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『大いなる聖戦』:なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?(付:ベルギー軍は頑張ったのか?)

 『大いなる聖戦』を主資料としてやりたいネタがまだいくつか残っていたのですが、とりあえずその中の「なぜ1940年のフランス軍は弱かったのか?」について。

 第二次世界大戦においてよく、「イタリア軍の弱さ」が言われますが、1940年のフランス軍だって丙丁つけがたい弱さでしょう(^_^;






 フランス軍の弱さの最も大きな原因について、純軍事的な本を読んだ場合、フランス軍の戦車の乗員数が少なくて複数の役割をこなさなければならなかったこととか、フランス軍の老齢の将軍達の思考硬直などが理由として挙げられることが多いと思うのですが、『大いなる聖戦』では最大の要因として、「1938年以降の出来事の連続により、敗北は避けられないとの宿命論がフランスに広がっていたから」としていました。

 ……【1940年に独仏】両軍が干戈を交えて以来論議の的となっているのは、独軍がなぜあのように迅速かつ一方的な勝利を収めたのかということである。裏を返せば、それまで3世紀にわたってヨーロッパの軍事分野で諸国を凌駕し、直近の過去20年間は世界で誉れの高かった仏軍が、1940年5月に1916年のヴェルダン戦などで示した強靭性とは比較にならないようなぶざまな崩壊をなぜ喫したのかという疑問である。その結果、1940年の敗北を引き起こした要因の一端は第一次大戦でフランスが払った勝利への代償に求められるという論理が概ね受け入れられている。18歳から26歳までの男性人口の27%が戦死したことに象徴される第一次大戦における人的損失のため、戦間期のフランスでは「このような西部戦線の戦いを繰り返すことは、 今後しばらくはできるものではない」といった考えが支配的となっていたことに疑いはなく、フランスが戦争に突入せざるを得なくなった1939年に、この厭戦気分が不可避的に悪影響を及ぼしたのである。
 フランスの戦意の乏しさは、1939年9月から翌40年4月まで続く「まやかしの戦争」期間中に英国の軍事指導者が痛感したものであったが、これは先の大戦におけるおぞましいまでの人命の喪失への反作用だけに由来するものではなかった。実際に戦端が開かれるまでにフランスの戦意を削いだことには、1930年代にフランス国内で見られた深刻な分裂、社会主義者よりはヒトラーの方が良いと公言したフランスの右翼勢力、世界恐慌(フランスでは他の諸地域よりも長引いた)と死に体となっていた第三共和政の政情不安が共にもたらした衰退気運、といった諸々の要因すべてが関わっている。しかしながら、仏軍の士気の崩壊を招来した直近の要因として最も重要であったのは、1940年5月までにフランスには負け癖がついて、負け犬根性が身につき、それが無気力な宿命論に似た独自の色合いを帯びるようになってしまっていたことにある。仏軍の動向を見守っていた英陸軍の専門家は、1937年頃までは仏軍には精神的強靭さがあることを自信を持って報じていた。ところが1940年の春頃になると、ドイツのラインラント再占領から連綿として続いてきた出来事の後に待っているのは敗北しかないといった考えがフランスで台頭するようになる。オーストリア併合、ミュンヘン協定、スペイン内戦をめぐる紛糾、独ソ不可侵条約、ポーランド戦、冬戦争、そして最後にノルウェー戦における連合軍の総崩れを目の当たりにしたために育まれた敗北主義の結果である。そして、ガムラン大将が1939年9月にザールラントに向けて取るに足らないような不要な攻勢をしかけた結果として仏軍が翌年までの冬の間に行動を控えたことが、このフランスの精神的自壊作用を必然的結末に導いたのである。
 ……
 ……フランスは、戦場においては最初の四日間で痛打されていたが、フランスの敗北には、軍事上の要因に劣らず政治·心理的要因が作用していたのである。既に敗北していたポーランドと同様に、フランスの敗戦は戦端が開かれる前から定まっており、ポーランドの場合とは異なり、その理由は、国家としてのフランスが戦争を起こすのに必要な犠牲を払う態勢になかったこと、軍が技術上の進歩から置き去りにされた存在となってしまったこと、1917年~18年当時にフランスが戦い続けられるように支えてくれたような同盟国に恵まれなかったこと、などに求められる。
『大いなる聖戦 上』P175~8



