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北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版]

 ウェーヴェル将軍については一度「まとめ」を書いていたのですが、その後新たにオスプレイの資料を買ったうちの2冊にウェーヴェルについて載っていたので、その分増補改訂したものを作ってみました……。


 これまでのもの↓
北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)


 ウェーヴェル将軍についてですが、簡単に言うと、「北アフリカでイタリア軍に対しては大勝したが、ロンメルが来ると敗走して、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦で敗北し、更迭された先のインド方面でも日本軍相手に敗北した」ということになるかと思いますが、調べていてみると、上記の様な書き方から受ける印象とは異なる、かなり優秀な人物であったようにも思えます。

 このウェーヴェルに対する毀誉褒貶について、↓このような書き方もなされていました。

 ウェーヴェルに対する歴史家の見方は大きく分かれている。「昇進が早かった」だけの無能だと言う人々もいれば、不可能な任務を与えられた挙げ句に不公正にも更迭された偉大な将軍だという人々もいる。だが真実は、常にそうだが、それら極端な見方の間のどこかという所であろう。
『Allied Commanders of World War II』P27



General Archibald Wavell
 ↑ウェーヴェル将軍(Wikipediaから)



 ウェーヴェル将軍の概要について、諸資料から挙げてみます。

 北アフリカ戦の序盤における英中東軍の司令官ウェーヴェルは、英本国では第一次大戦の中東戦域で勝利した英雄アレンビー元帥の研究者として知られ、アレンビーの伝記や、ブリタニカ百科事典のアレンビーの項目を執筆するなど、学究肌の軍人でもあった。
 1941年4月にロンメルが第一次攻勢を開始すると、キレナイカで前線を視察していたウェーヴェルも危うく捕虜になりかけたが、辛くも脱出に成功した。そしてチャーチルの督促にもかかわらず「充分な兵力と物資が蓄積されるまで攻勢は控える」として反撃の実行を引き伸ばし続けた挙げ句、5月の「ブレヴィティ」作戦と6月の「バトルアクス」作戦が不甲斐ない失敗に終わると、ウェーヴェルの指揮手腕に失望したチャーチルは幕僚と相談の上、彼を6月21日に中東軍総司令官から解任、インド総司令官に異動させた。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P114,115

 ウェーヴェルは非常に尊敬された優秀な将軍であったが、不幸にも相次いで挽回不可能な状況の戦場に送られたにもかかわらず、常に最善を果たしたのであった。……
 ウェーヴェルはその経歴において多くの不利を被った。チャーチルから嫌われ、補給や装備の不足に悩まされ、不可能な任務を割り当てられた。だが彼は部下達や同僚から非常に好かれていた。ロンメルは、ウェーヴェルの著作である『将軍およびその統率能力』という本の写しを常に持っていたと言って、彼を褒め称えていた。
『WHO WAS WHO in World War II』P216

 部下達から非常に尊敬された人物であり、現代の歴史家からは、達成は不可能とも思える任務に最小限のリソースしか与えられなかった、思慮深く有能な指揮官として知られている。ウェーヴェルは同時代の人達によっては無能と評されたが、実際には非常に有能な人物であった。
 1939年7月に彼は中東軍司令官に任命されたが、その広大な管轄領域は彼が与えられたよりも遙かに多くの人員と装備を必要とするものであった。そのような不利を抱えながらも彼の部隊は1941年1月にイタリア軍をエジプトから追い出して同月トブルクを、2月にはベンガジを、そして4月には【イタリア軍占領下にあったエチオピアの】アジス・アベバを確保したのである。
 勝者となったウェーヴェルは、麾下の部隊をギリシアへ送るように命じられたことから、ロンメルとアフリカ軍団が到着すると今度は大敗北を喫することになった。激減していた連合軍部隊の兵力では激しいドイツ軍の進撃を止めることはできず、戦勝を待ちきれないチャーチルは7月にウェーヴェルをインド総督とし、オーキンレックを代わりに据えた。……
 ウェーヴェルは、与えられたリソースでは誰が代わったとしても苦しまざるを得ない運命を苦しんだ人物だった。彼は敵からも、部下達からも尊敬されたが、上司からは攻撃的な姿勢や活力に欠け、また戦場での戦術に柔軟性がないと考えられたのだった。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P176,7


 下2つの英文による人物事典ではウェーヴェルはほぼ絶賛されていると言って良いのではないでしょうか。上司(チャーチルのこと?)からは「攻撃精神に欠ける」と思われていたということですが、ブレヴィティ作戦の頃にしろ、バトルアクス作戦の頃にしろ、彼我の兵力差的に攻勢をかけること自体が無理筋だったのだろうと思います。

 ただ、ウェーヴェルは過度に寡黙で、チャーチルや周りの人間を当惑させた側面もあったようで、このことが(性格上のことはやむを得ないと言えると思いますが)彼への低評価をもたらしていたようです。

 ウェーヴェルの性格は大きな当惑をもたらすものであった。伝説的なほど寡黙で、何を考えているのかほとんど分からない表情は、政治家達、とりわけ説得力のある議論を好むチャーチルに、疑惑どころか時に敵意さえ抱かせた。
『British Commanders of World War II』P58





 さて、以下、時系列に沿って資料を引用していこうと思います。

 第一次世界大戦から戦間期にかけて目をひいた話としては……。

 彼は1915年に負傷し、左目の視力を失った……。
 1926年、彼は第3師団の幕僚に任命された。この時に彼は同師団に配属されていた実験的な機械化部隊に触れる機会を持ち、その後の数年でウェーヴェルは歩兵部隊の機動性、柔軟性、そして空軍力の大きな価値を学んだ。
『British Commanders of World War II』P57



 そして出世が非常に早かったようで、1926年に師団長ですらないのに、1939年に中東軍司令官になったというのですから、驚きです。

 1939年8月2日、サー・アーチボルト・ウェーヴェル将軍は新たに創設された中東軍司令官に任命された。ウェーヴェルは1901年にthe Black Watch(Royal Highland Regiment)に入っており、抜群の業績を挙げた著名な学者でもあった。新たな役職に就いて彼が直面したのは、圧倒的な戦力差を前にした大きな困難であり、とりわけウィンストン・チャーチル首相との間の関係であった。チャーチルはウェーヴェルを「優れた、平均的な大佐というところだ」と、1940年8月のロンドン滞在の後で表現していた。チャーチルは、ウェーヴェルへのまったくの過小評価から、ウェーヴェルの任務の詳細にまで何度も介入を繰り返して事態を悪化させ、ある時にはウェーヴェルは辞任まで考えるほどであった。幸いなことに「チーフ」として皆に知られていたウェーヴェルは辞任せず、むしろ並外れた統率力を発揮し、あらゆる個所で兵力において劣勢でありながら、3つの大陸にまたがる14の地域における複数の戦役を同時に差配したのであった。
『Operation Compass 1940』P14,5

 これらの戦役の成功はウェーヴェルの戦略的な力量を示している。様々な脅威に対するリソースを比較検討し、彼は自分の持つわずかな兵力を賢明に用いて敵を打ち破ったのである。
『Allied Commanders of World War II』P27

 中東全域の総司令官はアーチボルト・ウェーヴェル中将であった。彼は第1次世界大戦時にはアレンビー将軍の下でパレスティナで戦った経験があり(後にその戦役の報告書を書いている)、この戦域について良く知っていた。最初の時点で、彼はその任務に対して、自分が処理すべきことが多すぎ、それに対して使用できる充分なリソースがないことに気付いた。彼の任務は、まずエジプトとスエズの安全を守ることであり、次に紅海の敵を一掃し、イタリア領東アフリカ(その中にはソマリアとエチオピアが含まれていた)を解放し、ハイレ・セラシエ皇帝を復位させ、北アフリカ岸の敵を一掃し、東地中海を治め、そして最後に、南ヨーロッパへの攻撃の準備をすることであった。ウェーヴェルはイギリスの将官の中で最も知的な人物の一人であり、革新的な構想の支持者であった。彼は戦争の前に、Orde WingateとHarry Fox-Doviesに出会っている。前者はA.O.I.でエチオピア皇帝と共に戦いを進め、後者は長距離砂漠挺身隊を編成して戦争の過程で砂漠の奥深くで作戦行動をとることになるが、両方ともがウェーヴェルの賛成を得たものであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P24,5

 しかし彼は麾下の将兵達に好かれ、尊敬されていたし、その無感動な態度とは対照的に、彼は常に非正統的な試みを援助することに前向きであった。
『British Commanders of World War II』P59

 ウェーヴェルのおかげで、少なくとも標準的な訓練と、砂漠での作戦に対する準備は高い水準で完了していた。
『Operation Compass 1940』P22



 さて、イタリアが1940年6月10日に枢軸国側に立って参戦し、イタリア領リビアとイギリスの支配下にあったエジプトの国境地帯でも小競り合いが発生し始めます。そんな中、9月14日にイタリア軍側が「グラツィアーニ攻勢」によってエジプトに3日間進撃して停止し、それに対してウェーヴェルはチャーチルから、反撃を命じられていましたが、自軍の戦力は圧倒的に少ないものでした。その状態の中で……。

 地中海戦線を統率するイギリス中東方面軍司令官ウェーベル大将と地中海艦隊司令長官カニンガム大将はともに、「戦力で劣るのであれば、戦いの主導権を握ることでこれを打開せねばならない」という戦術思想の持ち主であった。
 このような果敢な司令部にとって、互いの後方連絡線が交差する地中海は、ダイナミックな作戦が可能な戦場だった。特にマルタ島は、こうした状況において最も重要な地点となったのである。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P98

 そして、包囲攻撃や堂々と陣をはった対戦から小競りあいに至るまで、あらゆる戦闘を支配していたのは、二人の司令官の正反対な理論だった。ウェーヴェルは軽装備で、迅速な機動力のある部隊を使うという考えであり、グラツィアーニは防衛を第一とする立場を取った。
『砂漠の戦争』P30


 この「戦力で劣るのであれば、戦いの主導権を握ることでこれを打開せねばならない」という考え方は、ウクライナにおけるマンシュタイン将軍が良く言っているところで、OCSのプレイにおいて戦力的には優勢でありながら何度も意表を突いた攻勢をされて主導権を失ってきた私としては、「本当にその通りだ!(やられた側として良く分かる!)」と思うのですが、自分が主導権を握るような攻勢をするのはまた、非常に非常に難しいとも感じてます(^_^;


 そして、イタリア軍に対する「コンパス作戦」となるのですが、しかしこれはウェーヴェルが主導した(できた)わけではなかったようですね。ただ、承認ということにおいてはウェーヴェルでなければなし得なかったとかかも。

 その様々な指示の中で、ウェーヴェルは機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコンナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコンナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコンナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28



 コンパス作戦については、↓などをご覧下さい。



OCS『DAK-II』コンパス作戦シナリオ (2016/08/22)


 さて、コンパス作戦の成功後の様子として、ウェーヴェル将軍の人となりが詳しく語られる資料があります。

 【コンパス作戦の後】……兵士たちの中に立って、ウェーヴェル将軍が友人と話をしていた。とおりかかる人々が立ちどまっては、今や大英帝国の軍人の中でもっとも有名な存在となった、このもの静かな、がっしりした男を、あからさまな好奇の眼で眺めていった。彼は会う人に必ず感銘を与えると同時に、いささかとまどわせた。が、そうはいうものの、初対面では彼のほんとうの姿はほとんどわからなかった。その声は高く、やや鼻にかかっていて、はっきりとした用がないかぎり、めったに口をきかない。その浅黒く、しんから日焼けした顔にはしわが刻まれ、不愛想といってもいいほどきびしかった。うすくなりかけた髪は半白、前大戦で難をのがれ、一つだけ残っている眼が、いつもは彫像のように無表情な顔に爛々と輝いている。
 前大戦の前にウェーヴェルがどんな人物であったにせよ、彼は素直に、しかも断固として責任を取り、部下を引っぱっていく才能をアレンビー(イギリスの将軍)から受けついでいた。この年、中東で、彼は沈黙によって尊敬を、自信をもって部下に権限をあたえる気質によって、多くの賞賛を集めていた。ウィルスン、オコナー、クレー - こういった将軍たちはすべて、非常につよい絆でウェーヴェルと結ばれていた。その他にもう一つ彼が持っているものがある。それは謙虚さだった。半生を軍事的な訓練と作戦計画の立案に捧げてきたあげく、五十代になった今、将軍は多年考えてきたことを実戦で試すことができる幸運に恵まれたのである。彼の作戦には、そう新しいものはなかった。徹底的に秘密を守り、あくまでも敵の虚をつくこと。すばやく、強烈な打撃をあたえ、追及の手をゆるめないこと。強力な兵站線を確立すること。機動性を保つこと。すべては、ごく健全な軍事行動である。しかし、ウェーヴェルは彼独得の要素を加えることによって、それに生命をあたえた - ちょっとした大胆不敵さを加えることによって。麾下の部隊は彼を好いていた。重大な戦闘の直前には、鉄帽をかぶって砲兵隊の着弾監視所に坐っている彼の姿がよく見られた。彼は麾下の将軍たちにも、前線に出る習慣をつけるようにすすめ、彼らが前線で兵士たちと起居をともにすることを好んだ。
『砂漠の戦争』P50,51




