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第2次エル・メキリの戦いとイタリア軍ベルサリエリ部隊の活躍

 北アフリカの資料を集めていて、「第2次エル・メキリの戦い」というのに興味を持ちました。


 エル・メキリの場所と「第1次エル・メキリの戦い」については↓を見ていただくと分かりやすいかと思います。





 第2次エル・メキリの戦いというのは、上記の動画の後、ロンメルがやってきてトブルクへ進撃する途中に同所で起こった戦いです。

 この戦いで、イタリア軍の第8ベルサリエリ連隊と、その大隊指揮官であるモンテムッロ大佐が活躍するのです!


 ベルサリエリ部隊については↓で書いてました。

OCSのユニットで見るベルサリエリ部隊 (2017/02/10)



 その時は主に前記動画の時期における第10ベルサリエリ連隊について詳しく調べていて、第8ベルサリエリ連隊については少し触れていただけでした↓。

 その後、アリエテ戦車師団とトレント自動車化歩兵師団の到着に伴い、さらに2つのベルサリエリ連隊【アリエテの第8ベルサリエリ連隊とトレントの第7ベルサリエリ連隊】が到着。これらの部隊は【第10ベルサリエリ連隊と】同じ装備や車両を持っていたのだったが、訓練度や将校の質においてより優れており、オコンナー将軍の前でグラツィアーニ将軍が後退していくのにも意気消沈することなく、キレナイカでのロンメルによる最初の限定攻勢に参加した。彼らの果たした役割の記録はあまり残っていないが、これらの連隊は北アフリカ戦役の全期間で活動したのだった。
『Rommel's North Africa Campaign』P38





 ↓今回使用した資料。





 まずは、第2次エル・メキリの戦い自体については一番簡潔だった『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』から。

 1941年2月にロンメルが到着した時には、エットーレ・バルダッサーレ将軍指揮下のアリエテ戦車師団はすでにそこに到着していた。ガリボルディ将軍(北アフリカ司令官の地位をグラツィアーニ将軍から引き継いでいた)はバルダッサーレにシルテの町へ前進し、続けてそこからエル・アゲイラへと進む準備を命じた。ロンメル将軍はドイツ軍部隊に、このイタリア軍の前進に同道するように命じた。彼はイギリス軍を攻撃する計画を立案し、ガリボルディは3月7日にそれらを承認し、またアリエテ師団をロンメルの指揮下に入れた(注72:Ian W.Walker, Iron Hulls, Iron Hearts:Mussolini's Elite Armored Divisions in North Africe 68)。
 3月24日、枢軸軍の攻撃でエル・アゲイラにいたイギリス軍第2機甲師団はその前哨拠点からメルサ・ブレガへの後退を余儀なくされた(注73:Walker, Iron Hulls, Iron Hearts, 68)。4月2日、ドイツ軍部隊がその町からイギリス軍を追い出した。これに続けて、いくつかの枢軸軍師団(アリエテ戦車師団、第102トレント自動車化師団、イタリア第27ブレシア師団、およびドイツ軍第5軽師団)が前進を継続した。ロンメルは次に枢軸軍を分割したが、ガリボルディが反対した時、彼はヒトラーに訴えた。総統は、公式の指揮系統を無視してロンメルに行動の自由を与えた。これが、北アフリカ戦役の残りの指揮決定の雰囲気を決定づけた。
 今やロンメルは行動の自由を得て、「シュヴェリーン戦闘団」とニコリーニ・サンタマリア大佐麾下の自動車化グループをメキリへ向けて送り込んだ。その後に、自動車化砲兵のグループとジーノ・ファブリス中佐麾下のベルサリエリが続いた。第5装甲連隊とアリエテ師団の一部もムススを経由してメキリへと向かった。その間、第27ブレシア師団(ジャーコモ・ ロンヴァルディ将軍麾下)は海岸道に沿ってデルナの港へと行軍した。
 ロンメルはこの第一次攻勢で、兵站面への軽視を見せ始めた。彼はある意味、麾下のイタリア軍部隊を補給が難しいままに進ませた。その結果、多くのイタリア軍部隊が燃料不足で停止せざるを得なかった。
 イタリア・ドイツ混合のシュヴェリーン戦闘団はメキリへと到着し、そこがイギリス軍機甲部隊によって守られているのを発見した。援軍なしではメキリを取ることはできないため、アリエテと第5装甲連隊に支援を要請した。だが枢軸軍部隊はファブリス部隊の位置を特定し、再補給を行うのに数日を要し、その間ロンメルは立ち往生することとなった。彼らの再補給が完了すると、ロンメルは彼らをメキリへ向かわせた。
 イタリア軍の戦車がまずメキリへ到着した。この町はガンビア=パリィ将軍の第3インド自動車化旅団(壊滅することになる第2機甲師団の一部)によって守られていた。第3インド自動車化旅団はイタリア軍のファブリス部隊と第8ベルサリエリ連隊との間の小さな隙間を偵察によって発見し、そこから包囲網を脱出しようと試みたが、イタリア軍の75mm砲兵がインド兵達に砲火を浴びせた。そしてウーゴ・モンテムッロ大佐のベルサリエリ部隊が彼らの脱出を阻止した。短くも激しい戦いの後、ガンビア=パリィ将軍はモンテムッロに降伏した。戦いが終わった時、第5装甲連隊が戦場に到着し、1,200名の捕虜を集めるのを手伝った。この後、このイタリア・ドイツ混合の部隊はトブルクへと向かった。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P75,6



 この本がちょっと面白いと思ったのは、割とロンメルが悪者っぽく書かれていることですが、後述のようにこの時期にはロンメルと第5軽師団長との間でやばいくらいのいざこざが起こっていたのです……。


 この戦いに出てきた部隊ですが、OCS『DAK-II』のユニットでもってほぼ確実に同定できるものとしてはこれぐらい?

・第3インド自動車化旅団
・サンタマリア自動車化機関銃大隊
・第8ベルサリエリ連隊(アリエテ戦車師団所属)

unit00121.jpgunit00119.jpgunit00120.jpg


 すべてアクションレーティングが4で、レベルが高いです!


 次に『Iron Hulls, Iron Hearts』ですが、この本は北アフリカ戦におけるイタリア戦車師団に関する本なので、記述がアリエテ戦車師団メインという感じで書かれてますね。

 アリエテからの部隊とイギリス軍部隊との最初の大きな戦闘は、メキリで4月8日に発生した。これは彼らにとっての砲火の洗礼であったわけだが、師団全体というよりはその一部の部隊が参加したものだった。枢軸軍側の計画はメキリを攻撃し、事実上被包囲状態にあったイギリス軍守備隊を撃破し、占領することだった。シュヴェリーン戦闘団は北と北東へ向かう。第3ベルサリエリ大隊を含むファブリス部隊とサンタマリア少佐の戦闘団は東へ。第5装甲連隊は重要な役割を果たすには到着が遅すぎたので西へ向かった。南では、第8ベルサリエリ連隊長のウーゴ・モンテムッロ大佐が、ムススから麾下のモンテムッロ縦隊や第8ベルサリエリの残りの部隊と共に到着しつつあった。メキリのイギリス軍守備隊は、ガンビア=パリィ将軍の第2機甲師団麾下の第3インド自動車化旅団から成っていたが、第2機甲師団はすでに蹂躙されていた。彼はすでに、枢軸軍の包囲網から脱出するように麾下の兵士達に命じていた。その結果起こった戦いはそのため、メキリ自体を攻撃するものというよりは、この脱出を阻止するための努力にすぐに変化した。夜が明けると、イタリア軍砲兵部隊は猛烈な砲火を浴びせ、その中でインド部隊はこの包囲網の薄い地点を探すため、複数の偵察部隊を放った。北、東、それに西に向かった偵察部隊はすべて撃退されたが、南へ向かった部隊がファブリス部隊と、新たに到着したモンテムッロ部隊との間に小さな隙間を見つけた。インド部隊は、後方から枢軸軍部隊の圧力を受けながら、この隙間を通って脱出を試みた。彼らはファブリス部隊の75mm野砲の砲撃に晒され、側面からはファブリス部隊とモンテムッロ部隊からの攻撃を受けた。モンテムッロはインド部隊の退却路を塞ぐために麾下のベルサリエリ部隊を送り出し、彼らは砲兵の砲火を浴びた。戦いは激しかったが、短時間でけりがついた。ガンビア=パリィ将軍がモンテムッロ大佐に降伏し、まさにその時そこに第5装甲連隊が到着した。枢軸軍によって総計1,200名が捕虜となったが、混乱の中でその他多くの者が脱出した。アリエテ師団から派遣された諸部隊は、困難な砂漠地形の中を250マイル(400km)に渡って前進したのであった。彼らは多くの車両を故障で失い、またあるものは燃料切れで放棄されたのであった。彼らは短かかったが激しい戦いで成功を収め、勝利した。この師団にとって上出来のスタートであった。まさにこの次の日に、性急なロンメルの、枢軸軍はトブルクに向かうべしという命令が届いたのである。
Walker, Ian W. Iron Hulls, Iron Hearts: Mussolini's Elite Armoured Divisions in North Africa (Kindle の位置No.1338-1356). Crowood. Kindle 版.





 最後に『Rommel's North Africa Campaign』。この本は北アフリカ戦全体(チュニジアは除く)を扱った本ですが、共著者の一人がイタリア人なのでしょう、イタリア軍に関する記述の量が結構多めだと思いますし、なにより、たくさんの写真が載っているのですがそのほとんどがイタリア軍の写真です。

 また、この本は興味深いコラムがたくさん入っているのですが、そのうちの1つがエル・メキリの第1次と第2次の戦いについて扱ったもので、「この戦争の最初期に発生したこれら2つの小さな戦いは、たいていの場合無視されている。」という文で始まります(^_^;

 ↓P85の地図。

スクリーンショット_160405_224


 第2次エル・メキリの戦いは、1941年4月8日におこなわれた。ロンメルは砂漠を横断する競争に4つの混成部隊を送り出し、うち3つがエル・メキリでランデブーしたが、そこはガンビア=パリィ将軍が指揮する第2機甲師団の司令部、連隊規模の第3インド自動車化旅団、騎馬砲兵隊のM中隊、それに第3オーストラリア対戦車連隊の一部が守備していた。第3インド自動車化旅団は装甲車も対戦車砲もなく、1個大隊を欠き、通信機器の半分は失われており、その主要装備はライフルでしかなかった。第2機甲師団が到着するという希望もあったが、彼らが到着することはなかった。ロンメルは4月6日にエル・メキリに到達しつつあった彼の諸部隊での攻撃を望み、それがシュトライヒ将軍(ロンメルが臆病と罵った人物である)とのある光景の原因となったが、共に攻撃する部隊は事実上なかった。ロンメルは小さな攻撃を命じたが、彼の回想録にはこのことは書かれていない。次の日、7日の晩まで、ロンメルは様々な枢軸軍の間を飛び回って道を指示し、連合軍部隊の包囲を成し遂げた。ロンメルは8日の攻撃を部隊に命じた。その時までにガンビア=パリィは麾下の部隊に、夜明けと共に脱出してトブルクへと退却するようにと命じていた。
 北と北東はシュヴェリーン戦闘団が、東はファブリス戦闘団(大部分がアリエテ師団の第3ベルサリエリオートバイ大隊で、一部がいわゆるサンタマリア偵察団から構成されていた)が。その中には2個砲兵中隊、47mm対戦車砲中隊、3つの20mm対空砲班、いくばくかの工兵、それにドイツ軍通信班が含まれていた。第5装甲連隊司令部は西に向かうことになっていた。第8ベルサリエリ連隊の中の、ジュゼッペ・モンテムッロ大佐に指揮された第12ベルサリエリ大隊の約2/3が接近中であり、またその後ろにはドイツ軍の戦車部隊の主力がいたが、それらはこの会戦には間に合わなかった。インド兵らは0530時頃に4つの偵察部隊を発進させ、この包囲網の脱出口を探した。南側に向かったものは第3ベルサリエリ大隊によって阻止され、もう一つはシュヴェリーン戦闘団によって撃退され、3つ目のものは第5装甲連隊司令部によって撃退された。4つ目の偵察隊はモンテムッロとファブリス戦闘団の間を前進し、ファブリス戦闘団の後方を攻撃した。この偵察隊はイタリア軍の75/27mm砲と、モンテムッロとファブリス戦闘団による側面からの反撃に会って撃退された。
 この時、モンテムッロは前進せよとの命令を受けた。彼の麾下の第12連隊で砲撃しつつ前進し、視界に見えてきた第5装甲連隊と合流後、後退するインド軍部隊を攻撃せよと。モンテムッロは素早く部隊を展開させ、直ちに使用可能な全砲門を開いた。ガンビア=パリィと第3インド自動車化旅団はモンテムッロに対して降伏し、その時第5装甲連隊の司令部が到着した。総計1,200名が捕虜となったが、数個の勇敢なオーストラリア軍部隊を含めて、いくらかの部隊が包囲網を脱出した。第12ベルサリエリはこの場所から、さらなる名誉となる勝利を勝ち得ていくことになるのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P86,7



 ここでちらっと触れられている、シュトライヒ将軍(第5軽師団長)との「ある光景」ですが、『Rommel's North Africa Campaign』には触れられてないようなのですが、山崎雅弘さんの『ロンメル戦記』のP221~3にかけて、かなり詳しく触れられています。簡単に書きますと、

