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なぜイタよわ?:イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題

 「なぜイタリア軍は弱かったのか?(なぜイタよわ?)」の再まとめ、4回目です。今回は「イタリア軍の組織、将軍、士官、兵士達の抱えていた問題」について。


 まず断っておきますと、イタリア軍の中でも空軍と海軍については、予算も優先的で人員的にも士気の高い人が多かったので、むしろ優秀であったらしいです(特に空軍)。

 それから、イタリア陸軍の中にもいくらかの非常に優秀な部隊があり、それらは大いに敢闘しました。イタリア軍はそういう部隊毎の質の違いが色々とあって、そこらへんが面白いという感じもしますが、あるいはまた、どこの軍隊であっても一部の優秀な部隊が活躍して戦いを成し遂げていったのだ、という説もあるそうです。

 最初にリビアで行われたイタリア軍部隊に関する調査で、「軍服のだらしない着方、建物の散らかり方、公衆トイレの汚さ、土地の売春婦への不適切な医療管理」などを含む諸欠点が明らかとなった。1940年におけるイタリア軍部隊の訓練の貧弱さは、戦争開始時のリビア総督であったイータロ・バルボ元帥が、同士撃ちによって撃たれるのを防ぐために「自分の機体を赤色に塗る」ようにするだろうと述べたほどであった。その原因の一端には、この戦域にイタリア軍の一級部隊がいなかったことにもあった。
 第二次世界大戦におけるほとんどの戦闘は「エリート」部隊によって成し遂げられたのであり、「通常」部隊には全くそのようなことはできなかったという説がある。いくつかの通常部隊、例えばアメリカの第1歩兵師団(ビッグ・レッド・ワン)のような部隊はエリートと言えるであろうし、空挺部隊や機甲部隊、それに類する部隊は全くのエリート部隊であった。第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功と失敗は、この説に非常に良くあてはまる。イタリア軍のエリート部隊は良く訓練された兵士によって成り立っていた。例えばベルサリエリ(ヨーロッパ近世の王国軍における猟兵に相当する狙撃手)、アルピニおよび山岳兵、機甲、砲兵、そして空挺部隊である。1940年には、当時存在していたベルサリエリ12個連隊のうち1つもエジプトとリビアには配備されていなかったが、最初期の増援で急いでイタリアから送られることになった。後にフォルゴーレ空挺師団 - アフリカに送られた時には実質的には旅団規模であったが - がエル・アラメインの戦いで有名となった。戦争の間イタリア軍の多くの部隊が、劣った武器や、時に劣悪な指揮の下で良く戦ったが、しかし第二次世界大戦におけるイタリア軍の成功のほとんどは、このような良質な部隊によって成し遂げられたのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P19,20


 イタリア軍の中でも優秀な部隊についてはこのブログで色々取り上げていましたが、今ここでリンクを貼っていくのは面倒なので、「OCSの物置2」のトップページの「OCSのユニットや戦史に関する記事」のところに色々リンクが張ってありますから、そちらからでも見てもらえたら……。



 それはともかくとして、とりあえず軍の中でも上の方の話から。

 ムッソリーニはまた、生来の管理業務嫌いであり、すぐにムードに流されるという欠点があった。その結果生じたのが、軍事的な方針がころころ変わることであり、つまりは戦争の全般的指令における一貫性の欠如であった。
 もしイタリアが適切な最高司令部を持っていたならば、そうはならなかったかもしれない。イタリア軍は「Comando Supremo(最高司令部)」という大仰な名前の付いた組織を持っていたが、それはムッソリーニの大まかな意志を個々の軍管区に伝える為のわずかな数の将校で構成されていたに過ぎなかった。それぞれの軍管区における個々の命令と指揮は、現地の司令部に丸投げされていたのである。つまり、イタリア軍全体というレベルにおける中央の作戦指令も、作戦準備も何も存在しなかったのだ。個々の任務はイタリア海軍、空軍、陸軍のそれぞれの司令部に任され、必然的にそれら三軍はバラバラに、自分達の専門分野にのみ焦点を当てがちであった。三軍の作戦行動の統合はないに等しく、それは戦前においても、そして当然戦時においても、はなはだ不適切なありようであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.325~332


 イタリア軍の「Comando Supremo(最高司令部)」に関しては、今まで本の中で何度もその名前を見ていたのですが、そんな状態の組織であったということに私はかなりびっくりしました。ドイツ軍やソ連軍やアメリカ軍の最高司令部はもっともっとしっかりしてそうな感じですから……(時期にもよるのでしょうけど)。


 次に、将軍達のレベルでの問題点。

 王国陸軍の将校は、自らを、近代的な国家への奉仕者というよりも、一種の特権階級とみなし、その多くは、ディレッタント的にしか、軍務に服さなかった。高位の将軍たちは、しばしば、敵と戦うよりも、軍部内の派閥闘争に精力を注いでいた。ローマでは……バドリオ元帥も、北アフリカ方面軍司令官に任命されたロドルフォ・グラツィアーニ元帥に対する誹謗中傷をためらわなかったし、また伯爵ウーゴ・カヴァレロ大将を宿敵とみなしていた。
『明断と誤断』P46


 かような技術力・工業力の不足に加えて、王国陸軍首脳部の無理解も、イタリア機甲部隊の発展を阻害した。実戦で機甲部隊を指揮した経験を持つ、数少ない指揮官であるエットーレ・バスティコ将軍でさえ、1937年11月に開催された、今後の戦車に関する施策を主題とする会議で、こう発言している。「戦車は強力な道具である。だが、偶像化してはならない。歩兵と騾馬への尊敬を捨ててはならないのだ」。ドイツ装甲部隊の驚異的な成果も、王国陸軍の将軍たちの蒙を啓くには至らなかった。たとえば、1940年7月に陸軍情報部が作成した、ドイツ軍の装甲戦術に関する報告に対し、バドリオ元帥が付した唯一のコメントは、「戦争が終わったら、研究することにしよう」というものだった。
『明断と誤断』P48


 「将軍同士の仲の悪さ」ということで言えば、独ソ英米仏、どこでも具体例がいくつか思い浮かびますけども、イタリア軍の将軍達は「戦争指揮よりも派閥闘争により熱心であった」ということのようです。その原因の一端が、将軍という地位が特権階級的なものであったということなのでしょうね。ナポレオン戦争の時のイギリス軍なんかも将軍の地位は売買の対象で、ウェリントン卿はそういう状況で真に優秀な指揮官を得るのにだいぶ苦労したらしいです。


 次に士官や兵士たちに関して。

 イタリア軍の将校団は多くの問題を抱えていた。エチオピアの英雄で、アルプス方面を重視する保守的なピエトロ・バドリオ元帥をトップとするイタリア軍は、その将校の選定に硬直的な年功序列システムを採用していた。この硬直的な年功序列システムは有能な若手将校の順調な昇進を妨げ、むしろ無能な将校を高級司令部に残す傾向にあった。しかも、高官は戦場で失敗しても退役や免職させられることなく、新たな役職を得て他の戦域に回されるだけということが多々あった。例えば、イターロ・ガリボルディ将軍は、1941年にエルヴィン・ロンメル将軍と不仲になったが、単にアフリカからロシアへ異動させられただけだった。イタリア軍において専門的な教育を受けた将校の多くは自動車化部隊か砲兵部隊(この戦争中に目覚ましい働きをしたこれらの砲兵部隊の大砲は、多くが第一次世界大戦の時のものの寄せ集めであった)に配属されたため、残りの部隊はほとんどの将校達が専門知識を有しないことによる不利益を被り、しかも彼らは兵達と「触れ合う」こともなかった。将校達は兵卒達とは別の場所で食事をし(それが戦線後方でのことであったならまだマシであったろうが、実際には前線においても多くの場合そうであったのだった)、兵卒達とは離れて仕事をし、しかも最高司令部は高齢者で占められていた。1920年代に将校団に厳しい予算カットが突きつけられた結果として将校の総数が特に佐官・尉官のレベルで制限された。そのため、戦時に、概して知識の乏しい予備役将校に頼らざるを得なくなってしまったのである。
 この不足は有能な下士官階級によって軽減されていたかもしれないが、下士官は不足しており、健康や教育程度で劣るイタリア南部からの者が多かった。最後に、財政上の理由から、イタリアの悪名高い1920年代と1930年代に不充分な軍事訓練しか行えておらず、そのつけが戦争に響いたのである。
 イタリア軍兵士はヨーロッパでも最悪の部類であった。信じられないことだと思われるだろうが、1940年に小作農階級から兵士となった者のうち約50%は左と右の区別も付かず、まず最初の訓練でその区別を学ぶところから始めなければならなかったのである! 例えば、オーストラリア軍の新兵が多くの場合地方出身者であり、自分用の大きなライフルを持つ射撃の名手であったのに比べると、イタリア軍兵士の素養がいかに貧弱であったかが充分に理解できるだろう。また、イタリア軍兵士は30ヶ月経たなければアフリカから故郷に帰ることができなかったが、ドイツ軍兵士は12ヶ月毎に帰郷できた。英連邦軍兵士は定期的にカイロへの休暇を許されるか、あるいは部隊自体が戦いのない駐屯地に移されることを期待できた。戦争が長引くにつれ、このことが彼らの士気と能力に影響を与えることは避けられなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P14,5

 ……そこには、当時のイタリアが脱却できなかった階級社会が反映されていた。
 将校は、従卒にかしずかれ、兵士よりも良い軍服と装備、より多くの休暇、より良質の食事を与えられるのが当然とされていた。かてて加えて、昇進も、資質や努力を重視するというわけではなかった。規則上は、戦時に実力を示せば、短期間で昇進が保証されることになっていたけれど、現実には、年功序列や実力者との縁故のほうがものを言ったのだ。1942年冬のヒトラーの布告に接したカヴァレロの反応は、かかる事情を問わず語りに示したものといえよう。前線指揮官であれば、年齢、任官序列、どのような階層に生まれたかにかかわらず、その実績に応じて、適切な階級に引き上げるとした内容を一読したカヴァレロは、「われわれには、こんなやり方は、少しばかり行き過ぎ」だと、うそぶいたのである!
 事実、王国陸軍にあっては、戦場で功績をあげるよりも、参謀職や後方の管理業務についているほうが出世は見込めるという傾向が見られた。ギリシアやロシア、北アフリカを転職し、元帥にまで昇りつめた勇将ジョヴァンニ・メッセは、チュニジアの軍司令官時代に、実戦の試練に打ち勝った部下の師団長たちよりも、ローマの事務机で戦っているもののほうが昇進が早いと、痛烈な皮肉を残している。

『明断と誤断』P46

 王国陸軍の体質はきわめて官僚的であり、実戦に即応することは期待できなくなっていた。近代戦に必要な指揮官の自主性は重んじられず、中堅将校も責任を負わされることを恐れ、常に上官の指示を仰いでから行動するというていたらくだったのである。軍隊の強さの根幹となる下士官においても、事情は同様だった。もともと、王国陸軍では、下士官の数は不釣り合いなほど少なかったし(1940年6月の時点で、技術専門官を含めて、41200名のみ)、下士官へ昇進する道も限られていた。ドイツ軍や米軍では普通であった措置、前線で緊急事態が生じた場合にベテラン下士官を将校に任じるということさえも、王国陸軍は認めていなかったのである。結果として、昇進の飴もぶら下げられず、過失があれば、将校に譴責されるという境遇に置かれた下士官たちは、なけなしの自主性をポケットの底に押しこんでしまった。
『明断と誤断』P47

 イタリア軍のリーダーシップも、同様にお粗末だった。将と兵の格差は激しく、あらゆる階級において差別意識がはびこっていたため、およそ密接な関係など保てよう筈もなかった。連絡はおざなり、部下が誰かということさえわかっていない有様だった。それに上級将校ともなると、政治的配慮からその地位を得た者が多く、これっぽっちの軍事知識ももち合わせていなかったのである。部隊の構成および編成は、特に後方支援部隊に顕著だったが、お粗末窮まりなかった。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP27

 では、召集される兵士たちはどうか。彼らこそ、ムッソリーニの野望、イタリア国民の夢を実現すべく、鍛え上げられたのではなかったか?
 いや、ここでも、恐るべき錯誤がまかり通っていた。王国陸軍首脳部は、訓練よりも、実戦経験こそが強い部隊をつくりあげるし、選ばれた民であるイタリアの子らは、砲火の洗礼 - 最初の戦闘から、立派に戦うはずだと考えていたのである。にわかには信じがたい、傲慢な発想ではあるが、実例を示そう。先に触れたバリアーニ大将は、1937年に、ある上級将校を使者に仕立てて、リビアに送り込んでいる。彼の任務は、同地に駐屯する諸部隊に、「過剰な訓練」を禁じるバリアーニの訓令を伝えることであった。また、参謀将校であったマリオ・カラッチォ・ディ・フェロレートは、「【軍に】はびこっていた、戦闘にあっては、直感と個人の勇武のほうが、訓練などよりもはるかに価値があるという思い込み」について、書いている(【】内は、筆者の補足。以下同様)。
 しかも、この思想ともいえない思想は、軍の実務に反映されることになった。多くの新兵は、充分な訓練を受けないまま、実施部隊に配属されたのである。機甲師団のような、技術的習熟を必要とする部隊ですら、例外ではなかった。たとえば、アリエテ機甲師団に補充される操縦手は、戦車を動かしたことがないのが普通だったし、砲手にされる新兵にしても、47ミリ戦車砲を3回も撃った経験があれば上出来というありさまだった。
『明断と誤断』P47

 イタリア陸軍の訓練は、予算と燃料が限られていることから非常に制限されており、その多くは行進訓練と基礎訓練に過ぎなかった。実弾発射訓練は全くないに等しく、多くの兵士にとって実際の戦闘が自分の武器を始めて実弾で撃つ機会という有様だった。また、年に一度の大演習を除けば師団規模や軍団規模の演習もなく、多くの将校や下士官、それに兵士達は戦場での実際の状況に関する経験に欠けていた。エチオピアやスペインで戦った経験のある者は比較的少数で、それとても第二次世界大戦には役に立たないような経験に過ぎなかった。それ故、第二次世界大戦で戦ったイタリア軍部隊の大部分はその訓練の多くを前線において受けたのであり、それは多くの者達にとってあまりにも遅すぎたのである。
 またイタリア陸軍は多くの年かさの上級将校を抱える一方で、経験豊かな若手将校や下士官がかなり不足していた。これは、年かさの将校が高い役職にとどまり続けたため、若手の者達が予備役に回されたり、配置換えをされたりしたからであった。この問題は、これらの年かさの将校達に見あった高い役職を数多く作るために多くの「2単位」師団が作られたことによってさらに悪化した。このことにより、進取の気性に富んだ、あるいは近代戦の経験を持つ若手の将校の昇進の機会が狭まり、そもそも陸軍が持っていた保守性が促進され、新しいアイデアや変化に対して抵抗する度合いが高まった。やりがいのある仕事を求める多くの志を持った若者にとっても、イタリア陸軍は魅力のないものとなった。対照的にドイツ軍では、ヴェルサイユ条約による容赦の無い要因削減により年かさの将軍達が首を切られることになり、そして1930年代の拡大期には新しい考え方の若い将校達に道が開かれることになったのであった。
『Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa』(Kindle版)位置No.396~407

  このような軍上層部での弱点を助長したのが、現地軍の士官レベルで見られた弱点である。伊軍との折衝に当たった独軍将校は、伊軍の若手将校の演練水準が低いことと、自主性を欠いていることに否が応でも気付かされていた。同様に独軍将校の意識に留められたのは、 イタリア南部で編成された師団と北部で編成された師団との間に顕著な格差があり、 北部の師団の方が格段に優秀であったということである。教育程度と職業意識が高い中間階層が幅広く存在することが士官としての適性を持った人物を多く輩出するための前提条件であり、その面でイタリアが相対的に他の諸国の後塵を拝していたということが、このような弱点の源となっていたと言えなくもない。
『大いなる聖戦 上』P232



 読んでいると、イタリアは他の列強に較べて「近代性」が低かった……という気もしますが、一方で思いつくのは、近代的発展を早い内に遂げた社会というのは「戦士に高い価値が認められる社会」であった、という説です(どこで読んだのか思い出せませんが)。例えばヨーロッパや日本(武士階級が長らく支配していた)はそうであり、中国や朝鮮半島は長らく文官の地位が非常に高くて武官の地位は非常に低い社会でした。これは多分、「戦いに勝つ」ということには合理性が必要であるから、戦いに価値を置く社会は合理的、つまり近代的になる……ということだったのだと思うのですが、もしこの説にある程度妥当性があるとすると、イタリアはヨーロッパ列強の中でも「戦いに価値を置く社会」度が低かったのかも、と思ったり。

 例えば、メッセ将軍は、イタリア人は(ドイツ人と違って)「戦闘的な民族」ではない、と言っていたそうです。

 ジョヴァンニ・メッセ元帥はイギリス軍の捕虜となってからはもちろん、ドイツ兵とは軍事的な価値観を共有しているなどということを認めようとはしなかった。彼はむしろ、イタリア兵はドイツ兵とは完全に異なる存在だと考えており、そう語ることによってイタリア軍の軍事的な機能不全をイタリア人の自尊心をくすぐるような形で語りうるようになったのだ。「[ドイツ兵たちには]魂がない。我々は鷹揚であり、憎むということが本当に不可能なのだ。我々の精神的気質はそのようなものなのであって、私は前から、我々は戦闘的な民族ではなく、憎むとはどういうことかを知っているのが戦闘的な民族だという意見だ」。
『兵士というもの』P327



 つまりイタリア人は「平和的な民族」なのだ、ということなのだと思われますが、確かに「Axis Powers ヘタリア」のイタリアを見ていると、「ああ、戦争には向かないキャラクターだなぁ……」と思わないでもないかも。

 つまりは、戦争には向かない平和的で純朴なイタリア人が、(ムッソリーニのせいで)戦争に駆り出されてしまったことが、悲劇の根本にあるということなのかも……。


 ただ一方で、イタリア軍兵士達は、エリート部隊にいる者達でなくても、「勇敢さ」などに価値を感じてはおり、それ故に自分達の置かれた様々な愚劣な状況が改善すれば、勇敢に戦ったそうです。

 したがって、あらゆる差異にもかかわらず見逃すことができないのは、ドイツ兵とイタリア兵の間には価値イメージにおいてかなりの程度一致点が見られたということである。イタリア兵が、個人的なつきあいにおいては大抵の場合好意を示さないドイツ軍部隊にたいして、その戦闘力についてはしばしば感嘆の念をもらしていることにも、その点は見て取れる。クレタ島攻略を振り返って、あるUボート将校はこう漏らしている。「あれは驚くべきことだ! 最後まで戦うのはドイツ兵だけだ。小部隊へと分断されてしまっても、粉砕されるまで彼らは戦い続ける。我々イタリア兵や日本兵も、ましてやイギリス兵にもそんなことは不可能だ」。
 彼がこうした評価にたどり着いた理由はただひとつ、彼らにとっては軍事的成功だけではなく、勇敢さや戦士精神にも明らかに肯定的な意味があったからだ。さらに自軍における恥ずべき状況や裏切り者の将官たち、管理の失敗についての彼らの会話からは、イタリア兵たちがこれらを、自分たちの規範イメージからの完全な逸脱であると感じていることが見て取れる。イタリア兵たちは、無能さや放漫な管理という枠組みから解き放たれて、十分な補給が与えられ、有能な上官によって率いられるやいなや、勇敢に戦う姿勢を見せることがしばしばであった。
『兵士というもの』P327



 やはり、勇敢に戦うことができないのにはそれなりの理由があり、それらの条件がなくなれば、イタリア兵達も充分に勇敢に戦うことができた、ということでもありそうです。




 あと、集積した「なぜイタよわ?」の理由としては「ムッソリーニ政権があまりにも無能すぎたから」というのもあり、『大いなる聖戦』はそれをイタリア軍が弱い理由の最大のものとして挙げているのですが、その辺について書き出すに足るほどの情報を集められていないので、一応「なぜイタよわ?」の10年目の再まとめはこれで終了にしようかと思います。

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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