が非常に優れていることと戦いへの熱意を賞賛されたが、パスビオ【Pasubio】歩兵師団はどちらにも欠けていたようである。全体としてこの軍団はその価値を示し、攻撃的任務に適しているとみなされていたし、スターリングラードへの大攻勢に参加できなかったイタリア軍側の失望をドイツ軍側が書き留めてもいた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P209

 ラヴェンナ【Ravenna】歩兵師団はマモン橋頭堡の近くで(手痛い損害を受けたにもかかわらず)不動であったと褒め称えられた。混乱した退却の間、幕僚達は包囲された部隊に連絡を取ろうとし、ドイツ軍はフランチェスコ・デュポン将軍とその将校達がタリーで精力的に防御を確立しようとしたことを称えた。こうして、報告書はこう結論づけた。「ラヴェンナ師団は、特に(ドイツ軍の)第298歩兵師団がよく主張するように初日に「逃げ出した」のではなく、1942年12月11日から17日まで昼夜を問わず戦ったことが明らかである。ドイツ軍の師団ならば、より良い資材と装備によって数日長く持ちこたえたかもしれないが、結局同様に撤退せざるを得なかっただろう」。ドイツ軍側の報告書が、ラヴェンナ歩兵師団があまりにも簡単に【ソ連軍に】道を譲ったことを非難するのではなく、直面していた資材の不足と赤軍からの絶大な圧力を認識していたことは興味深いことである。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P213

 【……】戦時中のイギリス軍による評価書も、同様の結論に達している。パスビオは「他のイタリア軍師団よりも活躍し、終始良好な成績を維持した」とされ、トリノ【Torino】は「良好な戦歴」、スフォルツェスカとラヴェンナは「平均的な水準」とされた。
 イタリア軍のすべての部隊の中で、コッセリア【Cosseria】歩兵師団はおそらく最も否定的な評価を受けている。報告書は、非常に強力な敵軍だけでなく、(塹壕と適切に連結されていない) 強固な防御地点の不足、自軍の兵器のカバーの少なさ、防寒の不十分さ、対戦車訓練の不足、砲兵用砲弾の少なさ、砲兵と歩兵の協力の悪さによって彼らの戦線が崩壊したと論じた。 従って、この師団の撤退自体が組織的でないと描かれ、兵士は指揮官の個人的勇気や努力にもかかわらず新しい防衛位置を設定できなかったとされる。対照的に、同じドイツ軍連絡将校は、コッセリアよりはるかに優秀な兵士で構成されていると思われるジュリア【Julia】山岳歩兵師団の戦闘力を強調している。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P215,6

 その後、ドイツ軍は2つの覚書を作成し、何が起こったかをまとめた。シュルベック少佐の報告は、主に第2軍団と第35軍団に焦点を当てたものであった。シュルベックは、ラヴェンナの対戦車兵の少なさ、歩兵と指揮官の連携の不十分さを批判したが、パスビオとトリノの12月19日の撤退命令までの激しい抵抗については心から評価している。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P216

 ザラツァー一等補佐官は、戦術的成功の大部分をDVKとドイツ軍の指導力のおかげとした。しかし、快速師団とトリノ、パスビオは撤退命令が出るまで戦線を維持したことを認めた。ひいては、批判的なザラツァーでさえ、「作戦中に生じたあらゆる欠点や欠陥にもかかわらず、イタリア軍がただ逃げただけだという主張を支持するのは、誇張されているだけでなく、明らかに間違っている」と付け加えているのだ。彼は特にトリノ、トリデンティーナ【Tridentina】、ジュリアを認めていた。彼は、イタリア軍師団はルーマニア軍やハンガリー軍のものと同様に、ドイツ軍師団よりも弱いと考えていたが、ドイツ国防軍と合同で(あるいは隣で)配置することでその価値を高めることが可能であると考えていた。イタリア軍が弱い理由として、彼は下士官達の質の悪さ、そして何よりも対戦車砲と対戦車訓練の不足を挙げた(これは、イタリア人の身体的、道徳的特性が劣っているという彼の人種的発言とは別にである)。それでも、ザラツァーは、イタリア軍による戦闘の多くの良い面、将校の英雄主義や兵士の粘り強さを認めるべきだと結論づけた。
『The Italian War on the Eastern Front, 1941-1943: Operations, Myths and Memories』P217,8



 これらの評価を、言及された時毎に記してみると、こんな感じでしょうか。

快速師団 ○○
スフォルツェスカ ○△
パスビオ △◎○○
ラヴェンナ ○△
トリノ ○○○○
コッセリア ×
ジュリア ○○
トリデンティーナ ○

 否定的な意見と肯定的な意見の両方がある師団も結構あります。


 ↑の中で最後の2つ、ジュリアとトリデンティーナ(それからクネーンゼ)は山岳歩兵師団(アルピーニ軍団所属)であり、『Case Blue』でも、その前のバージョンである『Enemy at the Gates』でもアクションレーティングは4でした。(ただし、彼らは山岳戦に特化した編成になっており、山岳地形以外ではアクションレーティングがかなりマイナスされるべきであろうと私は思うということを、イタリア軍のアルピーニ師団の内実:強兵か、山岳戦以外には役に立たないのか?(付:OCS『Case Blue』) (2019/12/22)で書いてました)


 それ以外の歩兵師団は、『Enemy at the Gates』ではすべてアクションレーティング3だったのですが、『Case Blue』ではパスビオとトリノのアクションレーティングが4に上げられています。

 ↓OCS『Enemy at the Gates』のその他の歩兵師団ユニット。

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 『Case Blue 2』という話がないわけではないらしいので、その際にどうなるか……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍航空部隊の任務について

 以前、OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻時の日本陸軍の航空作戦について、その1 (2023/02/27)で、航空部隊の任務についていくらか推察していましたが、戦史叢書の『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』で当時の任務についてどう書かれているか見てみました。





 まず任務の大要としては、↓というものであったようです。

 【……】ビルマ方面の敵航空勢力を撃滅すると共に地上軍の作戦に協力する。また適時、敵背後連絡線を遮断し、戦(政)略上の要地に対する攻撃に任ずる
『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』P11


 とするとまず、航空撃滅戦と、地上軍への戦術爆撃の両方があったということですね。OCSで言えば前者は、

・制空戦闘後、あるいは戦闘機の護衛付きでの航空基地への対施設砲爆撃(航空基地レベルを下げ、敵爆撃機等の破壊を試みる)

 であり、後者は、

・(制空戦闘後、あるいは戦闘機の護衛付きでの)敵陸上ユニットへの爆撃(DGを狙う)

 ということになります。


 「敵背後連絡線を遮断」というのが何か分からないのですが、後方では補給活動などがあったでしょうから、それらを狙った爆撃ということでしょうか……? 今のバージョンのOCS上では、補給活動に対しては爆撃で大したことはできません。航空阻止(移動妨害)で輸送ユニットの移動を遅らせることはできますが、補給の受給と支給に対しては何ら影響はもたらしません。


 「戦(政)略上の要地に対する攻撃」というのも良く分からないのですけども、第二次世界大戦前に一世を風靡したというドゥーエの戦略爆撃理論では、戦略爆撃で敵国政府・国民の士気、戦意を破砕し、それにより早期に終戦に持ち込むことが構想されていたらしいので、それでしょうか。最初に挙げた以前のブログ記事でもそれらしき分析があり、そしてそれは「(ビルマにおいては)成功した」と書かれています。ただし、日本語版Wikipedia「戦略爆撃」によると、連合軍によるドイツ本土や日本本土への戦略爆撃は、士気を挫くという目的においては失敗だったという風に書かれていました。


<2023/06/30追記>

 日本軍による最初のラングーン爆撃で、ラングーンにおける港湾機能などがかなり停滞したことに関する記述を見つけました。

 ラングーンは12月23日と25日に敵機の空襲を受けた。いずれも物的被害は軽微で、爆撃機は非常に大きな損害を被った。しかし、最初の空襲で多数の民間人が犠牲になり、約2000人が死亡した。この死傷者の大半は、身を隠すことを怠った人々であった。その結果、ラングーンから多くの人々が脱出した。特に、労働力の大部分を担っていた下層階級のインド人が逃げ出した。港湾の作業はしばらくの間ほとんど停止状態になり、重要な貨物や軍需品の取り扱いが大幅に遅れた。船は荷揚げできなかった。そのため、他の船の到着も遅れた。避難には、実質的に市場の全住民と、多くの家事使用人や下働きが含まれた。病院では、必要なサービスを維持するのに十分なスタッフを確保することができなかった。

 1月の一時期、状況はいくらか改善されたが、さらなる空爆が差し迫り、ビルマ政府の代表者によれば、日本軍がラングーンを占領するという噂が流れたため、戻ってきた労働者の多くがさらに逃げ出した。日本軍は、ラングーン港が最も効果的な方法で機能することが不可欠であった時期に、ほぼ完全に麻痺させた。12月23日と25日の空襲は、物質的な被害はほとんどもたらさなかったが、遠大な影響を及ぼし、作戦初期の最も重要な出来事であったことは間違いない。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P54








 だとすれば、確かに日本軍による戦略爆撃は効果を持ったと言えると思います。

 OCSでは通常、港湾を目標として対施設砲爆撃(戦略爆撃)をすれば、港湾の機能を減少させていくことができます。ただ、通常のプレイ中では、後にその港湾を占領して自軍が使用するつもりならば、修理しなければならなくなって修理にかかるSPと時間がバカにならないので、占領するつもりがあるのであれば爆撃したくない感があります。

 しかし日本軍はラングーン等への爆撃を「後で自軍が使用できる施設に対する爆撃を慎重に避けながら」行ったという記述もあった(このブログ記事の最初のリンク先参照)ので、施設にダメージを与えずに人的恐慌だけを生み出して港湾能力を下げていったということでいいのかもしれません。だとすると、対施設砲爆撃においては通常のOCSルールに従うけども、いざ日本軍がラングーンを占領したならば、通常の修理のルールよりも回復させやすいというルールにするというのもありかもです。

<追記ここまで>


 OCSでは、例えば『Beyond the Rhine』では、当時行われていたドイツ本土爆撃の側面とそのための航空ユニットは一切カットされています。OCSはあくまで地上戦がメインであり、戦略爆撃は対象ではないからだと思います。余談ながら、ドイツ本土への戦略爆撃の是非について、↓は個人的に大変興味深かったです。
B-17 フライングフォートレスが登場するアニメと、戦略爆撃は是か非か論争(付:OCS『Sicily II』) (2019/03/13)


 OCS『South Burma』(仮)の場合ですが、仮に史実で「戦略爆撃担当の飛行戦隊」と「それ以外担当の飛行戦隊」が厳密に分けられていたならば前者をカットしていいと思うのですが、恐らくそうではないのだろうなぁと思われ……。そうするとOCS的によくあるのは、常に通常の使用ができる航空ユニット群と、時々使えるようになる航空ユニット群(サージ:増派)を分けてそれらを再現するという方法です。ぎゃー、リサーチがめんどくさい!(>_<)

 サージという方法を使わないならば、とりあえず全体として存在していたらしき日本軍の爆撃機の機数から、ドゥーエの戦略爆撃理論に基づいた戦略爆撃を行っていた機数や回数、割合などを推測して、その分を減らしてユニット化するという方向性でしょうかね……。




 『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』のP13,14には、ビルマ侵攻時の航空作戦について非常に簡単に書かれています(詳しく知りたいのですが……)。

 地上戦が始まる前の時期には、航空撃滅戦をしていたと書かれています。が、別の資料を見ていると、戦略爆撃もやっていた印象を持っています。

 1942年1月20日から地上戦が始まりますが、

 1月20日、第15軍は南部ビルマに進撃を開始し、第10飛行団は地上作戦に協力した。集団は1月23日以降、南部ビルマ航空撃滅戦を開始、3月8日地上軍のラングーン占領に接して同地区に進出し、飛行場群の急速整備に着手すると共に部隊を逐次推進した。

中北部ビルマ地上会戦協力
 3月7日南方軍は、蘭印作戦の終了に伴い、第7、第12飛行団等の有力な部隊をビルマ方面に転用し、第5飛行集団長の指揮下に入れ、一挙に同方面敵空地戦力の撃滅を企図した。
 3月14日、地上軍は北進を開始し、集団は21日から、まずマグエ、アキャブの航空撃滅戦を敢行、この方面の敵空軍を制圧、次いで地上軍のトングー、プローム攻略を支援した。
 4月上旬以降マンダレー方面地上会戦が開始され、集団は主力をもって戦場上空を制空するとともに、敗敵を攻撃し、制空権を完全に手中に収めて地上作戦の急速な進展に貢献した。
 5月中旬、ビルマ方面進攻作戦は終結し、敵空地兵力は支那及びインド方面に後退し、爾後は残敵を掃する段階となった。
『ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』P14


