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西部戦線:米軍のホッジス将軍について、ちょい調べ(加筆版)

<以下、2019/05/08のエントリを加筆したものです>

 現在、尼崎会にてOCS『Beyond the Rhine』をプレイ中ですが、西部戦線における連合軍司令官について、パットン、モントゴメリー、ブラッドレーくらい以外は全然知らないので、ちょっと調べてみました。

 まずは、戦区でモントゴメリーとパットンの間に挟まれた第1軍司令官のホッジス将軍について。


 『Beyond the Rhine』セットアップ時の戦線区分についてはこちら→OCS『Beyond the Rhine』フルキャンペーンセットアップ完了 (2019/03/23)

Courtney Hodges

 ↑コートニー・ホッジス将軍(Wikipediaから)



 まずは概略。

 歩兵戦闘のエキスパート。1941年から42年まで情報部長を務めていたが、 1942年の暮れに第10軍団長に任じられた。翌1943年、第3軍にあって中将に昇進したが、間もなくアイゼンハワーの命により、 アメリカ第1軍司令官でブラッドレーのもとで副司令官とされた。この軍は、ヨーロッパ反攻に備えていた。1944年、 ノルマンディー上陸軍はブラッドレーの下で第12軍集団として統合され、ホッジスはアメリカ第1軍の司令官となる。ジークフリート線に達していた彼は、アーヘンを占領、バルジの戦いに際して、アメリカ軍前線の北半分をよく支え、この戦いの勝利を助けた。さらにその軍はレマーゲンの橋を占拠し、ルール地方の包囲に力を与えた。アメリカ陸軍の中ではさして有名な部類には入らないが、おそらく最も優秀な指揮官の1人とされるべき人物である。
『第2次大戦事典②兵器・人名』P363



 「歩兵戦闘のエキスパート」ということで言えば、こんなことも書かれていました。

 歩兵科長官【? chief of infantry】としての在職期間中にコートニー・ホッジスは、携帯式の対戦車兵器であるバズーカやM-1カービン銃の採用、それに空挺部隊の使用などを押し進めた。
『US Commanders of World War II(1)』P15



 『Allied Commanders of World War II』は、ホッジスの無名性と戦線の広さについて特に注目しているようでした。

 マイルズ・デンプシー【がモントゴメリーの陰に隠れていたの】と同様、ホッジスは同時代の異彩を放つ輝き - 彼の場合それはパットンであった - の陰に隠れてしまう運命にあった。……級友であったアイゼンハワーはホッジスを第1軍司令官の副司令官に任命したが、それはブラッドレーが第12軍集団司令官になる時にはその後を引き継ぐという了解のもとでであった。だがブラッドレーは、世間に広く知られる可能性を持っている時期に、野戦司令官の経験のないホッジスを用いるのには気が進まないでいた。ブラッドレーは、自然と注目を集めるパットンの方が良かったと思っていた。
 ホッジスは有能で、物事をうまく処理したが、注目はされなかった。ホッジスは両側面をパットンとモントゴメリーがどんどん進んでいく中、あまりにも広い戦線を担当しなければならない不利を抱えて作戦を行わねばならなかった。このために彼はジークフリートラインを自由に移動することができず、1944年9月中旬までアーヘンを占領できなかった。11月には第1軍はルーア川とユーリヒを目指す攻勢で大損害を被った。担当戦線が長過ぎたためにホッジスはアルデンヌ戦区を弱体なままにしており、12月に【ラインの守り作戦によって】驚愕することになったが、その責めの大部分はブラッドレーが負うべきである。
『Allied Commanders of World War II』P16,7



 無名性ということで言えば、英語版Wikipedia「Courtney Hodges」では、↓とありました。

 アイゼンハワーはホッジスを米軍がドイツ本国へ進出する上での「先鋒であり、輝ける星であった」と語り、「見出し作家からは見過ごされているようだ」が、ホッジスの業績が正当に認識されるように努めた。




 『US Commanders of World War II(1)』のホッジス評は色々書かれていて面白いのですが、相矛盾するようなことが書かれているような感じもします。

 1943年2月に中将に昇進したホッジスは、英本土においてアメリカ第3軍の司令官となった。翌年1月、ブラッドレーの副司令官となる。ブラッドリーが軍集団司令官となると、ホッジスはブラッドリーから第1軍の司令官職を引き継いだ。ブラッドレーが第1軍に残したのは、短気なホッジスと、有能ではあるがかっとしやすい幕僚達とであった。ブラッドレーは幕僚達をコントロールできたが、ホッジスにはコントロールできなかった。その為、戦争の残りの期間中、第1軍の司令部では何度も繰り返し問題が起こった。ホッジスは第1軍を率いて北フランスとベルギーを駆け抜けたが、ジークフリートラインの前で急停止した。アーヘンとルーア川のダムを巡る血みどろの戦いに続き、バルジの戦いが始まった。アイゼンハワー以下のすべてのアメリカ軍上級指揮官同様ホッジスは、アルデンヌを突破するというドイツ軍の攻勢に驚愕した。しかしながらホッジスはこの危機に良く対応し、攻勢の2日目の12月17日に自身の戦線の穴を塞ぐために2個空挺師団を派遣して欲しいとの重要な要請を行った。その後、彼の第1軍はレマーゲン鉄橋を通ってドイツ本土へ進撃し、1945年3月にエルベ川においてソ連軍との邂逅を果たした。その間ずっと、ホッジスは部下達がためらうことをほとんど許さず、軍団司令官1人を交代させることさえした。……
 ブラッドレーはホッジスのことを、冷静で用心深い歩兵戦術家であると考えていた。しかし他の多くの人びとはそうは考えず、ホッジスは高圧的な幕僚にはすぐ屈するし、用心深すぎると思っていた。
ある歴史家はホッジスのことを適正にもこう評している。「几帳面な傾向のある有能な作戦指揮官」
『US Commanders of World War II(1)』P16



 先述の英語版Wikipediaでは、バルジの戦いの時にホッジスがスパの司令部を放棄してリエージュへと撤退したことに関して、不名誉なことであり、もしイギリスの将軍だったならば更迭されたかもしれない……というように書いてあるようで興味を持ちました。

 しかしなんか日本語で読めるそこらへんの経緯は見つけられず、英語であればGoogle Books上で、

Antony Beevor『Ardennes 1944: The Battle of the Bulge』

Christer Bergstrom『The Ardennes, 1944-1945』

 で読めそうでしたが、まあチラリと見たぐらいで、それ以上まではパスで……(^_^;


 それから、第二次世界大戦ブックスの『猛将パットン』を見ていると、バルジの戦いの戦功について、パットンだけが名声を得たのはなぜだろうか……という文に続いて、こうありました。

 第1軍のホッジスの名声は色あせてみえたが、内気なかれは、報道関係者をあつかう才覚に欠け、戦果をあらいざらい発表する能力もなかった。
『猛将パットン』P128



 うーむ、なかなか色々面白いです。



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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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