OCSユニットで見る「青年ファシスト」師団

 今回はOCSユニットで見る「青年ファシスト」師団について。

 「青年ファシスト」師団(GGFF)とは、簡単に言えばヒトラーユーゲント師団のイタリア版みたいなものです。ファシスト党の思想に熱狂的に共鳴した若者達で構成されていましたが、ヒトラーユーゲント師団が16歳以上の未成年によって構成されていたのと比べると、大学生が主体で若干年齢構成は高めであるように思われます(17か18歳以上?)。

 規模としては小さく、純粋な「青年ファシスト」を基にした部隊は1個連隊程度で、それにその他の部隊が配属されて師団を形成したっぽいです。機甲師団にすることが決定されてもいたらしいですが、イタリアの国力の弱さゆえかそれも実現されませんでした。


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 ↑青年ファシストの兵士たち。イタリア語版Wikipedia「136ª Divisione corazzata "Giovani Fascisti"」から



 まずはユニットから。

↓『DAK-II』の青年ファシスト連隊(独立)と、その所属した戦闘団RECAM。

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 ↓『DAK-II』の青年ファシスト師団。兵科マークの左側に「GGFF」とあるのが純粋な青年ファシスト連隊で、それ以外は借り物。

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 ↓『Tunisia II』の青年ファシスト師団。

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 こちらは青年ファシスト連隊が黒シャツ隊の色で塗られていますが、今回調べたところでは黒シャツ隊(国防義勇軍)所属というわけではなかったっぽいですが、もしかしたらチュニジア戦の時にはそうなっていたとか……?(『DAK-II』も『Tunisia II』も黒シャツ隊は通常の陸軍とは色が変えられているので、青年ファシスト連隊は『DAK-II』では黒シャツ隊扱いではなく、『Tunisia II』では黒シャツ隊扱いだということになります) ARが1落ちて、ベルサリエリより下になってますね。


 ↓試しに『Beyond the Rhine』のヒトラーユーゲント師団(第12SS装甲師団)のユニットも並べてみました。ノルマンディーの頃からはだいぶ損耗した状態だと思われますが。

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 今回使用した資料は、英語版Wikipeida「136th Armoured Division Giovani Fascisti」とCOMANDO SUPREMO ITALY AT WARというサイトの「GGFF (Giovani Fascisti) 1941-1943」というページと以下の書籍です。Google Booksで調べてもまったく大した資料が出てこないので、相当資料は少ないのか……?





 まずは北アフリカに送られるまでのところだけを並べてみます。

 「青年ファシスト(GGFF)」師団は青年ファシスト大学からの志願者によって編成された。彼らは陸軍とファシスト党黒シャツ隊との綱引きにさらされながらも、25個大隊が編成されたが、そのうち残されたのは2個大隊に過ぎなかった。この師団は1941年7月にリビアに送られたが、第III"A ferro freddo"大隊は訓練のためにイタリア本土に残り、後には補充の供給源として用いられた。
「136th Armoured Division Giovani Fascisti」


 1938年に、若年層の軍事教育と教練がMVSN【国防義勇軍】から引き継がれる形でリットリオ青少年団が組織化、17歳から21歳までの青年ファシストが組織化され、彼らは地方のリットリオ青少年団の指令によって作られた課程に従う義務を負った。

 彼ら若者達のうち25,000名がGGFF(青年ファシスト)として知られる25個大隊を形成した。第二次世界大戦が勃発した時、リットリオ青少年団内の多くの者達が志願して軍隊に入ろうとしたがそれは、若い時にすでに軍事訓練を受けていた者は戦争に必要な標準的な力を遥かに超えていると思い込んでいたからであった。しかし他方、イタリア国民の多くはこの戦争に熱狂しているとはまったく言いがたい状態にあった。そのため、PNF【国家ファシスト党】は「青年の行進」と呼ばれる、LiguriaのMarenzanoから出発し、ポー川峡谷を通って行進してVenetoのPaduaで終わる集まりを企画した。それはこの戦争に対する青年達の熱狂的で強い決意を示し、人々の姿勢に影響を与えようというものであった。だがこの企画は参加者の不足のために実現しなかった。それどころかこの行進の企画は、疑いを引き起こすだけでなく、大きな批判を巻き起こした。それに陸軍との間の論争もあった。なぜならば、ムッソリーニは「ある時点ですべての青年ファシスト達を補充将校へと昇進させたい」のだと信じられていたからである。この可能性を排除するために、陸軍の上級将校達はこの青年ファシストを解体させ、その後彼らを陸軍の通常部隊として編成させるという成果を勝ち取った。

