FC2ブログ

『ナポレオンとバイエルン』から、ヴレーデ元帥について

 もう1年半も前に買っていた『ナポレオンとバイエルン』という本をようやく読了しました。




 横長でけっこう重さがあり、持ち運んで読むのが非常にやりにくい形の本でもあったので……それで、最近年のせいか夜中に目が覚めるのですが、その時に寝付くためにキリン・ザ・ストロング ハードコーラを飲みながら読み進めてました。




 この本、ナポレオン時代のバイエルンについて書いてあるわけですが、1809年戦役でバイエルンが戦場になっている辺りは軍事的な記述が詳しく、また巻末にはバイエルンにナポレオンが来た時に庶民とかがそれを見に寄せた時の話とかが詳しく書かれていて興味深かったです。

 バイエルン軍の最高司令官的な人物はヴレーデ将軍(のちに元帥)という人で、以前、フェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥というエントリにある程度調べて書いてましたが、『ナポレオンとバイエルン』にも出てきて活躍するので、その人物像に関する記述を拾い抜きしようと思います。

 まず、フランスの配下という状態にあったバイエルン時代のヴレーデについて。

 ヴレーデはその並外れた行動意欲によってフランス軍の注目を浴びていたが、決戦の間ナポレオンの大陸軍の背後を守るように命じられていた。一日中続く執拗な小競り合いになったあと、12月5日孤立しているバイエルン軍は遙かに優勢なフェルディナント大公率いるオーストリア軍のボヘミア隊に攻撃され、必死の抵抗のあと押し返した。バイエルン軍は今回の出兵でかけ離れて多い、ほぼ1000名を失った。
『ナポレオンとバイエルン』P100

 ……ナポレオンが高く評価しているヴレーデ……
『ナポレオンとバイエルン』P203

 【バイエルンで嫌われていたルフェーヴル元帥に関して】ヴレーデだけは皇帝に好かれていたので自説を主張した。
『ナポレオンとバイエルン』P238


 これらによるとヴレーデはナポレオンから高く評価され、好かれていたようです。その理由については明示されてないんですが、「その並外れた行動意欲」ともあった部分がその理由かもしれないと個人的に思います。というのは、この本にはナポレオンとカール大公の差異についてこんな記述があったりするのです。

「積極的に、積極的に、速く」とナポレオンはあの日のマッセナ元帥宛の命令に書いた。これは軍が多分に持っている特性であるが、これを動かし、導くことが必要で、それをナポレオンは誰よりもよく知っていた。カール大公はこのような呼びかけをほとんど利用しなかった。というのは単にそれに必要な性格を持ち合わせていなかっただけでなく、また彼の個人的な能力が彼の軍の欠点を補うのにあまり適していなかったからである。
『ナポレオンとバイエルン』P213



 別の本ですが、『Blundering to Glory:Napoleon's Military Campaigns』という本(の前書き)には、ナポレオンはワーカホリック(仕事中毒)であるという特性があり、その恐るべき行動力によって、戦役前にあらゆる情報を取得し、考え抜いておくということをしていたし、また戦役の途中で自分の失敗が分かっても、それをまた恐るべき行動力によって帳消しにし、大勝利に繋げることができた……というようなことが書いてありました。

 ナポレオンがそのような特徴を持ち、またその特徴を大事なものだと考えていたならば、似たような傾向を持っていた(かもしれない)ヴレーデをナポレオンは高く評価し、好んでいた可能性があるのかも……(尤も、よく指摘されているように、ナポレオンは麾下の元帥達を単に自分の命令を遂行するだけのロボットのように扱い、独自の判断力を殺していった……という話もありますが)




 しかしナポレオンによってバイエルン(軍)が理不尽な扱いを受けまくり、ヴレーデは反ナポレオン感情を増大させていき、バイエルンの反ナポレオン派においても最も行動的な人物となりました。

