フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについて

 承前、フランス軍のジュノー将軍とその夫人ロールについてです。


Marguerite Gérard - La Duchesse Abrantes et le General Junot
↑ジュノーとロール(Wikipediaから)


 ジュノーはナポレオンの2歳年下で、法律を勉強していましたが革命が起こって志願して従軍し、トゥーロンでナポレオンと知り合ったそうです。

 その時のエピソードとして、こんなことがあったとか。

 ジュノーは、トゥーロンで軍曹として口述筆記をしている時に、ナポレオンの注目を引くことになった。砲弾が土を巻き上げて紙を土まみれにした時に、ジュノーは言ったのだ。
「やあ、砂を(インクを拭い取るために)使う必要がなくなったぞ」
 砲火の下でのこの冷静さの故に、彼はイタリアでナポレオンの副官となったのだった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 その後、ナポレオンとジュノーは「親友」となったそうで、いくつかの資料でナポレオンがジュノーを「親友」呼ばわり?しているのが出てきます。


 ジュノーが16歳のロールと結婚したのは1800年のことで、その時のエピソードが、ナポレオニック雑文集の「ジュノ将軍の結婚騒動」の項に書かれています(ずっとサイト閉鎖されていたのですが、復活したのですね! サイト上でCtrl+Fして左下に出る検索窓で「ジュノ将軍の結婚騒動」と入れて検索してみて下さい)。

 ロールについて、『Who was who in the Napoleonic Wars』はこう書いています。

 ロールは美人と機転、それに浪費で名高く、それ故にジュノーは常に金の心配をしなければならなかったが、彼自身もまた同じように浪費家であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 で、新刊の『ナポレオン時代』に書かれていたジュノーとロールの話なんですが、ナポレオンの居城となったマルメゾンにジュノー夫婦が間借りしていたものか、こんな風に書かれていました(ロールの信頼性に欠けると言われる回想録にあるものでしょう)。

 【マルメゾンの】二階の寝室のむき出しの赤いタイルの冷たさをぼやきながらも、ナポレオン配下の【ジュノー】将軍(嵐(ラ・タンペット)の異名を取った、当時のパリ知事)の妻で、17歳のロール・ジュノーは「私たちは楽しく日々を送っていた。けれども楽しい夏はあっという間に過ぎ去った」と記録している。要するに、未来の皇帝に言い寄られるまでは楽しかったということだ。ジョセフィーヌの目を盗んで、そしてラ・タンペット【ジュノーのこと】がパリに戻っている隙を突いて、ナポレオンは夜明けの訪問を始め、彼女の足の指をつねるなどしてその気にさせようとした。三日目の晩、彼女は内側から施錠しておいたが、ナポレオンにはマスターキーがあった。そこで、ロールは夜が明けきるまで一緒にいてほしいと夫に懇願した。翌朝、ナポレオンはロールのベッドで朝食をとるジュノーを見て驚いたが、平静を取り戻すとこう言った。わが将軍は「私よりよほど優秀な目覚まし時計だな!」「そのとおりであります。それでこそあっぱれな男というものでございましょう!」と、愚直そのもののジュノーは応えた。マルメゾンの居づらさに耐えきれず、ロールはパリに逃げ帰った。その後ジュノーが元帥に昇進することは決してなかった。
『ナポレオン時代』P47



 ここで私は吹いたのですが(^_^;、この原因に関する分析は合っているのでしょうか? ただ、1804年に18人が元帥号を受けた時、元帥になれなかったジュノーは不満であったっぽいですし、元帥になってしかるべきだったという議論もあるようです。一応、他の元帥を見ると、最も若いダヴーが1770年生まれで、ジュノーはそれより1年後の1771年生まれなので、年齢を言い訳にできなくもない……?

 ただ、ここでは「愚直そのもののジュノー」と書いてありますが、ナポレオニック雑文集のロールの回想録によると「ジュノも空気を読む才能にたけていたので、適切な話題を選び」と書いてあったりします。


 その後ジュノーは、ナポレオンの妹カロリーヌ(ミュラの妻)との不倫で左遷されます。

 カロリーヌの方は、田舎の小国【ベルク大公国】ぐらいでは我慢できなかった。この不満を解決すべく、1807年、カロリーヌはついに陰謀を企てる。
 戦場に立つナポレオンには、常に戦死の危険がつきまとっていた。その身に万が一のことがあった場合、次の皇帝として夫ミュラを即位させようと考えたのである。
 皇位継承順位を無視してミュラを担ぎ出すためには、クーデターが必要だった。そのためにカロリーヌは、パリ駐屯軍の指揮権を握っている総督ジュノを抱きこんだ。
 1807年6月、フリートラントでの戦いを勝利におさめたナポレオンは、その月末にティルジットに入り、7月7日平和条約に調印する。この最中に、妹とジュノの不倫の噂を耳にした。7月27日午前6時、宮殿サン・クルーに帰り着いたナポレオンは、まずカロリーヌを呼びつけて叱責、その後ジュノを左遷する。
『人はなぜ裏切るのか ナポレオン帝国の組織心理学』P44,45




 この左遷の先がイベリア半島だったのか、ジュノーは1807年の秋にポルトガル遠征の最高司令官となります。

 元帥杖がジュノを待っていた。首尾よくポルトガルに侵入して国王一家を拘束し、イギリス船の商行為をとめればよい。カロリーヌ・ミュラとの火遊びを帳消しにするため、ジュノは最善をつくした。猛烈な速度でイベリア半島を横切ったため、彼と一緒にリスボン郊外に到着したのは数百人にすぎなかった。残りの兵士は消耗しきって次々と倒れていったのだ。だがジュノの努力は報われなかった。ポルトガル貴族たちは、サーベルをがちゃつかせていたランヌのことを思い出して大急ぎで荷造りをするとイギリス船に乗りこみ、船隊はすでに出港していた。もう少しだけ運がよかったら元帥杖を手にしていただろう。ジュノをとり巻く状況が一筋縄でいかなかったことを考えれば、彼はなかなかよくやった。だが結局、この戦争から得たものは【アブランテス】公爵の称号だけだった。
『ナポレオンの元帥たち』P167,8



 『ナポレオンの元帥たち』ですが、さきほどの「ナポレオニック雑文集」のところで読めます。ぜひどうぞ!

 ロールの英語版Wikipediaによると、ロールは半島戦争の時にいくらかジュノーと同行していたらしいですが、リスボンで得た戦利品でも満足しなかったそうです。


 この後1808年、ジュノーはアーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)を相手に、ヴィメイロの戦いで敗北を喫します。『歴史群像 138号』の連載「ナポレオン戦争」でこのヴィメイロの戦いが扱われており、改めて目を通してみたんですが、ジュノーのせいで負けたわけではなく、しょうがなかったような印象を受けました。ただ、このフランス軍の敗北は全ヨーロッパに大きな衝撃を与え、ナポレオン自身が半島にやってきて事態を収拾することに。ジュノー自身は再び軍団指揮官などとして半島で戦うのですが……。

 かつてこの地で元帥になる機会を逃したジュノは、頭に受けた傷のせいでわけのわからない言動をするようになっていた。
『ナポレオンの元帥たち』P213

 彼は半島へと戻って軍団指揮官を務め、短期間サラゴサの攻囲を指揮した(ここで、ルジュヌの意見では彼の尊大さと嫉妬深さがますますひどくなり、精神の不安定さが深刻な状態となった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 1812年のロシア遠征にもジュノーは参加したのですが……。

 楽しいことが大好きだったロールは……ジュノーは荒涼たるロシアの地で命を賭けて戦って次第に精神を病んでいったというのに、家を離れて新しい愛人とエクス・レ・バン〔フランス南東部の都市〕で気晴らしをしていた。
『ナポレオン時代』P230



 そして、スモレンスクでジュノーは、絶好の機会に動こうとせず……。

 8月19日、ネイ軍はヴァリューティナ【スモレンスクのすぐ東にある村】に到着、ジュノー軍は北岸に渡ってネイ軍のやや前方に出た。暗闇の中で自軍ともども道に迷ったバルクライはそのちょうど中間をうろついていた。ネイ元帥はジュノー将軍のところへ駆けつけ、「さあ、一挙に片付けましょう。栄光と元帥杖が待っておりますぞ」と勇んだ。ところがネイ軍は敢然と攻撃に出たのに対し、ジュノーは、ヴュアテンバーク公の騎兵隊が突撃を拒否したとか、自分はナポレオンから河を渡って待てと命令されているとか言って動かない。ナポレオンは……「ジュノーがロシア軍をみすみす逃した。この遠征を台無しにしたのは彼だ」と容赦なく叱責した。ミュラーはもっとかんかんに怒って、「お前なんかナポレオン軍の騎兵のどん尻にさえくっついて来る資格はない」と詰った。
『ナポレオン1812年』P82


 ナポレオンによると「……彼はもはや以前と同じ人間ではない。大失敗をしでかし、我々に大きな代償を払わせることになってしまった。」
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ジュノーはそのまま、ボロディノの戦いにも参加し、大陸軍の主力と共にフランスへ帰ってきました。

 1812年のクリスマス直前、愛人に見限られたロール・ジュノーはアヘンチンキ〔アヘンを主成分とする鎮静剤〕を過剰にあおって自殺しようとしたが、首尾を果たせなかった。かつては意気盛んで、ハンサムで若くしてパリ知事を務めたこともある夫のジュノーがロシアから戻った。往年のラ・タンペット【嵐という異名】は「よれよれの軍用コートをだらしなく羽織り、腰は曲がり、杖がなければ歩きづらそうな下卑た年寄りとなり」、戦争のせいで精神を病んでいた。
『ナポレオン時代』P232



 その後イリュリア総督に任命されるも、

 彼のだらしのない生活の結果、梅毒が進行し、精神的な不安定さが極度に酷くなり、職を免ぜられ……彼は1813年7月29日、窓から飛び降りて死亡した。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168




 ロールの方ですが、こんな風に書かれてました。

 彼の妻はいささかスキャンダラスな生活を続け、ローマの社交界で多くの時間を過ごし、破産を免れようと面白くはあるが信頼性に欠ける回想録を出版したが、無駄であった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P168



 「無駄であった」というのは、結局のところ貧困のうちに亡くなったからのようですが、しかし浪費家なんだったらしょうがないですかね……。
 

 1828年以来彼女の恋人であるバルザックの励ましと監督を受けて、彼女は魅力的ではあるが悪意に満ちた回顧録を書いた。
 ゴーティエが「アブラカダンテスの公爵夫人」と揶揄し、貧困に陥った彼女は、1838年にパリの老人ホームで亡くなった。
Laure Junot, Duchess of Abrantès(英語版Wikipedia)





 今回使用した資料です。




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 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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