FC2ブログ

OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について

 「北アフリカ戦線のまとめ」で、次に英連邦軍のオコーナー将軍について書こうと思っているのですが、その資料の中に「西方砂漠軍(Western Desert Force)」という言葉が出てきまして、気になったのでそこをまず調べてみました。

 「西方砂漠軍」という言葉は私自身聞きなじみがないんですが、私が初めて買った北アフリカ戦ウォーゲームである『北アフリカ中東戦域』(GDW/HJ)の原題が『Western Desert/Near East』であり、ほんの時たま、「西方砂漠(Western Desert)」という用語が北アフリカ戦の資料に出てくることは、昔から気になってはいました。


 「西方砂漠という用語は、イギリスにとっての北アフリカの辺りを示す用語なのかな?」とも思ったんですが、Wikipediaで調べてみると……(以下、省力化のためにGoogle翻訳のものをそのまま引用します)。

西部砂漠は歴史的に「リビア砂漠」として知られていました。そして、その名前は古代リビアから来ました。そして、それはナイルとCyrenaicaの間にありました。リビア州の形成に伴い、「西部砂漠」という用語はエジプトのサハラ砂漠の一部を表すようになりました。

古代ギリシャ人にとって、リビアという用語は、ナイル川の西側のサハラ沿岸の全体をアトラス山脈まで表したものです。ローマ時代には、リビアという用語は、キレネカとそこからエジプトの間の地域に限定されていました。それから、リビア砂漠という用語は、これらの南側の地域に適用されます。これは植民地時代の1911年にCyrenaicaと西側の土地がリビアのイタリアの植民地として組織された時の誤称となり、エジプト内の地域を表すためにWestern Desertという用語がより一般的になりました。

Playfairは1940年の西部砂漠を240マイル幅(ナイル川からリビア国境まで)および150マイル幅(地中海からシワオアシスの緯度まで)であると説明したが、南部の地域は南部と呼ばれていた。インナーデザート[7]しかし、第二次世界大戦中、西部砂漠という言葉は、エジプトの沿岸砂漠だけでなく、エジプトとリビアの国境を越えてガザラ、シレナイカ、さらにはEl Agheilaにまで及ぶ地域にも適用されるようになりました。

現代のこの用語の使用は、ナイル川の西のエジプトにある砂漠全体を意味します[1] [8]。
英語版Wikipedia「Western Desert (Egypt)」から



 まあともかく、アレクサンドリアからエル・アゲイラ辺りの、いわゆる北アフリカ戦の舞台が、「西方砂漠」と一般に呼ばれていた(呼ばれるようになっていた)ということなんでしょうね。


 で、西方砂漠軍についてです。

西方砂漠軍

 西方砂漠軍(Western Desert Force)は第二次世界大戦の西方砂漠戦役中にエジプトで活動したイギリス軍の組織である。

 1940年7月17日、イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍<2019/01/29追加:の司令部>として指定された。この組織はイギリス第7機甲師団と第4インド歩兵師団によって構成された。西方砂漠軍の指揮官はリチャード・ヌージェント・オコーナー少将であった。

 1940年9月、イタリア軍によるエジプト侵攻の時、西方砂漠軍は約36,000名の兵士と65輌の戦車を持っていた。

 1940年12月初旬から1941年2月のコンパス作戦の期間中、西方砂漠軍の突破により膨大なイタリア軍が捕虜となり、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの有名な【バトル・オブ・ブリテンに関して】「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって救われたことはなかった」という言葉をもじってアンソニー・イーデン【外相】から「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって捕らわれたことはなかった」という言葉を頂戴することになった。12月14日から、東アフリカに引き抜かれた第4インド歩兵師団に代わって第6オーストラリア師団が加わった。

 西方砂漠軍は1941年1月1日に第XIII軍団という名前で呼ばれることになった。1941年2月までに、キレナイカに残っていたイタリア軍はバルボ街道を退却中であり、イギリス第7機甲師団と第6オーストラリア歩兵師団がそれを追撃していた。イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれた。その結果、西方砂漠において連合軍は防御態勢に移行し、中東司令部は4月のギリシア戦役に注力することとなった。

 ひまわり作戦でエルウィン・ロンメル麾下のアフリカ軍団によって北アフリカのイタリア軍が増強され、ロンメルの前進によってキレナイカ兵団長(General Officer Commanding:GOC)であったフィリップ・ニーム中将が捕虜になると、4月14日に西方砂漠軍がノエル・ベレスフォード・ピアース少将の元で再び活動状態にされて西方砂漠のイギリス連邦軍の指揮を執り、エジプト・リビア国境で枢軸軍の前進を停止させた。

 1941年8月に中東最高司令官がアーチボルド・ウェーヴェル将軍からクロード・オーキンレックに交代するとイギリス及びイギリス連邦軍が増強され、1941年9月にイギリス第8軍が創設された。この再編により西方砂漠軍は1941年10月に再び第XIII軍団と呼称されることになり、新たな第8軍の一部を構成した。
英語版Wikipedia「Western Desert Force」


