1940年9月北アフリカのイタリア軍グラツィアーニ攻勢について

 北アフリカ戦役の本から抜き書き的に資料を集めていっているのですが、それらの中に1940年9月のグラツィアーニ攻勢についていくらか書いてあるのを見つけ、興味を持ったので手持ちの洋書からもそこらへんを探してみました。


 実は、2009年にニコニコ動画に投稿した動画「なぜイタリア軍は弱かったのか? 後編」の中で、グラツィアーニ攻勢についてOCS『DAK-II』でもって描いていたのですが……。イタリア軍の進撃路については、グラツィアーニ攻勢から始まるキャンペーンと、3か月後のコンパス作戦(ウェーヴェル攻勢)時の配置との差分からの適当な推測でした。

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 ちなみに、この前編はYouTubeにもあるのですが、YouTubeに投稿していた後編は使用していた曲が問題で削除されてしまったので、現在はニコニコ動画上でしか見られません(T_T)



 とりあえず、OCS『DAK-II』のマップとユニットでもって詳しく見てみましょう。

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 ここに見えている英連邦軍ユニットは自由配置(xx.15より西)です。

 イタリア軍は兵力的には充分あるように見えます(AR的にはまあ負けているとしても)し、SPもバルディアに7SPあるので、マップに見えているシディ・バラーニぐらいまでなら行けそうです。が、このゲームシナリオのイタリア軍の勝利条件はその更に2.5倍くらいの距離にあるメルサ・マトルー(守備隊もかなりいる)を占領するというもので、それは苦しそうな気がします。確かゲーム上、イタリア軍はある時期までは1級道路しか補給路として使用できないのですが、この時エジプト国境からシディ・バラーニまでの1級道路はイギリス軍がわざと作らないようにしておいており(マップ上で「Road untill 1 Dec 1940」と書いてある道路)、そうするとそもそも補給路的にシディ・バラーニ辺りまでが確かに限界ではないかという気が……。


 ↓『Beda Fomm』P42にあった地図を元に、『DAK-II』の地図上にグラツィアーニ攻勢の進撃を描いてみました。

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 最も薄い灰色の矢印が9月14日のもので、次に濃いのが15日、全く黒のものが16日のものです。



 さて、グラツィアーニ攻勢の作戦案について、諸資料から。

【1940年】<8月5日>
 ムッソリーニとグラツィアーニの会談

 グラツィアーニは本国に戻りムッソリーニと参謀総長のバドリオ元帥にエジプト侵攻を10月までに控えるべきだという彼の意見を思いつく限りの理由を添えて述べるとともに、自身の作戦構想を披露して両者の承認を得た。彼の作戦案はマレッティ将軍の機械化された支隊をシヴァ・オアシスから前進させて国境の英軍を迂回するとともに第10軍をもってソルムを正面攻撃し、あわよくばシディ・バラニまで前進するというものであった。

 しかし、結局この会談では結論はあいまいなままで終わった。グラツィアーニは作戦決行の日時を指定されることこそなかったが、ムッソリーニとバドリオは伊軍の進撃はまもなく開始されるものと思い込んでしまったのである。
『コマンドマガジン日本版 vol.42』地中海日報P47



 「マレッティ将軍の機械化された支隊」というのは、『DAK-II』で一番南に配置されていたスタックで、実際最も優秀(AR的に)でもあり、機械化移動力にも優れていました。

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 マレッティの指揮官マーカーはARを+1できる能力を持ちます(ただし死傷チェックしなければならない)。実際マレッティ将軍はコンパス作戦(ウェーヴェル攻勢)の時に奇襲を受け、戦死しています。

 「シヴァ・オアシス」ですが、ガルパン同人誌とOCS『DAK-II』に見るジャグブーブの戦い (2016/11/06) に載せた画像の、シディ・バラーニのかなーり南方にある「シワ・オアシス」のことだろうと思うのですが、「迂回しすぎではないか」という気もしますが……。(あ、ここの画像で、メルサ・マトルーまでの距離や、ある程度守備隊がいることも確認できますね)



