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冬の嵐作戦&小土星作戦前の第17装甲師団とその他ドイツ軍部隊の動きについて

 『On a Knife's Edge』で冬の嵐作戦の3日目(12月15日)辺りで、次のような記述があったのにちょっと興味を持ちました。

 ロシア軍は今や強力な防御ラインを構成し、ドイツ軍にとって貴重な時間を失わせ、マリノフスキーの第2親衛軍を配置できる余裕がでてきた。もし第17装甲師団が冬の嵐作戦の最初からホトとキルヒナーにとって使用可能であったならば、Saliyevskyの橋頭堡を確保するのに充分な兵力となっており、第6装甲師団がVerkhne Kumskyから退却する必要もなかったであろうに。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P145



 続けて読んでいると、小土星作戦開始(12月16日)前の11日からソ連軍の偵察行動を始めたことによってドイツ軍が配置変換をしていたことについて、以下のような記述がありました(以前、『大いなる聖戦』で見るリトルサターン作戦分析 (2018/12/03)でこの件について書いてました)。

 より良い攻勢開始位置を得るための先んじての偵察攻撃が12月11日には始まったが、それが理由の少なくとも一つとなって1個装甲師団とフルトヴァッフェがこの地域にまわされることになり、ロシア軍の本当の攻勢の前日に再び移動されることになった。偵察活動が続き、ドイツ軍はわずかな予備をその地域へと移動させ始めた - 第27装甲師団が第17装甲師団の代わりに置かれ、第385と第387歩兵師団およびSSの各種小部隊が、イタリア軍の防御ラインを補強する為に配置された。だが、第27装甲師団は完全戦力からはほど遠かった。この師団は10月に編成されたばかりで定数の戦車をまだ受け取っておらず、砲兵と歩兵はかろうじて弱体な戦闘団を構成できる程度に過ぎなかった。特に、師団の機動力の決め手となるトラックの数が致命的に不足しており、機動部隊としての機能に重大な足かせとなっていた。
『On a Knife's Edge: The Ukraine, November 1942 - March 1943』P150


 ここを読んで「えっ、第17装甲師団はイタリア軍の防御ラインの辺りにいて、代わりに第27装甲師団が来たことによって、冬の嵐作戦に参加可能になったってこと?」とさらに興味を持ちました。


 とりあえず、小土星作戦前のドイツ軍の動きについて『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』を見てみましたところ……。

 ソ連軍の偵察は、敵の部隊配置の変更を引き起こした。12月13日から15日にかけて、ドイツ軍の第385歩兵師団と第27装甲師団がイタリア軍の防御ラインへの増援として前方に移動し、またドイツ軍第387歩兵師団が北方からイタリア軍区域に向かっている途中であった移動が早められた。12月14日には第537歩兵連隊(第385歩兵師団)がSamodurovka周辺に入ると同時に、第318歩兵連隊がソ連軍のDerezovka橋頭堡を繰り返し攻撃した。基本的に、第385歩兵師団の2個連隊と第318歩兵連隊がコッセリア師団とラヴェンナ師団の一部の前線防御を引き継ぐことになった。それらのイタリア軍師団は予備として後方の新たな位置へと下がり、ドイツ軍を支援して敵への反撃の役割を担うこととなった。
 12月16日の朝までにさらに他のドイツ軍部隊が到着して、イタリア軍の防御ラインを補強した。Schuldt戦闘団(2個SS警察大隊)がKantemirovkaに、フェーゲライン戦闘団(2個SS大隊、1個突撃砲砲兵隊、および第15警察連隊)がKantemirovkaの西側に、第27装甲師団がラヴェンナ師団を支援し、第298歩兵師団の1個大隊がパスビオ師団を支援した。さらに、12月18日までに第387歩兵師団がKantemirovkaのすぐ北の区域へと移動することになっていた。
『From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 - August 1943』P42


 ある程度詳しい情報で、将来的にOCS『Case Blue』でリトルサターン作戦シナリオを作る時に役立ちそうで個人的に大興奮です。が、第17装甲師団については書かれていませんでした。


 試しにネット上で「17th Panzer Division」で検索してみると、項目がありました。

 冬の戦いの後、第17装甲師団は1942年の初夏に前線近くの場所で再編成され、約50両のⅢ号戦車とⅣ号戦車を受領した。9月にはオリョールの北で小規模な攻撃で交戦をおこなったが、その後再び防御位置に移動した。第17装甲師団はボルホフの近くで中央軍集団の予備として控置されていた。この頃は様々な種類の戦車45~50両程度のみであった(定数約200両であった)。1942年10月には、Fridolin von Senger und Etterlinが師団長となったが、作戦行動可能な戦車はわずか30両で、トラックも1/3は使用不能であった。
 スターリングラード周辺での反攻作戦である天王星作戦の後、第17装甲師団は急いでB軍集団のミレロヴォへと移された。そこからコテリニコヴォへと移動し、冬の嵐作戦に参加するために第4装甲軍に加わった……
英語版Wikipedia「17th Panzer Division (Wehrmacht)」




 『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』を見てみると、冬の嵐作戦への参加することになっていた部隊の集結についての表があり(P41)、そこに第17装甲師団についても詳しいことが書いてありました。曰く、

・第17装甲師団は12月10日までに、ドン軍集団予備として、オリョール地区からミレロヴォへと移されていた。
・12月11日にはモロゾフスクに(軍集団予備であったが、12月13日に第57装甲軍団へと移された)。
・12月15日には、ドン川の東にあり、12月16日から18日にかけてアクサイ川へ。



 これらを見ると、ある程度順調に移動していったかのような感じも受けますが、実はそうではなくてヒトラーがなかなか、マンシュタインに使用を許可しなかったようです。

 このことは12月13~14日の夜にかけて特に致命的であった。なぜならば、マンシュタインが繰り返しヒトラーに使用を願い出ていた第17装甲師団が依然としてニジネ・チルスカヤの西100kmにも満たないモロゾフスク周辺で予備のままでいたからである。ヒトラーはこの師団の使用を12月13日までマンシュタインに許可しなかったが、もしもっと早くに許可を出していれば、第17装甲師団は第48装甲軍団に加わってニジネ・チルスカヤから救出作戦に使用されるか、あるいは少なくとも、13日に第5打撃軍に攻略されてしまうことになるRychkovskiiを再占領するための増援となり得ていたはずなのである。だがマンシュタインの要請にようやくヒトラーが許可を与えた時にはRychkovskiiはすでにソ連軍の手中にあり、ポポフの部隊はVerkhne-Chirskiiを制圧しようとしていた。
『Endgame at Stalingrad Volume3. Book Two December 1942 - Feburary 1943』P79



 あー、結局ヒトラーが原因なんですねぇ……。ヒトラーさえいなければ……(^_^;

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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