 モンジュラが裏で用心深く動いている一方で、ヴレーデは大臣の了解のもとに非常に活発な推進役を務め、独断の危険にもひるまなかった。かれは反ナポレオン陣営の代弁者となり、これによって王太子の変わらない賞賛と感謝を獲得した。イン川にある彼の司令部は時にはオーストリアとの交渉使節となった。
『ナポレオンとバイエルン』P274

 ヴレーデの指導力のお陰でバイエルンは軍事的決着が付く前にナポレオンと訣別した唯一のライン連邦国であった。
『ナポレオンとバイエルン』P285

 こうしてヴレーデは【ハーナウ会戦のあった1813年】10月末に完全に孤立した状態で、ハーナウでライン川への退却を防ぐためにナポレオンの主軍に立ちはだかることになった。戦いの中に身を置いてやっと現実の状況が明らかとなった。ヴレーデはどんなことがあってもこの会戦に勝とうと奮戦した。というのも政治的状況が、バイエルンの同盟変更が真剣なものであることの証明を必要としていたからである。「どんな犠牲を払っても、勝って敵を阻止しなければならない」とヴレーデは10月29日に言った。「我々は血を流してでも真剣であることを証明しなければならない新参者である」。
『ナポレオンとバイエルン』P286

 ハーナウの戦闘でバイエルンとオーストリアは合計9000名を失ったが、フランス軍の損失はこれよりもかなり少なかったものの、会戦の前後で約1万名の捕虜を出した。「可哀想なヴレーデよ、私は彼を伯爵にしてやったが、よい司令官にはしてやれなかった」とナポレオンは勝利のあと語ったが、それには明らかにバイエルンの「裏切り」に対する怒りの響きも混じっていた。
 ヴレーデは明らかに敗北したが、会戦の政治的目的を達することができた。同盟国の君主たちが負傷したバイエルンの将軍を見舞いに訪れたことがそれをはっきりと物語っている。ネルトリンゲンの画家ミヒャエル・フォルツがその場面を描いている。ヴレーデは椅子に座って、ロシア皇帝(左)、オーストリア皇帝(中央)、プロイセン国王を迎えている。バイエルンはこれで反ナポレオン同盟の一員として受け入れられ、その後のヨーロッパの平和秩序における居場所を確保したのである。
『ナポレオンとバイエルン』P287

 皇帝の失墜で終わった出兵の結果に関してバイエルンは少なからぬ貢献をした。特にブリエンヌおよびアルシ=シュル=オーブで同盟軍が危うく敗北しそうだったのを救うのに彼らは決定的な働きをした。ヴレーデは主軍の司令官たちの中で最も活動的で、最も攻撃的であった。国王は同年のうちに彼を元帥に任命し、侯爵の爵位を与えた。一方バイエルン軍は4月2日パリに入城し、ブラヴァール・オスピタルをパレードしたが、4月10日にはもう首都を離れてロートリンゲンに向かい、6月に最終的に故郷に向けて行軍したが、ヴレーデはパリに残った。彼は先年リート条約締結の際に素晴らしい働きをしたので、これから同盟変更に伴う領土交渉においても信頼されていた。彼がこの課題に対して選ばれたのは、間違いなく彼が同盟国に対してバイエルンの新しい地位を代表するのに最も信頼できると思われたからであった。
『ナポレオンとバイエルン』P292



 最後の「ヴレーデは主軍の司令官たちの中で最も活動的で、最も攻撃的であった。」という箇所は、(良く知らないながらも)ブリュッヒャーの方が狂ったように攻撃的であったのではないのかな~と思ったりもするのですが、ブリュッヒャーは「主軍」の中の司令官ではない……とか?

 ハーナウの会戦についてはフェルトヘルンハレに顕彰されたヴレーデ元帥でも書いていましたが、そちらでは「ヴレーデごとき」が判断を誤ってナポレオンの前に惨敗したかのようになっていましたが、『ナポレオンとバイエルン』ではヴレーデの必死さが伝わって男泣きできる内容であり、ハーナウの戦いをテーマにしたゲームがあればプレイしたくなってしまう感があります(Vae Victisのゲームがあるようですが、OSGで予定?されているコンポーネントの方がはるかに好みですね……)。


関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR