イタリア軍のガムバラ将軍はロンメルに協力するようになって解任された?

 承前、イタリア軍のガムバラ将軍について。


Gastone Gambara
 ↑Wikipediaから


 前回にも引用していたものですが、ガリボルディ将軍の解任の時の話です。

 このころ、イタリア参謀本部では、総司令官の更迭が行われ、カヴァッレーロ参謀総長はガリボルディ将軍へ次の電報を送った。
「6月半ば、サルーム戦線の作戦が勝利をもって集結し、かつ貴下の指揮により、軍隊の再編を終えるにあたり、貴地における貴下の使命はここに完了したものと考える。貴下の功績に対し謝意を表するとともに、リビア総督と北アフリカ総司令官の職を解き、新たにバスティコ将軍をその職に任命したことを通報する。」
 この更迭の理由については、陸軍参謀長に昇格したロアッタ将軍がカヴァッレーロ参謀総長へ送った報告の中で明らかにされている。それによれば、ガリボルディとロンメル両将軍の関係について、ガリボルディはどうしてもロンメルの意向に沿って物事を進めるべきだと決めてかかり、したがって彼に命令したり、指示を与えることはしなかった。しかしガリボルディの幕僚であるガンバラ将軍は、ロンメルがたとえ不服を唱えても、ガリボルディが総司令官としての実権を行使すべきだと頑強に言い張ったので、両者が仲たがいしたためであった。
『ムッソリーニの戦い』P170


 7月12日に枢軸軍の一人の司令官が交替した。ガリボルディ将軍はイタリアに帰還し、その後ロシア戦線へと赴く。彼の後任は7月19日にやってきたエットーレ・バスティコ将軍で、ムッソリーニの友人の一人であり、エチオピアとスペインでの指揮経験を持っていた。彼はそれまで、エーゲ海のドデカネス諸島の守備隊の司令官であった。バスティコは北アフリカ上級司令部の指揮官となった。彼の参謀長はガストーネ・ガムバラで、スペイン内戦時のファシスト党の英雄の一人であり、ムッソリーニの義理の息子で外務大臣であったチアーノ伯の友人であった。バスティコには、ガリボルディの時よりもロンメルに自由裁量を与えることが期待されていた。ガムバラにはアリエテとトリエステ師団、それにイタリア軍のEsplorante戦闘集団やRECAM偵察戦闘集団より成る機動群の独立指揮権が与えられた。ロンメルはこれらのイタリア軍部隊を指揮下にできないことをひどく悔しがった。ロンメルは「頑固で横暴で凶暴」で知られたバスティコを「ボンバスティコ」と呼び、バスティコとガムバラの両方を「クソ共」と呼んでいた。
『Rommel's North Africa Campaign』P75,76




 ただ、ガムバラ将軍はロンメルと仲たがいばかりしていたわけではなく、ロンメルに協力的であった時もあったことが『ロンメル語録』に書かれていました。

 【1941年6月】
 ちょうどその時、イタリア北アフリカ派遣軍参謀長のガムバラ将軍が私の野戦司令部を訪れた。私は彼に戦闘情況とその戦術上の問題点を簡単に説明した後、ドイツ軍は一見優勢を保っているように見えるが、とてもエジプトへ進出できるような状態にないことを遠まわしに述べた。私は総体的な戦略の面では見通しが暗いことをできるだけ強調して語ったのだが、それは増援のイタリア軍諸師団をトブルク道路を迂回してできるだけ早くこの地に派遣する必要があることをガムバラ将軍に理解してもらうためだった。将軍は私の言葉に非常に感銘を受けた様子で、ソルームの陣地を固守するためにできることは何でもしようと約束してくれた。
『ロンメル語録』P135




 その後、クルセーダー作戦の時に、ガムバラはロンメルの指揮下に入ったようです。

 【クルセーダー作戦中の11月22日頃?】ロンメルはガムバラ将軍に、彼の機動軍団をシディ・レゼク近くの敵を殲滅中のドイツ軍の支援に送ってくれるように頼んだが、ガムバラはアリエテ師団の一部を送る準備をしただけであった。その後すぐにロンメルはローマに電報を送り、翌朝フォン・リンテレン将軍に、ガムバラを自身(ロンメル)の指揮下に置いてもらえるようにムッソリーニを説得することを依頼した。彼はまた、バスティコ将軍に関して、戦いが始まってから司令部にも顔を見せず、戦いの指揮を執ることもしていないことに不満を述べたが、しかし実際には明らかに、ロンメルはそのようなことを望んでいたわけではない。同日、ムッソリーニはガムバラの軍団をロンメルの指揮下に置いたが、ロンメル自身は依然としてバスティコの下に就くものとされた。
『Germany and the Second World War, 第 3 巻』P737



 ところがクルセーダー作戦で枢軸軍が危機的状況に陥る中、「ガムバラはどこか?」という言葉がドイツ軍の中で有名になります。『砂漠のキツネ』の中には、一つの章の見出しが「ガムバラはどこか?」になっているのです。

 イタリア軍に来てもらわなくてはならない。たたかってもらわなくてもいいのだ。側面の掩護だけでかまわないのだ。包囲陣の一環となるだけで。
 クリューヴェルは、最後の大きなチャンスを目前にし、ロンメルとイタリア軍指揮官ガムバラにたてつづけに無線で連絡した。頼み、命令した。「ガムバラはどこか?」 幾度も幾度も彼は平文でロンメルを呼びだした。「ガムバラはどこか?」 これはあまりにも有名な言葉となった。
 ガムバラの師団は戦場にあらわれなかった。ガムバラは来なかったのだ。ドイツ将校の顔はけわしくなった。その数日間、イタリア将校としては彼らの前にまかり出ないほうが利口というものであった。
『砂漠のキツネ』P94,5



 結構このくだりは印象的で、私も「ガムバラはどこか?」というセリフと共にガムバラ将軍の名前を覚えていました。

 ところが、『Rommel's North Africa Campaign』ではそれに対してやや修正的な見方を提示しているように見えます。

 【クルセーダー作戦の最終盤の1941年】12月4日にも、エル・ドゥダへのドイツ軍の攻撃が行われたが、撃退された。この撃退と、もしビル・エル・グビが落ちたなら側面包囲されるかもしれないという懸念から、ロンメルはトブルク包囲網の東面を放棄して全ての機動兵力をその南方へ集結させることを決断した。ドイツで流布している「ガムバラはどこか?」という話はこの状況において生起した。アリエテ師団とトリエステ師団はDAKに合流するように命じられた。ガムバラの司令部はかなり時間が経ってから命令を受け取り、ジョック・コラムと航空阻止(連合、枢軸両方の)に苦しめられながらアリエテ師団(左側に位置していた)は、トリエステ師団と共にゆっくりと集結しつつあった。しかも彼らはDAKとの集結地点までに、ドイツ軍の2倍の距離を行かねばならず、もちろん他の枢軸軍部隊と同様に、燃料も弾薬も欠乏していた。イタリア軍戦史局のモンタネッリが言うには、アリエテ師団とトリエステ師団長達は「自発的な活動力に欠けていた。イタリア軍の命令系統の伝達のお粗末さなどの諸問題が、命令の到着や執行の遅れをもたらした。」 彼はまた、ガムバラから師団長達への命令を引用している。「各師団長は命じられた場所へ時間通りに到着しなかった部隊や、それらの場所を通り過ぎてしまった部隊への責任を負う」「司令部との連絡を維持しなかったいかなる指揮官も、私は解任する」 指揮官からの命令としては異例である……。
『Rommel's North Africa Campaign』P124,5




 しかし、その後の撤退→ロンメルの第二次攻勢でベンガジを占領する前日に、ガムバラはまたロンメルと大喧嘩をし、その後解任されています。

 しかし、ベンガジを占領する前日【Wikipediaで見ているとベンガジ占領は1942年1月の28日か29日のことっぽい】、ロンメル将軍とガンバラ幕僚との間で大激論が戦わされた。ロンメルは、山岳の高台にイタリア歩兵部隊を増強すると主張し、ガンバラが反対したのであるが、これはロンメルにすれば、英軍が枢軸軍の兵力僅少を見抜いて、山岳地帯から反撃に転じてくると、キレナイカを再び放棄せざるを得なくなるのを憂慮したからだった。ロンメルは自分の作戦にたびたび難癖がつけられるのに憤慨し、司令官の職を辞任するとまで言い出した。今度はバスティコ将軍がなだめ役に代わり、ロンメルの作戦とその情勢判断に同意するのであった。こうして"砂漠の狐"は再び勝ち誇るのである。
 ……
 その後、北アフリカ情勢は数ヵ月間、停滞状態が続いたが、ただ人事の面で新しい動きがあった。すなわち、バスティコ将軍の配下ガンバラ将軍が幕僚の職を解任されて第11軍団に移り、その後任にディプルン将軍が任命された。
『ムッソリーニの戦い』P204,5



 Wikipediaイタリア語版のガストーネ・ガムバラの記事を見てみるとどうやら、ガムバラ将軍が解任されたのは1942年3月6日のことらしいです。ただし、『ドキュメント ロンメル戦記』(リデル・ハート編)では、ロンメルから奥さんへの手紙が書かれていっているのですが、ガムバラの解任の件は3月26日の手紙に書かれています。

〔1942年3月26日〕
 ……
 ガンバラはイタリア本国の職務に転任になった。つまり左遷だ。新しくきた男からはいい印象を受けた。
『ドキュメント ロンメル戦記』P214



 「新しく来た男」、つまり後任ですが、『ムッソリーニの戦い』ではディプルン将軍と書かれていますが、『ドキュメント ロンメル戦記』ではバルバセッチ将軍となっています。

〔1942年4月25日〕
 ……
 きのうは二人の人物に会ってとても面白かった。一人はワイヒホルト、もう一人はガンバラの後任のバルバセッチ将軍だ。
 この時私が聞いたところによれば、ガンバラは何人かの将校を前にして、今の彼の唯一の望みは、生きているうちにイタリア軍を率いて、われわれドイツ軍と戦うことだといったのが更迭された原因だという。馬鹿なやつだ!
『ドキュメント ロンメル戦記』P215


 これを読んでいると、「ホントにバカなやつだな!」という気しかしません(^_^;


 ところが、『Rommel's North Africa Campaign』のガムバラの解任に関する箇所ではどうも、ガムバラはロンメル寄りの人間になっていたために解任されたと書いてあるように見えます。訳が間違っていなければ……。

 【1942年1月頃? ロンメル第二次攻勢の時】ロンメルは同盟国イタリアが彼の新たな攻勢計画の秘密を保持できないのではないかと疑っていたので、このことを知る将校は非常に限られていた。ところが実際には、これはULTRAによる情報漏洩だったのである - 皮肉なことに、1941年以後にはULTRAはイタリア軍の上級司令部の暗号を解読できなくなっている一方、特にドイツ空軍のそれを容易に解読してしまっていた。バスティコ将軍も、OKWも、イタリア軍最高司令部もロンメルの攻撃計画を知らされていなかった。ケッセルリンク将軍でさえ、前日になって攻撃について知らされたほどだった。ところが、ガムバラ将軍はドイツ軍への補給トラックや燃料を供給する役割だったために、攻勢計画を知らされていたのだ。恐らくこの事実と、カヴァレロの知らないところでその意志に反して、他の行動でもロンメルを支持していたために、ガムバラはこの攻勢の展開後すぐ解任されてしまった。ガムバラが去る際には、彼はその「従順でない態度」と、部下達の着服疑惑のためにカヴァレロの不興を買ったのだと発表された。興味深いのは、ガムバラがロンメルを支えるようになるという変化が、彼が指揮系統に従わなかったことと同様、彼の失権をもたらしたということである。彼が他の将校との食事の時に語ったものか、彼が望んでいたのは「長生きして、ドイツ軍に対してイタリア軍を指揮する」ことであったという話があるにも関わらず、1942年の春までにガムバラ将軍は多くの場所でロンメル将軍を支えており、良好な関係を持ち、その戦争のやり方に賛同していたという。
『Rommel's North Africa Campaign』P141,2



 訳を間違えてる可能性もありますが……。しかしそれほど間違えてないとすれば、非常に興味深いことです。より詳しく知りたくてGoogle Booksで検索もしてみたのですが、良くわからじ……。「1942年の春までに」ガムバラはロンメルに協力的になった、という風な感じで書かれていますが、同年2月4日には枢軸軍はガザラの辺りまでは到達したらしいので、ガムバラ将軍は1月末にはまだロンメルと張り合っていたのが、それを見て2月中くらいにロンメルに協力するようになった……のでしょうか。で、しかし3月中には解任されてしまう、と……?

 しかし、『ドキュメント ロンメル戦記』のロンメルの手紙の中の書きぶりでは、ガムバラを馬鹿にする感じはあっても、惜しいみたいな感じはまったくありませんし、後任を明らかに好ましいと思っているようです。


 ただ、ガムバラ将軍が兵站部の担当だったとすれば、確かに攻撃計画を(他のイタリア軍首脳部より先に)知らされていたかもしれない記述がありました。

「私はメルサ・エル・ブレガから東方に向かう攻撃について秘密にしておき、イタリア軍の総司令部はもちろん、ドイツ軍の最高統帥にも報告しなかった」
「過去の経験から、イタリア軍の総司令部は秘密を守ることができず、なんでもローマに無線で報告するので、これをイギリス側に傍受されてしまうことを知っていたからである」
「しかし私は兵站部と調整し、攻撃開始の日である1月21日にはわが戦車軍の攻撃命令を、トリポリタニア全域の道路整備拠点に通知させておいたのである
「ホムズにいたバスチコはこれを通じてわれわれの企図を知り、当然のことながら私が事前に報告しなかったといって激怒した」
「彼はこのことをローマに報告したので、その数日後カバレロが自らメルサ・エル・ブレガにやってきた時も別に驚かなかった」

『ドキュメント ロンメル戦記』P210



 兵站部がガムバラ将軍の担当で、事前に攻撃計画を知らされており、トリポリタニア全域に通知する手配をしたのもガムバラだったのならば、その通知で攻撃計画を知ったバスチコに睨まれ、カヴァレロによって解任されてしまうというのも、あり得ることかもしれません……(あくまで推測ですが)。


 解任された後の役職ですが、Wikipediaによると本国に戻って何らかの役職にいた後、9月になってからバルカン半島の第11軍団司令官となったらしいです(第11軍団というのが、北アフリカにいる軍団であるかとも思ったのですが、そういうわけではない、と)。


 また、ロンメルの死のニュースが流れた時、ガムバラは次のように記したそうです。

 イタリア軍将官のなかで最も有能な一人ガンバラ将軍は、【ロンメルの死を聞いて】次のように記した。「砲火の下に泰然自若としている彼の雄姿を、わたしと同様、光栄にも目撃した人々の心に、彼は永遠に生き続けることだろう」
『ロンメル将軍』P295




 Yahoo! 知恵袋には、こういう話も書かれているのですが、どうなんでしょうね……。


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 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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