 「イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍として指定された。」というのが「どういうことやねん?」とも思うのですが、英語版Wikipedia「6th Infantry Division (United Kingdom)」英語版Wikipedia「7th Infantry Division (United Kingdom)」を見てみても、詳しいことは書いていないのでまあ、スルーで(^_^;

<2019/01/29追加:コメントを戴いて、訂正してます(^_^;>


 で、とりあえずOCS『DAK-II』の英連邦軍の司令部ユニットを見てみますと……。

unit00408.jpg

 「W.Desrt」とあるのが西方砂漠軍の司令部ユニットですね。軍団規模です。「Tobruk Cmd」とあるのは、トブルクが包囲された時にゲーム的に使用される司令部ユニットであって、歴史上存在したわけではない……?(たぶん)

 「1 Aus」とあるのは何かと思って調べてみたら、こうありました。

 Blamey【オーストラリアの将軍】はオーストラリアを出発し、1940年7月10日、パレスティナに自身の司令部を置いた。
 この軍団は1941年2月16日にキレナイカの統轄を、イギリス第XIII軍団から引き継いだ。
 第1オーストラリア軍団司令部は1941年4月にギリシア戦役に転出した。その麾下にはオーストリア第6師団、ニュージーランド第2師団、ギリシア第12師団、イギリス第1機甲旅団があった。……
英語版Wikipedia「I Corps (Australia)」




 他の第XXX軍団と第X軍団のWikipediaを参照して情報をまとめると、こうなりますでしょうか。

1940/07/17 西方砂漠軍を編成
1940/09   イタリア軍によるグラツィアーニ攻勢
1940/12   英連邦軍によるコンパス作戦
1941/01/01 西方砂漠軍が第XIII軍団に呼称変更
1941/02/15 第XIII軍団が解散され、キレナイカの支配はキレナイカ兵団あるいは(02/16)第1オーストラリア軍団に引き継がれた?
1941/04   第1オーストラリア軍団はギリシア戦役に転出
1941/04/07 キレナイカ兵団長ニームが捕虜となる
1941/04/14 西方砂漠軍が再度編成される

1941/06   バトルアクス作戦
1941/08   イギリス第XXX軍団が創設される?(軍団長の就任が8月)
1941/09   イギリス第8軍が創設される
1941/10   西方砂漠軍が再度第XIII軍団に呼称変更
      (第XIII軍団のページによれば09/26に軍団長が任命されている)
1941/11   クルセイダー作戦

1942/07   第1次エル・アラメインの戦い
1942/08/18 モントゴメリーが第8軍司令官となる
1942夏   シリアで活動していた第X軍団をモントゴメリーが第8軍に編入
1942/08/30 第2次エル・アラメインの戦い(アラム・ハルファの戦い)


 自分の中でここらへんのことが整理できて良かったです。独伊の司令部についてもまとめたい……(というかまとめなきゃ……?)。



関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

No title

第6歩兵師団司令部を基幹として西方砂漠軍司令部が編成されたという部分について、どこが不明点なのかがわからなかったので、ちょっと確認してもよろしいでしょうか。

部隊を率いるのは司令官ですが、司令官は1人では統率を行えず司令部とその要員も必要です。西方砂漠軍はその時点で新編成の部隊であるため、司令部はそれ以前には存在しませんから新設する必要があります。それには新司令官がもともと率いていた司令部をそのまま移設すれば要員の編成と訓練に必要な時間を短縮できますので、新司令官となるオコナー少将が在席していた第6師団司令部をそのまま西方砂漠軍司令部に昇格させたのだと自分は理解していました。実際1940年6月の時点で司令部を失った第6歩兵師団は解散され、配下の各旅団は独立部隊となっています。

こうした司令部の改編は、イギリスのみならず各国でふつうに行われていたことだと思います。たとえばグデリアンがロシア戦線で率いた第2装甲集団司令部は、もとはフランスで彼が率いていた第19装甲軍団司令部そのものです。

そのうえで、オコナー少将の第6師団司令部が西方砂漠軍司令部となった経緯における不可解な点があるという疑問には興味があります。ご指摘いただければ光栄です。


No title

 お~、言葉足らずでした。すみません(^_^;

 私が疑問に思っていたのは、諸資料で「司令部」→「軍(実質的には軍団?)」という書き方になっていたので、「これが第6歩兵師団司令部が西方砂漠軍司令部になるなら分かるけど、司令部が軍になるってどういうこと?」ということなのでした……。しかも第6歩兵師団自体は西方砂漠軍には所属しないという感じでしたし。

 ある司令部が別の司令部として使われるようになることはあるだろうなとは思っていた(実例はぱっと思い浮かばないですけど)のですが、それが当たり前だからこそ、「司令部→軍」と書いたって「(師団)司令部→軍(司令部)」に決まってるからわざわざ資料の中に書かない、ということだったのでしょうね(^_^;

 いや、そういえば、英語の文の司令部という単語のかかり方が分かってなかっただけということかも!? あう〜(^_^;)
今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR