『Sacrifice on the Steppe』 イタリア軍兵士達とロシア住民との良好な関係


 『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』を読んでいっていて、非常に面白いです。

 ↑の本については、グランツのスターリングラード三部作(の一部)などを購入・注文しました (2017/04/23) をご参照下さい。



 今回は、イタリア・ロシア戦線派遣軍団(CSIR:~1942年春)について (2017/05/12)で触れたCSIRの時のイタリア軍とドイツ軍、そしてロシア住民との関係性について(P9~P15)。


 ヒトラーはイタリアに対して不信感を感じており、イタリア軍には作戦目標や予定が知らされていなかったそうです。東部戦線でドイツ軍とイタリア軍はお互いに協力し合わなければならない状況にあった筈なのに、むしろお互いに腹立たしさや侮蔑が存在し、相互監視する有様だったとか。ところが、「逆説的なことに、イタリア軍とソ連の住民との間にはそのような不仲は存在しなかった」と書かれて(P10)いて、読んだ時は「はて、なんのことか?」と思いました。

 前書きを読んでいた時にも、苦しい経験をした著者の叔父さんが、「誰のことも恨んでいない。そしてロシア住民との間には感謝の念だけがあった」というようなことが書かれていて、「むむむ?」と思っていたのですが、P10から後を読んでいて謎が解けました。

 かつて、『戦争と飢餓』を読んだ時にも触れられていたことですが、ドイツはロシアに侵攻するにあたって、スラブ民族を劣等民族扱いし、住民が飢え死にするようにしてそこにドイツ人が入植できるようにと考えていてそれを実行しようとした……。

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 『Sacrifice on the Steppe』でも、SSが住民を殺して回ったり、ウクライナでユダヤ人が9万人殺されたり、150人のユダヤ人が処刑されるのをCSIRのイタリア軍兵士が目撃したという話が出てきます。1941年7月31日のある兵士の日記にはこうあるそうです。
「今まで我々は、これは簡単な戦争だろうと思っていた。だが今日、我々の目は開かされることになった。」
 そして、「我々のラテンの魂はこのようなことに慣れない……私は今までドイツ兵に憧れを抱いていたが、そうではなくて野蛮な兵士だ……」というようなことを書いていたとか。

 一般的に、CSIRのイタリア兵達はロシアの地域住民達に対して敬意を持って接した。ドイツ軍とは対照的に、イタリア軍は人種的優越性という観念を抱いてウクライナの地にやってきたわけではなかった。それどころかイタリア軍兵士達は、彼らが目撃したドイツ軍による占領期間中の残酷で無慈悲な行いによって極度に苦しめられたロシア住民達に対して同情や共感を抱いたのだった。
 ロシアの貧しい農民達はイタリア軍兵士達に対して多くの場合温かいもてなしをし、兵士達を家に迎え入れてわずかばかりの食糧を分け与えてくれた。だいぶ後になって、ドン川からの悲惨な退却行の時に、恐らく多くのイタリア軍兵士達がロシアの貧しい農民達の気前の良さによってなんとか生きのびることができたのだった。

『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P12



 イタリア兵達は、「大ドイツ」の為に戦わされていることに気付き、征服者という役割に耐えることができませんでした。

 ドイツ軍はイタリア軍に対して、彼らが占領した地のすべてのロシア人捕虜と脱走兵達を36時間から48時間以内にドイツ軍の捕虜収容所に運ぶように要求していた。イタリア軍の将兵達は、ドイツ軍に捕らえられたロシア人達がどんなに残酷な扱いを受けるかを知っていたので、その「地獄の」ドイツ軍収容所に捕虜達を送り届けることをあらゆる手段で妨害しようとした。彼らはイタリア軍の輸送力の低さを利用したり、あるいはしばしば捕虜の数についてドイツ軍へ違った数字を報告したりした。……
 ロシア人捕虜の扱いに関して、メッセ将軍はこう言っている。
「イタリア軍兵士がロシア住民達に対して、ドイツ軍の命令とまったく反対に、親切心や、生まれながらの気前の良さや、感受性を示したり、あるいは捕虜達への我々の扱いが文明人に対するものであると安心させたりすることを妨害するなど、誰にもできなかった。」
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P13




 ただし、ここで「イタリアはドイツの犠牲になったに過ぎない説」に対し、こういう見方もあるようです。

 イタリア国民は好戦的なムッソリーニによって嫌々ながらソ連との戦争に参加させられたのだと、戦後の人々は信じている。しかし、実際にはそれは少し違う。イタリア王国軍はムッソリーニから命令を受けていたが、だとしてもやはり王の軍隊であった。将校達は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に忠誠を誓っていたのだ。イタリア王国軍に関するリーダーシップや管理という点では王は目立った役割を果たしていたわけではなかったが、その活動については詳細を把握していた。陸海空軍の将校達の間の貴族の存在が、王の管理からの距離を埋め合わせており、「王国軍」という言葉がいくらかそれを補ってもいた。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はバルバロッサ作戦へのイタリア軍の参加に反対しておらず、彼の将校達も反対ではなかった。思い起こされるべきはイタリアは王国なのであって、それはムッソリーニを首相にしたヴィットーリオ・エマヌエーレによる決定だったということである。ムッソリーニは王と貴族からその支配権について支持を受けていたが、それは彼らの利益を守ることと交換にであり、そして共産主義者達と戦うことは彼らの利益になることであったのである。ボルシェヴィキの手によってロシア王家であるロマノフ家が残虐に殺されたのはわずか20年前のことで、それはまだ鮮烈な記憶であり、また1900年に無政府主義者達によって国王ウンベルト1世が暗殺されたことも、忘れることはできなかった。ロシアにおける共産制に反対し、そして恐らく打倒しさえすることは、イタリアの王政と貴族にとっては明確に利益であった。そしてそれはカトリック教会にとっても同様に利益なのであった。
『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P100



 この後にカトリック教会による記述もあるのですがパス。しかしまあ、上記のことは王と貴族にとってはそうであったとしても、イタリアの一般市民や農民にとっては……?(王に忠誠を誓っているなら、大事なことではあるのでしょうね、しかし。あるいはまた、イタリア人の信心深さということもかなりあるような気がしてはいます)


 閑話休題。

 メッセ将軍は、地域住民から物資を得る場合にはその全額を支払う……べきことを麾下の部隊に対して明確にしていた。
「最初から、」と、メッセは書いている。「私は、この原則をもとに、我々のことを知らない地域住民との関係性を築きたいと考えていた……」 危機的な状況においてさえ、イタリア軍兵士達は住民に何かを要求することはほとんどなかった。メッセ将軍は、地域の村々から徴発を行うよりは、麾下の部隊の糧食を減らすことを選んだ。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P14



 ドイツ軍は、特別な証明書を持たない後方の市民をも収容所に入れようとしましたが、イタリア軍は証明書を持たない市民達を輸送する組織を作り、前線から補給集積所へと戻ってくる空のトラックを利用しました。

 【1941年から42年の】冬の数ヶ月間、CSIRの兵士達は地域住民とさらに多く接する機会を持った。部隊はドネツ盆地のスターリノの周辺で平穏な期間を過ごし、そこでの彼らの主敵は厳しい寒さであった。兵士達は頻繁に、暖かさを提供してくれるロシア人の家に避難した。村の女性達は兵士達のパンや食糧と交換に、よく洗濯をしてあげた。村の人々と兵士達が顔見知りになるに従って、彼らは子ども達の為に医者の助けが欲しいと言ってきた。イタリア軍の軍医達は村民達を診てやり、薬まで提供した。輸血が必要な場合には数多くの兵士達が血を提供した。リコヴォでは、トリノ師団の将兵達が無料の外来診療所や、高齢者の為の休憩所を建設し、さらには妊娠した女性のための診療所をイタリア人がロシア人の人員を雇って、イタリア軍の経費で運営するということまでしたりした。メッセ将軍は、これらのすべての活動は、「我々の将兵達の自発的な判断」の結果であったと述べている。
『Sacrifice on the Steppe: The Italian Alpine Corps in the Stalingrad Campaign, 1942-1943』P15



 また、イタリア兵による住民への犯罪は厳しく処罰されたということです。


 前記引用の「リコヴォ(Rikovo)」の場所ですが、Rykovo、あるいはRukovoとも表記され、Gorlovkaの少し南東に位置すると思われますが、『Case Blue』やGMTのEFSでも地名は表記されていません。

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 ↑は『Case Blue』の最初のキャンペーン開始時(1942年6月5日)のセットアップです。Rikovoの場所は恐らく、47.30の辺りだと思われます(『Regio Esercito:The Italian Royal Army in Mussolini's Wars, 1935-1943』P124の地図からの推定)。



 この後、いよいよアルピニ軍団の兵士達(本書の主人公達)がロシアに向かいます。

 この本、イタリア軍に対しての見方を劇的に変えさせる可能性を持った素晴らしい良書の予感しかしません。和訳されて出版されたりとか……無理ですかねぇ……(私の英語力では出版とかおこがましくて無理(T_T))。

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