 「あわよくばシディ・バラーニ」と書かれていた前掲資料ですが、『ムッソリーニの戦い』ではメルサ・マトルー、あわよくばアレクサンドリアという感じで書かれています。しかし補給物資等の欠乏につきグラツィアーニはかなり必死の抵抗をしているのも伝わってきます。

 このためグラツィアーニはローマに召還され8月5日、ムッソリーニおよびバドリオと会談した。グラツィアーニは、とりわけ輸送手段の増強を主張し、作戦としてはエジプト領で国境近くの丘陵地帯ハルファヤを奪取してから、マルサ・マトルーフへ進攻し、次いでアレクサンドリア攻撃に移ることを説明した。しかし作戦の開始時期については明言を避けた。

 同11日、グラツィアーニはリビアに戻り、直ちに各部隊の責任将校を召集し、改めてこの作戦計画を練り直した。その結果出された結論は次のとおりであった。

 「現状においては真に効果的な攻撃は不可能である。唯一の作戦は、わが方が優勢にあることを敵に印象づけるため、軍の威信を傷つけられることなく、小規模の戦闘を展開するしかないことを全員が確認した。

 グラツィアーニはこの決議をローマへ報告するとともに、突如、辞意を表明し、「この重大時局に責任を果たすことなく免官を申し出ることを遺憾とするが、ほかに適切な解決策があればともかく、さもなくば貴方において現状を正確に把握するため、直ちに現地を調査されたい」と進言した。
『ムッソリーニの戦い』P35,36

 これに先立ち、グラツィアーニはムッソリーニへの長文の報告を用意していたところ、その要点は次のとおりである。

 「リビア東部国境はいかなる観点からしても、非常に憂慮すべき状態にある。軍需資材が不足し、兵員は敵の優勢を恐れ、士気が著しく低下し、組織力を欠いている。(ある将校の供述によれば、とくにファシスト義勇軍と正規軍との間で相互に恨みを抱いていることが指摘される。)

 対エジプト攻略は慎重な準備を必要とし、ことに輸送手段、戦車などの膨大な機械化兵器を投入しなければならない。必要な兵器を十分備えたうえで作戦行動に移るが、これには二つの戦略しかない。すなわち、(1)マルサ・マトルーフの占領、(2)アレクサンドリアへの進撃であり、またこの二つをできるだけ短期間に連動して行わなければならない(気象条件さえよければ一挙に実施する)。このため準備段階から機敏に行動しうるよう徹底的に綿密な計画を立てる必要がある。この作戦こそ私が一貫して主張してきたものである。

 そこで私から質問を提起したい。貴下におかれては、さきに発せられた戦略指令の中で述べているように、対エジプト攻略が最大の重要性を持つとすれば、本国においていかなる理由により、これに適応した努力を払っていただけないのか、換言すれば、いかなる理由で、我々作戦部隊に対し必要かつ十分な軍需資材の供給をためらっておられるのかということである。我々は資材が整い、いったん行動を起こせば断固として敵を粉砕する覚悟である。」

 しかし、グラツィアーニはバドリオからの厳しい指令のため、結局、この報告の提出を見合わせ、指令に従うものの、むしろこれまで、あらゆる方法で試みてきた攻撃の遅延工作を並行して行うことにした。

 こうして9月7日、グラツィアーニはともかくシディ・バッラーニへ進撃する作戦命令を出した。
『ムッソリーニの戦い』P39,40



 『ムッソリーニの戦い』上ではグラツィアーニ攻勢の具体像に関しては詳しくないので、停止してからの話で終了で。

 ムッソリーニはエジプト攻略への決定的な道が開かれたとして大きな希望を抱いていたが、グラツィアーニから寄せられた次の電報でこれがむなしく消え去った。

 「シディ・バッラーニ占領後の情勢を検討し、現在ところ【ママ】これ以上進撃しないことを決めた。その理由はまず第一に、軍需資材の供給は約束を得ていたにもかかわらず、わずかその一部しか入手していないこと、次に兵員は猛暑下での長い進軍のため極度に疲労しており、再編の必要があること、また水利資源その他一切の生活物資を欠く地帯への補給が不可欠の条件であること、最後にサルームとシディ・バッラーニ間の道路を造る必要がある。これらの理由により、当分の間、戦闘を中止せざるを得ず、その期間は明確に限定できない。」