 これを見ていると、戦術爆撃もやるのだけど、機会を捉えて?航空撃滅戦もががっとやっているという印象を受けます。どういう意図かとか、割合とかを今後何かの資料で見つけられるとありがたいのですが……。

 あと、アキャブに対する航空撃滅戦ですが、OCS『South Burma』(仮)にはアキャブ方面は入っていないので、その時期アキャブに向けられていた航空戦力は一時的に増援到着表上で「除去」を指示され、アキャブ方面での航空撃滅戦が終わった時期に戻ってくる、ということにすべきなのでしょう。


<2023/06/30追記>

 日本軍航空機による、敵の前線部隊に対する爆撃に関する記述を見つけました。地上部隊の侵攻が始まる直前頃の話です。

 1月中旬から、敵【日本軍】の偵察機や爆撃機が活発になった。キョンドーの船着き場は破壊され、幹線道路の陣地は毎日のように攻撃された。これらの空襲による我々の死傷者は少なかった。旅団情報部長のレイモンド・ホール中尉は、この地区で民間人として働いていたことがあり、この地区をよく知っていた。大規模な攻撃が迫っていることは明らかだった。
『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』P61


 これを読んで思ったのは、「これはOCSで航空爆撃によって、これから陸上部隊が攻撃する敵部隊をDGにしようとする行動とは異なるよなぁ……?」ということでした。恐らくこれは、陸上での戦闘の前に少しでも敵部隊の損害、あるいは恐怖を与えようとするもので、OCSではルール化されたり、プレイされたりしない部分の行動なのでしょう。

 ただ、これまで日本側の資料を読んでいて、川を挟んでなかなか対岸に渡れないでいる場合に、爆撃機を要請して爆撃がなされたというような記述を読んだことはあります。これは、OCSにおける航空爆撃でのDGの例と言えるでしょう。

 だとすると、1942年のビルマ戦の資料で日本軍(あるいは英連邦軍も)の航空爆撃の例を読む時に、かなりOCS的な爆撃の例なのか、あまりそうでないのかをなるべく判別して読んでいった方が良いのではないかと思いました。

<追記ここまで>


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマにおける日本軍による「道路封鎖(roadblock)」について

 オスプレイの『Japanese Conquest of Burma 1942』を読み直していたら、日本軍による「道路封鎖(roadblock)」について分かりやすい記述がありました。





 物資が乏しくても耐えることのできる日本軍の歩兵達は、ジャングルでの生活、移動、戦闘における優れた能力をすぐに実証した。彼らは必要な物を自分達で運び、長年の戦闘経験と、軽歩兵としての訓練がもたらした機動性と、後方連絡線から独立して動くことを十分に活用し、相手を包囲したり浸透したりして、敵司令部や後方部隊を攻撃したり、機会があれば道路封鎖(roadblock)を築いて敵前方部隊をその外側からの支援から切り離したりしたのだ。これとは対照的に、英連邦軍は車両による最良の、あるいはそれより少し劣る程度の輸送手段によって道路に縛られており、それに依存していたのである。日本軍部隊が自分達の後方を道路封鎖し、脱出と後方連絡線を脅かしているのを発見すると、それを取り除くための激しい攻撃をしなければならなくなり、それが失敗すると、車両、装備、武器を急いで放棄し、その後、徒歩で必死に脱出することになるのだ。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P33



 OCS『Burma II』では、地形効果表は↓のようになっていまして……。

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 英連邦軍は(通常のヨーロッパ諸国のほとんどの部隊と同様に)補給路を「自動車化」の移動コストで引かなければなりません。そうすると、一番上の平地と、下の方の「乾期自動車道」「全天候道路」「鉄道」を通せるのならばいいのですが、「小道」ではいきなり移動コストが「8」になり、そして「ジャングル」「荒地」「山地」「沼」ではまったく補給路が引けないことが分かります。

 つまり、補給線が良好な道路に縛られており、ジャングル以上の地形に小道しかないならば、移動力の低いラバを何往復もさせて補給(SP)を運ばなければならないのです。空中投下という手もありますがその件は省略。

 それに対して日本軍は補給路を「徒歩」の移動コストで引けることになっているので、英連邦軍よりも遙かに柔軟に補給路を延ばせますし、「食糧入手表」を使用して現地調達で生きていくこともできます。


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 OCS『Burma II』は1944年を扱っていますが、OCS『South Burma』(仮)の扱う1942年時点では、英連邦軍はラバをより少なくしか持っていなかったようです。英連邦軍は1942年のビルマ戦で惨敗したことにより、道路に縛られないことが重要であることに気付き、ラバや空中投下によって補給を運べるように改善を図っていったのでした。


 ラバについては以前、↓でいくらか書きました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)




 私はOCSには、「小包囲」と「大包囲」があると思ってます(どんなゲームにもあるでしょうけど(^_^;)。

・小包囲……1~数ヘクスの敵前線部隊を包囲して補給切れにする。
・大包囲……数十ヘクスを包囲する。

 私は、「攻勢側による小包囲」が強力過ぎるのではないか……とも思うのですけども、それは防勢側が十分に配慮できていないからで、退却の仕方や、退却時の戦線の張り方、予備部隊の確保などに気を付ければ、全然大丈夫なのかもしれません。そこらへん、試行中です。うまく対処できるようになりたいものです(>_<)




 それはともかく、実際の1942年のビルマの戦場では、英連邦軍はジャングル以上の地形においては後方連絡線だけを道路封鎖(roadblock)されても(全周を小包囲されていなくても?)、どうしようもなくなってその道路封鎖に向かって攻撃せざるを得なかった……ということでしょうか。

 これまである程度第二次世界大戦関係の本を読んできたとは思うのですけども、「道路封鎖(roadblock)」という言葉がこれほど重要な言葉として何度も出てくるのを見るのは、この1942年のビルマ戦に関する資料が、私は初めてだという気がしています。「world war 2 roadblock」で検索してみるといくらか引っかかるサイトはありますけど、見てみても重要度が高いものだとは思えないものしか……?


 OCS『South Burma』(仮)上で、もし英連邦軍の歩兵ユニットを、戦闘モードでも移動モードでも自動車化にすれば、道路封鎖はやばいほど効いてくると思うのですが、OCSの歩兵ユニットで戦闘モードが自動車化なんてのは存在しないような……? まあ、『South Burma』(仮)では必要だということであればそうしてしまってもいいわけですけども。

 一方で、OCSでは通常そうであるように戦闘モードでの移動タイプを徒歩タイプにすると、道路封鎖は大して効かない、というか全然効かないという気もします……。全周包囲なら別ですけども、全周包囲でないなら、空いているヘクスを徒歩移動で抜けようとするでしょう。あ、でも、1ターンに1ヘクス(3移動力で、3移動コストが必要な1ヘクス)しか移動できないでしょうから、それで道路に隣接するヘクスに行けなければならない……?

 そうすると、地形次第でしょうか。できれば特殊なことをするのは少なければ少ないほどいいとは思います。


 英連邦軍側の(旅団)司令部の支給能力を、徒歩タイプにしないと英連邦軍は戦線さえはれないのではないかとも想像しているのですけども、よく分からない……結局、マップとユニットを試しに作ってみて動かしてみないと分からないですかね……(OCSは選択肢が無茶苦茶広いので)。

 道路封鎖が、OCS『Burma II』よりも効くようであった方がいいとは思うのですが、どうにもうまく動かせないなら、道路封鎖に関して無視するという方向でいくかもです(^_^;





<2023/05/16追記>

 先日神保町で新しく購入した『中国=ビルマ=インド』 (ライフ第二次世界大戦史) という本に、道路封鎖について詳しく書かれているのを見つけました(この書名を少なくとも私は以前なら奇異に感じたと思うのですが、欧米では「China - Burma - Ind」戦域、略してCBI戦域という言い方が広く知られているらしいです。)。



 日本軍はジャングルに慣れたが、イギリス軍はそうはいかなかった。この屈強な侵略軍は、再三にわたって防御側に痛棒をくらわせた。彼らはまた、軽機関銃や迫撃砲、軽戦車などを十分に装備し、これを効果的に使用した。イギリス軍は道路に執着し、ジャングルのなかに分け入るのをいやがってトラック輸送にばかり頼っていた。日本側は、この弱点を巧妙に突く戦略をほとんど完全なまでにつくり上げた。すなわち、路上にバリケードを築くのである。まず小人数の先遣隊が、ジャングルを素早くくぐり抜けてイギリス軍の先に回り、木を切り倒したり、壊れた自動車などを利用してそこにバリケードをつくる。 そしてその周辺に機関銃や臼砲や野砲を配置したうえで、本隊が正面攻撃を仕掛け、退却しようとするイギリス軍の退路を断つのである。はじめ日本軍はこの戦術を小部隊相手にのみ用いていたが、やがて連隊やついには師団規模の部隊にも用いて殲滅的な戦果を収めた。
 日本軍がこれほどまで簡単にイギリス軍の戦列に潜入したり先回りすることができたのは、大都市周辺に住む低地ビルマ人の多くが日本軍を自分たちの解放者であるとみなしたからであった。ビルマのイギリス人将校や植民省の役人たちは、あまりにも長いあいだイギリスの統治下で安逸な生活を続けていた。そのあいだに、彼らに対する深い恨みが多くのビルマ人の間に強まっていったのである。“アジア人のアジア”というスローガンを掲げてやってきた日本軍は、将来の独立を約束することによって、イギリス軍が圧倒的な武力に物をいわせなければ入れなかったビルマの村々に、歓迎されながら入っていった。
『中国=ビルマ=インド』P22


 「本隊が正面攻撃を仕掛け、」という文の「本隊」とはイギリス軍のそれか、日本軍のそれか判然としないのですが、まあイギリス軍のそれではないかと推測します。

 現地のビルマ人達の協力が非常に大きかったのは、日本側の連隊史本などを読んでいても感じます。そこらへんを考えると、OCS『Burma II』で3移動力が必要であったジャングルを、日本軍は2移動力とかってのは、史実的にはありなのかもですね……。OCSシリーズゲームにこれまでそういう例がなかったとしたら、そういう方向性での問題はありますけども。


<追記ここまで>

<2023/07/15追記>

 ネット上にPDFファイルが落ちてた『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』の序論を読んでましたら、道路封鎖について書いてありました(この本の序論は作戦的な分析に溢れており、個人的に非常に好みです!)。

 しかし、彼らの戦いで最も特徴的だったのは、自軍の側面を守り、連合軍の前方部隊と輸送手段を遮断するために、頻繁に道路封鎖を行ったことである。道路封鎖そのものは、壊れた車両や伐採された木などで作られ、決して実質的なものではなかったが、常に強固に保持され、機械化部隊に対して効果的であった。日本軍の戦略は直接的で、相手部隊を分断し、順番に包囲して戦闘力を無力化することを目的としていた。地形と現地民の知識は、奇襲の要素を十分に利用することができる彼らの動きを助けた。
『Indian Armed Forces in World War II - The Retreat from Burma』Introduction xxxiii


 青字にした部分も非常に重要だと思われました。OCSで、細かく小包囲をおこなって敵前線を無力化していく方策と同じですね(OCSでは小包囲された環の中にSPがないと非常に苦しくなるので、他のウォーゲームよりも小包囲の効き目が強いと思われます)。

<追記ここまで>


追い出した……かもだし、建設的分派……かも

 以下、「國學院大學シミュレーションゲーム研究会の一OBとしての、内部事情に関する推測」という、非常にニッチな話なので、興味のない方はそっと閉じていただければ……。




 MustAttack上で、田村さんのブログ記事を見つけまして、田村さんの記事は面白いことが多いので期待して読んでみました。


ミニチュアウォーゲームを拒む輩


 最初に「※警告:罵詈雑言あり」とあったものの、「まあ田村さんはいつものことだし……(^_^;」と思いながら読み進めて、「なるほどなるほど……」と思いながら読んでいたら、最後の方で罵倒されていたのは私がかつて所属していた「國學院大學シミュレーションゲーム研究会」でした(^_^;


 田村さんの記事では、↓のように書かれていました。

・國學院大學シミュレーションゲーム研究会では元々、ミニチュアゲームをプレイしていた(2010年代?)
ところがそれを快く思わないOBがおり、ヘクスマップ至上主義のOBが現役生と揉めて、現役生が大量離脱して新たにミリタリーゲーム研究会を設立するという分裂騒動が起きた
・「端的に言って、とっとと死ねクソ老害、という感想しか無いし、そんなクソ老害を排除できない現役生も現役生だ。腐りきっている。」


 私はこのミニチュアゲームに関する分裂という話を全然知らなかったのですが、私が知っている他の事情から推測するに、事情はもっと複雑なのではなかろうかという気がしました。

 しかし私の推測が全然間違っていて、田村さんの捉え方が全然正しいという可能性ももちろんあるかと思います(^_^;

 とはいえ、私の知っている他の事情と推測を書いておくこともいくらか益のあることではないかと思いましたので、書いておこうと……。



 私が國學院大學シミュレーションゲーム研究会に所属していたのは1990年代前半頃でしたが、その時点で設立十何年だったのではないかと思います。OBの方も結構来られてました。それまでに会の分裂とかがあったという話は聞いたことがありませんでした。

 ミニチュアゲームは我々は存在も知りませんでした。ウォーゲームに限らず、TRPG、マルチも良くやってました。(多分当時はまだカードゲーム(MTGとか遊戯王とか)はなかったか、広く知られていなかった?)

