東部戦線のナチス・ドイツ軍兵士の蛮行や残虐性について

 『Sacrifice on the Steppe』を途中まで読み進めていますがその中で、東部戦線におけるドイツ軍兵士によるロシア住民やロシア軍捕虜、そしてユダヤ人達に対する残虐行為の話が色々出てきて、それに対してイタリア軍兵士達が大きなショックを受けたり、むしろそれらのドイツ軍兵士達にひどい扱いを受けた人々を助けたりするのに、非常に興味を持ちました。


 『Sacrifice on the Steppe』については↓をどうぞ。
グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23)
『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係 (2017/05/14)



 ヒトラー及びナチス・ドイツが、アーリア民族の代表たるドイツ民族の人種的優位性を標榜し、スラブ人を劣等民族として奴隷化、あるいは追放化して、そこにレーベンスラウム(生存圏)を確保することを狙っていた……という話は、様々な本で読むところですが、ミリタリー的な本では、では実際に東部戦線でどのようなことがおこなわれていたかについては描かれていない感がありました。

 しかし、グランツの『独ソ戦全史』にはそこらへんのことも書かれていました。

 ドイツ国防軍将兵の大多数は、ソビエト人民を、あてにならない、だらしのない、獣同然のものと見なしていた。……
 だが、ソ連の捕虜や一般市民を取り扱う時に、このような表面に出ないドイツ側の心情によって、殺人と蛮行がどこでも広く行われたことは確かである。……
 ……独軍は戦争の最初から大虐殺に関与していた。ナチス党の占領部隊が所定の地域にやってくるずっと前に、最初にロシアの町に入った独軍部隊は、どんな抵抗をも諦めさせようとして、しばしば多数の住民を処刑した。……捕虜は地雷の除去をはじめとする、ドイツ側にとって危険すぎると見なされた作業を無理やりやらされた。
 ……ほとんど300万人に上るロシア人と白ロシア人、そしてウクライナ人が、しばしば死あるいは永久的な身体障害を被りかねないような環境での奴隷労働を強制された。
 これに加えて、ドイツ側の手に落ちた最低330万人のソ連軍の捕虜が飢餓・病気・遺棄によって死んだ。これはドイツ側に捕らえられたソ連軍捕虜の58パーセントに上る。……1941年当時、ドイツ側は莫大な数の捕虜のための用意をほとんど何もしておらず、降伏によって生き延びた捕虜の多くが、それから1か月以内に食糧と退避所の不足のために死んだ。
『独ソ戦全史』P132~134


 【1941年から1942年にかけての冬の戦いで】ドイツ陸軍が失ったものは……深刻な戦意の喪失であった。生き残った古参兵のほとんどが、異国の地での過酷で際限のない戦いに従事させられていると認識していた。だからといって脱走や降伏は不可能であった。なぜなら、互いに人間以下と見なしている相手にかかったら、言語に絶する拷問にかけられると思っていたからである。
 前線の将兵は次第に、自分が戦わねばならない大義名分の本質を追求するようになった。そのような本質を明らかにするため、将校は人種主義的、イデオロギー的なナチス公式のプロパガンダを持ちだすようになった。……教育将校がイデオロギー用語で話を進めるのに慣れてくると、独軍の下士官と兵士はスラブの「下等人種」に対する残虐行為にさらにいっそう力を入れるようになった。逆説的なことに、独ソ戦争はナショナリズムを重視してイデオロギー色を弱めたソ連側に有利に運ぶようになり、逆にドイツ側は政治将校とソ連型方式の教育を次々と採用していった。
『独ソ戦全史』P227,8





 また、『戦争と飢餓』には、ナチス・ドイツの一部で実際にスラブ人の絶滅計画が策定され、それが無秩序に断片的に実行されたことなどが書かれています。

 『戦争と飢餓』についてはこちら。
『戦争と飢餓』ポーランド兵の恨み…… (2014/10/22)
『戦争と飢餓』、超絶オススメです! (2016/02/29)

