FC2ブログ

イタリア戦:米軍のマーク・クラーク将軍について、ちょい調べ

 最近のエントリの流れで、イタリア戦におけるアメリカ軍司令官である、マーク・クラーク将軍について。
(なぜファーストネームも書いたのかというと、サン・ヴィット防衛戦で重要な戦いをしたブルース・クラーク将軍という人がいるようなので。しかし以下、クラークとのみ記します)


Mark Wayne Clark 1943

 ↑マーク・クラーク将軍(Wikipediaから)


 話の流れ的には、「元々オーバーロード作戦を任せられる人材だと見なされていたのだが、イタリア戦における不手際のために候補から脱落した(そしてその役割を最終的にブラッドレーがやることになった)」という話と、それから、ここんところ話題にしているチュニジア戦におけるアメリカ第2軍団の最初の軍団長は実はクラークなのです(その後、フリーデンダール、パットン、ブラッドレーと代わっていく)。

 ↓この『パットン対ロンメル』の記述が大変に興味深いものでした。

 1943年1月、アメリカ第5軍が編制され、これがイタリア海岸侵攻計画の中心になる。この第5軍の司令官に任命されたのがマーク・クラーク中将で、彼は、北アフリカ上陸作戦ではアイゼンハワーの代理を務めた人物だった。一方、パットンとその第7軍はシチリア島に配備され、その後は(おそらくヨーロッパ侵攻だろうが)必要に応じて軍務につくことになっていた。またブラッドリーは、必要な際にクラークの代理を務めることになり、軍団司令官を超えた能力があるのか、あるいは今後その力をつけるのかといったことを実証する機会を与えられた。
 この配置には、上からクラーク、パットン、ブラッドリーの順になる先任順序が明確に表れていた。アイゼンハワーは、どんな手札を持っていてもその使いかたで勝ちもすれば負けもするという原則を理解していた。マーク・クラークは歴史家には見落とされることが多いが、アイゼンハワーはクラークの知性を高く評価し、アメリカ陸軍でも秀逸な計画立案者であり、上陸作戦のスペシャリストだと見ていた。そしてオーバーロード作戦の最高司令官の選定が自分とマーシャルの手にゆだねられていることも、しっかり自覚していた。指揮経験豊かで折り紙付きの作戦遂行力をもつクラークの高官チームを、知的な指揮で評判のクラークを中心に、堅実なブラッドリーと抑制されたパットンと - 軍レベルではクラークの部下になる二人を互いにきそわせながら - で作れたら、たとえ最終的な配置が違ったものになっても、ワシントンに縛られた陸軍参謀総長にはできないような方法で、戦争を遂行していくことができるだろう。
 しかしその後の展開で期待は泡と消えてしまう。クラークのイタリア半島上陸計画に重大な欠陥があることがわかったのだ。連合軍は上陸したはいいが、サレルノで待ち伏せていたドイツ軍に海に押し戻されるところだった。クラークは勇ましい指揮ぶりを見せたが、その後の作戦遂行では、優れた指揮能力も、兵士を鼓舞するような様子もまったく見られなかった。連合軍は、ほかならぬケッセルリングが見事にまとめていた部隊の抵抗に遭い、「ゆっくり急げ」で半島をのろのろと北上したが、グスタフ線[ドイツの防衛線]の前で立ち往生してしまった。味方の損害が拡大したにもかかわらず、クラークのグスタフ線突破は不可能になってしまった。クラークは、上官のアレクサンダーやイギリス軍の同僚、それにこの作戦に多大な貢献をしていたフランス軍ともしだいに関係が悪くなっていった。また同時に部下からも、冷徹だとか喧嘩好きだとか、自分勝手で自己中心だと言われるようになった。アイゼンハワーの将来には、パットンの身勝手な行動が招いた危機的状況よりも、クラークの侵攻作戦の失敗のほうが響いた。アイゼンハワーは、クラークをオーバーロード作戦でさらに高位の司令官に引き上げるといった策は考えないことにした。それどころかしばらくは、この期待外れの部下を解任することまで考えていた。
『パットン対ロンメル』P307,8