 ただ、学祭でウォーゲームをプレイした後に、「ストリートファイターⅡ」大会をやろうとした(やった?)一部会員がいたりして、「ああいうのはどうか」という意見が(OBに限らず?)出ていたような気はします。

 一方で、私が卒業する頃でしたが、古いOBの中にファンタジーミニチュアゲーム好きな方々がおられて、そちらに会員が(無理矢理?)取られてしまう、ということが私が仲の良かったOBから少し問題視されてたりしたという記憶があります。

 あと、詳しく書くことはやめておきますけども、ゲーム以外の件でOBと現役を巻き込んだ派閥的なことも生じかけていたというようなことも聞いたような……(その後どうなったか全然知りませんけども)。


 大学を卒業した後私は帰郷しまして、東京に出ることもほとんどなくなったので、納会への誘いの往復はがきはもらってましたけども行ったことはありません。


 ただ最近、ほんの少し会について聞ける機会がありまして、その時聞いた話だと、私の卒業後、カードゲームをやりたいとか、ボードゲームもやりたいとか、艦これ勢とかの分派が何回もあったようです。平和裏か揉めてかはあまり聞かなかったですが、まあ両方あるという感じ?

 それで現在は、私の頃よりも遙かに狭い、「ヘクスウォーゲームしかやらない(それも、基本的に第二次世界大戦しかやらない?)」勢が、國學院大學シミュレーションゲーム研究会に残っている……というか、國學院大學シミュレーションゲーム研究会はそういう会である、ということにして、他の色々な類似サークルと共に活動している状態のようでした。確か、それら類似サークルをかけもちしている人もいるとか、サークル同士別に仲は悪くない(仲が良い?)と聞いたとも思うのですが、勘違いかも。それでも今の國學院大學シミュレーションゲーム研究会だけでも10人とか20人とか会員がいるということなので、別にそれでやれる、ということなのだと思います。


 そこらへんから考えると、分裂してできた「(國學院大學?)ミリタリーゲーム研究会」の方が私がいた頃の國學院大學シミュレーションゲーム研究会に近いような気がしますし、ミリタリーゲーム研究会の方が(名前は変わったけども)「多数派であり、昔からの本流だ」と(そちらに行った)OBともども考えて、私が卒業する頃にファンタジーミニチュアゲームをやっていたOBとかと一緒に活動している可能性もありそうではないかなぁ、と。「國學院大學シミュレーションゲーム研究会」という会は、名前は昔からのものを引き継いでいるけども、人数とかOBの継続性とかで言えばむしろ色々分派した中では少数派なのではなかろうかとも。

 社会人のゲームサークルでも分派の話はあり、例えば「A」というサークルに来てみた初心者に、そのサークルの方が「なるほど……聞いてみたところ、あなたの好みならうちのサークルじゃなくて、近所にあるBというサークルの方が合っているかもですね」と、昔分派したサークルを勧める、ということもあるようです。


 サークルの人数がずっと変わらない中で揉めて分派して、ミニチュアゲーム勢を追い出したのであればまあ、「視野狭すぎ」とも言えるとも思いますけども、サークルの人数がどんどん増えていって、サークル員のやりたいことが多様化して人の引っ張り合いが起こり始めて、派閥抗争が起こってきたならば、まあ揉めた上で分派して、平和裏に別々のサークルとして活動を始めるというのは、アリではないかなぁ……と思います。



 特に私は、私個人としては「ヘクスゲームこそがしたい勢」で、というか「ビッグゲームこそがしたい勢」で「OCSしかプレイできない勢」だったり(T_T)して、エリアゲームもポイント・トゥ・ポイントゲームもやりたいとは思わない勢ですし、大学4年生の時にOBから「ファンタージ-ミニチュアゲームに誘われるかもしれない(OB権限により無理矢理)」と聞いた時には正直、「イヤだなぁ……」と思ったほどですから、個人的嗜好からすれば、もしその場にいれば「分派してくれてありがたい」と思ったのではないかと思います。あるいは、もし私が揉め事の時OBとして納会に参加していれば、「分派するのがいいんじゃない?」という側に回っただろうと思います。

 私が一時期参加していた社会人サークルにおいても、マルチに毎回誘われて一応プレイしていたのですが、私は本当はヘクスゲームがしたかったので、そのうちそこにはいかなくなり、その後なんとか、ヘクスゲームができるサークルに行くことができるようになりました。

 でもだからといって、エリアゲームやポイント・トゥ・ポイントゲームやミニチュアゲームをやる人を排斥するわけではなく、ただ単に私は、私がやりたいゲームにこそ手間暇をかけたいということなわけです。



 ……というようなことを考えたのですが、改めて書きますけども、実際には「OBの視野の狭さ」により、ミニチュアゲーム勢が排除されたのかもしれません。

 まあでも、あまりこの件で当事者も巻き込んで論争が続くようなことになったりしても、良くないのではないかという気がしますので、曖昧な状態にしておく方が良いような気もしますけども……(^_^;


OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ侵攻開始時の連合軍側の配置図

 陸戦史集の『ビルマ進攻作戦』を見ていたら、付図(本に付いてきている大きい地図)に連合軍の配置が書いてあるということだったので見てみましたら、確かにありました。


 付図第1が「作戦開始時における彼我の態勢 昭和17年1月20日」というもので、それに中国軍の配置もありました。マップの東側が足りないので、付け足しました。


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 中国国民党軍が、第6軍と第93師団ということですけども、付図上では第93連隊となってます。が、戦闘序列を見ても第93連隊というのはないので、第93師団の間違いであろうと解釈しました。

 英連邦軍側の配置は、1月20日時点というよりは、それより少し後の可能性もあるのではないかとも思うのですが、また今後調べていって適宜修正します。



 もう1枚、付図第2というのに、ラングーン攻略戦を含む時期の戦況図がありました。しかしあまり↑の画像と変化はないので、とりあえず文字で書くだけにしておきます。

 変わったこととしては、第1ビルマ師団と第1ビルマ旅団がもっと南下して描かれており、トングーとシッタン河口の中間地点くらいになってます。また、第2ビルマ旅団(元第17インド歩兵師団隷下)が、第1ビルマ旅団の南側にいるように描かれています(撤退でこちら方向に向かった?)。

 また、第13インド旅団の位置は変わってないのですが、その守備範囲が線で広がりをもって描かれており、タイ国境を超えて日本軍(あるいはタイ軍)がこちらの方面から出てくるのが警戒されていたのだな、というのが分かります。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について

 今回は1942年のビルマで戦った中国国民党軍についてです。

 中国軍については後回しにしようと思っていたのですが、1942年1月頃から?中国軍が少しずつビルマに入り始めて、守備を任せられるようになった英連邦軍が南下するという流れがあったということで、中国軍部隊移動の記述を捉えるためには最初からやった方が良さそうだと思い直しました。


 中国軍については、『Japanese Conquest of Burma 1942』の記述がかなり詳細でした。

 イギリス上層部は当初、1941年12月に蒋介石総統がビルマ防衛のための国民党軍を一個師団を除いて提供することを拒否した。これは、ビルマに対する中国の長期にわたる領有権主張、英連邦軍によるビルマ防衛の政治的必要性、最後に兵站の困難さを考慮した結果であった。ラングーン陥落後、マンダレーに向かう日本軍を撃退しようと中国遠征軍が派遣されたことは重要だったが、ビルマにおける指揮系統全般は複雑で、蒋介石とアレクサンダーの間には、植民地における互いの長期的政治意図に対する誤解と相互不信があり、関係は暗礁に乗り上げていた。この相互不信の犠牲となったのは、緊密な連携と相互支援が必要なときに、英中両国がすべての指揮レベルで効果的な協力関係を築けなかったことである。

 ビルマにおける中国軍の総指揮は、蒋介石総統から、1942年3月4日に中国に到着した58歳の米陸軍上級将校ジョセフ・スティルウェル中将に委ねられた。スティルウェルは、アメリカ大統領の中国駐在軍事代表、中国戦線連合軍最高司令官としての蒋介石総統の参謀、アメリカが指定した中国-ビルマ-インド(CBI)地域の全米軍司令官、中国に送られるレンドリース物資の管理、ビルマ公路の管理など、さまざまな職務を担っていた。この発表は、ビルマにいるすべての中国軍をアレキサンダー将軍の指揮下に入れるという以前の合意を破るものであり、イギリス軍上層部を大いに混乱させた。最終的には、気難しいスティルウェル(その気難しい態度から「ビネガー・ジョー」と呼ばれていた)が3月24日にアレキサンダー将軍の「総指揮」の下に進んで身を置き、ビルマ軍との作戦を調整することで解決したのである。中国遠征軍(CEF)の指揮系統は実際にはもっとずっと複雑であることが、メイミョーに司令部を設置する際にスティルウェル自身が気付いた。アレキサンダーを訪れたスティルウェルは、中国第5軍司令官である杜聿明(Tu Tu-Ming:といつめい)将軍がすでに中国遠征軍の司令官であると名乗っていたことを知った(彼自身は最終的に羅卓英(Luo Zhuoying)将軍に取って代わられることになる)。トングーの防衛戦において、苦境にあった中国第200師団を支援するために中国第22師団を派遣せよというスティルウェルによる命令を杜聿明将軍が無視したため、スティルウェルの権限の限界がすぐに露呈された。実際、不運なスティルウェルは、自分が名ばかりの指揮官であり、命令を下す権限も執行する権限もないことにすぐに気づいた。陸軍、師団、連隊レベルの中国高官でさえ、「個人の軍隊」に損失をもたらすかもしれない行動を避け、総統が望んでいると考えられることと対立し、アメリカの命令を指揮系統に照会して承認してもらえないのである。重慶で総統と直接対決した後、4月6日、蒋とその妻はメイミョーに行き、集まった中国の司令官たちにスティルウェルの権限を伝えた。同時に、彼の指示を認証するための公印には、CEF総統ではなく最高顧問/参謀長としてスティルウェルを記した。このような変更にもかかわらず、アレクサンダー将軍とスティルウェルが出す命令は、林蔚(Lin-Wei)将軍を長とするビルマ軍本部の中国参謀団、そして最終的には慎重な蒋介石の同意を必要とした。さらに問題を複雑にしたのは、林蔚将軍が軍事情勢の悪化に伴ってしばしば独自の矛盾した命令を発し、1942年5月早々に事実上崩壊し、スティルウェルと羅卓英が部下に自らの運命を託しインドに退却したことであった。

 陸軍や師団レベルの中国軍将校の指導力は、実にまちまちであることがわかった。同盟国との戦闘経験を持つ者はおらず、通訳、連絡員、地図の不足により、英中将校間の効果的な協力はさらに困難なものとなった。

 CEFは1942年1月から4月にかけて徐々にビルマに配備され、7万から13万の兵力を有し、 国民党中国軍が利用できる最高の戦闘部隊で構成されていた。杜聿明将軍率いる第5軍(第200師団、第22師団、第96師団、戦車隊、砲兵隊)、甘麗初(Kan Li-Chu)将軍率いる第6軍(第49師団、第93師団、新編第55師団)、張軫(Chang Chen)将軍率いる第66軍(新編第28師団、新編第29師団、新編第38師団)である。この戦闘序列は紙の上では印象的であったが、ビルマで戦った中国国民党の師団の戦闘力の高さは、ある中国の歴史家によると、その部隊にはタフで頑健、自立した兵士(多くは最近日本と戦った経験がある)がたくさんいたものの、「寄せ集め」であり、「精鋭、普通、未熟の混合」であった。中国の軍隊や師団の戦闘能力は、指揮官によって大きく左右され、ある者は高度なスキルを持ち、ある者は指揮官という任務にひどく不向きであった。英語を話す第38師団の師団長孫立人(Sun Li-Jen)将軍は、その中でも最高の人物であり、イギリス軍からは「知的で精力的、かつ注意深い」と評されたが、作戦調整に関しては「時間感覚に乏しい」とされた。同様に、第49師団を指揮する彭壁生(Peng Pi-Shen) 将軍は有能で力強い指揮官と考えられていたが、上官達の許可なく攻勢に出ることは繰り返し拒否した。他の中国軍師団長は優柔不断で、無能で、全般的に指揮に適さないことが判明した。スティルウェルのスタッフは、例えば甘麗初将軍を能力も想像力もなく、不利な状況に直面した場合、取り乱してしまうことが多かったと評している。

 戦闘に慣れた中国軍第200師団(8,500人)は、軽戦車、自動車、米軍のレンドリースの75mm榴弾砲と105mm砲を保有し、中国国民党軍の師団としては断トツに優れていた。同様に、新編第38師団は、将校と兵士が欧米で高度な訓練を受け、欧米の武器を十分に装備し、共産党軍と日本軍の両方との戦闘にかなりの経験を持っていた。ほとんどの中国軍師団は約6000人の非常に弱い師団で、訓練も装備も不十分な歩兵で構成され、対戦車砲、野戦砲、その他の重火器がひどく不足していた。対戦車砲、野砲、その他の重火器も不足していた。新編第56師団【新編第55師団の誤りか?】のようないくつかの師団は新しく組織され、その不幸な、ほとんど訓練を受けていない徴兵は作戦開始後にライフル銃が支給されただけだった。多くの中国軍部隊は輸送手段がなく、徒歩で戦場に向かい、丸腰のクーリーに武器を持たせていた。しかし、車両は後にビルマ公路からアメリカの車輛を「借用」して供給された。組織的な補給管理システムは存在せず、英連邦軍のリソースで食料やガソリンを供給できない場合、中国軍兵士達は「イナゴがその土地を食い尽くす」ように、不幸なビルマの人々から自由に盗んで生活していた。悲しいことに、医療班も事実上存在せず、中国人は病人や負傷者の世話をイギリスのリソースとアメリカ人宣教師ゴードン・シーグラーブ博士が運営する医療班に頼っていた。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P21~24



 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの中にも中国軍に関する項目がありました。この本では中国軍がビルマに入り始めたのは3月となっていました。

2. 彼らは中国軍で最も優秀な部隊と言われ、確かに何度か非常によく戦ってくれた。しかし、彼らは時間に無頓着で、もちろん言葉の壁もあり、協力は困難であった。イギリス軍とインド軍にとって問題なのは、中国人と日本人(そしてグルカやビルマ人)を区別することであり、いくつかの不幸な間違いは避けられなかった。

3. 中国遠征軍のビルマへの移動は、それ自体が叙事詩のようなもので、ラシオの鉄道末端に到達するまでに、山間部を何百マイルも輸送された。ラングーンから反対方向に運ばれてくる弾薬、トラック、ガソリンなどのアメリカの戦争物資がなければ、論理的に不可能であっただろう。

4. イギリスは、ビルマにいるすべての中国軍に、彼らの主食である米と医療支援を供給することを保証した。ビルマ語を話すイギリス人連絡員を各編隊に配置する必要があった米の供給作業は、最盛期には1日に300台の大型トラックを使用する必要があった。

5. 中国には医療班がないに等しかった。負傷者や病人を近くの村に預ける習慣があり、自国の外で活動するのは初めてだったのである。イギリスは、自国の軍人と民間人の病人や死傷者のために医療支援を提供することで精一杯だった。ハットン将軍は、たまたまビルマにいたシーグラーブ医師率いるアメリカの民間医療団に、そのギャップを埋めるためにできる限りのことをするよう手配した。

6. 一般に、中国軍は軽武装で、迫撃砲も大砲も戦車もほとんど持っていなかった。どの編成においても、部隊の約3分の1が全く武装していなかった。非武装の隊員の仕事は、ポーターとして物資の運搬を手伝い、死傷者が出たときに武装することであった。スリム将軍の記録によると、中国の「師団」の規模は約8000人であった。しかし、全力でもライフル3000丁、軽機関銃200丁、中機関銃30~40丁を超えることはほとんどなかった。輸送手段は、1、2台の将校専用車と6台のトラック、そして数百頭の毛むくじゃらのポニーである。アレキサンダー将軍は、中国の大隊の戦力はイギリスの中隊の戦力とほぼ同じであると指摘した。したがって、中国の「軍隊」や「師団」と呼ぶのは、その有効戦力が英国や日本の全戦力の師団や旅団群とほぼ同じであるため、混乱を招く。したがって、この本では、中国の「軍」は「a/division」、中国の師団は「d/brigade」、中国の連隊は「r/battalion」と書くことにする。

7. スティルウェルはもともと蒋介石総統の参謀長だったが、総統からビルマの中国遠征軍総司令官にも任命された。そのため、アレキサンダー将軍のもとでビルマに赴任することになった。しかし、総統から肝心の指揮権を与えられていないことが判明し、すべての命令は副官の羅卓英中将を通じて伝達されることになった。さらに指揮系統は複雑で、ラシオには中国参謀本部があり、その長官は林蔚中将であった。彼は蒋介石総統のビルマにおける個人的な代理人であり、すべての重要な命令には彼の承認が必要であった。このような煩雑なシステムは、もちろん機動作戦には大きなハンディキャップであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P369,370





OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月末時点でのビルマの英連邦軍の配置とその後の移動

 前回の地図を元に、1941年12月末(あるいは27日)の戦闘序列による各師団、各旅団の隷下部隊を□で囲んだり、その後の移動についてメモ書きを書いたりしました。

 戦闘序列は、『The War Against Japan Vol.2』の付録1(P439)と、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の付録2(P360~)のものを使用しました。


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 第16インド歩兵旅団と第13インド歩兵旅団(両方とも第1ビルマ師団隷下)は、その司令部の記載を含む□の中の部隊です。

 第1ビルマ旅団隷下の部隊はわりと散らばっているため、□で囲って線で結んであります(実際にはこの時期にはより近い場所にまとめられていたのかもですが)。

 第1ビルマ師団の直属なのであろう部隊も散らばっているので、紫色の線の中に囲ってある&赤い□の中にない部隊がそうである、ということにしています。また、ラングーン守備隊も紫色の□の中に囲みました。


 第17インド歩兵師団司令部はこの後ビルマにやってきて、日本軍と最初に戦闘を交えることになります。第1ビルマ師団はその間、北の方に留まっていて、ラングーン陥落後の第二段階の時に日本軍と戦います。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1941年12月1日時点でのビルマの英連邦軍の配置

 これまでの、『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの分はとりあえず終わりました。

 今回は、『First Burma Campaign: The Japanese Conquest of 1942 By Those Who Were There』の巻末付録Aの、1941年12月1日のビルマの英連邦軍の配置情報からです。







 OCS『South Burma』(仮)は最初に戦闘が起こった1942年1月20日から始まるので、その50日も前の情報ではあるのですが、この資料は非常に詳細で、他にも色々な資料でその後の戦闘序列を見てみましたけども、これほど詳細な配置情報はありませんでした。ので、これを大元の配置情報として、その後の経緯を追っていくことにしようと思いました。


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 当時、あるいは実際に日本軍による侵攻が始まる直前くらいまで、タイからビルマへの日本軍の侵攻はまだしもマシな道路のある①の径路で行われるだろうと英連邦軍側は考えていました。①の矢印の後、北へ進んで、そこから西へ曲がってLoilemへ繋がるような道しかありませんでした。ですので、そちら方向にほとんどの部隊が置かれています。

 ②は、まともな道はなかったのですが、ラングーンへの最短距離ではあるので、一応少し部隊は置かれていたという感じだと思います。史実で日本軍は、第33師団の兵士に土木工事をやらせて、道を作って侵攻したのでした。

 当時ビルマに置かれていた師団は第1ビルマ歩兵師団だけだったのですが、その司令部が真ん中辺りのトングー(Toungoo)にぽつんと置かれているのが印象的であります。


 チェックしてみたところ、F.F.は1~5まで、Burma Rifle Bnは1~14まで、この画像上で全部確認できました。抜けていてもしょうがないんですが、揃っていて良かったです(^^)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の砲兵、戦車、捜索連隊について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、付録7「日本軍について」の中から、砲兵、戦車、捜索連隊について。



 砲兵に関しては、各種の砲の弾薬重量と射程について表になっています。

75mm山砲(九四式山砲) 13.4ポンド 9800ヤード【約8961m】
75mm野砲(九五式野砲) 14.3ポンド 12000ヤード【約10973m】
105mm重野砲(九二式十糎加農砲) 33ポンド 20100ヤード【約18379m】
150mm中榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲) 80ポンド 13000ヤード【約11887m】

OCSの砲兵には、1~4ヘクス程度の射程があるため、レーティングにおいて射程はある程度重要です。OCS『South Burma』(仮)は現状1ヘクス5マイル(約8km)であるため、8km程度ならば射程は1ヘクスとなるかもですけども、8kmを大幅に超えてくるなら2ヘクスということはありそうです。

 前記で、九四式山砲も九五式野砲も射程8kmを越えてはいるんですが、OCS『Burma II』(インパール作戦の頃のビルマ戦域全体を扱う)のデザイナーノートにはこう書かれています。

 第二に、砲兵(特に日本軍のもの)の射程の短さに目を奪われるかもしれません。これも意図的なものです。地形の厳しさが、その使用の柔軟性を大きく制限していたのです。さらに、日本軍の大砲のほとんど、特に師団砲兵は、直接照準射撃で使用されていました。日本軍の間接照準射撃は、よくいって粗末なものでした。このことは、日本軍のすべての砲兵ユニットが移動モード時に1の射程しか持たないという風に反映されています。しかし、これらのユニットの多くは良好なアクションレーティングを持ち、また防御力1というのもこのレベルでは無視できないものです。彼らは一歩も引かずに、防御態勢を強化することができるのです。


 OCS『Burma II』の師団砲兵は、大隊規模で3-3-1-1(1-3-1-3)というものが多いです(両面で徒歩で、師団毎に3ユニット。アクションレーティングが、弱い師団だと下がるものの、それ以外はすべて一律)。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍の師団砲兵ユニットの一例。

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 独立ユニットの「H(重砲兵)」は、射程が戦闘モードでは2ですが、移動モードでは1です。すべて両面で自動車化で、戦闘モードでは1移動力、移動モードでは9移動力。砲爆撃力に関しては、「3H」の1~3の大隊ユニット3つは戦闘モードで9、移動モードで3、「18H」の1~3の大隊ユニット3つは戦闘モードで6、移動モードで2でした。


 ↓OCS『Burma II』の日本軍の独立重砲兵ユニット。

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 インパール作戦時の1944年に使用されていた砲が、1942年当時のものと型が同じ(かつ、編成とかも変わらない)なら、OCS『South Burma』(仮)でも同じ数値を使っても良さそうです。ところが、手持ちの資料(戦史叢書『インパール作戦』とか)でパラパラ見てみた程度では、型についても編成についても良く分からず。しかし、『第2次大戦事典②兵器・人名』で日本軍の砲の型の移り変わりについて見てみたところ、前記の大砲が戦中に別の型に置き換えられたということはなさそうだったので、一応「そのまま」でいけるという理解でOK……?


 また、↓こういう記述があり、日本軍はSPに余裕がないようにすることになる(一般補給は何とかなるとしても)ので、砲兵はほとんど使用されないだろうと思います(ただ、OCS『Burma II』で私は日本軍では砲兵射撃はまったくしない方ですが、富山のKさんはバンバン撃ってきます。人によってもちろん使用法は異なることでしょう)。

22. 日本軍は兵站上の理由から、砲兵の使用を控えめにしていた。また、特定の目標以外にはほとんど発射しなかった。彼らは「ブラケット」【英辞郎によれば、「敵艦に砲弾を接近させる手法。距離計に基づいて第一弾を発射し、第二弾をその400m遠方に、第三弾を400m前方に着弾させて、最も近い着弾点を見極め、発射角を決定するもの。」】を信じず、最初の一発も効果を与えるようにして発射された。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377






 戦車に関してはこう書かれていました。

23. この作戦では日本の37mm砲搭載8トン【95式】軽戦車と57mm砲搭載15トン【89式】中戦車が使用されたが、日本の装甲はほとんど中国軍に対して使用された。軽戦車3輌はペグーでイギリス軍に使用されたが、その砲はイギリス軍スチュアートの装甲を貫くことができず、すぐに破壊された。メイクティーラからキャウクセまでの3日間だけ、日本の中戦車とイギリスの戦車が決定的な衝突をした。このキャンペーンでは、日本の戦車は徹甲弾を持たず、スチュアートを撃破できたケースは例外的な場合だけであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377


 これまで読んできたラングーンまでの戦い(例えばペグー)では、日本軍は3輌とか全部で6輌とかってくらいしか投入していない(できてない)ようなので、ユニット化されるかどうかはギリギリかなと思っていますけども、1戦力(移動モードでは0戦力)でユニット化するのはありかもですね……。英連邦軍側は1ユニットで6戦力とかだと思いますけども(>_<)

 メイクティーラ云々の話は、まだ調べてない期間なので全然分かりません。





 偵察部隊に関してはこのように書かれていました。

24. 偵察に使用される部隊は、師団によって異なっていた。1941年に再編成された第33師団には、師団司令部に直属する騎乗歩兵小隊と軽装甲車中隊、各連隊本部に所属する騎乗歩兵小隊があった。

25. 第55師団は、3個騎乗歩兵中隊、1個機関銃中隊、1個装甲車中隊、1個対戦車砲中隊を擁する捜索「連隊」【実質的には大隊】を有していた。彼らは自らを「騎兵」連隊(「最後の騎兵」)と称していた。1個騎乗歩兵中隊と機関銃中隊と対戦車砲中隊の一部はグアムへ派遣されており、この作戦には参加していない。

26. 騎乗歩兵部隊は、折りたたみ式銃剣を装着した軽小銃であるカービンで武装していた。両師団の軽装甲車中隊は、ラングーンが攻略されるまで到着しなかった。

27. 第56師団の捜索連隊は基本的に第55師団と同様であったが、自動車化されており、騎乗歩兵中隊は自動車化歩兵の2個中隊に置き換えられた。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P377


 ここらへんは現状、細かい内容でユニット内容を変える必要はないかなと思っているのですけども、今後の課題ということで……。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:日本軍の各師団の砲兵戦力

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、付録6の日本軍の戦闘序列(P371,2)から、主に日本軍の各師団の砲兵戦力についてのみ扱ってみます。


 まず基本的に、少なくとも第55師団と第33師団の砲兵連隊はフルでは↓のような門数であったと考えています。

1個連隊:3個大隊(27門)
1個大隊:3個中隊(9門)
1個中隊:3門



 各師団は、山砲連隊または野砲連隊(あるいは山砲と野砲の混成)、工兵大隊、輸送連隊を持っていた。

第一段階
2.第一段階では、第33師団、第55師団ともに軽装で進攻した。それぞれ2個歩兵連隊のみであった。弾薬の消費量が多いため、両師団とも迫撃砲は持っていなかったが、擲弾筒は持っていた。しかし、すぐにイギリス軍の3インチ迫撃砲を捕獲して使用した。

3.第33師団は歩兵団本部(付録7参照)を残し、山砲1個大隊(9門)と、連隊段列から工兵1個中隊と馬2個中隊(各約400人、300頭)だけを連れていった。師団の残りはラングーンで第二段階に再合流した。また、対戦車砲中隊を1個連れて行ったがペグーで破壊された。マレーの第2戦車連隊から分離された軽戦車の支援小隊も同時に破壊された。


 第33師団の「山砲1個大隊(9門)」という話ですが、9門ではなく6門だったという話もありました(時期がずれていて、その間に3門失ったという可能性もありますけども)。

 その頃【第33】師団の戦力は、歩兵2コ聯隊、山砲1コ大隊基幹にしか過ぎなかった。砲は全部で6門、砲弾は1門あたり百発で、歩兵の弾薬にいたっては携行分しかない。補給路はまだ開設されていないので、この携行分を最も有効に利用するしか方法がなかった。
『ビルマの名将・桜井省三』P88,9


 しかし今回見つけた戦史叢書の記述によれば……。

 その後、1月17日になって【……】軍命令を受領した。
 【第33】師団は軍命令に基づき、歩兵第215聯隊(第3大隊欠-原田聯隊)、山砲兵第3大隊(第9中隊欠)をもって原田先遣隊とし、コーカレー北方に前進を命じた。
『ビルマ攻略作戦』P95


 この記述からすると、1個大隊は9門なのだけども、1個中隊欠なので6門であった、ということで説明はつきそうです。そうすると『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の記述は厳密には間違いであるという解釈になりますけども、まあゲームとしては、1個中隊欠くらいは無視して1個大隊のフル戦力で数値化されるだろうという気もします(^_^;




 次に、第55師団の砲兵について。

4.第55師団は歩兵団本部の指揮下でグアムに行っていた第144連隊等を欠いていた。師団はヴィクトリアポイントに向かった第143連隊第2大隊と、タボイに向かった第112連隊第3大隊を欠いた状態でビルマに入った。両大隊はモールメンで再合流した。それぞれ6門を持つ2つの山砲大隊は残されたままだった。


 「それぞれ6門を持つ2つの山砲大隊は残されたままだった。」というのが、もし「それぞれ9門」だったら良く分かる話なのですが……。以前書いていたものとして、

 山砲第55連隊は3大隊から成り、94式山砲27門を持っているというのですが、「山砲隊は携行段数を多くするため、中隊は1門編成にし、バンコクに残した火砲は、モールメン攻略後陸路あるいは海路により追送させることにした。」【←は『ビルマ攻略作戦』から】


 というのもあったんですが、全体として色々曖昧な感じです。まあしかしここも、ゲーム上では最初1個大隊9門分の砲兵を持っていって、あとで18門分が合流ということでいいんでしょう。


<2023/06/22追記>

 ビルマに入った時の第55師団の砲兵について、『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』にいくらか参考になるかもしれない記述を見つけましたが、全体像が全然分かりません。とりあえず情報集積しておきます。

 ここ【ピサヌローク】に集結した聯隊は南海支隊配属の第一大隊を欠いていたが、徳島の宇野聯隊(歩兵第百四十三聯隊)に配属となりマレー半島上陸に勇戦した第四中隊(松田隊)が復帰して来た。しかし聯隊本部の坂本栄一中尉は独立小隊(第八中隊)を指揮して、バンコックから、マレー半島西岸のタボイ占領に向かう沖支隊に配属されていた。【……】今になると聯隊長は小径もない渓谷づたいの長距離のあのジャングルのタイ、ビルマの山脈を横断していかにして山砲兵がモールメン前面に進出するかに苦心されていたのがよく分かる。このため三門編成の各中隊は二門とし残りの火砲と聯隊大行李を石黒築兵技軍曹以下に宰領させて追及を命じた。
『火砲と共に:山砲第五十五聯隊戦史』P96



<追記ここまで>




 以下、第二段階(ラングーン占領後)については、挙げておくだけにして今後継続集積で。

第二段階

6.第二段階では、第33師団と第55師団の山砲連隊が27門のフル装備になった。

7.第33師団は第21混成重砲部隊(105mm×4、150mm×4)、第26独立工兵連隊(水上輸送)、対戦車砲中隊と75mm対空砲中隊を増員した。

8.第18師団の山砲連隊は12門ずつの2個大隊と75mm野砲12門の1個大隊であった。Kyaukseでは第3重砲兵連隊の150mm砲8門(1個大隊欠)で増強されていた。

9.第56師団は75mm野砲大隊2個と105mm野砲大隊1個からなる野砲連隊を持っており、各大隊は12門の砲を有していた。




OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦のイギリス空軍の戦闘序列

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「イギリス空軍の戦闘序列」という項目から。


 今回は和訳を挙げるのではなく、抜粋の方が良さそうなのでそっちで。『ビルマ航空戦』による情報も【】で付け加えています。

 「飛行隊」と書いてあるのは「Squadron(飛行中隊?)」です。イギリス空軍等のSquadronがだいたい何機ぐらいなのかまだ分かってません(>_<)


 OCSの航空ユニットは45機で1ユニット(完全戦力面)であり、減少戦力面だと25機程度だということになるのかもですが、1942年のビルマ戦で可動していた航空機は機種毎では10機内外とかいう世界で、ユニット化に難があります。

 そこで、陸上ユニットを3倍スケール(通常では大隊が2戦力であるのを、6戦力とする)にするのだから、航空ユニットも3倍スケールにする、つまり15機で1ユニット(完全戦力面)とし、減少戦力面では7~10機程度とするのもアリではないかと考えました。また、OCSでは減少戦力面の航空ユニット2個をいつでも統合して完全戦力面にできるのですが、OCS『South Burma』(仮)の1942年用の航空ユニットは減少戦力面しかないようにして統合はできない、また補充も1ステップ単位であるということが分かりやすくするという案もあるかも(航空ユニットの補充は1ポイントで2ステップ分である、というOCSゲームの方が最近は多い気がするので、それらと混同しないようにするため)。

 念のため、3倍スケールであったOCS『Reluctant Enemies』で、航空ユニット、そして砲兵ユニットも3倍スケールであったのかどうか聞いてみた(サルツマン氏経由で、デザイナーのカーティス・ベーア氏に)ところ、いずれも「No」という返答でした(^_^;




1941年12月の戦闘序列(ミンガラドン飛行場周辺)
 イギリス空軍第67飛行隊(「バッファロー」(旧式の戦闘機)18機)
 ビルマ義勇軍航空隊(「タイガーモス」(通信連絡任務)11機)
 アメリカ義勇軍第3飛行隊(「トマホーク」または「P-40」21機)

 第60飛行隊(「ブレニム」)は名目上は戦力に加わっていたがマレーで訓練中で、ビルマに戻ることはなかった。




1942年1月7日
 第113飛行隊(ブレニム)が到着し、限定的な攻撃行動を開始することができるようになった。



(1月20日からゲーム開始)


1月末
 バッファローは4機しか残っていなかったが、3個飛行隊分のハリケーンが9段階に分けてイラクから空輸されてきた。



1月から2月にかけての増援
 イギリス空軍第17飛行隊(ハリケーン)
 イギリス空軍第135飛行隊(ハリケーン)
【↑1月28日にハリケーンⅡB型を装備する第135飛行隊の主力がミンガラドンに到着。代わりに第67飛行隊のバッファローはトングー飛行場へと後退】
 イギリス空軍第113飛行隊(ブレニム)
 イギリス空軍第28飛行隊(ライサンダー
 インド空軍第1飛行隊(ライサンダー)(これらの直協機(直接協同機)は軽爆撃機として使われることもあった)
【2月5日から3月12日まで、印度空軍第1飛行隊の全ライサンダーで日本軍の飛行施設、在地機への攻撃を3月12日まで継続
チェンマイ、チェンライなどの飛行場も。その後、インド第1飛行隊は飛行機をビルマ義勇空軍に引き渡し、人員のみがインドに後退】

【2月3日の時点でのビルマにおける戦闘機兵力(可動機)は、
 77戦隊九七戦23機
 50戦隊九七戦20機

 第17飛行隊ハリケーン7機
 第67飛行隊バッファロー4機
 第135飛行隊ハリケーン4機

 AVG第1飛行隊トマホーク12機
 AVG第2飛行隊トマホーク8機

 日本軍の戦闘機の数的優勢も危ぶまれる事態になりつつあった。しかし防御のため、兵力を分散せざるを得ない連合軍側に対して、攻勢をとる日本側には、まだ戦闘機を集中使用できる利点があった。】


【1941年12月11日~1942年2月24日の両軍損失
九七戦23機
一式戦2機
(連合軍の地上砲火や連合軍爆撃機との交戦で失われたものはない)

連合軍戦闘機17機
(連合軍戦闘機の損害には、地上砲火や日本軍爆撃機との交戦で失われたものは含まない)】


【2月27日時点のミンガラドン飛行場の連合軍戦闘機隊の可動兵力は
トマホーク5機
ハリケーン4,5機にまで減っていた

 日本側はこの日の飛行場攻撃で、航空撃滅戦をいったん終了し、しばらくは航空部隊の後方補給の充実と、戦力回復に力を注ぐことになった。連合軍は可動10機程度にまで落ち込んだが、【その後? 2月末から3月上旬ということ?】中東からハリケーンが逐次到着し、AVG(の?)第3飛行隊の一部が昆明からマグエに飛来したことで、可動兵力はトマホーク、ハリケーンを合わせて27機にまで回復した。】



3月上旬の増援
 イギリス空軍第45飛行隊(ブレニム)


 予備品や工具の不足、機体の酷使等により2月から3月上旬にかけての機数は、ブレニム6機、ハリケーン12機、トマホーク12機を超えることはなかった。【ただし、3月2日に第113飛行隊のブレニム9機がキャクトー、ビリン、タトン間の路上にいた日本軍車両を攻撃したという記述も】



【3月16日付けの連合軍戦闘機兵力は、
第17飛行隊ハリケーンⅡ型保有16機
第136飛行隊ハリケーン保有10機(Ⅰ型(訓練専用とされていた使い古し)9機、Ⅱ型1機)
AVG第3飛行隊トマホーク保有6機】




 これもまた、今後調査継続し、情報集積していくということで。


OCSのシナリオの勝利条件改造 or 設定のために:勝利条件が複数あるとよい?

