FC2ブログ

北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のウィルソン将軍についてです。

 といっても、この「ジャンボ」と呼ばれたウィルソン将軍という人物についてごく最近までその存在すら認識していなかったのですが、オスプレイの『Operation Compass 1940』で割と興味深く紹介されていて興味を持ちました。また、ある程度分かってみると、初期の北アフリカ戦線に非常に重要な役割を果たしていた人物であり、この人物の紹介を外すわけにはいかない感を強く持った次第です。

 しかし、ネット上では日本語でのウィルソン将軍に関する情報はほぼ皆無で、日本ではほとんど知られていない人物であるようです。



Hmwilson1944

 ↑ウィルソン将軍。1944年4月30日、イタリアにて。(Wikipediaから)



Hmwilson-churchill-eisenhow

 ↑前列右から、ウィルソン将軍、チャーチル首相、アイゼンハワー将軍。1943年12月25日。チャーチルは肺炎の治療中であった。「ジャンボ」ウィルソンの巨体ぶりが良く分かる。(Wikipediaから)



 さて、北アフリカ戦線のウィルソン将軍についてですが、とりあえずまず英語版Wikipediaの「Henry Maitland Wilson」による記述が分かりやすく、しかも印象深いものになっています。

 1939年6月15日に、ウィルソンは中将の位で在エジプトイギリス軍の指揮官に任命され、またアビシニアからペルシャ湾までの範囲の国々に対する軍事的助言を与える責任を持つこととなった。彼はカイロに司令部を置き、アレクサンドリアにおいて夏の間にエジプト政府との交渉に成功を収めた。1936年の条約は、戦争が起こった場合にはエジプト軍はイギリスの指揮下で戦い、ウィルソンの指揮下の限られた部隊 - 編成中であった1個機甲師団(後の第7機甲師団)と英軍8個大隊 - を補助することを要求していた。ウィルソンは麾下の防御部隊をリビアとの国境から100マイル以上離れたメルサ・マトルーに集中させた。
 8月初旬、アーチボルト・ウェーヴェル将軍が中東軍司令官に任命され、ウィルソンが求めてきた増援をもたらした。まず最初に第4インド歩兵師団、それに第6オーストラリア師団の先行部隊がやってきてメルサ・マトルーの防御ラインを増強し、パレスティナにいた第7歩兵師団と師団長リチャード・オコーナーおよびその幕僚がエジプトにあったウィルソンの司令部への増援として送られてきた。オコーナーの司令部はまずイギリス軍第6歩兵師団へと改編されて11月にはメルサ・マトルーの守備を引き受けることとなった。この部隊は1940年7月に西方砂漠軍へと再編された。
 1940年7月10日にイタリアのベニート・ムッソリーニ統領は宣戦布告をおこなった。ただちにウィルソンの部隊はリビアへと侵攻した。しかし7月17日にフランスが休戦を求めると侵攻部隊は戻され、イタリア軍はリビア西方のチュニジアとの国境にあった4個師団をリビア東方のウィルソンの部隊に対して移動させることができた。1940年9月にイタリア軍はエジプトへ侵攻し、約60マイル(97km)前進してシディ・バラーニを占領した。ウィルソンは圧倒的に優勢な敵軍に対峙することになった。ウィルソンの持つ31,000名に対してイタリア軍は80,000名、戦車120輌に対して275輌、大砲120門に対して250門であった。この状況は杓子定規的なやり方では打破できないとウィルソンは考えた。他の【イギリス軍の?】1940年の指揮官達と同様、ウィルソンは戦略について良く学んでおり、また徹底的な秘密主義でもって、敵の延びきった防御ラインの要所を攻撃することによって優勢な敵軍を混乱させるという計画を立てた。10月にイーデン外相およびウェーヴェル将軍と相談した後、ウェーヴェルによる二叉の攻撃案を却下して、ウィルソンは1940年12月7日にコンパス作戦を開始した。この作戦は大きな成功を収め、あっという間にイタリア軍部隊の半分を壊滅に追い込んだ。
 コンパス作戦の後の軍事行動は1941年に入っても成功裡に継続し、北アフリカにおけるイタリア軍を完璧に敗北させたウィルソンは、かつて第一次世界大戦当時の連隊の同僚達から、第二次世界大戦が始まった時にも当時陸軍大臣であったアンソニー・イーデンから非常に尊敬されていたのであったが、今やチャーチル首相からの固い信頼を勝ち取るに至った。ある放送でチャーチルはこう語った。「ナイルにおける軍を実質的に指揮していたウィルソン将軍は、イギリス軍における最高の戦術家のうちの一人という評価を勝ち取り、それを否定する者はないであろう。」
 ウィルソンは1941年2月にカイロに呼びもどされ、そこでキレナイカの軍事総督の地位を打診され、受諾した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Maitland_Wilson