 戦後に重ねて否定されたが、計画にたずさわっていた数百人の官僚、政府職員、科学者、研究者の間では、これによって数百万人の絶滅死がもたらされることは共通の認識だった。もっと言うなら、彼らは既存の町や村を壊滅することを奨励した。そうすれば、何も描かれていないまっさらなキャンバスが手に入るからだ。
 東部総合計画は、ユダヤ人と飢餓計画の標的になるソ連の都市住民が、ナチスの長い絶滅民族リストの最初にすぎないことを明示していた。東方の原住民のうち、ドイツの社会に組みこめる人数はごくわずかで、ほかに1400万人を奴隷として使用すること、残りは強制退去させることが決まっていた。……1942年12月末の計算では、7000万人を強制退去させる予定だった。ユダヤ人と同じく、スラヴ人たちもいずれ重労働で死ぬことが予想された。ヒトラーは、スラヴ人の運命を「アメリカのインディアン」の運命になぞらえることで、ドイツの東方地域への野望をアメリカの西部拡大に重ねあわせたのだ。
『戦争と飢餓』P52,53


 結果的に飢餓計画は頓挫し、無秩序なやりかたで断片的に遂行された。その要因は、東部地域の統治を担うさまざまな組織間で協調がとれていなかったこと、計画の概念化には政治、経済面の官僚が大量にかかわっていたのに、具体的な実現方法がきちんと詰められていなかったことにある。
『戦争と飢餓』P50,51



 その具体的な行動に関してはあまり描かれていないのですが、ポーランド人に対する扱いに関して少し記述がありました。

 ドイツ人が夜に村へやってきて、住民に一時間足らず、たいていはほんの15分ほどの猶予を与えてわずかな身の回り品をまとめさせ、一カ所に集めたあと、暖房のない列車に乗せて東へ旅立たせたという。……彼らは何百年も代々住んできた故郷から強引に立ち退かされた。家畜同然に集められ、村から鉄道駅までの道で小突かれたり殴られたりした。歩みが遅すぎる者は射殺された……彼らは一時宿泊施設の藁のうえに横たわり、なかには体を起こせないほど衰弱した人もいて、子どもたちのほぼ全員が下痢を発症し、ひとり残らず「青白く疲労困憊して垢だらけで……ドイツとドイツ人への憎しみにあふれていた
『戦争と飢餓』P54,55





 『Sacrifice on the Steppe』では、イタリア軍兵士が見た、具体的な情景が何度も出てきて、非常に印象的です。

 ポーランドで、彼とその部下達はこの戦争における自分達の役割について疑問を持ち始めることとなった。なぜならば、彼らはこれまで知らなかったナチ体制の現実を目撃し、不安と苦悩を感じるようになったからである。その最初のものは、彼らの列車がワルシャワ駅で数時間停止している時に起こった。彼らは、ライフル銃を構えたドイツ兵達が鉄道の枕木を運ぶ市民の集団を指示しているのに気付いた。その悲惨な人々はぼろ切れをまとい、自分達の背負う重荷によろめいていた。そのぼろ切れにユダヤ人であることを示す黄色いワッペンが付いているのにアルピニ兵達は気付き、恐ろしくなった。
『Sacrifice on the Steppe』P21


 列車がブレスト・リトフスクとミンスクの間のどこかの小さな駅で停車した時、数時間停止するので列車を降りるようにとアルピニ兵達は指示された。プラットフォームで、彼らは60~70人の集団に出くわした。女性、子ども、それに老人達が「言葉では言い表せないほどひどい状態で、裸足で、ぼろ切れをまとって、まっすぐ立てる者もほとんどいなかった。」 その内の一人の少女がアルピニ兵達のそばを通り過ぎた。「声をかけたが彼女は歩みを止めず、ラテン語でパンを求める祈りの言葉を繰り返していた……時折、彼女は控えめにぼろ切れを整えるのだった。」
 このぼろ切れの集団から20メートルのところに、洗練された軍服に身を包んだ3人の若いSS将校が、銃をいつでも撃てるようにして立っていた。彼らは、この「体が弱った」人々がプラットフォームでイタリア軍兵士らと隣り合うことになることを気に掛けていない様子であった。
 このドイツ兵に関して、レヴェッリは仲間の将校達に言った。「こんなぞっとするような光景を我々に見せるのを許すなんて、奴らは気が狂っているに違いない。こんなひどいことがあるか? なんの意味があるんだ!」
 程なく彼は、そのドイツ兵達がわざとこの光景をイタリア兵達に見せているのだと気付き、これが珍しいことではないのだろうという考えに至った。
「聖母マリアよ!」 レヴェッリは叫んだ。「これがドイツのやっている戦争だというのなら、俺はそれに参加したくない。これは俺の戦争じゃない」
 この時の長い停車時間を利用して、レヴェッリと部下達は、イタリアを離れて初めての温かい食事を用意した。ミネストローネができあがるとアルピニ兵達は、その今にも飢え死にしそうな人々が拾い持っていた汚い錆び付いた缶に、彼らの分を分け与えてやった。
『Sacrifice on the Steppe』P23,24