4月3日 ロンメルが同師団の持つすべてのトラックに戦車の操縦士を乗せ、後方の燃料や物資を取りに行くよう命令
4月4日 前日のトラックを待つことなく、部隊を海岸へ進ませるよう命令。そこにはイタリア軍が地雷を埋設していることをイタリア軍将校が進言したがロンメルの考えは変わらず。やむを得ずシュトライヒは命令を履行したが、案の定次々と貴重な車輌が地雷原で行動不能に
4月6日 ついにロンメルとシュトライヒとの間で口論。ロンメルは「すぐにメキリを攻撃せよ」と命じたが、シュトライヒが不可能だと拒絶するとロンメルが「貴官は卑怯者か!」と言い放つ。シュトライヒは自分の騎士十字章を叩きつけんばかりに怒り、ロンメルは発言を取り消した。

 第2次エル・メキリの戦いには第5軽師団がギリギリ間に合ってないのですが、その背景にはこういうこともあったわけですね。




 第8ベルサリエリ連隊は、最初のトブルク攻囲戦の最後期にもいい働きをしていたようです。

【1941年】
 4月22日、トブルク守備隊は要塞から出撃を試みたが、第3ベルサリエリ大隊の歩兵達によって撃退された。今度はドイツ軍が5月1日にもう一度襲撃をかけたが、これは完全に失敗した。
 5月4日、イギリス軍先鋒のオーストラリア部隊が攻囲軍の中のイタリア軍エリアを突破しようと試みたが、7時間に及ぶ凄まじい接近戦の末に、第8ベルサリエリ連隊によって押し戻された。この後6か月間、オーストラリア部隊はトブルクから出撃しようとはしなかった。イタリア軍部隊は夏の間、トブルク港の包囲網を維持し続け、その間ドイツ軍はエジプトからのイギリス軍による救出の努力を阻止した。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P76





 さて、モンテムッロ大佐のベルサリエリ部隊なのですが、この後のブレヴィティ作戦の時にも活躍します。

 この作戦【ブレヴィティ作戦】は5月15日に始まった。イギリス軍は当初成功を収め、ハルファヤ峠とカプッツォ砦を占領した。この時、近くにいたドイツ軍部隊が撤退した後も、ベルサリエリが残っていた。ベルサリエリが気がついた時には400ヤードの距離にマチルダがいた。彼らの47mm対戦車砲ではその装甲を撃ち抜けず、マチルダが彼らのいた低い石壁を乗り越えてきた時、目標をその履帯と車台に変更した。このやり方で7両のマチルダが撃破された。
 ロンメルが敵の弱さに気付いて反撃を準備し、バルディアに置いていた予備と第8装甲連隊を差し向けてきたため、英連邦軍は退却を余儀なくされた。ゴットもまた、同じ事に気付いてすんでのところで、ベレスフォード=ピアースの固守の命令の代わりに、退却を命じた。ゴットはハルファヤ峠は維持したが、占領した他のすべての地点は放棄した。
 ……
  ロンメルは、モンテムッロ大佐の指揮に一級鉄十字章の授章を推薦した。イタリアの公式戦史家であるマリオ・モンタネッリは、1940年のシディ・エル・バラーニの戦い【コンパス作戦】と対照的にこの戦い【ブレヴィティ作戦】でイタリア軍が敵を撃退できた理由を、いくつか挙げている。ここで戦ったイタリア軍はよく訓練されており、優秀な将校がおり、団結心のレベルも高く、しかもこれまでに誇りとなるようないくつかの勝利を(例えばエル・メキリなどで)経験していた。さらに、彼らはドイツ軍のやり方を真似し、また彼らはドイツ軍の戦車と、ロンメルを信頼していたのである。
『Rommel's North Africa Campaign』P70


 【ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の間の期間に】追加の守備隊が再び、ソルーム、ムーサイド、カプッツォ砦、地点206と208に置かれ、また、バルディアにはこの地域用の予備が配置された。この配備の間、ベルサリエリとアリエテ師団の一部の部隊からなるモンテムッロ大佐麾下の約2,000名の戦闘団は、トブルクからの攻撃を撃退した。モンテムッロは健康を害して9月20日にイタリアに帰還したが、その別れの時にロンメルはこう述べた。
「ドイツ兵は世界を驚愕させたが、ベルサリエリはドイツ兵を驚愕させた。」
『Rommel's North Africa Campaign』P71,2



 この最後のセリフ、かっこいいですねぇ~。

 彼らが勝利できた理由のくだりに関しても、非常に興味深かったです。


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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