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タウエンツィーン将軍について、まとめ

 Shakos『Napoléon 1806』に出てくるプロイセン軍の将軍について、今まで調べていなかった人を調べようという企画、第1弾はタウエンツィーン将軍について調べてみました。


 いくつかの資料を参照したんですが、彼の外交的な仕事やなんかについてはいくぶんか省略しています。


Graf-tauentzien.jpg
 ↑タウエンツィーン(Wikipediaから)


 タウエンツィーンは1760年生まれ。がフリードリヒ大王に仕えた将軍であったことから、彼自身もプロイセン王家と密接なかかわりを持ち、1775年にプロイセン軍に入った後、フランス革命前の時期には王子(ハインリヒ?)と一緒にフランスを旅したりし、1791年に父が死んだ時には王(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)から従者に任命されました。その数ヶ月後に伯爵位を受けているのは父親の爵位を継いだもの? 1793年には王族の副官としてフランス革命戦争に参加し、その後ロシアへの外交任務に派遣され、1795年には大佐になりましたが、彼自身は軍人としてよりは外交の方に精通していたようで、1813年までに多くの外交的任務を任されました。

 ですが1800年3月には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に、外交的な任務でなく連隊長のポストが得られるように頼んでいます。しかしすでに外交的任務などで?年功のあった彼にちょうど合った連隊長職を見つけることは非常に難しく、そのうちに病気にかかって所領で養生していたようです。

 しかし少将に昇進後の1801年9月にようやく希望が叶えられ、アンスバッハに駐屯するある連隊の長となり、訓練に励みました。アンスバッハというのは当時のプロイセンにとって南西の方にあった飛び地で、1805年のフランス対オーストリアの戦役の時にプロイセンは中立であったにもかかわらずフランス軍がアンスバッハを通過し、大問題となりました。

 アンスバッハの位置についてはプロイセン王国の国土の拡張という画像が分かりやすかったです。

 なぜ当時フランス軍がアンスバッハを通過したのかに関しては、1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯 (2015/12/29)に以前いくらか考察を書きました。

 この時タウエンツィーンは、フランス軍の通過を止めるためにはあまりにも少ない兵力しか持たなかったので、現実的な対応をしました。つまり、フランス軍は通過させ、しかし南ドイツにおいてフランス当局に対して激しい外交キャンペーンをおこなったのです。1806年にブリュヒャーがアンスバッハにやってきて指揮を執り始めると、ブリュッヒャーとタウエンツィーンはひどく仲たがいし、タウエンツィーンは辞任を願い出ましたがフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はそれを却下しました。

 1806年の戦役の時にはタウエンツィーンはホーエンローエの率いる軍勢の中の左翼の前衛を担当し、資料により色々ですが大体8,000から9,000名程度の兵を持ち、うち1/3~2/3はザクセン兵であったかのようです。

 10月9日にタウエンツィーンの部隊はシュライツで、この戦役で初めてフランス軍との戦闘となりましたが、これは本格的な戦闘ではなく、小競り合い程度でタウエンツィーンの部隊は撤退しました。タウエンツィーンはシュライツでの戦闘でそもそも会戦を意図しておらず、小規模な砲撃や騎兵戦闘だけで時間稼ぎをして撤退したようなのですが、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」はこの戦闘を敗北とし、この時のタウエンツィーンの行動は批判されていると述べています(敗北が非難されているのか、あるいは可能性として、この撤退によって東の側面をフランス軍に明け渡したのみならず、その後のフランス軍の東側面における行動も監視下でなくしてしまったということが非難されるのかもしれません)。

 一方、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」はこの後の退却について、「タウエンツィーンは部隊を上手くMittel-Pöllnitzへと退却させ、プロイセン軍主力と合流させることができた。」と述べています。

 タウエンツィーンはイエナへと撤退し、イエナの戦いでは再度前衛として戦いました。イエナでの敗北の後の退却については『ナポレオン戦争 第3巻』P92にこう賞賛されています。「それでもなお、イエナから北へ向かう退却の間に見られた、タウエンツィーンの首尾よい援護行動は立派であった。特に、その同じ朝に彼の部隊は手荒に扱われたのであるから。」

 タウエンツィーンはホーエンローエの軍勢と一緒に退却したようで、ホーエンローエが大軍を持ちながらプレンツラウであっけなく降伏した時に一緒に捕虜となったようです(10月28日)。その後釈放されたのですが、ナポレオンは1805年のアンスバッハにおけるタウエンツィーンの振る舞いに立腹していたことから1806年12月23日に罪状もないままに彼を逮捕し、フランスの要塞に拘留しました。この後、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」による記述は時系列が良く分かりませんが、タウエンツィーンはアンスバッハとバイロイト(これもプロイセンの飛び地であったところ)で非常に大きな賞賛と歓迎で迎えられ、これが再度ナポレオンをイライラさせることになり再度逮捕され、最終的に1808年11月20日まで投獄が続きました。

 解放された後、タウエンツィーンはベルリンのブランデンブルク旅団の指揮官に任命され、またフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に同行してサンクトペテルブルクのロシア宮廷に赴きました。

 1806~7年の戦役における数々の失態によってプロイセン軍の多くの将官が解任されましたが、タウエンツィーンは解任されることはありませんでした。しかし、タウエンツィーンは保守派の者達の中でも特に伝統的な考え方を重んじる人物であったため、シャルンホルストや改革派の者達からこころよく思われていませんでした。タウエンツィーンは長年外交畑で活動していたためその人物像について良く知られておらず、多くの者達が彼が戦場指揮官として残る能力があるのかどうかに疑いを抱いていました。また彼はドイツのナショナリズムを大いに支持しており、フランスの秘密警察の重要な監視対象となっていました。

 1809年にプロイセン軍の将校シルがドイツ北部で反乱を起こし、すぐに鎮圧されましたが、シルはタウエンツィーンの指揮下にいた人間であったため(再びナポレオンの主張により)タウエンツィーンは逮捕されました。逮捕後、再びタウエンツィーンは辞職を願い出ましたが再び却下されました。裁判の結果はいかなる共謀も認められないというものでした。1811年10月にタウエンツィーンはブリュッヒャーの後任としてポメラニアの総督となりました(ナポレオンがそこの総督であったブリュッヒャーの解任を要求していたため)。

 1812年3月にタウエンツィーンはベルリン総督となり、1813年3月にはオーデル川とビスワ川の間のすべての軍の総督となりました。タウエンツィーンは戦闘部隊の指揮官となることを願い出て、拒否されて再び辞表を出しましたがいつものように拒否されました。

 タウエンツィーンはロシアのクトゥーゾフ将軍の下でシュテッティンの町を封鎖するように命じられました。クトゥーゾフはシュテッティンの町を取ろうとしてはいけないと警告していましたがタウエンツィーンは従わずに襲撃をおこなって敗北しました(と、「Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815」にはあるのですが、英語版Wikipedia「Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien」には「タウエンツィーンはシュテッティンの攻囲に成功した」とあります)。

 1813年7月にタウエンツィーンは主に義勇兵(ラントヴェーア)からなる第Ⅳ軍団の指揮を任されました。彼の任務は、オーデル川とエルベ川の要塞を支配し、またブリュッヒャーとベルナドットの軍と協力することでした。8月22日にタウエンツィーンはBlankenfeldでの小競り合いに勝利し、それによって翌日のグロスベーレンの戦いにおける連合軍の勝利に大きく貢献しました。8月28日にはLuckowを占領し、その後9月5日にデンネヴィッツで攻撃を受けました。当初タウエンツィーン軍団は単独で圧倒的兵力からの攻撃に耐えねばなりませんでしたが、ビューロー将軍の第Ⅲ軍団が到着するまで義勇兵達は耐え抜き、両軍団はネイの軍団を打ち破ってベルリンへの接近を阻止しました。デンネヴィッツの戦いの戦いの日の正午、タウエンツィーンの幕僚の一人が退却して軍団の損害を避けるようにと進言しましたが、その時彼はこう言ったそうです。
「一人の将軍が他の将軍に何かを言った際には、それを疑ってはならない。一歩でも後退するよりも、私は麾下の全部隊と共にここで死ぬことを選ぶ。」

 10月中旬、タウエンツィーンはナポレオンが3万の兵力でベルリンに進撃中であると聞き、ベルリンを守るためにエルベ川を越えて北に撤退しました。これは戦略的な誤りであったため、タウエンツィーンは多くの批判を受けました。なぜなら、タウエンツィーンが10月15~16日の夜の間に急いでベルリンへと向かっている間、ナポレオンは反対の方向であるライプツィヒに軍を集中しているところであったからです。このため、第Ⅳ軍団はこの大会戦に参加することができませんでした。

 1813年12月26日にタウエンツィーンはトルガウ要塞を奪還し、1814年1月12~13日(Wikipedia上では13~14日)の夜にヴィッテンベルクを占領しました。この占領の功績の大半は彼の予備部隊の指揮官であったドープシュッツ中将にあったのですが、ヴィッテンベルクの勝利はタウエンツィーンのものとして賞賛され「von Wittenberg」の称号と紋章それに大鉄十字章を授与されました(この時代に大鉄十字章を授章したのは、ブリュッヒャー、ビューロー、ベルナドット、ヨルク、タウエンツィーンの5人だけ)。ヴィッテンベルクのある通りには当時タウエンツィーンの名前が付けられたものの、今はドープシュッツの名前で知られているそうです。

 タウエンツィーンの軍団はその後マクデブルクを封鎖し、マクデブルクはナポレオンが退位した後の1814年5月24日になってようやく降伏しました。

 またこの頃、タウエンツィーンはデンネヴィッツの勝利の戦功を主張してフォン・ビューロー将軍との間で大きな論争となったそうです。

 『1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras』P100によれば、タウエンツィーンはこの頃のプロイセン軍保守派の一人であり(他にはクネーゼベック、カルクロイト、クライスト、ヨルクなどがいた)、またタウエンツィーンはビューローから軽視されていると考えていたそうです(デンネヴィッツの戦いの戦功に関する論争がその原因だったのかもしれません)。

 1815年3月23日にタウエンツィーンは第Ⅵ軍団司令官となっており、ワーテルロー戦役に向かいましたが、彼がフランスに入った頃にはワーテルローの戦いは終わっていました。

 戦後は第Ⅲ軍団を指揮し、タウエンツィーンは1824年2月20日にベルリンで亡くなりました。





 感想ですが、調べていて意外に、非常に面白い人だなと思いました(^_^; ナポレオンに投獄されまくったり、辞表を出しまくったり、ブリュッヒャーやビューローとケンカしたり、誉められたりけなされたり。



 今回の資料は、文中にもいくらか示しましたが、↓とOSGの『1806 Coming Storm』です。他にもいくらか参照しましたけど、収穫なしだったりしたので(あと、英文が私にとって分かりにくい資料は今回パスしてます(^_^;)。




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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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