 この報告についてバドリオ参謀総長もグラツィアーニと同じく、道路がないことや、水、輸送手段、燃料などの不足からリビア作戦は一時停止もやむを得ないという意見であった。

 ある将校の記録によれば、装備の欠陥は著しく、部品の欠乏ばかりでなく、海路による補給は敵機の爆撃を受けて失敗したことを指摘している。

 ……

 グラツィアーニはチアーノに対し、兵站作業を整えるには今後少なくとも二ヶ月はかかると言い、またマルサ・マトルーフでは英軍が長期間抵抗する構えであり、もしわが軍への補給が途絶えれば退却を余儀なくされ、砂漠での退却は完全な敗北を意味すると打ち明けていた。
『ムッソリーニの戦い』P43~45




 『Operation Compass 1940』にはグラツィアーニ攻勢の様子が簡潔に述べられていました。

 ムッソリーニはヒトラーに対して、エジプトへの侵攻のための準備は7月17日には完了すると断言していたのだが、将軍達はその後6週間経ってもこの件を無視し続けていた。ついに耐えられなくなった彼は、9月7日に、リビアにおける司令官であるMaresciallo Rodolfo Grazianiに対して、最後通告を発した。侵攻か、あるいは首になるかどちらかを選べ、と。慢性的な輸送手段の不足に苦しめられていたグラツィアーニはすぐに自らの計画を修正し、9日に準備のための移動を始めた。激しい空からの攻撃と、大規模なイギリスの機甲部隊が断崖の南側で作戦行動をおこなっているという噂を心配して、彼は再度計画を変更し、主攻を海岸沿いにおこなうこととした。そうしてようやく、イタリア軍は9月に退去して国境を越えたのであった。何もない砂漠への砲撃を先触れとしつつ、ハルファヤ峠(イギリス兵らによって「ヘルファイヤ」峠と呼ばれたのは驚くことではない)と小さな港であるソルームへの車列の恐る恐るの前進が、まるでパレードでもあるかのようにして始まった。

 唯一留まっていたコールドストリーム近衛第3大隊の1個中隊は、イギリス連邦軍の砲兵(RHA)と空軍(RAF)が前進するイタリア軍に大損害を与えている間に、ひっそりと退却した。翌日、RHAの砲列がイタリア軍のとぼとぼ歩く隊列へ砲弾の雨を降らせた後、第3コールドストリーム近衛に援護されつつ、次の位置へと退却していく。この過程が、イタリア軍が最終的にシディ・バラーニに辿り着くまで繰り返された。シディ・バラーニで、イギリス軍の主力が防衛線を引いている箇所まではあと60マイル(97km)とようやく道半ばであったが、イタリア軍はそこで停止した。第11ユサールによる継続的な監視の中、グラツィアーニは増援、特に大砲や戦車、それに補給物資がない状態でのそれ以上の前進を拒否した。その代わりに、彼らは野営地を陣地化して新たな線を築くことを始めた。数週間が過ぎ去った。

 この静寂な期間の間に、ムッソリーニは10月28日、ギリシャの「占領」を決断した。これはドイツによるルーマニアの占領があらかじめ知らされていなかったことに激怒して発作的に引き起こされたものであった。だが、ギリシャは占領されるつもりはなかった。恥ずべき敗北が侵攻軍に繰り返された。増援は、エジプトには送られ得なくなってしまった。
『Operation Compass 1940』位置No.90辺り




 『Beda Fomm』にはもう少し詳しく書いてありました。

 グラツィアーニはもう一度、第10軍司令官のベルティ将軍に8月27日からの移動を準備するようにという好戦的な命令を出すことによってムッソリーニをなだめた。だが、グラツィアーニもベルティ(「狡猾な殺人者」という名で知られていた)も、あるいは北アフリカにいる他のどんな将軍も、攻勢が実行可能だとは信じていなかった。その理由は単純で、充分な補給と輸送手段を供給するというバドリオの約束が、全く満たされないままであったからである。彼らの元々の計画は、必要な輸送手段が時間通りに到着するという想定に基づいており、ムッソリーニによる第10軍への指示の精神の中の非常に限られた範囲に留まっていた。その最初の目標はソルーム高地であった。その後、もしうまくいっていたならば、ハルファヤ峠を奪取してシディ・バラーニへと突破をはかる。メルサ・マトルーへの到達を陽気に語る者さえいた。ベルティは標準的な砂漠における作戦計画を用いたがっていた。砂漠の経験が不充分な本国の3個師団の第XXI軍団でもって海岸沿いを圧倒的大戦力で前進し、いっぽうより砂漠になれているリビア師団と機動戦力であるマレッティ集団で南側へ回り込み、国境での戦いの矛先を担わせるというものである。航空支援はPorro将軍麾下の第5航空軍の様々な機種300機が、独立して戦場の陸軍を支援し、付き従うことになっていた。地中海における海軍支援は、期待できなかった。戦争開始以来、10隻の潜水艦が失われてしまっており、イタリア艦隊はこの時局にリスクにさらすにはあまりにも貴重なものであった。それにともかくも、深刻な燃料不足でもあったのだ。

 疑いなくグラツィアーニは前進を意図していなかったし、ましてや機動戦はとても不可能だと考えていた。彼は南方旋回には不充分な輸送手段しか準備できていないことを知っていたに違いなく、すでに言い訳を用意していたのであるが、彼がいつもの延期の言い訳を送るや否や、ムッソリーニが彼に命じてきた。すなわち彼は9日に攻撃をおこなわねばならず、そうでなければ解任されることになったのである。同時にこの激高した独裁者は艦隊に、出航して戦うように命じた - これはグラツィアーニが言い逃れのために要求していたことだった。9月8日、ついに元帥は翌日前進を開始することにしたが、輸送手段の深刻な不足という状況を鑑みて計画を修正した。砂漠を横切っての迂回機動は実行しないこととし、リビア師団はベルゴンツォーリ将軍麾下の第XXIII軍団の先陣として海岸沿いを進ませ、マレッティ集団は単なる側面警戒部隊として用いる。ベルティによる、砲兵と戦車を敵国へと侵攻する歩兵の掩護に使用するという案は事実上否定され、ただ数門の砲を押し立てられ、一握りのM11及びL3の群れが、追いつめられてさまようイギリス軍の小部隊を追うことになるだろう。だが、指揮統制にいかに積極果敢な戦略を採用させたとしても、そもそもが実行不可能なことであった。1940年までにイタリア軍は機動戦の実験をおこなっていたが、その経験は砂漠に駐留する植民地部隊にはほとんど浸透していなかった。なぜならば、その経験を持つ2つの部隊のうちの1つはギリシャ侵攻のためにアルバニアで準備中であり、もう1つはイタリア本国にいたからである。グラツィアーニとその幕僚らは後方のトブルクの司令部から、1918年当時の概念のまま、中央集権的に作戦を指揮した。通信装置は非常に希少で、前線にいる部隊と後方の指揮官達との間の情報のやりとりはゆっくりで、遅すぎるのが常であった。もし万が一、イギリス軍部隊を迅速に叩き、決定的な打撃を与えられるようなチャンスがあったとしても、イタリア軍の将軍達はそれを気付きもしなかっただろうし、その優位を活かすこともできなかっただろう。

 新たな命令は深刻な混乱をもたらしたが、侵攻の開始と、国境地帯やブクブク周辺に対するイタリア空軍による制空戦闘は激しい空戦 - フィアットとグラディエーターの格闘戦 - を惹起させ、イギリスの爆撃機が再びトブルクを越えてイタリア軍後方の重要地点への爆撃を再開した。空を飛ぶイギリス軍パイロットはそこかしこに、ソルームへと向かって収束していく砂煙を見ることができたが、マレッティ集団がエンジンのオーバーヒートに苦しめられ、そもそも道を間違えていたことに気付くことはできなかった。行動を起こすはるか以前の、シディ・オマールの戦闘開始前のポジションに向かう時点で彼らは砂漠の中で迷子になっており、その遅延ゆえに、主攻撃のスタート - イタリア放送によって、全世界とイギリスに知らされることになっていた - を切るのが遅れることになった。9月10日まで第11ユサールの装甲車はしつこく、時には駆けつけた良く統制された効果的な航空攻撃が重要な地点を爆撃した。ユサールはマレッティ集団の曲がりくねった隊列を監視しつつ、イタリア軍主力のゆっくりとした集結の後をつけていった。濃いもやがイタリア軍を隠していたが、それが晴れるとイギリス軍は間近に迫ってきたあらゆる敵航空機や、戦車や大砲の激しい攻撃の目標となった。13日までソルームの第3コールドストリーム近衛の1個中隊は交戦していなかったが、敵が第1リビア師団の全部丸ごとだと分かると喜んだ - 開けた地形で登ってくる日に照らされつつ - 大砲、戦車、車両がぎっしりと並んで整列して、「まるでオールダーショット【ロンドンから南西に約60kmの荒野にある、イギリス陸軍のお膝元】の長い谷での誕生日パーティーのようだった」と、その光景を見た者が証言している。一機のハリケーン爆撃機が、高地上のかつてイギリス軍の前哨基地だった場所を爆撃していた。だが、それは保険の掛け過ぎというものだった。その先住者はすでにハルファヤ峠へと退却しており、道路を破壊し、手持ちの最後の地雷の敷設を完了させるのに忙しかった。だが、鳴り響く何発もの砲声で鼓舞されたイタリア軍兵士達は、地平線の彼方にいてほぼ見えなくなっているイギリス軍部隊からのしつこい砲撃の下へと入ってきていた。ゆっくりと、4個師団からなるイタリア軍の大部隊がハルファヤ峠へと入ってきたが、あちこちに敷設された地雷によって損害を被りながらだった。あちこちに壊れた、あるいは遺棄されたイギリス軍の車両がこの場所の以前の所有者を表していたが、敵の兵士を見たり捕らえたりということはおおよそなかった。

 オコンナーの計画それ自体は単純なものであった。後方へ下がってメルサ・マトルーに部隊を隠し、その町で強力な歩兵部隊での攻撃がかけられるようになるのを待ち、また第7機甲師団が砂漠の奥地の断崖から、側面攻撃をかける、というものである。
『Beda Fomm』P35~40




 コマンドマガジンの地中海日報にはこのような記述が……。

 ムッソリーニに急かされてグラツィアーニはついに重い腰を上げて東方への進撃を命令した。当初、彼は内陸の砂漠から「砂漠の古狼」とあだ名されたマレッティ将軍率いる機甲集団を迂回させて英軍を包囲する作戦計画を意図していたのだが、肝心のマレッティ集団はリビア領内にいるうちから道に迷ってしまい、水も底をついたため、グラツィアーニはこの作戦をあきらめて正面攻撃に切り替えた。
『コマンドマガジン日本版 vol.44』地中海日報P47



 マレッティ将軍ェ……。ただ、砂漠で道に迷うとか、そこまで行かなくても方向が分かりにくいということはかなりあったようで、GDWのフルマップ5枚の『Operation Crusader』というゲームでは部隊が道に迷うかどうかをチェックしながらプレイするのだとか……(プレイしてみたいです)。


 OCS『DAK-II』のデザイナーズノートでは、グラツィアーニ攻勢シナリオでメルサ・マトルーを占領することはデザイナー(ディーン・エスイグ)はまだできてないが、できないことはないと思う……というようなことが書かれていました。

■ドイツ軍の介入
 多くのプレイヤーが、ドイツ軍が介入しない可能性についてデザイン上どう扱うのかを心配していました。それは要するに、1940年後期から1941年早期にかけてイタリア軍がもしよくやった(あるいは少なくとも壊滅的打撃を被らなかった)ならば、ドイツ軍はこの戦域に来ることはなかったろうということなわけです。言わばこれは、確かにムッソリーニが自分の好きなようにやった場合だということになるでしょう - 北アフリカはムッソリーニの担当戦域だということになっていたのであり、彼はチュートン人(ドイツ人のこと)の干渉を受けたり、あるいは戦利品を分け合うようになることを望んでいなかったのです。また実際問題として、イタリア軍プレイヤー達は自軍の弱さを意識するあまり、多くの北アフリカ戦ゲーム(弊社の『Afrika』もその一つでした)においてエジプトへ侵攻することを拒否してトブルクに座り込んだまま、ドイツ軍がやってくるのを待つことがありました。そこで私はルール的に、イタリア軍が前進しなければならないことにしました(ここでは歴史上の選択肢を持つことは許されないわけです)。

 しかしこれでも、もしイタリア軍が非常にうまくやったならばどうやってドイツ軍が現れることになるのかという直接的な問題は避けられません。ですが、我々がテストプレイした限りでは、エジプト西部でのイタリア軍の破滅はかなり確実であるように思われました(破滅しないようなプレイにはまだお目にかかったことがありません……だからこそ、この段階を飛ばして41年3月末からの開始を選ぶプレイヤーがいるのでしょう)。より良いのは、もし万が一枢軸軍プレイヤーが恐るべき成功を収めた(あるいはイギリス連邦軍プレイヤーが単に大失敗をした)なら、ドイツ軍部隊がアフリカに到着するまでもなく枢軸軍がサドンデス勝利を得たことにするということでしょう。実際のところ、ドイツ軍は自分達が到着する前にゲームが終わってしまうと思われるものに介入しようとは思わないでしょうから。

 また、プレイヤーがわざと下手にプレイするように誘導してしまうような一連のルールが存在してしまっているという問題もありました(下手にやればドイツ軍が来てくれて、うまくやればそうならないのですから)。ドイツ軍の来援を得るために極めて変なプレイをしている人を見たこともありますし、プレイヤーがそういう類のことをするであろうことは容易に想像がつきます(あるいはイギリス軍プレイヤーにそれを避けさせるか……というのはイタリア軍プレイヤーは突然しばらくの間、敵がうまくプレイすることを期待するというわけですから)。また、このことはプレイヤー達に、イタリア軍指揮官達はドイツ軍の来援というチャンスを台無しにしたくなかったから史実においてそこで攻勢を停止させたのだ、という誤った考えを抱かせる恐れもあります。これは全く事実と異なります。

 個人的には、サドンデス勝利が得られるほどに充分に素早い前進が可能な方法を探して、私は今でも9月侵攻キャンペーンをプレイし続けています。私はまだそれを成し遂げてはいませんが、難しいパズルほど楽しいではないですか。41年3月からのそれにまっすぐ向かってしまう前に、一度試して欲しいと思います。私はマトルーを占領することはなし得ることだと思うので、なんとかして成し遂げたいところです。



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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。
 過去に作ったイタリア軍関係動画もどうぞ。
※リプレイ記事は練習が主になっていて、間違ったルールでプレイしてる事が多々あることにご注意下さい。気付いたものはその都度新しい記事でその事を書いてますが、古い記事に修正はほどこせていませんので……。

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