 さてその後、ウェーヴェルの反対にもかかわらずチャーチルがギリシアへの派兵を決めたため、かなりの戦力を引き抜かれてロンメルの第一次攻勢を受けて敗退することになるのですが、↓のリデル・ハートによる記述では、ギリシアへの派兵にウェーヴェルは最大限協力的だったように読めますが、どうなんでしょう。

 ギリシャ派兵という政府の方針に対し「最大限の支援」をするため、アフリカでのイギリスの立場をこのような危険な状態におとし入れることになったが、その基礎となったウェーベルの判断は次のようなものであった。すなわち、トリポリタニアにあるイタリア軍は問題とするに足りないし、また地中海におけるイタリア海軍があまりたよりにならないことを考えると、ドイツが地中海を越えて補給しなければならないという危険を冒して、機甲部隊の大部隊をアフリカに送ることはないであろうというのである。
 ドイツ最高統帥の全般的な方針に関するウェーベルの判断は正しかったし、またその細部においても、わずか「機甲1個師団」相当の兵力(すなわち第5戦車連隊)が上陸したにすぎないというその判断は当たっていた。したがってウェーベルは3月2日「敵はこの部隊をもってベンガジの奪回を企図することはないであろう」という結論に達したのも当然であったが、このような考え方はロンメルに対しては通用しなかったのである。
『ドキュメント ロンメル戦記』P137



 ↓こちらでは、ウェーヴェルは任務的にも、部下的にも、また常識的にもやむを得なかったかのように読めます。

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
 ウェーベルの情報参謀は、ドイツ軍の攻勢準備については、部分的な情報しか入手できなかった。さきに英参謀本部情報部から、ドイツ・アフリカ軍団が突然キレナイカに侵入することもありうると警告されていたが、ウェーヴェルは、ドイツ陸軍総司令官のブラウヒッチュ同様に、合理的、現実的、正統派の指揮官であったから、その危険は5月まではないと、警告を無視していた。
 正常な軍事的常識をもつものなら、そんな無鉄砲な作戦はしないだろう、ウェーヴェルはそう考えていた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4



 しかし責任者としてウェーヴェルは、ロンメルの攻勢について見誤ったことの責めを受けることになりました。

 ウェーヴェル将軍とその情報部は一つのあやまちを冒した。それについてまず責めを負わねばならないのは、特に将軍だった。集められた情報から判断して、たとえ攻撃があるとしても、ドイツ軍がキレナイカで攻勢にでるのはどんなに早くとも5月と、彼は踏んだのである。……
 だが、この誤りでさえ、いっさいを将軍の失敗と見るのは、はなはだ酷である。……
 戦争初期の他の多くのイギリス将官と同様、ウェーヴェル将軍も、「小官の情報源がまったく不十分だったことに対する責任」を、ひとりで負うのを要請された。彼は甘んじてその責めに任じた。やがてイラクに反乱が起こり、シリアにあるヴィシー側フランス軍との小規模な戦闘の責任が、さらに彼の肩にかかった。
『ロンメル将軍』P25,6


 ↑の最後の行にある「シリアにあるヴィシー側フランス軍との小規模な戦闘」というのはOCS『Reluctant Enemies』で扱われているエクスポーター作戦のことです。『Reluctant Enemies』ルールブックの「はじめに」から引用してみます。

 イギリス連邦(この地の自由フランス軍も含む)の上級司令官であったウェーヴェル将軍は、リビアへのロンメルの登場、ギリシアとユーゴスラヴィアへのドイツ軍の侵入、それに空挺降下によるクレタ島の失陥などでまったく手一杯の状況にありました。彼の困難は、イラクにおける反英クーデタへのドイツの支援によってさらに増加します。このドイツの支援は、「レヴァント軍」の最高司令官であり、かつフランス委任統治領であったレバノンとシリアというヴィシー保護領の防御を担当するレヴァントの高等弁務官であったデンツ将軍によって援助され、扇動されていました。まがりなりにも前年には、(ヴィシー)フランスはイギリスの同盟国であったため、そのヴィシー配下のレバノンのラヤク空港を経由してドイツ空軍をイラクへと通過させるのに好都合でした。さらに、ヴィシーはイラクへとクーデタの支援のために数百トンの兵器、弾薬その他の補給品を送っていました。これらすべてのことが、西方砂漠において今や消耗してしまったウェーヴェル軍に対してロンメルが圧力を加えている、まさにその時に起こっていたのです。
 それにも関わらず、チャーチルは行動を要求しました。ウェーヴェルはやむを得ず彼の後方地域の脅威に対処し得るいくばくかの部隊をひねり出し、その結果エクスポーター作戦が発動されたのです。
それはオーストラリア軍部隊の2個旅団(第21と第25)、第5インド旅団、自由フランス軍の2個旅団(第1自由フランス師団の第1、第2旅団)と若干の支援部隊で、これらが機甲部隊や航空支援のほとんどない中で、レバノンとシリア全体を軍事的に制圧する任務を課されたのでした。ド・ゴールは、彼の自由フランス軍が参加していることからヴィシーフランス軍は彼らの「戦友」に対して戦わないであろうし、それゆえこの作戦は単に「歩いて行けば終わる」と強く主張しました。しかし彼は間違っていました。
 ヴィシー軍は装備、編制ともに良好でした。彼らは激しい抵抗を示し、大きく反撃しました。当初、イギリス連邦軍と自由フランス軍はたじろぎました。しかし皮肉なことに、西方砂漠地域におけるバトルアクス作戦の失敗(6月15日)により、この戦役への増援と、イギリス連邦軍側の攻勢再開が可能となりました。まずダマスクスが陥落し、次にベイルートが大きな脅威にさらされました。第10インド師団の部隊がハブフォース(ハバニヤー軍の略称)と共に北方のアレッポとホムスへと進み、ヴィシー軍は戦闘中止のための休戦を提案しました。


 エクスポーター作戦は1941年6月8日から7月14日で、その期間中(6月20日、あるいは7月5日?)にウェーヴェルはバトルアクス作戦の失敗により解任されることになるのですが、場所をリビア・エジプト国境に、時間をロンメルの第一次攻勢(3月24日~5月4日)に戻してみます。

 ロンメルの第一次攻勢によってキレナイカ地方を失ったウェーヴェルでしたが、トブルクは死守するという決断を下しました。この決断をロンメルは褒め称えています。

 戦術の面でロンメルはウェーヴェル将軍を、好敵手だとみとめていた。トブルクを死守する決定は、当時の情況からして、不敵なものであった。「この要塞を積極的に防衛することは、敵の兵站線に脅威を与え、その進出を阻止し得られるかもしれない」事実、そうなった。そうしておそらくエジプトを救ったのであろう。ウェーヴェルのことを最高級の指揮官、「天才的な軍人」だと、ロンメルはいつもその子息に語っていた。
『ロンメル将軍』P119