 ここで出てくるレヴェッリの著作のうち、『ふたつの戦争を生きて』は和訳されていて、この部分に当たるのは以下になります。

 ワルシャワでは、ユダヤ人との最初の出会いがあった。ぼろぼろの服、一様に胸と背に黃色の星印をつけ、銃を突きつけるSSの監視のもと、線路沿いをさまよっているあの人たちは - 女も、男も、子どももいた - 何者だ? 私たちは互いに尋ねあった。全員が箒とバケツを手にしていた。駅の清掃に振りあてられたユダヤ人たちで、わが軍の列車が出したごみの収集をさせられていたのであった。私はことの真相を知りたかった、知ろうと努めた。……
 ウクライナのストルプチェには、さらに多くのユダヤ人がいた。私たちの温かい食べ物を、いくらか分けることにした。いつになく長い停車時間だった。ジュゼッペ・グランディが私に話しかけてきて、ふたりして食べ物を取りそろえながら、会話を交わした。ユダヤ人たちは死ぬほど飢えていた。私たちはSSの目を盗んで、食料の一部を提供した。山岳兵たちはみな列車から降りていたので、ユダヤ人たちはその混乱に乗じてうまくこちらに近寄り、それぞれ杓子いっぱいの野菜スープを、手持ちの缶詰の空き缶に受けとった。
 ひとりの若い女性がラテン語で話してくれたので、ようやく真相がわかった。ほど近いところに絶滅収容所があって、毎日、300人のユダヤ人が殺されているという。私のうちで何かが粉々に砕けるのを感じた。もっと知りたいと、すべてを知りたいと思った。そして目を凝らし、いま見ているすべてを瞼に焼きつけた。以来、ドイツの将兵を憎しみの眼差しで見るようになった。私の無知は取り返しのつかないものであった。絶滅収容所のことはまったく知らなかったのだ。いずれにせよ、ドイツ人の戦争は私の戦争とは違う、と気がついた。そしてこの感情に苦しみ、おののいた。
『ふたつの戦争を生きて』P100,101




 再度、『Sacrifice on the Steppe』から。

 ドイツ軍と違って、イタリア軍はレーベンスラウム(生存圏)を求めてロシアへやってきたわけではなかった。ナチの飽くことなき征服欲とナチ・ファシストとの同盟に不安を抱きつつ、またドイツ兵による市民への非人道的で攻撃的な扱いを理解することができないまま、アルピニ兵達はコーカサスへの任務を中止し、ドン川へと向かう長い旅路を開始したのだった。
『Sacrifice on the Steppe』P31


 ある日の行軍中、アルピニのアクィラ大隊は、身の毛がよだつ光景に遭遇した。「2人のロシア住民が一本の柱につるされ、揺れていた……我々の部隊の間では、我々がドイツ軍と同盟を組んでいることを非難する声がうずまいた。考えられる理由は、その小さな村の住民達がドイツ軍の助けにならないからということだった。言い換えれば、その住民達が充分な情報、食糧、建物を部隊に供与できなかったから、ということである。そんな理由で、住民達への見せしめとして、ドイツ兵はこのようなぞっとするような虐殺をおこなうのだった。
『Sacrifice on the Steppe』P33


 若干のドイツ兵が、ユリア師団によって保持されている戦線の背後のイタリア軍の補給集積所の近くに駐屯して残っていた。ベデシが書き残していることによれば、大体において、ドイツ兵とイタリア兵が1対1で会う際にはドイツ兵はいい人達であった。だがイタリア兵達の目から見て「特定の状況における彼らの解決方法は、当惑せざるを得ない」もので、イタリア兵達はこの同盟軍との関係を深刻に疑問に思わざるを得なかった。一方で、アルピニ兵達はドイツ軍兵士達の「秩序と規律」を尊敬していた。だが、ドイツ軍兵士達の現地住民への態度は時に理解しがたいものであった。その一例が、以下に挙げるポポフカでの出来事である。
 ポポフカで数人のドイツ兵がある丸太小屋を接収し、その小屋に住んでいたおじいさんと20歳の孫娘の2人を立ち退かせた。立ち退かされた2人は彼らの丸太小屋のそばに小さな避難壕のような穴を掘った。冬が来るのに備えようとおじいさんは、丸太小屋の隣にあった使われていない豚小屋の小さなドアを取り外した。彼は吹きさらしになっている避難壕にそのドアを付けようとしていたのである。一人のドイツ兵が、おじいさんが豚小屋からドアを取り外して運んでいるのに気付き、走って近づくと大声で叫んで掴み上げた。激しい格闘になったが、おじいさんはその小さなドアを離そうとしなかった。そのドイツ兵はおじいさんの顔を引っぱたき、おじいさんは地面にどうと倒れた。
 その時、孫娘がそこにやってきて様子に気付き、叫びながらその兵士を止めようとして、祖父と兵士の間に入った。そのドイツ兵は彼女を横へ押しやると、まだ地面に転がっているおじいさんに向かっていった。孫娘は祖父が殴られるのを止めようとして、兵士にすがりついた。その過程で孫娘は兵士をひっかき、その腕に幾筋かの血の跡が付いた。その時、幾人かの他のドイツ兵が間に入り、兵士と2人とを引きはがした。
 不幸なことに、この話はこれで終わりにはならなかった。翌日イタリア兵達は、そのおじいさんと孫娘が村の広場の木に吊され、処刑されているのを発見したのである。
 このぞっとすると光景を見て大きく心がかき乱されたベデシは考えた。「これは残虐性が解放されたということなのか? 被征服民の命を軽く見ているのか? 勝者は不可侵の存在であるという恐ろしいほどの厚顔によるものなのか?」
 ヴィットリオ・トレンティーニ中尉もまた、ユリア師団の戦線後方にある師団のラバが集められている場所に到着した時に、ある残虐な光景を目撃した。ある丸太小屋の隣の木に、年取ったロシア人男性の体が吊されたのである。「ドイツ兵達は一人の少女の目の前で彼を縛り首にした。彼が隠してあったじゃがいもの場所を隠そうとしたからであるというのである。」
『Sacrifice on the Steppe』P49,50




 
 この他にも、ドイツ軍が管理していた捕虜収容所がイタリア軍に移管されると、そこにはガリガリに痩せて死にかけの元ロシア軍兵士で溢れていて、イタリア軍は彼らの食料や被服に気を配ったりだとかという話が何回も出てきます。ロシア住民とのやりとりも何回も出てきて、ロシア住民はドイツ軍兵士を恐ろしく思い、ドイツ軍兵士を憎む一方で、イタリア軍兵士は「いい人達だ」と歓迎し、イタリア軍兵士達も彼らに温かく接するということの具体的な様子が描かれています。

 そのことの理由として、ロシアの農民の性格と、イタリアの農民出身のイタリア軍兵士達との性格が似通っていたから……というのも書かれたりしていますが、ドイツ軍兵士も農民出身であったりはしたでしょうし、やはりヒトラーによる「人種優位論(社会ダーウィニズム)」の影響が大きかったのでしょうか……。尤も、『アーロン収容所』で描かれたように、当時のイギリス人は日本人をそもそも人間だとも思っていなかった(著者の会田雄次氏がイギリス軍の捕虜になって、命ぜられてシャワー部屋を掃除していたら、軍属の?イギリス人女性が入ってきて全裸になってシャワーを浴びだしたのでびっくりしていたが、そこにイギリス人男性が入ってきたらその女性が恥ずかしがり、それでそもそも日本人は人間として認識されてないのを理解した)という話もあります。イタリア人はロシア人を同じ人間として認識していましたが、ドイツ人はロシア人を、少なくとも劣等民族で、その命の価値は軽いものだと見ていたのではありましょうね……(当時の日本人の中でも、中国人やなんかをそのように見ていた人もいたでしょう)。


 『Sacrifice on the Steppe』は、イタリア軍兵士の悪い面がほとんど全く描かれていない印象があり(「悪い行為もあったが、それらは厳格に処罰された」というような記述がこれまで読んだ中で2回ほど出てきたのみで、具体的に悪い行為の描写は一つもない)、『ふたつの戦争を生きて』などではイタリア軍兵士の悪い面も全然描かれているのに比べて、ちょっと偏向気味ではないかという感もするのですが、しかし、『ヘタリア』などに描かれる「ドイツ軍におんぶで抱っこのイタリア軍」という固定化された見方に、大きな一石を投じる著作でもあるような気がしています。精強だが非人道的なドイツ軍に対して、弱兵ではあるが人間味にあふれ、ロシア軍兵士やロシア住民を助け(同時に助けられもする)、一緒になってコミュニケーションや食事を楽しんだりするイタリア軍、というイメージです(『ヘタリア』でもそういう風に描かれている感じがあるかな?)。