 GJ16号を読んでいて、勝利条件設定について「なるほど……」と思う話が書いてあったので、今後のためにメモっておきたいと思いました。


 P54の対談中の、浅野竜二氏のご発言です。

 【……】複数の勝利条件がないと、勝利条件が一つでどこどこを取れば勝ちとするとどうしても単調になってしまうので、複数の勝利条件が最低限の条件でしょうね。勝利条件が二つあれば右を狙うように見せかけて左を狙う。必ず複数の勝利条件でブラフをかけながら駆け上っていくというのがいいゲームだなというのが、私の持論です。


 OCS『Luzon: Race for Bataan』の勝利条件ですが、そうなってないですね……(>_<) 一応、第5ターン終了時の勝利条件の他に、第3ターンまでにマニラを日本軍が占領したらサドンデス勝利というのがあるので、「勝利条件が1.5個ある」と見なせなくもない……?

 そういえば、先日勝利条件の改造を検討していたOCS『Tunisia II』のカセリーヌ峠の戦いシナリオは、元のが1つのヘクスを取っていることが絶対的に必要で、それで単調になっていると言え、改造案は5つヘクスの内の1つを取れればよいとしてはどうかというものでした。

OCS『Tunisia II』カセリーヌ峠シナリオの勝利条件改造案 (2023/01/09)




 OCSのシナリオの勝利条件は、「うまいな……!」と思うものもあるのですが(例えば私が初心者向けに一番にプレイを勧めるOCS『Sicily II』のシナリオ1「シチリア島西部」などは、4つの勝利条件ヘクスのうち3つを取る、というもので、シンプルな割にうまいと思います)、「うまくないと思う……」というようなものもあり、そういえばうまくないと思うやつは「とにかくある一つのヘクスを取ればよい」というようなやつだったりしたような気がします。

 そうすると、もしシナリオの勝利条件を改造するとしたら、勝利条件が複数あるように改造してみるというのが一つの手段である……?


 そしてまた、今後OCS『South Burma』(仮)上で勝利条件を設定する際には、勝利条件が複数あるようにしてみるというのがとりあえず良さそう……?

 他にも「勝利条件はこういうのがいいよ」とかあったら、ご意見いただければ大変助かります<(_ _)>




 あと、実はこの対談記事では「1~2時間でプレイできるゲームがいいよね」ということが言われてまして、OCSフリークとしては恥じ入るところなんですが、しかし逆に考えれば「OCSで2ターンで終わるような1つのゲームを作ってもいいということではないか」とも思ったり。でもそういうゲームが作れそうなテーマが全然分からない……占守島の戦いはいけそうではないかと思って少し調べたりしたんですが、ちょっと良く分からないままです。しかし以前は考えてなかったんですが、3倍スケール全然アリならいける……?


OCS『South Burma』(仮)製作のために:前方(サルウィン川沿い)で防御すべきか、後方(シッタン川沿い)で防御すべきか

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「作戦的な観点」という項目から。



 ↓今回の記述に出てくる地名等です。赤い矢印が日本軍の最初の進撃路。東側の赤い□が「コーカレイ」で、西側が「モールメン」。川沿いの赤い破線が、東から「サルウィン川沿いの防衛ライン」「ビリン川沿いの防衛ライン」「シッタン川沿いの防衛ライン」。その西の緑の破線が「ビルマ公路」です。

unit8631.jpg




 英連邦軍は、自分たちが遭遇することになる戦いの種類に対して、まったく準備ができていなかった。それはあたかも、イギリス軍の戦列歩兵が18世紀半ばに北米のインディアンと荒れ地で戦った時の困惑を、より激しくしたようなものであった。ウェーヴェルはこう総括している(注11:1948年3月11日付ロンドン・ガゼット紙への回答(28段落目))。

私達は、今まで見たこともなかった戦争に直面していることに気付いた。その敵は、独立した指揮で機動性をもって戦うという大陸【中国大陸?】のモデルで完全に整えられ、規律正しく訓練され、しかも濃密なジャングルからいきなり白兵突撃をしてくるといった異例の戦術を駆使していたのだ。我々の部隊が回り込まれ、混乱に陥るのも無理はなかった。

 この戦いの期間中の作戦的な論争が、主に2つあった。一つは、第一段階での方針についてである。ウェーヴェルは、日本軍とはできるだけ前方、つまりコーカレイからモールメンの間、それからサルウィン川のラインで戦うべきだと命じ、ハットンも忠実にそれに従った。その根拠は優れたものだった。つまり、日本軍を遅滞させることができれば予定の増援をラングーン港経由で送り込むことができ、ビルマを防衛できるだろうというのである。また、この前方防御により、イギリス空軍は十分な早期警戒を行い、輸送船団を航空援護することができるようになる。

 しかし、日本軍が侮れないことに気付いていたスミス将軍にとっては、このような方針は賢明とは思えなかった。【前方防御の前線までの】距離は遠く、彼の兵力は少なかった。日本軍はどこにでも優れた部隊を集中させることができ、彼の部隊は必然的に一つずつ確実に敗北することになろう。そこで彼は、ビリン川まで撤退して初戦を行った後、ラングーンを守るための主たる戦いをシッタン川のラインで戦いたいと考えたのである。

 ウェーヴェルは理論的には正しかったが、実際には部隊の未熟さのため、前方での作戦はあまり成功しなかった。遅滞はほとんどできず、多くの損害が発生し、士気の向上にはつながらなかった。もしビルマ小銃大隊が【より向いていた】ゲリラ的な役割を果たすように訓練されていれば、もちろんもっと成功しただろうが。あるいはまた、もしウェーヴェルがジャワ島におらず【当時ウェーヴェルは東南アジア戦域全体を指揮しなければならなず、ジャワ島のABDA総司令部にいた】、ビルマ戦での現実をもっと身近に感じていたら、違った見解を持っていたかもしれない。

 第二の論争は、プロームでのこと【第二段階の序盤】である。ウェーヴェルは、攻撃的な作戦が日本軍に対して効果的であり、日本軍がラングーン港に陸揚げさせる増援によって増強される前に局面を逆転できるだろうと強く信じていた。これも理論的には正しかったが、両軍の相対的な戦力や、道路に縛られる英連邦軍部隊に対して日本軍が柔軟に攻撃を行えることをまだ理解していなかったのである。これがシュエダンでの敗北につながり、トングーでの中国軍の敗北とともに、ビルマ中部の運命を決定づけたのだった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P345,6


 「第二の論争」についてはまた今後検討するとして、今回は「第一の論争」のみについて。


 この「なるべく前方で防御」か「下がってから防御」かの論争は各種資料でも興味深く取り上げられており、印象としては「下がってから防御」するべきだったという意見の方がかなり優勢であるように見えます。

 一方で、ゲーム上では「下がってから防御」した方が絶対に良いのでは、ある意味面白くなく、よろしくないような気がします

 私はこれまで、「なるべく前方で防御」しなければならないように勝利得点で縛るしかないかなぁ……(例えばモールメンを早期に日本軍が獲得すると、日本軍に大きめの勝利得点が入るというように)と思っていました。しかし今回のブログ記事を書こうとしている過程で思いついたのですが、ゲーム上では「前方で防御か、後方で防御かを、プレイヤーは自由に選べるが、どちらの選択肢にもメリットとデメリットがあり、悩ましい」の方が遙かに良いなと。

 もしかしてそのようにできるかもしれないので、資料に書かれている「前方で防御」と「後方で防御」のメリットとデメリットを書き出してみようと思います。



◆前方で防御のメリット

・政治的意義。英領マレー半島とシンガポールの失陥が迫り、米軍がバターン半島で粘り強く抵抗を続けている中、英領ビルマで自ら土地を差し出すことは許されなかった。モールメンは重要な、ラングーンとマンダレーに次ぐビルマ第3の都市であり、これを失う感情的・士気的な痛手も大きいと考えられた。

・撤退が中国に及ぼす影響があまりにも大きい。

・ビルマ公路を日本軍に遮断させないことが重要なのだから、ビルマ公路からできるだけ日本軍を遠ざけておくべきである。シッタン川のラインで守る場合、シッタン川沿いに長く延びるビルマ公路が危険に晒され、あるいは一部占領されることもあり得る。これではビルマを守る意義の大きい部分が果たされないことになってしまう。

・日本軍がビルマ東部の航空基地を手に入れれば、ラングーンとそこへ向かう輸送船が爆撃圏内に入ってしまう。
【ただしこの件に関しては、モールメンのかなり南方の複数の航空基地は守れる見込みはなく日本軍が容易に占領しています。しかしそれらの航空基地は規模が小さく、よりラングーンからは遠いということで、モールメン周辺の航空基地が保持できるのであれば保持した方が良いということでしょうか。また、日本軍は輸送船団を爆撃してないかもしれないのですが未確認で、しているのかもですし、英連邦軍側としては爆撃の可能性が増大するだけでも脅威だったということはあるでしょうね。】

【あと、「ラングーン(等)への爆撃」に関してですけども、私は「ビルマ人への爆撃」的な捉え方をしていたんですが、そうじゃなくて「ビルマの都市部でビルマ人を支配・収奪しているイギリス人やインド人の邸宅や施設を狙った爆撃」であったとすれば、なるほどそれは今まで私が想像していたよりも有効に機能したかもしれない、と思いました。】

・時間を稼ぐことが重要だったので、できるだけ前方で防御して縦深を確保し、遅滞防御した方が良い。時間が稼げれば、ラングーンからモールメン方向に部隊を派遣させられるし、シャン州の防御を中国軍に引き継いで(兵站的、政治的に複数の障害があったが)そこにいた部隊も向かわせることができるだろう。

・初めからシッタン川沿いのラインで守ろうとすると、初期の少ない戦力では結局そのラインを守ることができずに、なし崩し的にその防御ラインを失い、結果としてすぐにビルマ公路どころかラングーンをも失う事態になりかねない。




◆前方で防御のデメリット

・初期時点で前方に置けている部隊が少なく、敵が優勢なので「敗北が一つずつ重なっていく」ことが確実である。

・サルウィン川沿いの防衛ラインは長く、日本軍の展開を捉えられない中、あらゆる場所に兵力を派遣しなければならないが、それができるだけの兵力がない。しかも主要地点を押さえておいても、日本軍はそれを迂回してくる。また、ビリン川は小河川なので長期保持するのは難しい。シッタン川の下流は、河口にあるシッタン鉄道橋を爆破してしまえば、充分な準備をしても渡河が難しいほどの大河である。中流にも橋がなく、充分な渡河準備が必要。

・補給路が長い。途中、シッタン川両岸には良い道路がない部分があり、マルタバン【モールメンの対岸の町】とモールメンの間は船でしか荷物を運べず、モールメンから東には良好な道路は存在しない。
【ゲーム的には鉄道輸送力を小さくし、輸送トラックや輸送ワゴンの数も少なくすれば、かなり苦労することになると思います。】





 うーん、割と純軍事的には、「後方で防御」した方が良さそうな気がします(^_^; 一方で政治的には絶対許容できなかった。ですからやはり、勝利得点で縛るのはした方がいいでしょうね……。

 今思いつくものとしては、

・ある時期より早くモールメンなりビリンなりを放棄すると、中国軍の守備地域から引き抜いて来た英連邦軍部隊が増援として得られなくなる。

・ビルマ公路の遮断が早い時期に起こると、日本軍側に大きな勝利得点が入る。


 とかでしょうか……。



 これまた今後も情報集積、検討継続ということで。


OCSでユニットがDG(混乱)になる時、同じスタックの別のユニットも一緒にDGになるケースとならないケース

 先日、OCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のプレイで、ホート麾下の師団とグデーリアン麾下の師団が隣接していたためDG(混乱)になる……ということを処理しようとしました。



 ↓で、ホート麾下の師団はストライプ(この場合緑色)の上に白線が入っており、グデーリアン麾下の師団のストライプ(この場合紫色)の上には白線が入っていないので、見分けることができます。

unit8633.jpg



【『Smolensk:Barbarossa Derailed』】 3.4a 作戦境界線
 各フェイズの終了時に以下の状況にある複数ユニットフォーメーションのユニットはDG になります。
・もう一方の装甲集団のユニットとスタック、あるいは隣接している。



 この時、複数ユニットフォーメーション(つまり師団)以外の独立ユニットも↓に従って一緒にDGになるのでは? という話が出たのですが、分からないのでfacebookのOCSグループで質問してみました。

【OCS】 5.10a 混乱モードマーカーの配置 戦闘ユニットは、以下の状況に陥った時に混乱モードになります。
A)砲爆撃や戦闘の結果によって、DGの結果を被った。
B)ユニットが2へクス以上退却した(2ヘクス目のヘクスに退却した瞬間に混乱モードになります)。
C)敵ZOCに退却した。すでに混乱モードのユニットが敵ZOCに退却した場合、スタックは1ステップを失います(各ユニットが、ではなく)。ステップを失うユニットは、それを指揮するプレイヤーが選びます。
 混乱の結果が起こった時にそのヘクスにいたすべての戦闘ユニットは混乱モードになります(たとえ退却に参加したのでなくても)。