 ロンメルがトブルク攻略を諦めたのが5月4日だったのですが、5月15日にはウェーヴェル将軍の意志でブレヴィティ作戦が実行されます。が、失敗。

 一方、キレナイカのほぼ全域を敵に奪い返されたとはいえ、要衝トブルクを手中に保持していたウェーヴェルは、ドイツ軍上級司令部間の暗号通信を解読した情報「ウルトラ」を通じて、ロンメルが第一次トブルク攻撃の失敗によって苦しい立場に立たされていることを察知していた。
 そして、ドイツ・アフリカ軍団を構成する第二の師団である、第15装甲師団の上陸が着々と進んでいることを憂慮した彼は、敵の兵力が増強される前に、トブルクとの連絡を回復し、敵に打撃を与えるべきだとの結論に達し、英首相チャーチルの許可を得て、エジプトとリビアの国境で限定的な攻撃【ブレヴィティ作戦】を実施する準備に着手した。
『ロンメル戦記』P234

 「ブレヴィティ作戦」の失敗と、要衝ハルファヤ峠の失陥により、ウェーヴェルの自信は大きく揺らいだ。彼は、キレナイカのドイツ軍が既に容易には打ち崩せないほど強化されていることを実感し、当面は攻撃を控えて兵力を蓄積するのが良策だと考え始めた。
『ロンメル戦記』P238


 ブレヴィティ作戦については、↓こちらもどうぞ。
OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオ研究 (2018/01/09)

 そのちょうど1ヵ月後の6月15日、今度はチャーチルの命令により攻勢作戦を実行せざるをえなくなりますが、これがバトルアクス作戦です。

 1941年6月、イギリス連邦諸国軍は戦車400両の増援を受け、ロンメルの率いる独伊軍に大攻勢を掛けてきた。これがイギリス中東方面軍司令官、ウェーヴェル将軍の構想になる戦斧(バトルアックス)作戦である。ウェーヴェルはもともとこの時点でロンメル軍に攻勢を掛けるつもりはなかったのだが、パウルス将軍が前月に総司令部に提出した報告書が解読され、これに目を通したチャーチル首相が、エジプト国境にいる敵軍が軽装備であることを知り、ウェーヴェルに攻撃するよう圧力を掛けたのである。
『ロンメル語録』P133


 英戦時内閣の首班チャーチルからの強いプレッシャーを受けたウェーヴェルは、仕方なく新たな攻勢計画の立案に着手した。だが、出来上がった計画の内容は、この攻撃に対する彼の「乗り気のなさ」を物語るような、工夫のない単調なものだった。前回失敗に終わった「ブレヴィティ」作戦と同様、今回も兵力を三手に分けて、平行して前進させるという手法を用いていたのである。
『ロンメル戦記』P239


 ↑では「工夫のない単調なものだった」とあるのですが、↓ではロンメルはウェーヴェルの攻勢作戦を絶賛しています。

 ウェーヴェルが提案した、この英軍の攻勢作戦【バトルアクス作戦】は、戦略的に傑出したものだった。他のイギリス陸軍の指揮官たちに比べ、ウェーヴェルが卓越していた点は、充分計算した上で、戦略的にきわめて大胆になれることだった。それあらばこそ、彼は、敵の出方を顧慮することなく、その部隊を集中し得たのだ。敵が内戦作戦を行い、一箇所に全兵力を集めて、局地的に劣勢となった味方戦力の一部を圧倒、撃破することを可能とするような作戦は、いかなるものであれ拒否しなければならない。
『「砂漠の狐」回想録』P76


 バトルアクス作戦においては、ウェーヴェルの部下が勝手に退却し、ウェーヴェルは呆然としたとか……↓。

 「バトルアクス(戦斧)作戦」と名付けられたこの攻勢は、ノエル・ベレスフォード=ピアース中将の第13軍団司令部によって統轄指揮され、マイケル=オムーア・クレアー少将の第7機甲師団に所属する3個旅団(第4、第7の2個機甲旅団と第7支援旅団)と、フランク・メッサーヴィ少将の第4師団に所属する2個旅団(第22近衛、第11インド)が、50機のホーカー・ハリケーン戦闘機に支援されながら、それぞれ与えられた目標に向けて前進した。
 ……
 6月16日、敵の攻撃部隊の連携があまり上手くとれていないことを見抜いたロンメルは、第5軽師団と第8戦車連隊で反撃を行うことを決定し、敵の第4と第7機甲旅団の中間部に兵力を集中する形で、逆襲に転じるよう命令した。10キロほど離れた場所で戦っていた第5軽師団と第8戦車連隊は、すぐに同一歩調の行動をとることができず、それぞれ夕方まで目前の敵との交戦を続けたが、翌6月17日の朝、両部隊は英連邦軍の間隙をすり抜けて、英連邦軍の背後へと浸透することに成功した。
 ロンメルが常套手段とする、こうした敵背後への浸透を初めて経験したクレアーとメッサーヴィは、自軍部隊の背後に突然敵の戦車が現れたことでパニック状態に陥り、上官のベレスフォード=ピアースからの許可を得ないまま、麾下の部隊に攻撃中止と反転を命令した。この日の午後、戦況を確認するために第13軍団司令部を訪問したウェーヴェルは、既に攻撃部隊が東への退却を開始していると知らされ、愕然として言葉を失った。
『ロンメル戦記』P243


 バトルアクス作戦の失敗によりウェーヴェルは解任されることになりますが、これは公正ではなかったと評されています。

 この攻撃が開始されて2日後に失敗に終わった時、チャーチルはウェーヴェルを解任しなければならないと心に決めた。
 この動きは公正とは言えなかった。なぜなら、ウェーヴェルは実際には総司令官としてこの2年間の間、よく任を果たしていたからである。彼が指揮すべき範囲は容易なものではなかった。北アフリカにおける責任に加え、ウェーヴェルはギリシアやクレタ島でのドイツ軍の動きに反撃しなければならず、しかもシリアやイラクでのヴィシーフランス軍へも対応しなければならなかったのである。彼の初動は良好で、戦争の開始時にイタリア軍に対して大きな成功を収め、イタリアの東アフリカ植民地のほとんどを攻略した。彼の指揮下でオコンナー中将はイタリア軍をエジプト国境から押し返し、リビアのキレナイカ地方を得て20万人もの捕虜を獲得したのであった。
『Operation Crusader 1941』P5




 さて、最後にロンメルによるウェーヴェル評がいくつかあるので引用してみます。

 イギリス軍の最高司令官クラスの人々が、かなり教条的で、融通に乏しく、いかにも官僚的な考え方しかできなかったことも事実である。
 ウェーヴェルは例外だった。彼は温厚な人物だった。オーキンレックは非常に優れた司令官だったが、戦術的な作戦指揮はほとんど部下の将軍たち[カニンガム将軍、リッチー将軍]に任せきりだったので、私はすぐに、戦闘を我が方の主導権で進めるより、相手の出方を見てこれに対応するというやり方を取るようになった。
『ロンメル語録』P143


 「温厚な人物」という言葉が出てくるのがなんか場違いな感じがするのですが、↓は前後の文から見て同じ原文から訳されているのではないかと推察します。

 イギリス軍の高級指揮官の多くは、形式主義的な性向を持っていたものと、私は信じている。
 天才的な資質を持っていたのは、ウェーヴェルだけだった。オーキンレックも非常に優れた指揮官だったが、たいていの場合、作戦の戦術的指導を部下の指揮官たちにまかせていた。彼らはすぐに、私の行動原則に従わされるはめになり、戦術的には、自ら行動する(もっとも、常にそれが必要であるというわけではなかった)というよりも、わが方への対応に振りまわされることになる。
『「砂漠の狐」回想録』P426


 ロンメルはウェーヴェルを高く評価していた。ロンメルはウェーヴェルの書いた論文を北アフリカに持参していたほどだった。
『ロンメル語録』P164

 ウェーヴェルのイタリア軍との戦いは、少数兵力よる大胆な計画と不敵な実行を示す最高の実例として、常に研究の価値があると彼【ロンメル】は語っていた。
『ロンメル将軍』P182





 ウェーヴェル将軍はその後インド総督となりますが、その時のチャーチルとの戦いを↓で書いてますので、こちらもぜひご参照下さい。
インド人300万人を死に追いやったチャーチルvs.ウェーヴェル将軍の戦い (2018/05/13)


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 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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