 前段の、「第一次世界大戦の犠牲の大きさによる厭戦感」というのは実際他の本などでも良く見るところかと思います。

 しかし『大いなる聖戦』が「要因として最も重要」と指摘するのは、「負け癖」の話でした。イメージしにくくてぱっと得心するところまで行ってなかったのですが、例えば、オバマ大統領の時のアメリカがシリア(アサド政権)の化学兵器使用に対して何もできずに「アメリカは世界の警察官ではない」と宣言し、その後ヒラリー・クリントン政権でロシアや中国や北朝鮮やイランの挑発行動に対して譲歩を繰り返しつつ軍縮を進め、中国が台湾や沖縄を占領し、北朝鮮が韓国を併合していく中で負け癖がついていって、ついには中国によってハワイが占領される……というようなことでしょうか? これはこれで想像がしにくいような気もしますが(^_^;、まあ分からないでもない……???

 あいや、日本が中国に尖閣を取られても何もできず、沖縄が独立して中国の同盟国になっても何もできず、北朝鮮がミサイルをばんばん撃ってくるのに譲歩して経済援助し続けていく中で、ついには中国とロシアが共同して日本に上陸作戦をしかけてきたけど、もう負け癖がついていてどうにもならなかった……というようなパターンでしょうか。

 しかし歴史上、この1940年のフランスに似たようなこと起こったことって、実際に他にあったんでしょうか? ぱっと思いつかないのですが(仮説的な話としては例えば、1960年代?頃かに「もし日本がソ連に攻撃されたら、その瞬間に降伏すべきだ」という説があったそうですが。ただし、ソ連に降伏した後に日本がアメリカに攻撃されたならば、「その場合は抵抗すべきだ」と社会党は考えていたそうです。:p)。



 1939年、あるいは1940年のフランス軍の士気が低かったことは、『米英機甲部隊』にも書かれていました。

 1938年12月、やっとのことでB型重戦車を歩兵部隊から切りはなし、軽量なルノー戦車とホチキス35戦車をあわせて、いわゆる機甲師団に統合するこころみがはじめられた。
 ……
 しかし、最高会議がこの問題の審議をおわったときには、すでにフランス軍の戦意は大幅におちていた。将校の防御型戦闘の思想を逆転させ、兵士たちの訓練を転換させるだけの時間は、もはやのこっていなかったのである。
 攻撃的性格の機甲師団をつくることに、フランス国民と軍部が消極的であったことは、表面上、政府の政策に反していた。なぜなら、1936年の「大編成部隊の戦術的作戦にかんする訓令」は、従来と正反対の思想に書きあらためられていたからであった。
 すなわち、
「攻撃こそ最良の作戦である。……攻撃のみが決定的な戦果をもたらす」と。
 だが、方向転換がおそすぎた。静止的防御の中心であるマジノ線は完成していたし、いずれにせよ、第一次大戦中の総攻撃で、あれほどひどい損害をこうむったフランス国民に、ふたたびその悪夢をもとめるのは、あまりにもよくばった要求だといわざるをえなかったからである。
 1939年のフランス軍は、1914年のフランス軍ほどの精彩はなかった。
『米英機甲部隊』P44,5


 ここ【1940年のフランス戦の初頭】で、ドイツ軍は予想しなかったひとつの教訓を、はやくもまなんだ。それは、フランス軍将兵にかつての精気がなく、彼らの士気は、前年秋のポーランド軍の闘志とはくらべものにならないほどひくい、ということであった。
『米英機甲部隊』P59



 OCS『The Blitzkrieg Legend』のフランス軍のARは、戦闘モードで3、移動モードで2というのが多いのですが、ここらへんの資料を読んでいると、もっと低くても良いのかもと思ったり……『Smolensk:Barbarossa Derailed』のソ連軍のARなんか、むちゃくちゃ低いですからねぇ……。



 一方、ベルギー軍の戦意についても『大いなる聖戦』には書かれていました。

 ……左翼でベルギー軍の一部が敵の攻勢を支えられなくなったこともあって、英国海外派遣軍は全面崩壊の危機に瀕することとなる。このようなこともあって、1940年5月のベルギー軍の戦いぶりに対する歴史の審判は芳しいものではなく、 特に英米仏においてその傾向が顕著である。しかしながら、ベルギー軍は第一次大戦の時と同様に、その国土を頑強かつ決然たる姿勢で守ろうとしたのが事実である。ベルギー軍は常に数の上で優る敵と相対し、英国海外派遣軍が直面したものよりも熾烈な攻撃に絶えず曝されており、20日以降は英軍が南方に転じたためにその戦線は延びきっていた。このような2週間にわたる絶え間ない戦闘と強行軍の中で酷使されたベルギー軍師団は疲弊の極みに達していた。24日になってベルギー軍はリズにおいてB軍集団からの抗す術もない攻撃を受け、翌朝、独軍はベルギー軍の防衛線を14マイルにわたって突破する。
 自助努力以外に英国海外派遣軍を救ったのには、本国政府が5月28日に降伏するまでベルギ一軍が戦い続けることができたことや、最後まで戦いを止めなかった仏軍の犠性的支援、そして独軍が24日に下した装甲部隊の進撃を止めさせる決定といった複合的要因があった。
『大いなる聖戦 上』P193

 ベルギー軍が頑張ったからイギリス海外派遣軍は脱出できたのだし、フランス軍はイギリス軍に対して犠牲的支援をした、と……。


 その当のイギリス海外派遣軍によるベルギー軍に対する見方ですが、こう書かれていました。

 英国海外派遣軍の本音は、その参謀長の言を借りれば、英軍の左翼を固めている限り「ベルギー軍がどうなろうと知ったことではない」のである。
『大いなる聖戦 上』P189,190


 おい(^_^; まあでも、そういうものかもしれませんが……。




<2019/07/22追記>

 2017年の映画『ダンケルク』の考証本(?)である『ダンケルク』という文庫本が出ているのですが、読んでいるとこの本にもベルギー軍(というかメインはベルギー国王レオポルド3世)のことが書いてありました。



 レオポルド3世はベルギー政府による亡命の説得を拒否して国内に留まり続け、「5月24日から27日まで、ベルギー陸軍はリス川で必死に戦った。……ベルギー陸軍は4日間休まずに戦い続けた……」(P254)「最後の4日間、ただ国王の人となりだけがベルギー陸軍をまとめていた」(P255)のですが、軍の抵抗はもう不可能という知らせを受けてやむを得ず降伏を決意。ところが降伏のその日のうちからレオポルドを、連合軍を裏切った敗北主義者として非難する流れが世界中に広まったとか。その理由は……。

 つまり、フランスの士気がこれ以上低下するのを防ぐには、また、フランスの司令官やフランス陸軍への非難をそらすには、スケープゴートが必要であり、そこにレオポルド国王がちょうどいい(もしくは悪い)タイミングで現れたというわけだ(*著者註 スケープゴートはイギリスがフランスから裏切り者と謗られないようにするためにも必要とされていたのだろう。このとき、イギリス軍はフランス軍に知らせることなく、すでにダンケルクからの撤退を開始していたからだ)。
 ……どうあってもフランスに継戦してほしかったチャーチルにとって、その目的を遂行するためであれば、ベルギー国王レオポルド3世の名声など些細な犠牲だった。何よりも恥ずべきことは、ドイツ軍に果敢に抵抗したベルギー陸軍の戦いぶりが軽視され、ときに否定されてきたことだろう。……イギリス軍の撤退を可能にした要素はいくつもある。ドイツ軍の進撃停止命令、アラスでの反撃、5月25日のゴート卿の決断。それだけではない。そして、もはや見逃してはならない重要な要素がベルギー陸軍の貢献だ。
『ダンケルク』P257,8



 日本語版Wikipedia「レオポルド3世 (ベルギー王)」を見てみると、レオポルドが大いに善人であったかどうかは微妙かもですが、チャーチルらのスケープゴートを作り出す能力はすごいなぁと……。まあ、首相であるとか国王であるとかには大いに詐術が必要であるということでもあろうとは思いますが……。


 OCS『The Blitzkrieg Legend』のシナリオの中には、西側のマップ1枚で5月20日からを再現する「ダイナモ作戦」シナリオもあり、ワニミさんとも「一度プレイしたいものだ」と話し合っていたのですが、ますますやりたい気持ちが高まりました。


 ↓「ダイナモ作戦」シナリオのセットアップの一部

unit9976.jpg


 24日から27日にかけてベルギー軍が死闘を続けた「リス(Lys)川」というのはフランス語での名前で、オランダ語では「レイエ(Leie)川」。ベルギー軍がセットアップされている川の1つ西の川に「Leie」と書いてあるのが見えます。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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