 他の資料(主に英語版Wikipedia)も見ていくと、クラークの才能を高いと見た人物としては他にマーシャルもそうであったらしく、マーシャルはここでもフリーデンドールに対して同様の見込み違いをしたということになりそうです。まあそれだけ、人材を見抜くというのは難しいということかもです。

 また、チャーチルも、クラークに非常に強い印象を受け、彼のことを「The American Eagle」と呼んだそうです。

 『第二次世界大戦事典』にはこうありました。

 ……広く非常に有能な野戦指揮官として認められていた将軍。……言質、志、指導性によって、たちまち参謀長、第2軍【第2軍団の間違いだと思われます】司令官、そして1942年11月の北アフリカ侵攻作戦、トーチ作戦のためにアイゼンハワー司令部の副司令官へと昇進していった。
『第二次世界大戦事典』P157



 一方でクラークより年長で上級であったパットンは、自分より早く高い階級に昇進したクラークに対してあまりにも早い昇進だと憤慨し、またクラークを「とんでもない口先だけの奴」で「自分のことにしか関心がない」と見ていたらしいです。パットンの見方には偏見も入ってそうではありますが(^_^;


 クラークはトーチ作戦で目覚ましい働きを見せてアイゼンハワーに感謝された後、自ら野戦指揮官の地位を懇願し、イタリア戦を指揮する第5軍の司令官となりました。

 しかし最初のサレルノ上陸(アヴァランチ作戦)は最初の進捗は良好であったものの、数日の内に多数のドイツ軍の反撃でほぼ敗北し、日本語版Wikipediaによると「この作戦に関してバーナード・モントゴメリーによると、クラークの感覚的で策略もない計画のせいで、サレルノへの上陸に危うく失敗するところだった、とイギリスの歴史家から批判された。」とありました。

 アンツィオの戦いの苦戦はクラークとその幕僚らの計画が良くなかったとも批判されているらしいですが、モンテ・カッシーノの修道院の爆撃に関しては、上司であるイギリス軍のアレクサンダー将軍からの命令を、クラーク自身は疑問を感じながらも、実行を部下に命じたということのようで。

 その後のローマ攻略については、クラークはほぼ一致して批判されているようです。すなわち、アレクサンダー将軍の指令を無視し、軍事的に重要でないローマを「イギリス軍よりも早く」占領するために部隊を回した結果、多くのドイツ軍部隊を取り逃がし、その後のドイツ軍の防備を固めさせることになってしまった、と。『US Commanders of World War II(1)』は、このクラークのローマ攻略を「見当違いの努力」と書いています(^_^;


 『US Commanders of World War II(1)』にはこのようにあります。

 クラークは、アメリカの上級指揮官の中で最も論争のある人物である。アイゼンハワーもパットンも、クラークが「その分別を、野心の方が圧倒していた」という見方で一致し、彼のことを尊敬することも好むこともできないと考えていた。
『US Commanders of World War II(1)』P15



 この本には、「ラピッド川の渡河作戦の破滅的な結果や、アンツィオやカッシーノにおける手詰まりという疑問を含め、非常に多くの論争が後に引き起こされた。」と書かれており、論争ということで言えばラピッド川の戦いに関しては↓のような考え方もあるようです。

 イタリア本土での遅い前進を強いられたが、クラーク軍への補給物資および援軍は(モントゴメリーの英第8軍と同様に)、イタリアにおける連合軍の地位、目的に関し迷いと意見の不一致を続ける連合国首脳および統合参謀部に依存することが多くなって来た。クラークの第5軍における指揮は特に1943年~44年にかけてのラピッド川の戦いにおいて批判されているが、このような要素による顕著な困難があったことを考慮しなければならない。
『第二次世界大戦事典』P157



 また同書は、「……クラークは連合軍の北西ヨーロッパ進攻作戦の決定と共に、人員、資材が供出されて行くにもかかわらず、イタリアでの成功を目指した精力的な行動を継続していた。」とも書いています(P157,8)。

 ここらへんこそが「論争」ということなんでしょうね。


 前に書いていた、↓を読めばもっと詳しいことが書かれているかもですが……(買っておけば良かったのか? しかし……(^_^;)。




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR