イタリア軍のガリボルディ将軍とメッセ将軍とテレーラ将軍

 北アフリカ関係書物から資料を収集している中で、イタリア軍のガリボルディ将軍について興味を持ちました。


ItaloGariboldi

 ↑ガリボルディ将軍英語版Wikipedia「Italo Gariboldi」から


 以下、『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』のP114からです(山崎雅弘氏によるもの)。

 北アフリカ戦の前半期において、現地のイタリア軍を統括指揮する「リビア派遣軍(後に北アフリカ派遣軍)」総司令官を務めたイタロ・ガリボルディ大将は、形式上の上官である自分の意向を無視して独断で作戦を展開するロンメルとたびたび衝突した。しかし、実際にロンメルが英連邦軍を蹴散らしてキレナイカ奪回などの実績を上げ始めると、いつしか態度を改めて「ロンメル流の戦争遂行術」に理解を示し、協力するようになった。
 第二次大戦勃発時にはリビア西部国境を守る第5軍司令官だったが、イタリア軍大敗後の1941年3月25日、前任者グラツィアーニ元帥から指揮権を継承した。しかし4か月後の7月12日、ガリボルディは突然、北アフリカ派遣軍総司令官を解任される。1942年には東部戦線に遠征したイタリア第8軍の司令官を務めたが、同軍が1943年初頭にソ連軍の反攻で壊滅した後、イタリアの単独講和に伴ってドイツ軍の捕虜となった。
『歴史群像アーカイブ VOL.11 北アフリカ戦線 1940>>>1943』P114




 ガリボルディ将軍については、今まで収集した資料の中には、以下のようなものもありました。

 ガリバルディ将軍--ロンメルが最初に接触したこのひとは穏健な老紳士で、立派な軍人のようだったし、それよりもロンメルにとってありがたかったのは、彼の流儀でことをはこぶのを許してくれる心がまえがあったことだ。
『ロンメル将軍』P176


 イタリア軍では、ガリバルディは忘れてはならない存在である。彼は、ロンメルの第1回の攻勢から共に戦った。
 彼の部隊は、ロンメルのお荷物だった。しかし、誰がアフリカ軍団と肩を並べられるだろう。イギリスやアメリカの部隊がイタリア軍と同じ立場に立っても、やはり無能と呼ばれたに違いない。ガリバルディはまがりなりにも、ドイツ軍に近いレベルの部隊を作り出した。アリエテ戦車師団、トレント、トリエステ自動車化師団、フォルゴーレ空挺師団等である。彼は極めて悪い評価しか与えられなかったが、決して軍人として無能だった訳ではない。
『アフリカンギャンビット』P23



 わりと良い評価のように思えます。また、東部戦線では指揮権がメッセ→ガリボルディという流れ(とりあえずこの2人だけ?)でしたが、北アフリカだと、グラツィアーニ→ガリボルディ→(間にとりあえずバスティコとかが入る)→メッセという、メッセとの関係で言うと逆の流れになる感じなんですね。



 他に資料を探してみると、日本語版Wikipediaの「イータロ・ガリボルディ」がありましたが、英語版Wikipedia「Italo Gariboldi」を注意深く訳した方が良い感じっぽかったのでそれ。

 1940年6月にイタリアが開戦した時、ガリボルディはフランス領チュニジアとの国境に駐留するイタリア第5軍の指揮官であった。彼は最終的にはリビアに駐留する2つの軍を指揮した。フランス戦が終わった後、第5軍は、エジプトとの国境に駐留するイタリア第10軍に人員、装備、補給を供給した。

 1940年12月にイギリス軍のコンパス作戦が開始されると、マリオ・ベルティ将軍の病気離任の後を継いで一時的に第10軍の指揮を執った。最終的に彼は第10軍の指揮を任されることになったが、それは第10軍が実質的に壊滅し、ベルティの後任であったジュゼッペ・テレーラ将軍が戦死した後のことであった。

 1941年3月25日、ガリボルディはリビア総督へと昇進し、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥の後任となった。7月19日までにガリボルディは、ロンメルに対して非協力的であるとの理由を付けられて解任された。エットーレ・バスティコが彼の後任となった。



 山崎雅弘氏の記事でも解任は唐突な感じでしたが、日本語版Wikipedia上では「ロンメルに非協力的だから」という理由だと書かれていて、「協力的だったよ」という他の記事と矛盾します。で、これが、Wikipediaでも英語版の方だと、「実際には非協力的ではなかったのに、非協力的だという、嘘の理由でもって解任された」ということを匂わせる書き方になっている感じがしました。そこらへん知りたいところですが、まあちらっと探した感じでは見つからなさそうだったので諦め……。


 そんな中で見つけた、「ドゥーチェにもの申した将軍:イタリアに好奇心」というページには、こうありました。

ムッソリーニはヒトラーと歩調を合わせ、1941年夏に Csir (Corpo di spedizione italiano in Russia イタリア軍ロシア派遣隊)を結成した。216の列車で、6万2千人のイタリアが旧式の装備で派遣された。

司令官メッセはこの作戦を誤りだと考えていた。数ヶ月は何とかなった。しかしドイツ軍司令官が、イタリア軍の増軍を要求した時、メッセは拒絶した。

ロシアの冬は途方もなく、零下47度にも達した。しかしムッソリーニは、1942年夏に、Armir (Armata italiana in Russia) を創設。7千人の将校と22万の兵からなる軍隊だった。

司令官は外務大臣のチャーノが「間抜け」と呼ぶイタロ・ガリボルディだった。1942年11月1日メッセは帰国。

ムッソリーニは今度はメッセをチュニジアに送る。ロンメル将軍の活躍と言われているものは、実際はメッセによるところが大きかったようだ。

1943年5月12日、ムッソリーニの命令をうけ降伏。




 あと、Wikipediaに名前の出てくるテレーラ将軍ですが、ベダ・フォムの戦いで、第10軍司令官代理であったのにも関わらず自ら突撃を敢行して砲弾で戦死し、イギリス軍からも尊敬された人物です(日本語版Wikipedia「ジュゼッペ・テレーラ」)。イタリア第10軍はガルパンでも「威勢はいいけどすぐボコボコにされる」というキャラ付けにされてしまいましたが(→ガルパン同人誌とOCS『DAK-II』に見るジャグブーブの戦い (2016/11/06) )、このテレーラ将軍の件はすごい感動的じゃないかなぁ……(って、私もあまり良く認識してなかったのです(>_<))。


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