 先日新たにOCS班長に就任されたサルツマン氏がOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』のデザイナーであるジョン・キスナー氏に確認して下さり、キスナー氏によるとこの場合、「複数ユニットフォーメーションだけがDGになり、その時同じヘクスにいた独立ユニットはDGにはならない。」とのことでした。

 サルツマン氏がジョン・キスナー氏にこの問題に関する意見を求め、まとめた?ところによると、「混乱の結果が起こった時にそのヘクスにいたすべての戦闘ユニットは混乱モードになる」のは、OCS 5.10aの3つのケースにおいてはそうなる、ということであり、それ以外のケースにおいてはこの規定は適用されないと考えるべきであろう、ということでした。

 「一緒にDGにはならない」ケースとしては前記のOCS『Smolensk:Barbarossa Derailed』の場合の他には、OCS『Sicily II』などで1つのヘクスで複数のALT(揚陸)が行われる場合、1つのALTがDGになったからといって、別のALT(のLanding Craftやその積み荷)はDGにはならない、というケースをサルツマン氏は挙げておられました。

 また、「海軍ユニットはスタック内の他のユニットとは別にDGを被る(OCS 18.3d C)」というのもありますね……。『Sicily II』のケースについては↓でまとめていました。

OCS『Sicily II』「ハスキー作戦」シナリオの連合軍用サマリーを作ってみました (2021/09/26)




 ついでにまとめておきますと、上記の5.10aのケースで、

・「退却の2ヘクス目」
・「敵ZOC」

 に入った時にDGになるわけですが、その両方のケースで、その時そのヘクスにたまたまいた他の自軍ユニットも一緒にDGになります。そしてこれは、退却するユニットが退却以前にすでにDGになっていたとしても(あたかも新たにDGになったかのようにして)適用されます。

 詳しくは↓こちら。

今回出てきた、OCSシリーズルールへの解釈問題3つ (2020/03/11)


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦の戦略的な観点

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「戦略的な観点」という項目から。



 ↓関係地名等を、『A War of Empires』のMap2を白地図化したものに記入してみました(緑色の破線がビルマ公路。赤い破線矢印は日本軍側の攻勢欺瞞。青い破線矢印は日本軍側が恐れていた中国軍の攻勢です)。

unit8635.jpg




 両軍とも、ラングーンがビルマの鍵であることを理解していた。最大の都市であり、唯一の主要港であり、産業の中心地であり、多くの熟練労働者の居住地であり、軍需物資の巨大な集積地であり、優れた飛行場群に近接しており、こことその海へのアプローチを押さえ、十分な増援があれば、ビルマを支配できることは明らかだった。英連邦軍の戦略は、できるだけ長くラングーンを保持することであったが、しかしラングーンを包囲されてもいけなかった。日本軍の作戦は、軽装備の部隊を最大限の速度でラングーン周辺に展開し、【ラングーン港から陸揚げされる増援によって】英連邦軍が十分に増強され阻止されてしまうようになるか、中国軍が集結して北翼が攻撃され始めてしまう前にラングーンを占領することであった。

 しかし、ビルマの英連邦軍は戦争への準備があきれるほど不足しており、指揮配置は拘束され、戦闘機や経験豊富な兵士が致命的に不足していたため、日本軍側の思うつぼになった。中国軍は、ビルマ公路に対する攻撃は【タイの北側の】シャン州南部を経由すると日本軍に信じ込まされ(それはかなりありそうなことであった)、マンダレーの南からの進出を躊躇した。だが、日本軍の勝利は際どいものだったのである。シッタン川の惨事【英連邦軍の撤退の前にシッタン川橋梁を爆破してしまい、多数の兵員と装備が失われたこと】がなければ確実に、そしてその後も恐らく、第17インド歩兵師団は第63旅団で増強され、それほど強くない【日本軍の】第55師団には勝利できただろう。もし、第7機甲旅団だけでなく、第7オーストラリア歩兵師団のような戦闘経験の豊富な1個師団と、航空機のそれなりの増援があれば、弾薬不足だった日本軍の両師団【第55師団と第33師団】は敗退して追い返されていたかもしれない。そこに中国軍が攻撃をかければ、日本軍は敗走した可能性さえある。その次に何が起こったかは推測に過ぎないが、このように日本軍に対して反転攻勢を成功させれば、東南アジアでの戦争とイギリスの威信に大きな影響を与えたことは確かである。

 しかし、優秀な師団を間に合うように送り込むことは不可能であることが判明し(注12:イギリス戦時内閣は、イギリス軍第18歩兵師団を【実際に送られた】シンガポールではなく、ビルマに転用することも検討していた。この師団は実戦経験がなく、中東での戦争のために訓練されたものだった。しかし軍事的な理由ではなく、主として政治的な理由で破滅的な決定が下され、運命的な航海を続けるよう命じられたのである。)、シュエダンへの最後の絶望的な打撃とビルマからのイギリス空軍の撤退の後、日本軍の戦力が急速に増加していたため、ビルマのどこかを保持できる可能性は低いことが明らかになった。中国軍が急速に敗北し、ラシオを失ったとき、チャンスはまったくなくなってしまった。そして問題は、インドに向かおうとする多くの民間人を保護し、モンスーンが来る前に彼らの後を追って撤退することだということになった。日本軍からの大きな圧力と、非常に困難な状況の中であったが、この撤退は実に巧みに行われたのである。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P346,7



 この記述からゲーム化において参考になることとして……。

1.日本軍によるラングーンの占領(あるいは包囲)が遅れれば、英連邦軍の増援がラングーンから続々と陸揚げされ、また中国軍が北翼から攻撃して来られるようになるようにすべき(?)こと。

 史実ではラングーンが包囲急襲されそうになったところで、英連邦軍(アレキサンダー将軍)はラングーンの保持を諦めて部隊を北方に脱出させたようです。しかしゲーム上では、恐らくラングーンには多くのSPもあるだろうことも相まって部隊を置いて籠もった方が有利なように思えます……。このケースにおいてなぜ英連邦軍はラングーンに籠もる選択をしなかったのか、今後継続調査で……。



2.「日本軍の勝利は際どいものだったのである」という記述は、ゲーム化においては良い話であるように思えます(^_^; 「それほど強くない【日本軍の】第55師団には勝利できただろう」というのは、「他に強い第33師団がいたが、これに対して第7オーストラリア歩兵師団のような強力な1個師団があれば……」というような含意があるのだと思います。

 第7オーストラリア歩兵師団というのは、隷下3個旅団の内1個がトブルクで、2個がシリアのエクスポーター作戦(OCS『Reluctant Enemies』)で戦った歴戦の部隊でした。日本の参戦によりオーストラリア本土の防衛戦力が必要となったため、船に乗せられてインド洋を航海中だったのですが、イギリス政府はビルマの防衛が危なくなったため、急遽第7オーストラリア歩兵師団をビルマに回せるよう、オーストラリア政府に要請したのです。が、オーストラリア政府はその要請を断ったのでした。

 一応、その一部が結局ジャワ島で日本軍と戦ったという話もあるのですが、ジャワ島はオーストラリア本土により近いですし、この戦いではオーストラリア軍はアメリカ軍、オランダ軍と共に戦っています。そもそも、それまでの中東での戦いで、オーストラリア軍部隊がイギリス軍から「消耗品のように使い捨てられる兵士」として使用されているとして、オーストラリア政府からのイギリス政府に対する反感が非常に大きくなってしまっていました(→第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦域のオーストラリア軍について(付:OCS『DAK-II』) (2021/04/09))。そこらへんを考えると、オーストラリア軍部隊がビルマに振り向けられる可能性は、ゼロではないとしてもかなり低そうではあります。

 しかしゲームとしては、史実でジャワ島に送られた部隊あたりをヴァリアントとしてユニット化しておくことはなしではないでしょう。それらの部隊は具体的にはWikipediaによると「2/3rd Machine Gun Battalion, the 2/2nd Pioneer Battalion, and the 2/6th Field Company」だったということで、前2者に関してはWikipediaの単独項目もあるどころか、OCS『Reluctant Enemies』でユニット化されています。最後のものも2/5中隊と一緒にされてユニット化されています。


 ↓OCS『Reluctant Enemies』上のそれらのユニット。

unit8634.jpg




 イギリス第18歩兵師団は、1個旅団がマレー戦の初戦前にマレー半島に送り込まれ、残り(2個旅団?)が1月29日から2月5日までの間にインドを出航してシンガポールに到着し、2月8日から15日のシンガポールの戦いの後降伏しました。

 このタイムスケジュールを見ると、シンガポールが陥落した頃でさえ、ビルマ戦はまだそれほど危ういとは思われていなかった(2月23日に「シッタン川の惨事」が起こり、急速に危なくなります)ので、政治的にイギリスがシンガポールを諦めたかのように思われることは許容できなかったこととも含めて、第18歩兵師団もビルマに送られる目はほぼなかったように思えます……。

 しかしもし一部の部隊でも可能性があるとすれば、何らかのトラブルが起こってシンガポールに送られなかった部隊が出たとか、あるいは深謀遠慮によって師団の全部がシンガポールに送られるのではなく、少しだけ控置されたとして……とかでしょうか。

 一応、ヴァリアントとして一部の部隊が入れられることがあってもいいのかもです。



3.「シュエダンへの最後の絶望的な打撃とビルマからのイギリス空軍の撤退の後、日本軍の戦力が急速に増加していたため、ビルマのどこかを保持できる可能性は低いことが明らかになった。」という記述ですが、シュエダンの戦いは第2段階のごく初期の戦いであるため、もしこの時点で「後は消化試合に過ぎなかった……」ということになれば、ゲーム化する上で問題ということになってしまいそうで怖いです(>_<) そこらへん今後調べていきますが、「可能性は低い」ということは「可能性は少しはあった」わけで、「中国軍が急速に敗北し、ラシオを失ったとき、チャンスはまったくなくなってしまった。」というようなことが起きないように連合軍プレイヤーは気を付ければ、ゲーム上は辛勝できる……という風にすれば良いのでしょうか。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマ戦時のイギリス空軍について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「イギリス空軍」という項目から。


 陸軍と同様、ビルマにおけるイギリス空軍もイギリス政府の政策の犠牲となった。戦争が始まった時、彼らの作戦戦力は、低水準のバッファロー戦闘機1個飛行中隊のみで構成されていた。幸い、AVG【アメリカ義勇部隊:フライング・タイガース】はより近代的なカーチス・トマホークの1個飛行中隊を提供し、イギリス空軍の管理下で戦うことに同意してくれた。両者は、1つのレーダー設備と効率的なビルマ観測隊(注10:民間の郵便電信局で編成されていた)の助けを借りて、ラングーン上空の制空権を掌握することに成功したのである。1942年1月、イギリス空軍は中東から古いハリケーンを少しと一握りのブレニムで増強された。これらによって、彼らは日本軍の地上部隊に非常にうまく嫌がらせをしながら、圧倒的な敵の数に対抗してうまく戦うことができた。ラングーンに向かう重要な増援の輸送船団が一隻も撃沈されなかったことは、連合国両軍の航空部隊に大きな信用を与える事実であった。

 大英帝国の各地から集まったパイロット達は若く、大胆で勇敢であり、日本軍の航空部隊の遙かに多い数によく耐えたことは驚くべきことであった。イギリス本土とは異なり、彼らの問題は航空機よりもパイロットの数が多いということだった。これは地上スタッフの責任ではなく、予備機が絶望的に不足していたためであり、彼らは損傷した機体を使える状態に保つために、天才的な即興術を披露した。しかし、ラングーンを失い、敵の接近によってマグウェへの移動を余儀なくされたとき、イギリス空軍には十分な早期警戒装置が欠けていた。この弱点を克服するための適切な対策を講じることの緊急性は、おそらく十分に認識されていなかったのだろう。しかし、敵はそのことをよく理解しており、はるかに優れた空軍が彼らを排除する立場になると、すぐにそれを実行したのである。

 ビルマでの地上戦の成功には、他の地域と同様に航空優勢、あるいは少なくともその均衡が不可欠であり、1944年の重大な戦いと1945年のビルマ再征服は、まさに陸海空合同の作戦となった。しかし、1941~2年には、イギリス政府はビルマで防空に最低限必要なものさえ提供できず、イギリス空軍をひどく失望させたのである。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P345



 今回は全般的な話が主で、把握はしておくべきものの、細かいレーティング等にはそれほど関係しないかとは思いました。


 バッファローですが、これまでのOCSではユニットになっていないと思われるのですが、OCS『South Burma』(仮)においてもゲームが開始される1942年1月20日の時点では1ユニット(の減少戦力面)にも足りないと思われるので、「MixF(P40B/バッファロー/ハリケーンの混合)」として提供されるのではないかと思っています。でも、シルエットはバッファローのものにするというのはいいかもですね……。

 現状では、航空ユニットのレーティングはOCS『Luzon: Race for Bataan』の時のものを流用しつつ、こういう感じではないかなと思っています(イギリス空軍の爆撃機についてはまだ作業していません)。

 数値は、空戦力-爆撃力(航続距離)です。


P40B
3-3(37)

ハリケーン(Ⅱb?)
4-2(?)(46)

九七戦(Nate)
2-0 (40)
減少戦力面は1-0


九九双発軽爆 Lily
(0)-4 (150)
減少戦力面は(0)-2

九七軽爆 Ann
(0)-3 (106)
減少戦力面は(0)-2

OCS『South Burma』(仮)製作のために:ビルマ国境警備隊(F.F.)について

 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの続きです。今回は、「ビルマ人部隊」という項目から、ビルマ人(といっても、在ビルマのインド人やグルカ人?)によって編成されていた国境警備隊(F.F.)について。


 ビルマ人憲兵隊は平時には高く評価されていたが、戦時に広い範囲に広がった混乱に対処するには人数が足りなさ過ぎた。ビルマ人憲兵隊から編成されたビルマ国境警備隊【Burma Frontier Force units】は、哨戒、情報提供、補給集積所の保護などでよい働きをすることが多かった。しかし、ビルマ連隊と同じようなストレスにさらされ、末期には1つか2つの部隊が反乱を起こし、敵に寝返ったと言われている。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P344


 もし必要そうなら、キャンペーン終盤にはこれらのユニットの反乱チェックをして日本軍に寝返る……というルールを考えてしまうのですが、しかしそれを入れると合理的に行動する連合軍プレイヤーは中盤までにこれらのユニットをわざと壊滅させてしまうだろうということが容易に想像できます……


 この国境警備隊というのは英文資料では「F.F.」と書かれており、戦闘序列を見ると師団や旅団に組み込まれているように思えます(日本語資料では軍直轄になっていたりしますけども)。師団等の後方守備隊という感じでしょうか?


