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OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のSSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー連隊による捕虜虐殺事件

 続けて、SSライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー連隊による捕虜虐殺事件についてです。

 ↓前々回と前回。

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺 (2019/07/22)
OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のトーテンコップフ師団による虐殺事件 (2019/08/03)


 虐殺はこれだけではなかった。ル・パラディの事件の翌日、ダンケルクにほど近いヴォルムー【Wormhout】で、第1SS装甲師団【正確にはこの時点では装甲師団ではなく自動車化歩兵連隊】の隊員によって、ロイヤル・ウォリックシャー連隊とチェシャー連隊の兵士、多数の砲兵、フランス兵が処刑された。が、これに責任のあった中隊長のヴィルヘルム・モーンケに正義の裁きがくだされることはなく、モーンケは2001年に90歳で死んだ。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P266




 虐殺の対象となったイギリス軍部隊は、Wikipedia英語版「Wormhoudt massacre」を見ていると基本的に第48歩兵師団に所属していたようです。

 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のLAH連隊とイギリス軍第48歩兵師団

unit9970.jpg unit9968.jpg



 ↓LAHによる虐殺の場所ヴォルムー(Wormhout)。下方にはトーテンコップフ師団による虐殺事件のあったル・パラディ(Le Paradis)。

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 『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』には現場の写真と共に、かなり詳しい解説がありました。

私は、ロイアル・ワーウィクシャー連隊第II大隊の退役兵、のチャールズ・エドワード・デイリー(軍籍番号7342734)です。……大隊はヴォルムーと呼ばれる村の近くに位置していて、圧倒的なドイツ軍の矢面に立たされつつも、同地を2日間にわたり保持していました。5月27日か28日、あるいはその前後数日かも知れませんが、我々は包囲されて、なお抵抗を続けたところ、ついに弾薬が切れてしまい、降伏して戦時捕虜となってしまいました。拳銃を構えたドイツ兵が「イギリス人の豚野郎め!!」と叫びながら、私の肩を撃ちました。そしてチェシャー連隊と王立砲兵部隊の様々な階級の兵士とともに一軒の小屋(上) まで歩かされたのです……。私が見たところ、90名ほどがその小屋に押し込まれました。扉の外に立っているドイツ兵は前屈みになると、軍用長靴から手稲弾を取り出しました。捕虜の中では唯一の士官だった、D中隊長のリン=アレン大尉は捕虜殺害を灰めかす振る舞いに対し抗議しました。また、多数の負傷者がいるのに、彼らを寝かせる余地さえ与えられていない非道も訴えました。これに対して当のドイツ兵はアメリカ訛りが強い流ちょうな英語で「疑い深いイギリス人さんよ、これからあんたらが行くところで、いくらでも好きに寝ていればいいだろう」と言い放つと、彼とその周りの兵士たちは小屋の中に次々に爆弾を放り始めたのです。ムーア軍曹やジェニングス准尉は、皆を救おうとして爆弾の上に勇敢に身を投げだし、即死しました。アレン大尉の側にも爆弾が投げつけられましたが、この爆発では同中隊のエヴァンス二等兵が負傷したようでした。爆風から身を守ろうと屈んだドイツ兵の隙を突いて、大尉はエヴァンス二等兵を小屋から引きずり出し、虐殺の現場から逃れようとしました。小屋に爆弾を投げていたドイツ兵は、 次に小屋の外にいた捕虜たちを5人ずつ射殺し始めました。私は最初に小屋に入れられた一群に近い場所にいたので、順番が回ってくるのは後の方でしたが、私の前にいた仲間が引きずり出されて射殺されたとき、ちょうど雨が降り出したので、小屋の外で順番を待たせての射殺は中止になりました。代わりに我々は後ろ向きになるよう命令され、背中から撃たれました。ドイツ兵はそれから小屋の中に向かって短機関銃を撃ちまくっていましたが、私は撃たれたショックで気を失っていました。意識を取り戻したときには、右脚がちぎれ、左脚も負傷していたのです。私は2日か3日の間、小屋の中に横たわっていました……。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P440

ヴォルムー虐殺の実行者は、SS連隊"ライプシュタンダルテ·アドルフ·ヒトラー"所属の第II大隊にいたと言う【ママ】ことまでしか判明していない。 連隊長のヨゼフ・ディートリッヒ親衛隊大将は、当日の朝、この村に向かう途中に遭遇した攻撃によって、運転手が死亡し、彼自身、道路脇のくぼみに身を潜めてほとんど一日身動きが取れず、部隊からも孤立していた。折からの激戦で損害がかさみ、その日の1800時前後には第II大隊長も負傷するという心理状態のなか、SS隊員たちは連隊長もきっと敵の罠にはまったのだろうと思いこんだのかも知れない。大隊の指揮権は第5中隊長のヴィルヘルム·モンケSS大尉が引き継いだ。戦後、モンケはこの虐殺事件の首謀者として提訴されたが、小屋の焼き討ちの現場に彼が立ち会っていたり、実行命令を下したという証拠は遂に得られなかった。1972年、この虐殺事件がダンケルク復員兵協会の従軍牧師レスリー・エイトケン氏の知るところとなり、1973年5月28日、事件現場の近くに慰霊碑が建立された。現場は1947年以来、荒れ果てたままだったのだ。ヴォルムーからエスクベックを結ぶ道路層に、ポール・マリー氏によって慰霊碑建立用地が提供された。世界中に会員ネットワークを持っているダンケルク復員兵協会だが、フランス支部所属の2000名(訳註:原書の編集当時)が、毎年慰霊に訪れている。この虐殺を生き延びたのは、チャールズ・デイリー、 アルバート・エヴァンス、ジョン・ラヴェル、アルフレッド・トームスの4名であり、彼らが除幕式の来賓となった(左)。(右) 慰霊碑の脇には、虐殺の当日にディートリッヒが身を潜めていたくぼ地が残っている。戦後、彼は1944年12月17日のマルメディにおけるアメリカ兵捕虜虐殺の責任を問われて終身刑、その後に25年の判決を受けたが、10年で出所した。しかし、その直後には1934年のレーム殺害事件に関連してベルリンとミュンヘンでの殺人幇助の罪を問われ、18ヵ月間の懲役刑を受けた。ディートリッヒは1966年に死去した。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P441





 あと、今回見つけた英語版Wikipedia「List of massacres in France」の第二次世界大戦中のもののリストによると、グロスドイッチュラント連隊がパリの北の辺りで黒人兵を虐殺しているというのを見つけました……。エントリを改めます。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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