 ことのついでに。エジプト軍はOCS『DAK-II』でユニット化されているのですが……。

 ↓OCS『DAK-II』のエジプト軍ユニット。

unit00404.jpg

 基本ルールにおいては下2段の特殊な部隊と航空ユニットのみが連合軍側で使用可能で、上2段の実質的な戦闘部隊のほとんどはイベントかオプションルールでしか登場しません。詳しいことは良く分からないですが、まあ史実でそうであったということでしょうか? 『DAK-II』のルールブックvol.2に載っているエジプト軍に関する記述(P17)に目を通してみると、「1936年の条約によりイギリス軍部隊がスエズ運河の防衛のために留まった」「エジプト軍の中には、支配国であるイギリスへの反感からドイツ軍に親近感を持つ者もおり、イギリスはいかなる軍事活動にエジプト軍を使用することも気が進まないでいた(1945年にエジプトが枢軸国に宣戦布告した後でさえ)」というようなことが書いてありました。


 オコーナー将軍についてはまた書くつもりであるので、その第7歩兵師団とか第6歩兵師団とかっていう、北アフリカ戦において見たことがない部隊の経緯も含めて調べないと駄目かも……。

 で、ウィルソン将軍ですが、コンパス作戦といえば「ウェーヴェル攻勢」とか「オコーナー攻勢」というような表現も見たことがある(そして私も使っていた)ような気がしまして、てっきりウェーヴェルとオコーナーがコンパス作戦の主役だと思っていたのですが、ウィルソン将軍がもしかしたら主役? というか少なくとも、ウェーヴェルとオコーナーよりもウィルソン将軍の方がエジプトに赴任した時期が早く、また在エジプトイギリス軍の司令官という、コンパス作戦に関してかなり直接的な地位にあったようですね~。

 ウェーヴェル将軍についてのまとめの所で既出ですが、このような記述もありました。

 その様々な指示の中で、ウェーヴェルは機動性と、整備資材の不足から来る限界性を強調し、様々な戦術的な提案をおこなったが、ウィルソンもオコーナーもそれらを高く評価することはなかった。やがて、ウィルソンはウェーヴェルに対して、ニベイワとソファフィキャンプの間のエンバギャップを突破し、西からニベイワとTummarsを攻撃するという、オコーナーの修正された計画を提示した。ウェーヴェルは常に非正統的なアプローチを好んでおり、彼は喜んでこれを承認した。
 この計画がコンパス作戦として知られるものであり、オコーナーの想像力に富んだ精神によって具体化され始めたものであった。
『Operation Compass 1940』P28


 この記述によると、オコーナーの案をウィルソンがウェーヴェルに提示した、ということのようですね。


 ウィルソンのキャラクターや能力について、『Operation Compass 1940』から引用してみます。

 サー・ヘンリー・メイトランド・ウィルソン中将は、在エジプトイギリス軍を指揮していた。優しい性格の「ジャンボ」ウィルソンは組織にとって必要不可欠な歯車であり、この戦域に部隊を転入させ、必要なものを調達し、水と食料を供給するという困難な任務に責任を持つと同時に、様々な作戦計画立案にも携わっていた。
『Operation Compass 1940』P15

 「ジャンボ」ウィルソンは一見したところ穏やかな人柄であったが、この大きく力強く立派な人物は経験豊かな兵士であり、最終的には元帥へと昇進し、地中海戦域の連合軍最高司令官となった。John Connellは彼が「やり手で、頭脳明晰でありながら、その立ち居振る舞いは非常に穏やかであった」と語っている。だがRonald Lewinは彼の「独自性やひらめきの欠如により、彼は浮くことを避けられなかった」と述べた。どちらにしても、コンパス作戦における彼の役割は次第に不必要なものになっていった。
『Operation Compass 1940』P16


 長所に関してだけでなく、欠点にもついて触れているのが個人的に非常に興味深いです。

 この後、ウィルソン将軍は英連邦軍によるギリシア派兵、およびその撤兵を指揮するために北アフリカを離れることになったのですがその際、こんなミスもしていたようです(これもウェーヴェル将軍についてのエントリで既出ですが)。

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
 ウェーベルの情報参謀は、ドイツ軍の攻勢準備については、部分的な情報しか入手できなかった。さきに英参謀本部情報部から、ドイツ・アフリカ軍団が突然キレナイカに侵入することもありうると警告されていたが、ウェーヴェルは、ドイツ陸軍総司令官のブラウヒッチュ同様に、合理的、現実的、正統派の指揮官であったから、その危険は5月まではないと、警告を無視していた。
 正常な軍事的常識をもつものなら、そんな無鉄砲な作戦はしないだろう、ウェーヴェルはそう考えていた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4




 その後ウィルソン将軍は、シリアでの対ヴィシー・フランス軍への作戦(エクスポーター作戦)を指揮することになります。WW2の人名事典から。

 ウィルソンは第二次世界大戦中の軍務のほとんどを地中海戦域で過ごし、そこで彼は相次ぐ敗北と退却という危機的状況を統括していたが、その間ずっとチャーチルの信認を維持し続けた。身体が大きく活力にあふれた彼は「ジャンボ」と呼ばれていたが、彼の思考は鈍重どころか迅速なものであった。戦争勃発時には在エジプトイギリス軍を指揮していた彼は、ウェーヴェルによる砂漠での初期の戦役や、エチオピアにおけるカニンガムを差配した。その後彼はギリシアへの派兵と撤兵の両方を指揮し、そこでのイギリス軍の損害を最小限に抑えることに貢献した。次の難局はイラクで親枢軸勢力によるクーデタが起こったことであったが、彼は非常に弱体な兵力でその占領に成功し、次にはシリアのヴィシーフランス軍を打ち破って占領するという、中東での戦争で最も繊細な作戦の実行を命じられた。1942年から43年にかけてはペルシア・イラク戦域および第9軍を統括していたがアレクサンダーから中東軍司令官の地位を引き継ぎ……1944年には地中海戦域の最高司令官となった……ウィルソンは大きな戦略的決断によって高い評価を得たわけではなかったが、困難な状況における軍事的判断に優れており、また多国間同盟の繊細な状況における外交にも有能さを示したのであった。
『WHO WAS WHO In World War II』P217

 彼は偉大な野戦指揮官ではなかったかもしれないが、その綿密かつ堅実な軍事的な管理者としての能力がチャーチルから賞賛され、それゆえに非常に難しい状況においても厚い信頼を得続けていた。
『WHO WAS WHO IN THE SECOND WORLD WAR』P179~181



 このエクスポーター作戦が、OCS『Reluctant Enemies』が扱う作戦であり、つまり『Reluctant Enemies』の英連邦軍プレイヤーはまさにウィルソン将軍の立場に身を置くことになるのです。ウィルソン将軍は司令部ユニットにもなっています。

 ↓『Reluctant Enemies』のウィルソン将軍司令部ユニット

unit00405.jpg


 『Reluctant Enemies』のヒストリカルノートにはウィルソンに関する記述が数か所にあるので、そちらも引用してみます。

 ウェーヴェル将軍は、このエクスポーター作戦を指揮する司令官としてメイトランド・“ジャンボ”・ウィルソン将軍を任命し、同時に三つの進撃路を進ませることにしました。海岸沿いにベイルートへ向かうエクスポーター作戦ルート、山脈の間のベッカ峡谷を通ってラヤク航空基地へ向かうルート、砂漠を通過してダマスカスへ向かうルートです。

