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北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のオコーナー将軍についてのまとめです。


 実はこのエントリは1年以上前にほとんど書き終わっていたのですが、↓を注文してみたので、本が届くのを待って加筆して公開しようと考えていました。ところがまったく届かないので、諦めました(^_^; この本なしで、これまで集積していた情報で今後も「北アフリカ戦線:」の見出しで書いていこうと思います。





 以前の「北アフリカ戦線:」エントリは↓こちら。

北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)
北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』) (2019/01/14)
北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)




 さて、オコーナーは「O'Connor」と書き、オコナー、オコンナーなどとも表記されますが、日本語版Wikipediaで「オコーナー」となっていたので、とりあえずそれに倣おうと思います。私が昔訳した文では「オコンナー」になってたりしますが、直すのが面倒なのでそのままにしてあります(^_^;


RichardO'Connor

 ↑リチャード・オコーナー将軍(Wikipediaから)



 オコーナー将軍はコンパス作戦からベダ・フォムの戦いまでの作戦立案者&指揮官であり、リビアのイタリア第10軍を崩壊させるという大成功を収めました。が、直後のロンメルの第一次攻勢の時に不幸にも捕虜になってしまってイタリアの捕虜収容所に送られ、北アフリカの戦場から姿を消してしまいました。その後脱走して、ノルマンディー上陸作戦からマーケットガーデン作戦の少し後くらいまで、イギリス第8軍団の司令官を務めました。



 北アフリカ戦線を扱う『DAK-II』には、OCSで唯一、指揮官ユニットが登場します。

 ↓OCS『DAK-II』の指揮官ユニット

unit00437.jpg


 指揮官ユニットは、1D6してユニットに書かれた数値以上の目が出ればスタックしている陸上ユニットを「あたかも予備マーカーが載っていた」と見なして移動・戦闘をおこなうことができ、また使用を宣言すればアクションレーティングを+1できますが、その場合は死傷チェックをおこないます。結果の中には「捕虜になる」というのもあるので、オコーナーはこれでその目を出してしまったということですね。



 さてさて、オコーナー将軍についてなのですが、まずは概略的な記述を。

サー・リチャード・オコーナー将軍 1889-1981
 1939年9月にオコーナーは第7歩兵師団長となり、イェルサレムの軍政府長官の職務に就いた。1940年7月にはオコーナー及び彼の師団はパレスティナからエジプトへと送られ、そこで彼は友人であったウェーヴェルが務めていた中東軍司令官の下、西方砂漠軍の司令官に任命された。1940年9月、グラツィアーニ元帥麾下のイタリア軍がリビアからエジプトへと侵攻。2ヵ月の内にウェーヴェルは攻勢を発動しトブルクを奪取、1941年5月までにベンガジとエル・アゲイラにまで到達した。この勝利においてオコーナーは北側の部隊を率い、その後ニーム将軍の下でエジプト駐留軍司令官に任命された。1941年3月にロンメルが反撃を開始してすぐにニームとオコーナーは捕虜となり、イタリアへと送られた。1943年12月のイタリア降伏の時に彼らは脱走に成功し、1944年6月にはオコーナーは将軍として復帰してノルマンディー侵攻作戦の第8軍団司令官となった。オコーナーは卓越した指揮官であった。彼の作戦上のモットーは「可能なところであれば、どこでも攻勢を」というものであった。彼の同僚達や戦友達は、彼こそが最も優れた砂漠指揮官と言われるようになるはずだったのに、捕虜になってしまったことが悔やまれる、と考えていた。
『WHO WAS WHO in World War II』P160


 個人的には、上官であったウェーヴェル将軍(→北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05) )が「友人」であったということと、その後上官になるニーム将軍のことをオコーナーは評価していなかったらしいことが気になるのですが、そこらへんはまた後で。

 「捕虜にさえならなければ……」ということはこちらでも書かれていました。

 オコーナーは洞察力のある、機略に優れた指揮官であり、捕虜になることさえなければ、連合軍が勝利する上で更なる偉大な役割を果たしたことは確実であった。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P125


 ウェーヴェルとオコーナーのコンビは、その後の北アフリカにおける英連邦軍の指揮官コンビよりもどうも遙かに優秀であったと思われ、オコーナーが捕虜になってしまったためにその両輪の一方が外れてしまい、その結果ウェーヴェルもその後更迭されるに至った……のかもと思ったりも。


 オコーナー将軍の能力に関する具体的な記述としては……。

 西方砂漠軍のGOCであったリチャード・オコンナー中将の中に、ウェーヴェルは野戦指揮官としての傑出した才能を見いだしていた。頭の回転が早く(しかも詳細を把握しつつ)、重圧の下でも冷静で部下達を落ち着かせることができ、戦いに自らの意志を反映すべく、常に必要な時に必要な場所に現れた。彼の連隊はThe Cameronians(Scottish Rifles)であり、彼は他の軽歩兵将校達、特にハインツ・グデーリアンによって示された機械化部隊による機動戦の概念を理解する天性を持っていた。
『Operation Compass 1940』P15

 オコンナーは電撃戦理論を学んだことはなかったが、自身の戦術を論理的な応用に過ぎないと見なしており、こう語っていた。「もしその応用が不適当なものであったならば、イタリア軍ははるかにましな戦いをしたであろうし、我々の前進はもっとゆっくりで、犠牲も大きかったろう。あらゆるタイプの奇襲を、イタリア軍は嫌ったのである。」この戦役における突破により、彼はバス勲章の司令官騎士となった。
『Operation Compass 1940』P16



 コンパス作戦の立案に関してはこのように書かれています。

 ウェーヴェルはその様々な指示の中で、機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコンナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコンナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコンナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28

 いっぽう、イギリス軍側のウェーベル将軍と西方砂漠軍司令官のリチャード・オコナー中将(初期の実験戦車旅団の副官をつとめた)は、それぞれ、イタリア軍が攻撃を仕かけてこないからには、徹底的に敵を攻撃すべきである、との結論にたっしていた。
 しかも、11月の末には、攻撃戦力もととのっていた。なぜなら、西方砂漠軍は、インドおよびイギリス本国からあらたに増援された部隊と装備で、強化されていたからである。
『米英機甲部隊』P87



 コンパス作戦の実行について。

 オコンナー将軍はマチルダ戦車を中心としたイタリア軍襲撃計画を立て、それは輝かしい勝利をもたらすこととなった。第7装甲師団の脇で戦ったのは第4インド師団であった。この第4インド師団は戦闘未経験ではあったが長年訓練されてきたインド軍の最上の部隊であり、その多くはインド北西国境で編成されたものであった。イギリス軍はこの地に近衛部隊をも投入していたが、一方イタリア軍における最上の部隊はイタリア本土にのみ配備されていた。イギリス軍の機甲部隊は良く訓練されており、しかもマチルダ重戦車を装備していた。ドイツ軍は1940年にアラスでマチルダ戦車に遭遇していたがイタリア軍にはその経験はなく、アラスでのドイツ軍のように、逃げることしかできなかった。それらの全部隊がタフでプロフェッショナルな中核部隊として戦間期を通じて訓練されてきており、進行中の戦争の拡大によってさえ、まだ薄められてはいなかったのだった。それが第二次世界大戦中の最高のイギリス軍指揮官達のうちの一人の指揮されており、イタリア軍の大敗北の要因は揃っていたのであり、そしてそれは起こったのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P30


 「最高の……一人」というのがオコーナーです(よね?)。「タフでプロフェッショナルな中核部隊」に関してですが、『DAK-II』ではこのコンパス作戦の頃のイギリス第7機甲師団はものすごく強力なのですが、それらのユニットが失われるともう二度とそんな優秀なユニットにはなってくれません(『DAK-II』は同じ部隊でも時期毎にユニットを入れ替えてより正確な強さを反映することになっているのです)。ですからまさしく、この頃のイギリス軍は「最・強」という感じがします。

 ↓『DAK-II』のこの件に関するデザインノート(5.5b)。

デザインノート:並外れた訓練を受け高い誇りを有していた、この元祖「砂漠のネズミ達」は、ホバート将軍によって精鋭の砂漠機動部隊へと形作られたものでした。この部隊は、1940 年の6 月から9 月のイタリア軍による侵攻開始までの期間にさらなる経験を得て、いよいよ鋭利に研ぎ澄まされました。特に第11 軽騎兵連隊は国境を越える作戦活動を精力的におこなっていました。12 月のコンパス作戦の開始時には、第7機甲師団はイギリス陸軍が大戦後期まで到達することのなかった(あるいはもしかしたら最終的に到達し得なかった)練度と独立した指揮能力を有する部隊へと到達していたのです。
 戦前の質の悪い(数も深刻なほどに不足していた)装備にもかかわらず、この師団はキレナイカ全土を横断する進撃において先鋒を務めることができました。海岸道路に沿って多くの戦力を残していった後になお、細切れになっていた残りの部隊がベダ・フォムで、逃げようとしていたイタリア軍を撃ち破ったのです。疲弊しきったこの部隊はその後、再装備のためにカイロへと退き、前線には新しく第2機甲師団(とロンメルという名の男)を置いていきました。再建された第7機甲師団は、依然として英軍の最優秀部隊でありましたが、かつて披露したような単独での機動作戦を再現することは最早できなくなっていたのでした。
 初期にこのようなことが可能であったのは、英軍が敵対するイタリア軍を見下していたことによるのだと言う人もいるかもしれません。しかし、私はそのような態度は当時のこの部隊の状態を正確に反映したものだとは思いません(むしろ後世の歴史家のでっち上げなのではないでしょうか)し、このような言説はこの部隊とその技量に対するひどい仕打ちだとさえ思います。尤も一つ言えるのは、この初期の時点ではイタリア軍側が効果的な対戦車兵器を持っておらず、それがまだやや諸兵科連合戦術に欠けていたイギリス軍が「ただで済む」ことを許していたということです。後にこの戦域に効果的な対戦車砲(ドイツ軍はもちろん、イタリア軍も)が到着してからは、もはやそのようなことは不可能になったのでした。




 『米英機甲部隊』にはオコーナーの行動について結構詳しい記述がありました。

 ウェーベルは、エリトリア〔現在のエチオピア北部〕でイタリア軍を本格的に撃滅する計画をたて、キレナイカでは、イタリア軍のキモをひやす程度の、いわば強力な遊撃作戦以上の戦術はとらないつもりだった。
 このウェーベルの的をしぼった作戦意図を知らなかったオコナーは、敵のあらゆる弱点を突こうとかんがえていた。もともと、数のうえでひどく優勢なイタリア軍にたいしては、奇襲作戦のほかに、彼としては勝利ののぞみはなかったのである。
 オコナー将軍の天才的な素質は、この"奇襲"のためのたゆまざる努力に見いだすことができるが、彼が最終的にねりあげた作戦は、意識的あるいは無意識的に、フラーの『作戦計画1919』から、おおくのヒントをえていたといえる。
 広範囲にばらまかれたイタリア軍の陣地は、相互の協力作戦のためには、はなれすぎていた。このことは、砂漠からやってくるイギリス軍の機械化部隊が、地雷原と対戦車壕のあいだをすりぬけて、イタリア軍陣地内に侵入するのを、じっと待っているかたちになっていた。
 オコナーは、ブクブクちかくに英機甲部隊があらわれた、というだけでイタリア軍が崩壊するとは、まったく考えていなかった。
 そこで彼は、第7機甲師団をつかって西からイタリア軍陣地を襲い、同時に第4インド歩兵師団と「マチルダ」戦車を、これもまた西側から突入させて、敵を孤立させる戦法をとった。
 ようするに、巡航戦車が敵の後方に侵入して混乱させ、そのあいだに、戦場までトラックで輸送された歩兵部隊と歩兵直協用「マチルダ」戦車が敵の防衛線を突破し、その後全軍が一体となってイタリア軍を追撃、粉砕するという構想であった。
 この構想は、敵の防御線を側面と背後から攻撃するという点を多少手なおししたことをのぞけば、『作戦計画1919』をもっとも正しいかたちで実行したものであった。
 この戦いにそなえて、部隊はとくに念いりな訓練をおこなった。ひとつひとつの戦いの局面は、くりかえし練習された。
 またこの作戦を、できるかぎり秘密にするため、11月26日に第1回の演習が実施されたのち、12月はじめに第2回の練習をおこなう、と発表された。だが、これは本物の作戦だったのである。
『米英機甲部隊』P88

 ウェーベル将軍は、北アフリカの砂漠での大勝利にもかかわらず、つぎにエリトリアを攻撃するという当初の計画を、変更するつもりはまったくなかった。
 そこで12月11日、彼はオコナー将軍に、第4インド師団をエジプトにもどし、西への進撃は、第7機甲師団と少数の部隊をひきいて続行することを指令した。少数の部隊とは、バルジア攻撃までにまにあわせる、と約束した第6オーストラリア師団であった。
 オコナーは、いまや、追撃を続行するにしても、2万人もの捕虜のあつかいにこまっていた。というのは、機甲部隊には歩兵がすくないので、捕虜のとりまとめは、歩兵師団にたのむよりほかなかったからである。
 そんななかで、追撃部隊ははやくも国境をこえ、バルジア(12月14日に包囲された)に後退するか、トブルクにひきかえすしかなかったイタリア軍小部隊の掃討にあたっていた。
 トブルクのイタリア軍守備隊は、ちかくの砂漠で偵察活動中の英第11軽騎兵連隊の存在に、すぐに気がついた。
 この連隊こそ、機動力を必要とする機械化戦の神髄ともいえる部隊であった。この部隊は、熟練した技術戦闘員によって維持されていた。燃料供給がつづき、故障や戦闘で破損した部品の交換や予備車両が前線にとどけられるかぎり、敵をふるえあがらせることができた。
『米英機甲部隊』P92

 オコナー将軍は第7機甲師団の全部隊を追撃戦に投入し、それにオーストラリア師団を後続させることをつよくのぞんでいた。しかし、輸送力の不足からくる慢性的なガソリン不足が、この作戦をおくらせ、突撃は1月27日まで不可能であった。そのころは、すでにイタリア軍は北にぬけだし、後退していた。
 オコナーは、この作戦はべつに重大な危険はともなわない、とつよく主張した。
 なぜなら、この作戦は、数のうえでは優勢な敵の占領地区の中心につっこむ計画であるが、もし困難にぶつかったら、いつでもひきあげることができ、いずれにしても、国の運命を左右するようなことはない、とかんがえていたからである。
 イギリス政府は、このベンガジ攻略作戦に、はじめは、11月にイタリア軍に侵入されたギリシャへの援助と、イタリア領東アフリカの征服が優先するという理由から、同意しなかった。しかし、1月31日、その禁止がとかれ、オコナーの部隊は増援なしで出撃の許可をえた。
 オコナーの手元には、50台の巡航戦車と軽戦車97台しかなかった。しかも、これらはひどい状態で、修理が必要であった。だが、イタリア軍がベンガジ突出部からまもなく後退するらしいとの情報がはいると、もう足ぶみしてはいられなかった。
『米英機甲部隊』P95,6




 ベダ・フォムの戦いの現場にはオコーナーはいなかったわけですが、ベダ・フォムの戦いの詳細については、以前、↓の動画の続きを作るためにその情報をまとめていたベダ・フォムの戦いというページがありました。中途半端なままですが……。






 やられたイタリア軍のグラツィアーニ元帥にとっては、相手がオコーナーであったことは不幸だった、と……。

 グラツィアーニにとって不幸だった点が2つある。
 第一に、イギリス軍の司令官がオコーナーだったこと。無名だが、諸兵科連合部隊の運用に関しては、充分に経験を積んでおり、またその手腕は卓抜してもいた。それ以上に重要なのは、機転が効く男だったということだ。どれほど機械化された部隊であろうと、携行していった弾薬がなくなれば、補給基地まで戻り、再補給を受けなければならなかった。ところがオコーナーは、後の機動戦でどこの国の軍隊でもそうしたように、自らのアイディアで機動補給部隊を編成し、機動部隊に随伴させた。トラックから補給を受けることにより、戦闘部隊がわざわざ後方までさがる必要がなくなったのである。
 また、機甲部隊を用いて夜襲を行い、これに成功を収めた。イギリス軍歩兵が、戦車と共同で戦う訓練を充分に積んでいなかったにもかかわらず、イタリア軍をパニックが襲った。
『コマンドマガジン27号』P19



 コンパス作戦の後の追撃戦の最終段階であるベダ・フォムの戦いが終わった2月7日、オコーナーはウェーヴェルに対して「狐は公然と殺された……(Fox killed in the open...)」という電信を送っているらしく、その件が日本語版Wikipedia(英語版も)に書かれていたり、『Desert Rats at War: North Africa. Italy. Northwest Europe』の一章になっていたりして有名であるようなのですが、この「狐」が、ロンメルがまだ来ていない中で何を差すのか(イタリア軍?)気になったもの、良く分からないのでパス(^_^;


 チャーチルは、このオコーナーの成功を充分に利用することをせずにギリシアへと兵力を引き抜いてしまいます。が、オコーナーはやむを得ないとも考えていた?

 オコナーは、砂漠での経験を積んだ部隊のほとんどを失うことに不愉快な思いをしていたが、自分の軍隊が兵站上限界にきているのは承知しており、敵が混乱をきたしていることもあって、大英帝国全域から到着する新たな補充兵を慣らす時間が持てるだろうと考えた。
『パットン対ロンメル』P215



 その後オコーナーはエジプト駐留軍司令官となり、ニーム将軍が彼の上官となりますが、ニームは砂漠での戦いの経験がありませんでした。

 イタリアに対する戦争中の西方砂漠軍の指揮官は、小柄なリチャード・オコンナー中将であった。彼はロンメルが北アフリカに来る少し前にエジプトの指揮官として呼び戻されたが、その理由の一つは連合軍が急遽ギリシアに部隊をかき集めて送ったことにあった。オコンナーは優れた、兵士達を奮い立たせる指揮官であったが、本来受けるべき評価を受けられなかった将軍であった。この戦域は初めてのフィリップ・ニーム中将が、リビアでの彼の後任としてやってきた。
『Rommel's North Africa Campaign』P25



 この後、ロンメルの攻勢が始まるのですが、その中でオコーナーとニームとの間の関係について……。

間もなく、イギリスにとってさらに悪い状況へ陥ることになる。1941年3月までに、ヒトラーはリビアのイタリア軍を支援するためエルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団を送り込んできた。ウェーヴェルとオコーナーは、狡猾で機知に富み、大胆不敵にして「砂漠のキツネ」とあだ名された指揮官のもとにある強敵と直面した。ロンメルはやや時間を置き、3月31日から攻勢を開始した。経験の浅い第2機甲師団(英語版)は完膚なきまで打ち負かされた。4月2日、ウェーヴェルは当時キレナイカのイギリス本国と英連邦軍司令官を務めていたフィリップ・ニーム(英語版)中将(ウィルソンは連合軍のギリシャ遠征軍司令官に異動している)と問題の検討を行った[41]。連絡を受けたオコーナーは翌日カイロより至ったが、一般的事情へ精通していないとしてニームの指揮を拒否している。しかし、彼から助言を得ることには同意した[41]。
日本語版Wikipedia「リチャード・オコーナー」


 この[41]の資料というのが、『Churchill's Lions: A biographical guide to the key British generals of World War II』です。


 4月3日にキレナイカ西部でロンメルが開始した大攻勢によって、現地の英連邦軍が大混乱に陥っているとの報告を受けたウェーヴェルは、同地を統轄するキレナイカ兵団(旧第13軍団)長ニームを罷免し、オコナーを復帰させることを決断していた。
 これを知ったオコナーは、戦局が流動的な状況下で司令官を交代させることは、却って悪い影響を及ぼすとの理由でこの任命に反対し、ウェーヴェルと自分が現地に赴いてニームと共にエジプト防衛の態勢を整えましょうと提言、ウェーヴェルもこれを了承した。
 しかし、このオコナーの提案は、結果的には完全な裏目に出てしまう。