 『The War Against Japan Vol.2』の付録1(P439)には「F.F.」についての注記がありました(『ビルマ進攻作戦』P242にその和訳あり)。

1.国境警備隊は、本部、2個乗馬部隊、3個歩兵部隊(各約100名)から成っていた。それに付け加えて輜重のために若干の大型トラックがあり、第2国境警備隊は民船をいくらか持っていた。


 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の付録2(P361)にも注記がありました。

3. BFFの部隊は1941年に、ビルマ憲兵隊のインド人とグルカ人や、ビルマ在住であったインド人グルカ人で編成された。彼らは軍によって動かされたが、管轄は引き続き民政当局であった。彼らは、騎乗歩兵の2つの部隊と3つの歩兵隊に編成され、それぞれ約100人の隊員を擁していた。最初の役割は、敵の前進を妨害し遅らせることだった。






 以下、各時期の戦闘序列にどのように存在しているか書き出してみます。


1941年12月27日

1st Burma Division (Southern Shan States)
 F.F.1, F.F.3, F.F.4, F.F.5【『ビルマ進攻作戦』の1941年末の戦闘序列では軍直轄】

2nd Burma Brigade (Moulmein)
 F.F.2(Mergui)(注2:おおむね予備)



ビリン川の戦いの頃(2月下旬)

17th Indian Division
 F.F.2【前記の第2ビルマ旅団のが合流したもの】





1942年3月19日

1st Burma Division
 F.F.1, F.F.3, F.F.4, F.F.5

1st Burma Brigade【↑の隷下?】
 F.F.8

17th Indian Division
 F.F.2, F.F.6



 ユニット化においてですが、原則として約1,000名が6戦力で、国境警備隊が約500名なので人員数だけ見れば3戦力ですが、火器の火力において相当劣っていて実戦部隊ではないでしょうから、(1)【防御のみの1戦力】、アクションレーティング0あたりではないかと思います。ただ、移動力においては乗馬部隊が40%あって、ビルマ人部隊は現地の移動に困難がなかったという話があるので、少し高めにレーティングされるということではないでしょうか。


<2023/06/15追記>

 ↑で、「ビルマ人部隊は……」と書いていましたが、直前の引用で「グルカ人やインド人」とあるので勘違いでした(^_^; そうすると書いていた時の印象よりも少し強めだと思うので、戦闘モードで(2)、移動モードで(1)、アクションレーティングは1ということでとりあえずユニット化してみました。


 ↓戦闘モード面。

unit8593.jpg


 ↓移動モード面。

unit8592.jpg


 F.F.7が存在していたかどうか分からないのですが、ここらへんの部隊は欠番はないような印象を持っているのでとりあえず作っておいて、右肩に●を付けておきました。


<追記ここまで>



 あと、先ほどの『Burma, 1942: The Japanese Invasion』P361とP366には「ビルマ補助軍(Burma Auxiliary Force:BAF)」に関する記述があり、こう書かれていました。

2. ビルマ補助軍(BAF)への従軍は、1940年に軍齢にあったすべてのヨーロッパ系大英帝国臣民に義務づけられることになった。

15. ヨーロッパ人、イギリス系インド人、イギリス系ビルマ人から集められた小さな義勇軍部隊は、ビルマ補助軍と呼ばれていた。彼らは装甲車部隊、野砲兵、HAA高射砲、その他いくつかの小さな部隊を持っていた。しかし、残念ながら、これらの部隊の精神と勇気は、その旧式の装備によってほとんど無効になってしまった。


 これまでにも「BAF」という表記は見ていて、意味が分かってなかったのですがようやく理解しました。ビルマ補助軍については、↓に詳しい説明がありました。

The Burma Auxiliary Force

 部隊規模は小さいようで、ユニット化するかしないかギリギリのラインくらいだと思うのですが、とりあえずはユニット化しない方向で無視しようと思います。

 あと、「RA」という表記も意味が分かってなかったのですが、「Royal Artillery」の略称らしく、英連邦軍の砲兵(対空砲とかも含め)にはこの略称が付けられたりするようです。



『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』読了しました:印象深かった記述

 『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』を読了しました。1942年のビルマ侵攻作戦のみを扱った、読みやすい戦記ものとして非常に良くて興味深かったです。個人的にお勧めします。



 購入を検討される方は、Amazonのはバカ高い(4万円台)ので、↓からどうぞ。

日本の古本屋



 著者は第33師団(桜井省三師団長)の第215連隊の連隊本部付の下士官で、本部業務も色々やるのですが、徒歩行軍も戦闘行動もやったりしていてそこらへんの苦労も書かれていますし、色々楽しかったことがあるのも書かれています(食べ物とか、イギリス人邸宅を接収して美術品を見たりとか、故郷の踊りとか)。勝っている時期なのでということもあるとも思いますけども、ビルマ侵攻作戦は現地の人達を味方にするのにかなり成功した戦いであったのだということもありそうです。


 以前、↓でこの本での気付きについていくらか書きましたけども、読了後ということでまた書こうと思います。

OCS『South Burma』(仮)製作のために:『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』のパアン戦の記述より (2023/03/06)




 まずは、(捕虜にした)イギリス本土兵が刺青をしまくっていたというような件について。

 また、私の顔を見て、にやりと笑って行く白人兵もいた。見ると、白人兵は誰もが破けたシャツの間から、刺青を覗かせている。若い女の顔、赤いハートなど様々だが、日傘をさした日本の舞妓を腕に刺している者がいた。私を見て
「シガレット、シガレット」
 と、煙草を要求する。
「貴様たちはニュージーランド兵か?」
「ノー、英国本土だ」
 と誇らしそうに答える。赤茶けてよごれた、うす汚い頭髪と碧い眼が、憎々しい。捕虜の行列は、一進一退灼熱の丘を下りて行く。倒れたまま動かない英兵の肌に、たちまち蠅が黒く群がる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P194


 印象として「偉そうだなぁ」という気がしますけども、「支配(側の)民族」であるからとか「白人優越主義」からとか……? あるいは、イギリスは貴族階級と庶民階級は全然違うらしく、貴族階級が刺青しているかなぁという気もするので、庶民階級の中で兵士になるようなやんちゃ?な人達だったとか、あるいは統治対策用の部隊とかでなく第7機甲旅団の中の兵士だったとかで士気が高いとか……?

 尤も、「偉そう」で言うと、著者の言動も基本的に偉そうだとは思いました。「東亜の新秩序」の理想に燃えて、それに邁進している日本軍下士官としては、当時それがまったく普通のことであったのだろうなぁ、とは思います。


 ビルマにおける支配層であったイギリス人(家族?)が現地に構えていた邸宅が、取るものも取りあえず逃げ出して贅沢なものがごっそり残っている状態で日本軍側に接収されるという話も複数出てきます。「世界の支配層である白人、なかんづくイギリス人」対「東亜の新秩序ということを信じて戦う日本兵」「支配者が変わっていくだけに過ぎないとしても、それを喜ぶ現地民」という構図が強烈にあったのだろうな、という気がします。


 イギリス兵用の設備と、インド兵用の設備について懸隔の差があったという件も書かれていました。

 駅に廻ると、救急列車が放置されて、おびただしい量の衛生材料が散乱していた。
 車内に入ってみると、英兵用とインド兵用との設備に、はなはだしい差別があり、むらむらと憎しみが湧く。病院らしい建物には、負傷者やコレラに罹ったインド兵、中国兵が無残な姿で置き去られて、既に屍となっていた。悪臭が鼻を突く。大きな蠅が群れて集まり、ぞっとするほどの鬼気を感じる。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P225








 あと、英連邦軍が退却していく時に現地の村を略奪していった例が2、3出てくるのですが、中国軍が退却する時にはその程度が比べものにならなかったらしく……。

 中国軍の退却した道路沿いの部落を通過するとき、実に憤慨に耐えないものがある。略奪し尽くすと必ず、その部落を焼き払っていくのだ。その上井戸水には、汚物が投げ込まれている。罪もない住民に対して、このような非道を行う彼らは全く鬼畜に等しい。焦土戦術と、彼らは誇っているのかも知れないが。
 そして、コレラ、ペストなどに罹った者や落伍した者は、持ち物を全部奪われて路傍に捨てられていた。
『灼熱の征野―記録・ビルマ進攻作戦の180日』P229,230


 尤も極力客観的に考えれば、勝っている側としてはこれらはもちろん許せないことですけども、ボロボロに負けて退却する側としてはやむを得ない&合理的ではあるだろうとは思います……。後に日本軍がビルマから撤退する際にはどうだったのか、気になります(拉孟・騰越戦の前の頃の日本軍の非人道的行為についてはいくらか見つけてましたけども、ビルマからの退却期にそういうことがあったというのは私はまだ見つけてない気がします)。

 一方で、このビルマ進攻戦の終盤に捕虜にした中国軍の青年下士官が、著者が中国で戦っていた中国軍師団に所属していたことが分かり、懐かしさを覚えて筆談などをしている中で、「なぜ日本軍が戦争をするのか」という大義の問題であるとか、その青年が「人生最大の目的如何」とか「現在、世界の大勢および将来の予想如何に」などの質問をしてきてたじたじするとか、結局その青年を著者が帯同させることにして、色々機敏に働いたり、その青年が病気にかかった時に他の日本兵が見捨てろというのに著者がかくまって数日して回復してものすごく感謝されたとかって話があり(P238~)、そこらへん面白いなぁと感じました。


OCS『South Burma』(仮)製作のために:シッタン橋梁が破壊された後の第17インド歩兵師団の戦闘序列から、その定数について

 『The War Against Japan Vol.2』の巻末資料を見ていて、シッタン橋梁が破壊された後の2月24日の時点の第17インド歩兵師団の戦闘序列(P445)の中に、定数についての言及があるのを見つけました。


 それによると、(その時点でいた)3,484名は、定数の41%であったそうです。だとすると定数は、3,484÷41=84.97(1%の数値)、84.97×100=8497.56(100%の数値)で、「8497名」ということかと(計算の仕方、合ってます……?)。

 戦闘序列にあるのはすべて歩兵(小銃とかの)大隊で、1個旅団につき4個大隊で、12個あります。とすると、1個大隊は8497÷12=708名

 旅団は3個なので、1個旅団は8497÷3=2832名


 ただし、例えば4/12 Frontier Force Regimentや、ビルマ小銃大隊なんかは定数が少なめであった可能性もあるのではないかと推測してます。


 そうすると以前↓で、「1個旅団は約3000名で、だいたい3個大隊で1個旅団だから1個大隊は約1000名か」と書いてましたけど、1個旅団が約3000名(弱)だと決まっているけども、大隊が何名というのは割と違いがあって、1個旅団の定数を満たすために4個大隊を配属するとか、そういうことだった可能性も……?(全然分かりませんけども)

OCS『South Burma』(仮)製作のために:英印軍標準旅団の編成定員はおよそ3000名 (2023/03/06)


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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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「戦史物の物置」


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