 3つの青年ファシスト大隊のみが存続したものの後に2つに減らされ、その主体は大学生達であった。青年ファシスト大隊に対して非常に厳しい制限が課されたが、依然として熱狂的で有能な者達の間からさらに優秀な者達を選りすぐることができた。従軍の機会まで待機しつつ、また陸軍と国家ファシスト党との間の不可避的な論争の解決を待つ間、青年ファシスト大隊はベストな身体コンディションに特に配慮しつつ、細部まで行き届いた訓練を受けることができた。そしてこの部隊はアフリカに、良く訓練され情熱に満ちた部隊として送られたのであった。
『Rommel's North Africa Campaign』P88


 そして1930年には若年齢層の軍事教練を強化する戦闘ファシスト青年団も創設され、18歳以上の青年が入隊した。これらの準軍事組織は1940年に統合され、リットリオ青少年団という名の一大準軍事組織となり、その勢力はイタリア中に拡大、24個大隊が編成された。各大隊の内訳は、1000名の青年兵に対して陸軍経験のある将校20名と下士官50名が配属された。

 ……翌年【1941年】、国防省はリットリオ青少年団から前線志願した義勇兵により2個大隊を編成し、……4月にこのG.I.L.【リットリオ青少年団】特別大隊は、第301黒シャツ連隊『プリマヴェーラ/春』に編入された。しかし、その後間もなく『ファシスト青年大隊集団』として陸軍に再編入され、戦闘が激化した北アフリカ戦線への投入が決定されたのだった。
『Viva! 知られざるイタリア軍』P31,32


 一般に信じられているのとは異なり、この「青年ファシスト」(GGFF)はMVSN(国防義勇軍)の一部ではなく、GUF(Gioventu' Universitaria Fascista:青年ファシスト大学?)のメンバーが通常の陸軍に入隊したものであった。と言っても、この組織にはファシスト党がスポンサーとなっていたのだったが。

 19,000名のGUFのメンバーが志願して24個大隊が編成されたが、陸軍と国防義勇軍の間の権力闘争の過程でそのほとんどが解体された(恐らく彼らの真の忠誠が疑われたからであろう)。3個大隊のみが残されたものの、のちにそれは2個大隊へと減らされた! その結果、それらの部隊は非常に高い団結心と有能な指揮官達を有することになり、元の19,000名の志願兵のうちの最高の者達が残ることになったのであった。
「GGFF (Giovani Fascisti) 1941-1943」




 だいぶ色々書かれていることに差異があるのですが……(^_^;

 北アフリカに送られてからの記述も、焦点がかなり違う感じが……。

 連合軍によって「Mussolini's Boys」のあだ名で呼ばれた彼らは、第136戦車師団「青年ファシスト」へと改編されることが決まったが、この改編が完了することはなく、歩兵師団であり続けた。この師団はクルセーダー作戦の時に実戦に参加し、Ed Dudaの25マイル南にあるビル・エル・グビの近くの拠点を巡って第11インド歩兵旅団と激しい戦闘をおこなった。

「青年ファシストの兵士達はクルセーダー作戦の時に有名になった。ビル・エル・グビとして知られる小さな丘の守備を命じられた彼らは、1941年12月の最初の週の間、第11インド旅団とイギリス第7機甲師団を繰り返し撃退し続けた。兵力比が圧倒的に劣勢であったにも関わらず彼らは連合軍部隊に大きな損害を与え、深刻な飢えと渇きにも負けず一歩も引かなかったのだった。」(John Gooch. Decisive campaigns of the Second World War. Chapter: The North African Campaign)

 第136青年ファシスト歩兵連隊の第1大隊と第2大隊は丘の頂上の保持に成功し、1941年12月の最初の週の間、イギリス戦車とインド歩兵部隊の攻撃を何度も撃退した。

 「Mussolini's Boys」は軍予備として、1942年5月のガザラの戦いを開始した。その時彼らは4個歩兵大隊編成であったが、うち2個は元々からの大隊であり、それに第9独立歩兵大隊とサン・マルコ海兵連隊の第3大隊(その後ヘッカーの上陸作戦用の集団に派遣)が配属されていた。戦いの進展に伴い、残りの3個大隊は第102トレント師団が連合軍の地雷原を突破するのを支援する為に前進した。

 1942年の夏にはこの師団はエジプトのシワオワシスを占領したが、その目的はエル・アラメインを攻撃する枢軸軍の部隊の南にイギリス軍からの軍事行動の可能性を阻害するためであった。実際、1942年7月にはドイツ軍のJu.52輸送機がこの戦略的に重要なシワオワシスを攻略するために「青年ファシスト」の1個大隊を輸送し、アフリカにおいて枢軸軍による最大規模の空挺降下作戦をおこなった。師団の残りもすぐに駆けつけ、来なかったのは第4対戦車大隊の2個中隊だけであった。シワオワシスは連合軍の長距離砂漠挺身隊がリビア国内に襲撃するための中間準備地域になっており、今や枢軸軍側がやり返す機会が来たのであった。イタリア軍の計画立案者達はナイルへ繋がる道を切望していた。

 エルウィン・ロンメル元帥は1942年9月にこの部隊を訪れ、視察を行った。将校らは砂漠奥地で自分たちが作った地図と偵察の報告をロンメルに見せ、また幾人かのエジプト部族長達が、シワとナイルの間には連合軍部隊はいないと思うという意見を述べた。青年ファシスト師団は燃料さえあればシワから海岸までの連合軍をひっかきまわせる、と将校達は断言した。待っている間、イタリア軍はエジプト亡命政府を設けて郵便切手も準備し、イタリアの三色旗と一緒にエジプト国旗を掲げた。

 「青年ファシスト」師団のうちのいくつかの部隊は第2次エル・アラメインの戦いで第185空挺師団「フォルゴーレ」と共に戦った。

 11月中旬、モントゴメリーの勝利の後、この師団はシワからアジェダビア、そしてチュニジアへと退却した。マレトラインでは他の残存枢軸軍部隊と共に、連合軍を相手に勇敢に戦った。この師団はチュニジアの戦いを経て、1943年にほぼ壊滅した。

 大損害を被っていたにも関わらず、「青年ファシスト」師団は北アフリカで連合軍に降伏した最後の枢軸軍部隊となった。日付は1943年5月13日であった。
「136th Armoured Division Giovani Fascisti」


 青年ファシスト大隊の69名の将校と1500名の下士官及び志願兵達は、1941年7月末に北アフリカに到着した。

 更なる激しい訓練の後、彼らにはより優れた装備が支給された。通常の個人用のライフル装備に加えて手榴弾数発と短剣が配給され、さらに青年ファシスト大隊には自動小銃(軽機関銃)が27挺、機関銃9挺、81mm迫撃砲8門、対戦車47mm/32口径砲4門とゾロターン対戦車ライフル18挺が与えられた。彼らには、戦車猟兵分隊に装備されていた役に立たないPassaglia対戦車爆弾が、小隊毎に24個ずつ配分されていた。この新しく編成された部隊は「青年ファシスト大隊集団」と呼ばれ、その司令部レベルでも有効な輸送部隊と機動力のある修理部隊を使用可能であり、完全に独立して作戦をおこなうことができた。このため、青年ファシスト部隊は機動軍団偵察戦闘団(RECAM:Raggruppamento Esplorante del Corpo d'Armata di Manovra - Reconnaissance Group of the Mobile Army Corps)、のちに偵察装甲艦戦闘団(REC:Raggruppamento Esplorante corazzato)と呼ばれたものに所属した。

……

 青年ファシストの最も有名な戦闘はビル・エル・グビでのもので、以下の部隊が参加していた。

青年ファシスト大隊集団司令部
C3戦車中隊
第1青年ファシスト大隊と1個迫撃砲小隊、および第8ベルサリエリ連隊の機関砲中隊
第2青年ファシスト大隊
PA/無線部隊
第9ベルサリエリ連隊の1個47/32mm対戦車小隊
第8ベルサリエリ連隊の1個機関銃小隊


 1942年に青年ファシスト大隊集団は青年ファシスト連隊へと編成替えされた。それはこれまでの1個連隊のみでもって青年ファシストという名の機甲師団が新たに編成されることが計画されたからである。それは以下の4個大隊から成るものであった。
 2個ライフル大隊(これまでの青年ファシスト大隊)
 47/32mmを装備した1個対戦車大隊(青年ファシストから)
 1個黒シャツ「M」大隊(X旅団)

 この青年ファシスト機甲師団の編成はチュニジアにおいて実現することなく、使用可能な部隊は以下の通りであった。

 青年ファシスト連隊
 第8ベルサリエリ連隊(チェンタウロの第5ベルサリエリ、トレントの第7ベルサリエリ、アリエテの第8ベルサリエリ連隊の一部)
 第139砲兵連隊(かつてのアリエテ第132砲兵連隊)

 この師団には戦車がほとんどなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P88,89


 7月29日にターラントを出航してリビアのトリポリに上陸した『ファシスト青年』大隊集団は、当初北アフリカ・イタリア軍司令部配属となり、第1大隊はミズラータに第2大隊はホムスに配置された。また前線部隊として機関銃中隊が振り分けられ、47mm対戦車砲や81mm迫撃砲も配備される。そして、部隊は9月初旬にキレナイカ地方へ移動となり、ガンバラ将軍指揮の機動装甲戦闘団に編入され、いよいよ前線部隊としての戦闘任務を行うこととなった。
 ……【クルセーダー作戦による戦闘で】枢軸アフリカ軍の弾薬や燃料は底を尽き、稼働戦車も極端に減少。このため、12月4日に独ロンメル将軍はトブルク包囲を解き、全軍にガザラへの退却を命じたのであった。
 この時、後衛としてビル・エル・ゴビで守備に就いていた『ファシスト青年』大隊集団は、第1大隊が第182高地に、第2大隊が184、188高地に配置され、3日間に渡り追撃するインド第11旅団と英第22近衛旅団や第8戦車連隊の一部と対峙。しかし味方の可動戦車はM13型戦車1輌しかなく、47mm対戦車砲は14門、81mm迫撃砲が8門、20mmゾロターン対戦車ライフルが12門あるだけだった。
 それでも18歳~20歳の若い義勇兵1523名は、部隊歌「ラ・トラドッタ(輸送列車)」を唄いながら英軍の波状攻撃を防ぎ、少ない対戦車砲をカバーして火炎瓶やT4爆薬を手にした肉弾攻撃で果敢に戦い、重戦車6輌と軽戦車6輌、ブレンガンキャリアーを含む車輌50輌を撃破した。例えば第2中隊のニッコリーニ伍長は、数度負傷しながらも勇猛な爆薬攻撃でその命と引き換えにヴァレンタイン戦車1輌を破壊、死後に戦功勲章金章を授与されている。
 そして高地の防衛戦に阻まれ枢軸軍団の挟撃を受けたインド第11旅団は、戦死者約200名、負傷者約300名、捕虜71名の大損害を出して退却した。しかし大隊集団の損害も大きく、戦死52名、負傷117名、行方不明31名を数え、第1大隊長バリシティ少佐は左足に重症を負ったのだった。
 ……

 その後1年で枢軸アフリカ軍団はトブルクを奪還し……エル・アラメイン戦線まで進出。1942年5月24日、部隊は第136『ファシスト青年』機甲師団として再編成され、エジプト領内シワに配置された。しかし「機甲」とはいえ実際は、M14戦車が2輌配備されただけの名誉称号であった。またフィアット665/NMトラック37輌で機械化した第3大隊も到着。だがこの660名の将兵は、47mm対戦車砲24門と共に第1と第2大隊に振り分けられている。そして1942年10月末に英軍の反攻作戦が始まり、補給が停滞していた北アフリカ戦線は総崩れとなり、残存兵力はリビアまで撤退。同師団も11月8日から10日間で約1000km後退した。
 1943年1月に入ると首都トリポリも放棄され、枢軸アフリカ軍団はチュニジアで防衛戦に入る。『ファシスト青年』師団は第8ベルサリエリ連隊を加えて新編成の第20軍団に配備され……
 4月にチュニジア北部撤退した【ママ】枢軸アフリカ軍団は、防衛戦を引いて粘り強く戦った。『ファシスト青年』師団は、独第90軽アフリカ師団や『トリエステ』師団と共にアカリトを防衛したが1日で突破され、チュニス南方まで後退した。しかし同師団は25日に第141高地【ママ】をめぐりニュージーランド第6旅団と英第167旅団と攻防戦を繰り広げ、「サヴォイア王家!」「我々に勝利を!」と叫びながら手榴弾を手に白兵戦を戦い、攻撃を撃退。敵は、150名以上の戦死者を戦場に残した。これにはメッセ元帥も防衛戦の第一段階の勝利を宣言したほどである。しかし師団も103名の損害を数え、5月9日から13日にかけて英第50歩兵師団と更に苛烈な攻防戦を展開した。
 ……こうして2年の従軍で戦功勲章金章2個、戦功勲章銀章28個、戦功勲章銅章48個、戦功十字勲章105個を授与される武勲を立てたファシスト青年団の義勇兵部隊は、北アフリカでその短い歴史に幕を閉じたのであった。
『Viva! 知られざるイタリア軍』P32~35




 『Rommel's North Africa Campaign』における記述は、この「青年ファシスト」連隊に関する、負の側面に関する言及で終わっています。ヒトラーユーゲント師団と同じく、彼らは勇敢に戦ったとはいえ、ファシズムの狂信のもとに若い命を散らされたのだということを忘れるべきではないのでしょう……。

 ムッソリーニのファシスト体制における黒シャツ隊の部隊化の全過程を見ると、それは「見果てぬ夢」であったという印象を受ける。老齢で身体的にも不調を抱えながらも狂信だけには溢れた党幹部達の命令によって、知性と献身性とを兼ね備えた大学生達を青年ファシストとして組織して北アフリカの砂漠で戦わせる、という未来のない考え方。このイタリア史における興味深い側面は過去の圧力によりあまりにも長い間、充分に調査されて来なかった。戦争のこの側面に関する充分な研究というのがもし可能だとすればそれは、イタリアが過去を直視できるようになった時にしか書かれないことだろう。
『Rommel's North Africa Campaign』P89




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Author:DSSSM(松浦豊)
 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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