 4月6日、ドイツ軍は何本もの道路が交差する交通の要衝メキリの南方に到達し、道路沿いに退却していた英連邦軍の部隊と司令部に次々と襲いかかった。同日から4月7日にかけて、ニームとオコナー、そしてこの年の2月にベダ・フォムでイタリア軍を壊滅的敗北に追い込んだ立役者の一人である、戦車部隊指揮官のクーム准将がドイツ軍に捕らえられ、翌4月8日には第2機甲師団長ガンビア=ペリーも捕らえられた。
『ロンメル戦記』P218,9



 捕虜になった時の詳細について。

 この新しい4番目の部隊は、ポナート中佐によって指揮され、第8機関銃大隊の指揮下にあり、デルナ近くのバルボ街道を遮断せよとの命令を受けていた。彼は砂漠を急いで横断し、そこに6日の晩に到着した。当初約10台のトラックで構成されていたこの部隊は、トブルクに向かって退却中の英連邦軍の事実上の首をはねることになった。オコンナー将軍は1台のトラックの後部で寝ており、クーム中佐とニーム将軍がフロントシートに座って、Jebel Akhbarでの指揮官会議の後トブルクへの途上にあったのだが、その時彼らはドイツ軍の哨兵に停止させられたのだ。ポナートは現在の英連邦軍の野戦指揮官を捕らえただけでなく、最も偉大な彼らの前任指揮官をも捕らえ、4月8日までに他にも約900名の捕虜を捕らえたのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P56



 ↓えらい皮肉な(^_^;

 オコンナーはかつて、偉大な指揮官の重要な資質は何かと問われたことがあった。その時彼は、最高司令官は退却を遂行する能力を持たねばならないと答えた。この退却は連合軍にとって大きな失敗であり、オコンナーもニームも今や捕虜になってしまったのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P58




 オコーナーを失った痛手について。

 車の窓から自動小銃を突きつけられて、オコナーとニームは降服を強いられ、ただちにドイツ軍の戦線へ連行された。ほんの数日前に、オコナーはナイトに叙されたばかりだった。彼ほど洞察力のある戦略家を失うことは、いかなる軍隊にとっても耐えがたいことであり、この小柄なアイルランド人は、そのエネルギーと、そのすばやい気力のこもった態度と、その魅力で、砂漠の兵士たちに愛されていた。彼を失ったことは、たいへんな痛手だった。
『砂漠の戦争』P92




 そしてまた、ロンメルが、オコーナーを手本にしたことについて。

 北アフリカ戦の序盤において、英連邦軍は一時的な劣勢を跳ね返す形で勝利を収めることに成功した。戦略的には、エジプトの対リビア国境付近における交通路の整備を意図的に行わなかったことが重要な役割を果たす結果となったが、軍事作戦面では、当時の英連邦軍がいち早く、砂漠戦における要点を見抜いていたことが勝利へと結びついたと言える。
 その要点とは、第一に奇襲、第二にスピード、そして第三に大胆な機動である。
 ウェーヴェルとオコナーは、兵力的に劣勢の中でも怯むことなく、冷静に情勢を判断し、イタリア軍の本格的侵攻を受けた戦いの序盤では、自軍に有利な地点で戦線を安定させることに成功した。そして、奇襲による反攻に転じた後は慎重に敵軍の余力を見抜き、目前に現れた勝機を逃すことなく、積極的かつ大胆な部隊運用で戦車および車輌部隊を迅速に前進させ、北アフリカのイタリア軍を事実上の壊滅へと追い込んでいった。

 彼らはまた、心理戦の要素を重視し、必要に応じて自軍の兵力を過大に見せたり、その位置を秘匿する欺瞞工作にも力を注いだ。こうした一連の行動が、北アフリカ戦線の第一幕における英連邦軍に輝かしい勝利をもたらす上で、重要な役割を果たしたのである。
 だが、この直後に枢軸軍の新たな司令官として北アフリカ戦域へと登場するロンメルは、イタリア軍の敗因を徹底的に分析した上で、先に述べた「砂漠戦の要点」をさらに突き詰めた形で独自の戦法を考案し、約二年間にわたって英連邦軍を苦しめることになる。
 言い換えれば、「コンパス」作戦における英連邦軍の勝利は、いわばロンメルにとっての「砂漠戦の教科書」であり、英連邦軍は間もなくその本質を会得した優秀な教え子から、北アフリカの戦場で手痛い「教育」を受けることになるのである。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P17,18




 その後の北アフリカの英連邦軍が、このオコーナーと同じクラス(第8軍司令官)の人材において良くなく(具体的にはカニンガムとリッチー)、苦杯をなめたことを考えると、本当にオコーナーを失ったことはイギリス軍にとって大きな痛手であったろうなと思います。

 もしオコーナーが捕虜にならず、その後も北アフリカ戦線で指揮を執っていたら、↓こうなっただろうとも……。

 オコーナーの第一の功績は1940年12月の反撃、つまりコンパス作戦であり、そのクライマックスはベダ・フォムであった。彼は単にイタリア第10軍を打ち破ったのみならず、それを完全に壊滅させ、敵の戦闘序列から削除させたのであった。【イギリス】第8軍の指揮をもし、カニンガム、リッチー、あるいはオーキンレックでなく、オコーナーが執っていたとしたら、ロンメルにどのようにして対抗したであろうか? それに成功すれば恐らく、続けて彼は第21軍集団【ノルマンディー上陸作戦以降でモントゴメリーが指揮していた軍集団】を指揮したであろうから、モントゴメリーと比べてどうだったであろうか気になるところである。ただ少なくとも、【モントゴメリーと異なり】彼はアメリカ軍とより協調したことであろう。
『British Commanders of World War II』P30



 ↑ここらへん、ちょっと関係すると思われることとして、最初にちょっと書いていた通り、オコーナーは脱走してイギリス軍に復帰し、第8軍団司令官としてノルマンディー上陸作戦からマーケットガーデン作戦のちょっと後くらいまで指揮を執って結構活躍したらしいのですが……(その時期のことについては、日本語版Wikipedia「リチャード・オコーナー」にある程度詳しく書いてあります。また、マーケットガーデン作戦の少し前から始まるOCS『Beyond the Rhine』には第8軍団司令部ユニットが登場します)。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第8軍団司令部ユニット

unit00435.jpg


 オコーナーが第8軍団司令官を解任される時の話として、英語版Wikipedia「Richard O'Connor」にはこうありました。

しかし、11 月 27 日にオコーナーは解任され、インド・東部駐留軍司令部としてモズレー・メイン中将の後を継ぐように命じられた。スマートの説明によると、モントゴメリーは「アメリカ人の部下に対して十分に冷酷ではなかった」という理由でこの動きを促し[51] 、ミードはその主導権は参謀総長のアラン・ブルック元帥が握ったとしているが、モントゴメリーはオコーナーを引き留めようとはしなかった[52]。


 どんな理由やねん、と思ったりするのですが……(^_^;

 ここらへん見ていると、オコーナー将軍はモントゴメリー将軍よりも優秀だったのではなかろうかという気がします。有名でないながらも戦史家達からは「明らかにモントゴメリーよりも優秀で、第二次世界大戦における最優秀のイギリス軍指揮官」と目されているというスリム将軍の例もありますし、マジでオコーナーが捕虜にならず、アジアでスリム将軍が指揮をとっている間ヨーロッパでオコーナー将軍が活躍していれば、イギリス軍のみならず連合軍全体が楽をできたのではないかと思ったりも……(T_T)

 あいや、しかし逆に、ロンメルが活躍できなくなってしまったかもしれないので、オコーナーは捕虜になってもらって良かったということで(おい)。


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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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