 ルージャンティオム将軍麾下の自由フランス軍部隊は、伝えられるところによると「ラ・マルセイエーズ」を歌いながら意気揚々と北進したそうです。当初、ヴィシーフランス空軍による爆撃を除き、彼らはいかなる抵抗にも遭いませんでした。この自由フランス軍部隊は6 月10 日にキスウェの南約20 マイルにあるサナメインに集結し、そこでそのキスウェの町を奪回する計画が立てられました。ところがこの時、ルージャンティオム将軍はヴィシーフランス空軍の爆撃で腕を負傷し、ダルアーの病院に避難させられました。この負傷は彼に大きな影響を与えたらしく、伝えられている話では「彼の頭のてっぺんが完全にどこかへ飛んで行ってしまった」のだとか。その結果、ウィルソン将軍はシリアでの作戦司令官にロイド准将を、インド第5 旅団の指揮官にはラージプターナライフル大隊のジョーンズ大佐を任命しました。

 イギリス連邦軍は、シドン、マルジャヨウン、ジェジン、そしてキスウェの南のエル・アワジ川で停止させられており、増援が要請されたものの、ウィルソン将軍にはそれらがどこから来るのか全くわかりませんでした。中東の主眼は、6 月15 日にエジプトの西方砂漠で開始することになってエクスポーター作戦いた対ロンメル攻勢であるバトルアクス作戦に置かれていたのです。

 “古(いにしえ)の聖なる” ダマスカスは、言い伝えによれば“世界で最も古くから途切れることなく人が居住してきた街” とされていました。ウィルソン将軍は当初、ダマスカスを攻撃することに乗り気ではありませんでした。彼は6 月18 日にヴィシー・レヴァント地域の軍事総督であるデンツ将軍に向けて、ダマスカスが破壊を免れるために無防備都市を宣言するようにラジオ放送を行いました。デンツ将軍は返答を先延ばしにしたものの、最終的にこの要求を拒絶しました。

 ウィルソン将軍はジェジンとベイト・エッディーンの動きを慎重に調べると、東の丘陵地帯から再びヴィシーフランス軍の反撃がある可能性を見つけたため、ヴィシーフランス軍をダムールまで追撃しませんでした。この時、マルジャヨウンでもヴィシーフランス軍の反撃でオーストラリア第25 歩兵旅団の進撃はストップしていたので、彼は攻勢を一旦停止して補給物資の補充と部隊の再編成を行うことにしました。


 エクスポーター作戦はウェーヴェルが反対したにもかかわらずチャーチル首相の命令によってやむを得ず乏しい兵力からなんとかやりくりして始められたのですが、その真っ最中にチャーチルは対ロンメルのバトルアクス作戦の実行をもウェーヴェルに強要しました。そんな状態でバトルアクス作戦が失敗したのはある意味当たり前で、エクスポーター作戦が成功したのはあるいは、ウィルソン将軍の力量によるものだったのでしょうか。どこで見たのか忘れたのですが、バトルアクス作戦がすぐに(失敗して)終了したことにより、エクスポーター作戦に兵力を回すことができるようになり、エクスポーター作戦はそれゆえに成功したという記述があったような気がします。


 このように(もちろん欠点はありつつも)優秀な指揮官であったらしいウィルソン将軍ですが、オーストラリア兵とニュージーランド兵に対する偏見を強固に持っていたようでもあります。

 だが、問題はより根深いところにあった。イギリスの上級将校達はANZAC(Australian New Zealand Army Corps)の将校や兵士達に対して多くの偏見を持っていたのである。ウィルソン将軍は彼らを「厄介なやつら」呼ばわりしており、オーキンレックは決して彼らを好んでおらず、オコーナーでさえもがオーストラリア兵達を酔っ払いの無秩序な、略奪家であると非難していたのである(それらはある程度事実であった)。ANZACの部隊が真に理解され、この戦域における「イギリス将軍連」から受け入れられるようになるのは、モントゴメリー将軍の到着を待たねばならなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P54


 まあしかし、「ある程度事実であった」ならしょうがないですかねぇ~(^_^;



関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR