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OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のトーテンコップフ師団による虐殺事件

 1940年のフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺について書いてました↓が、今回はSSのトーテンコップフ師団による捕虜、市民虐殺について

OCS『The Blitzkrieg Legend』で見るフランス電撃戦中のドイツ国防軍部隊による市民虐殺 (2019/07/22)



 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のSSトーテンコップフ師団ユニット

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 この時期のトーテンコップフ師団について、以下のような記述がありました。

 帝国で唯一の武装集団という立場を維持したいドイツ国防軍の軍人たちは、親衛隊、すなわちハインリヒ・ヒムラーの私軍に、パレードしか能がないからと「アスファルト兵」という皮肉なニックネームをつけていた。それにもかかわらずヒムラーは1940年の戦役の際、3つのSS自動車化師団を組織するだけの兵と装備を狩り集めた。その第3師団である「どくろ」師団は、当初、主に強制収容所の要員で構成されていたため、収容所看守の印であるどくろの名で呼ばれていた。
『パットン対ロンメル』P179

 1933年にミュンヘン警察長官となったヒムラーが、ミュンヘン郊外のダッハウに設けた悪名高い強制収容所を管理・警備したのが髑髏(トーテンコプフ)連隊だった。当初、強制収容所総監のアイケ(テオドール・アイケ)が獄卒として集めたのは、地方出身の農村の青年たちやある種の無頼の徒たちだったが、この連隊がもっとも早くSS師団となった。
『武装親衛隊 ドイツ軍の異色兵力を徹底研究』P343





 トーテンコップフ師団はこの戦役中に何度も虐殺をおこなっているようなのですが、最も有名なのが「ル・パラディの虐殺」と呼ばれるもののようです。

 【イギリス第2歩兵師団の】ロイヤル・ノーフォークの第2大隊の残余の約90名は、ベテューヌ【フランスの都市】の北西にあるル・パラディという小さな町にあったある大きな家で抵抗を続けていた。孤立する中で弾薬もなくなり、5:15頃に指揮官であったライダー少佐は降伏を決断した。彼と、他に2人の兵士が白いタオルを持って家から出てきた。彼らは全員、即座に射殺された。大きな混乱がしばらく続いた後、最終的にドイツ軍側は残りの兵士達の降伏を受け入れた。青ざめ、軍服はボロボロに裂け、そして多くの場合負傷していたそのイギリス兵達は不幸なことにSSトーテンコップフ師団の捕虜になったのであったが、このSS部隊のうちの幾人かがどうやら、これ以前にイギリス軍のダラム【Durham】軽歩兵の兵士達によって殺されていたということがあったらしい。
 この時捕虜となったイギリス兵達は蹴られ、台尻で殴られ、武装解除された後、一軒の大きな倉庫へ向かって歩かされたのだが、その正面には2挺の機関銃が置かれていた。捕虜達の腕は後ろ手に縛られていたので倉庫の壁の前に到着した頃には列はバラバラになっていたが、その時機関銃が左から右へと撃たれ、捕虜達は次々に倒れた。捕虜達は機関銃と倉庫の壁の間にあった大きな堀に落ちていった。まだ生きている気配のある者達は撃たれるか、あるいは銃剣で刺された。
 奇跡的に、捕虜達のうちの二人、新兵のビル・オキャラハンとアルバート・プーリーが、撃たれていてはいたものの死体の山の下で死んだふりをして生き残り、SSの兵士達が去った後自力で這い出して、近くの豚小屋の中に身を隠した。彼らはそこで農場主の妻に発見され、食べ物をもらい、傷の手当てを受けることができた。だがその妻とその息子がドイツ軍部隊に疑われているらしいことを知った二人は自分達から投降し、結局、より人道的な通常のドイツ軍部隊の捕虜となって、最終的に捕虜収容所へと送られた。
 傷のために戦争の早期に本国へと送還されたプーリーは上官にこの虐殺について報告したが、信じてはもらえなかった。だがプーリーは諦めなかった。戦争終結後彼は、この件に関して調べ続け、ル・パラディへも赴いて、証拠を集めた。その結果、この虐殺に関与していたトーテンコップフの第2歩兵大隊長であったフリッツ・クノッホラインがハンブルクでイギリス軍の軍法会議にかけられて有罪判決を受け、1949年に処刑された。
『Lightning war:Blitzkrieg in the west, 1940』P274,5

 第2歩兵師団が英雄的な抵抗を見せたあと、弱りきった敗残兵たちは後日再起して戦うために(そして、撤退するために)北に脱出するイギリス軍に加わった。捕虜となった者の大部分はドイツ軍に引ったてられたが、ロバート・ブラウンの大隊の生き残りのうち、ナチス親衛隊トーテンコップ師団に捕まった隊員にとって、その日は恐ろしいほど唐突な終わりを迎えた。楽園の地(ル・パラディ)という皮肉めいた名前の村でのことだ。上半身を裸にされた兵士たちが草地に入り、納屋に向かって一列に並び、機関銃を向けられていた。生き残ったのは99名のうちたったふたり、信号手のビル・オキャラハンとアルバート・プーリーだけだった。オキャラハンは腕を、ブーリーは脚を撃たれた。倒れたふたりの上に、ばらばらになった仲間たちの死体が覆いかぶさり、親衛隊の兵士たちがまだ動いている者や息をしている者にとどめを刺してまわった。
 オキャラハンとプーリーはこの戦争を生き延び、1948年、虐殺をおこなったこの中隊の指揮官、フリッツ・クノッホラインの戦争犯罪裁判に証人として召喚された。このときの部下の行動について、イギリス軍が違法なダムダム弾を使用していたから、といった説明から、ロイヤル・スコットランド連隊との初期の遭遇戦で、中隊に多大な儀牲が出ており、怒りを覚えていたから、といった説明まで、クノッホラインはさまざまな主張をした。が、どれだけ言葉を尽くしても、彼の部下が捕虜を残虐に殺害した理由には充分でなかった。当時、現場に居合わせた親衛隊将校のうち、虐殺に反対したのはひとりだけだった。その将校は懸念を口にしたことで“臆病なウサギ”として免職になっていた。クノッホラインは裁判で有罪が確定し、1949年1月に処刑された。
『ダンケルク(DUNKIRK The history behind the major motion picture)』P265,6


 他の資料を見ていると、生き残った2人は発見されるまでは、生のジャガイモを食べ、水たまりの水を飲んだとか、あるいは戦後この虐殺のことを信じてもらえなかったのは、「東部戦線ではそういうこともあったようだが、フランス戦ではそういうことはなかっただろう」という感覚が当時支配的であったから……ということが書いてありました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』のイギリス第2歩兵師団ユニット。

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 『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』には、その他にもトーテンコップフ師団が虐殺をおこなっていたことが書いてあります。

 ル·パラディ事件の数日前にSS“トーテン・コップフ”はアラス地区において、非道な振る舞いにおいては他の追随を許さない実績を残していた。5月23日にボン=デ=ギイのエルマン農場にて市民23名を射殺(354ページ)したのをはじめ、オービニー周辺で98名以上、ヴァンデリクールでは45名を処刑していた。全員が無実の市民であるが、SS側では少なくとも一度は農民から射撃されたと主張していた。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P440


 ……アラスの西に8km……のボン=ド=ギイ……。5月23日、SS自動車化師団“トーテン・コップフ”は住民23名を射殺し、家屋を焼いたため、この小村は甚大な被害を受けた。
『西方電撃戦 フランス侵攻 1940』P354



 これらのそれぞれの地名を探してみたのですが、ル・パラディはすぐ分かったのですが、それ以外は良く分かりませんでした。が、とりあえずOCS『The Blitzkrieg Legend』のマップのアラスの西にボン=デ=ギイと書いてみました。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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