黒シャツ隊(ファシスト義勇軍)とイタリア正規軍との間のいさかい

 黒シャツ隊(ファシスト義勇軍)については以前、OCSのユニットで見る黒シャツ隊 (2017/01/31) で触れていましたが、イタリア正規軍兵士達とのいさかいについて、『ふたつの戦争を生きて』で何カ所か触れられていたのでそれを。


 ↓そもそも『ムッソリーニの戦い』にこういう記述があって、「なんてこった」という感じだったわけですが……(^_^;

 「リビア東部国境はいかなる観点からしても、非常に憂慮すべき状態にある。軍需資材が不足し、兵員は敵の優勢を恐れ、士気が著しく低下し、組織力を欠いている。(ある将校の供述によれば、とくにファシスト義勇軍と正規軍との間で相互に恨みを抱いていることが指摘される。)
『ムッソリーニの戦い』P39




 1940年11月6日は、バドリオが全軍参謀総長の職を解任された日である。その日の朝、軍事史の授業があった。教官は - レッジャーニ大佐、コンメンダトーレのロレンツォであった - 非常に厳格な老士官で、その胸をおおう15~18年戦争のメダルやリボンの威光もあって、尊敬を集めていた。大佐が教室に入ってきて、私たちは気をつけ、の姿勢をとった。すると大佐は、由々しき事態にあることをほのめかす重々しくも厳かな声で、おおよそ次のような内容を私たちに告げた。「わが軍にとって、きょうは大いなる不幸の日だ。卑しいファシストどもの陰謀が、烏合の衆どもの陰謀が、わが軍のピエートロ・バドリオ元帥を罷免したのである。バドリオを叩くことで、ファシストどもはイタリア全軍を侮り、辱めた。暗黒の時代となった。この先が思いやられる」
 衝撃の発言であった。私の胸に一撃をくらわせたのは、ファシズムとファシストに対する歯に衣着せぬ手厳しい物言いと、「烏合の衆」という決めつけだった。かなり前から、ファシズムと軍とは別物であると気づいてはいた。いまや私は軍人であり、いまや軍の一員であった。国家治安義勇軍【ミリツィア=黒シャツ隊】が得体の知れない連中の寄せ集め、軍隊の醜悪なコピーで、その将校たちがでっち上げの虚飾の階級で自らを飾り立てていることは、先刻承知していた。しかしながらファシストとファシズムに対するこのような直裁の非難を、私はそれまで耳にしたことはなかった。士官学校入学以来、少なからぬ対立の議論を耳にすることはあったが、おおかたが揶揄であり、つまりは陰口にすぎなかった。ところが、 - 繰り返し言うが - 、ファシズムに対してこれほど明白な、真正面からの批判を聞いたのははじめてだった。明らかにレッジャーニ大佐は私たち生徒を信頼していたのであり、だからこそ胸のつかえを吐露したのであった。話すうちに見るからに感極まった大佐が、涙さえ浮かべていたのを覚えている。こうして、反ファシズムの最初のメッセージを、軍という閉鎖集団による反ファシズムとはいえ、私はモーデナの士官学校で受けとったのである。家の中でも、学校の中でもなく。おそらく早くも戦況が不利になっていたからであろう。とはいえ、それだけが理由であったとは思えない。
『ふたつの戦争を生きて』P56~58


 7月、クネエンセ師団は火器演習のための夏の野営で、ストゥーラ谷に集結させられた。私はパラッツィ中佐に容易ならざる任務を託された。連隊の輜重隊、300人の山岳兵と同数の騾馬を、ストゥーラ谷の上流まで率いていくよう命じられたのである。私は誇らしかった。そのような責任を負ったのははじめてのことで、与えられた任務を完璧に遂行しようと、心に期した。
 当日の朝4時、私たちは長蛇の列をなしてクーネオを発った。ストゥーラ谷はガイオーラ村のやや手前で折れて、いちだんと静まりかえった日陰の軍用道路を進んだ。私が殿の将校で、列がアコーディオンのように伸び縮みするのを防ぎ、遅れをとった者たちの態勢を整えていた。フェスティオーナ村とアイゾーネ村の中ほどの地点で、隊列の先頭のほうがなにやら騒がしく、動きが滞っているのに気がついた。前方へ走っていくと、そちらから叫び声が聞こえる。何が起こったのか。道路ぎわが林になっていて、そこに国家治安義勇軍の小さな野営地があった。義勇兵たちはそこに即席のバレーコートを設けて、のどかにボール遊びに興じていた。短パン姿で上半身は裸だった。家畜のように荷を負わされて、何時間も行軍しつづけている山岳兵たちには、我慢のならない挑発だった。
 山岳兵たちは口々に叫びだした。「黒シャツめ、うす汚いシャツ連中め」「バリッラ野郎」「厄介者の穀つぶし」。あげくにコートになだれ込み、支柱やネットを取り壊しはじめた。大乱闘が勃発、拳骨と足蹴りが飛びかった。この殴り合いを目のあたりにして、私はとっさにわが経歴もこれまでかと観念した。それから、ようやくみなをなだめた。山岳兵たちは、自分たちより高給を得ている義勇軍の隊員を、ぐうたらの《兵役志願者》と見なしていたのである(山岳兵たちは彼らを不精者と考え - 侮蔑をこめて - こう呼んでいた。自ら志願して国家治安義勇軍での兵役に服したという意味で)。

 そうした決めつけには公正を欠くところがなきにしもあらずだった。というのも《M(ムッソリーニ)》大隊の中にはロシア戦線で多大の損害を受け、この上なく高い代価を払った部隊もあったからだ。
 治安義勇軍の兵士と山岳兵のもめごとは後を引かずにすんだ。私はお咎めなしだった。こうしたことは特別な事柄ではなくて、少々殴り合いや蹴り合いがあったからといって、物議をかもすようなことにはならなかったのだ。実際、集合地点に着いたところで、私はことの次第をパラッツィ中佐に報告したのだが、中佐が最後に言ったのはこういうことだった、「諸君はやっつけたほうか、それともやっつけられたほうか」。「こちらがやっつけました」と私は答えた。「それならよろしい」
『ふたつの戦争を生きて』P74,5


 ジュゼッペ・カステッリーノの証言。「対フランス戦にそなえ、またしてもモンドヴィのヴァル・エッレロ大隊第10中隊に徴用される。イタリア人は全員ファシストで(少なくとも表向きは)、黒シャツを身に着けていた。私たちはファシストではなかったが、それでも好むと好まざるとにかかわらず、ファシストのあとに従った。それが唯一の道だったから。ここでは国家治安義勇軍の黒シャツは見かけない。やつらは日当として5リラ銀貨を支給されるが、われわれは1リラだ。おまけにやつらは何もしないのに、われわれは山中で苦労している。やつらは女性をそばにはべらせて戦争を起こし、われわれは銃と背嚢を背負って戦い、地べたで眠るのだ。
 西部戦線開戦前夜、《黒シャツども》はジェッソ谷のピアン・デル・レで野営していた。ところがやつらはマフィアがひしめいているヴァルディエーリの温泉場にたびたび下りていっては、ホテルで従軍看護婦たちとダンスをして楽しんだ。ある夜、チェーヴァ村の連中がやつらを探しにやってきた。めった打ちにあい、頭を割られた者もいて、少なからぬ《黒シャツども》が病院に送られる羽目になった」。いやはや、フランス軍と戦う代わりに、仲間うちで戦をしていたわけだ。

『ふたつの戦争を生きて』P39,40




 ただ、ネット上で『Italian Blackshirt 1935-45』が読めるので見てみたのですが、黒シャツ隊が一般兵士より優遇されていたというのは、それほどではない印象を受けました。むしろ、何もかも不足しているイタリアにおいて鬼子のようにいきなり出てきた黒シャツ隊は兵舎も訓練場もなく、政治的熱狂があったとは言いつつもそれは生活(生存)の必要からがなり立てているだけの中年の社会的弱者の部隊に過ぎなかったのではないか……という印象を受けました。

 以下、同書から適当な訳でもって抜き書きしてみます。

 志願者を元に
 26歳から36歳までの間だけ入隊できる

 陸軍は21-24歳を徴兵するのに対して、黒シャツ隊は26-45歳。東アフリカに送られた40,000名の黒シャツ隊の構成を見ると、1/4が31-36歳で、半分が26-30歳。通常は下士官は年輩者(50%は35歳以上で、22%は40歳以上)であるものだが、黒シャツ隊の下士官はほとんどの兵士達よりも年下であった。

 黒シャツ隊は、たとえばフィールドキッチン(炊事用車両)などの補給段列的なものを持っていないことがしばしばあった。

 黒シャツ隊の下級将校の大部分は、陸軍の予備中尉から供給されていた

 黒シャツ隊ではラバが広く使用されており、多くの場合車両は少なかった

 この時代のイタリア軍の訓練はつねに不充分なものであったが、黒シャツ隊も例外でなく、それどころか半永久的な特質とも言うべきで、そもそも兵舎や訓練場にも事欠いていた

 ファシスト体制の大言壮語的なプロパガンダにもかかわらず、黒シャツ隊の訓練はイタリア軍の標準的な歩兵とほとんど一緒で、使用できる物資の不足によって大きく制約されてしまっていた。訓練の大部分は基礎教練と長い行軍より成り、実弾射撃訓練などは使用できる弾薬がごく限られたものであったためにほとんど行われなかった(特に自動拳銃や重火器がそうであった)。

 実際の戦争に赴いた比較的短い期間以外の、ほとんどの期間の黒シャツ隊の主たる役割は公式行事で行軍するということに限られており、それゆえ教練の重点はその見栄えに置かれたのであった

 黒シャツ隊に入って得られる恩典というのは大して魅力的なものではなかった。そのリスクと不快さにもかかわらず黒シャツ隊に入るというのは、その他になれる適当な職がなかったというのの裏返しであった。明らかに、彼らのほとんどは1935-36年かそれ以降にかけて黒シャツ隊に志願した者達であり、わずかな恩典を目当てにしていた。特に農民、肉体労働者、失業者達(彼らの多くは1929年の世界経済恐慌の結果そうなった者達であり、もはやアメリカへの移民も許されない者達であった)は、将来植民地へ入植できることをあてにしていたのである。



 こうしてみると、イタリアの黒シャツ隊とドイツの武装親衛隊とのあまりの差異にくらくらしてくる感があります。武装親衛隊の多くは精強で装備も優先的でした(後期になればなるほど外国人も多く悲惨になっていきますが……)が、黒シャツ隊は元々貧しいイタリアにおいても、イタリア正規軍よりも訓練充足度も設備充足度も低く、それで活躍するのはムリがあるでしょう……。一部の部隊(特に、東部戦線に送られた黒シャツ隊)が比較的良く戦ったのは、むしろ褒め称えられるべきなような気もします。

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お久しぶりです。
以前朝鮮戦争の本の事で書き込ませて頂いた者です(だいぶ昔笑
私も黒シャツ隊ってSSなイメージだったんですが、どちらかというとSAみたいな組織だったんですかね?

この仲間同士で啀み合い的なエピソードで思い出したんですが、ブラウ作戦の時にハンガリー軍とルーマニア軍が隣り合ってると同士打ちの危険性があるって言うんで、その間にイタリア軍を置いたらしいですよ(苦笑
スターリンの外人部隊って本に書いてあったのですが、正直クスッとしてしまいました。
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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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