 ところでこれら、ほぼ東部戦線の地域のウクライナ、ベラルーシ、ポーランド等で、ヒトラーのみならずスターリンも、第二次世界大戦前の時代から大虐殺をおこなっており、その死者が総計1400万人(!!)にも及ぶということを描いた、『ブラッドランド』という本の和訳が刊行されています。また、東部戦線で言えば『戦場の性――独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』という和訳本も出ていました(Amazonの書評が秀逸ですね……)。



 特に『ブラッドランド』の方は読んでみたいと思うところなのですが、純軍事的な本に使っている金だけでも相当なものになってしまっているので、さすがに自重か……と思っていたのですが、本の性質からも推測できる面もありましたが、今調べてみるとやはり図書館に蔵書としてあったりするようなので、図書館で借りて読もうかなとも思います。私は本に蛍光ペンで線を引きまくる人間なもので、図書館はまったく利用しなかったのですが、ここらへんの本では図書館利用は全然ありかも……。


 あと、北アフリカ戦での残虐行為について、コマンドマガジンに載っていたのを見つけてました。

 残念ながら、北アフリカ戦役でも非道な行為が行われている。
 最も残虐であり、しかし歴史の片隅に追いやられている事件は、1940年から41年にかけの、デルナ~ベンガジ突出部の略奪であろう。連合軍が前進し、その後、退却した際に、大規模な略奪が行われたことに、疑問を挟む余地はない。そこで行われたことといえば、ベンガジのイタリア人女性の虐殺(前進してきたドイツ軍が、その証拠を撮影している)、略奪行為(ニュージーランド兵による蛮行がすさまじかったという)、破壊、レイプ、そして殺人。
 前進してきたドイツ軍とイタリア軍は、非道な行いに対し、オーストラリア兵を告発した。略奪行為の一部は、イギリス軍上級司令部が奨励したものもあったという。現在、オーストラリアの公式の見解としては、確かに当時、虐殺は行われたが、それはニュージーランド兵によるものだ、ということになっている。しかし、一部のオーストラリア兵も略奪に関与したという考えは、否定できないであろう。
 もっとも、彼らは退却してきたイタリア軍とアラブ人がデルナとベンガジをさんざん略奪した後で、追い打ちをかけたのではあるが。
 オーストラリア政府はこれまで、1940年と41年にベンガジの市民を処刑したことを示す、文書による証拠の存在を明らかにはしていない。だが、現地のアラブ人がレイプされ、略奪され、殺され、同じようにイタリア人入植者が殺害されたことは間違いないのである。連合軍による略奪行為のうち、オーストラリア兵がどの程度関与していたのか、真相を知ることはできない。
 イタリア軍は、ANZAC(オーストラリア、ニュージーランド軍)の兵士は、投降したり負傷している枢軸軍兵士を処刑している、と主張してきた。第9ベルサグリエーリ連隊に所属していたセルジオ・タミオッツォは、1941年4月30日のトブルク要塞の外郭陣地に対する夜襲の際、オーストラリア軍が反撃に転じた後に捕虜・負傷者を虐殺する光景を目撃している。またメルサ・マトルーでは、ニュージーランド兵が投降を申し出たドイツ兵と負傷者を、銃剣で刺殺した例が報告されている。
『コマンドマガジン日本版Vol.15』P62,63




 10代の頃私は日本海軍ファンで(ご多分に漏れず、ウォーターラインシリーズなどの影響で)、その頃に『太平洋戦争とは何だったのか』という本を読んだのですが、この本は非常に中立的な本で、読後の印象は「日本軍はいい事もしたけど、悪い事もした。連合軍もいい事もしたけど、悪い事もした。戦争とはそういうものなのだろう。」というものでした。




 しかしながら、こういう優れた(と思える)本がだいぶ前に出ているにも関わらず、「日本軍は悪いことだけをひたすらした。連合軍はいい人達だった。」か、「日本軍はむしろいい事ばかりをした」という本に溢れているような気がします(T_T)

 「これまでの見方に一石を投じる」あるいは「イデオロギー的な偏向のない」本がどんどん増えてくれると嬉しいと個人的に思います。

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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