サー・ハロルド・アレクサンダー将軍について

 シチリア戦の時に、パットンやモントゴメリーの上官の地位にあった、サー・ハロルド・アレクサンダー将軍について調べてみました。


Harold Alexander E010750678-v8
 ↑Wikipeidaから


 ↓参照した書籍。




 シチリア戦に関する戦記を読んでいる時にはアレクサンダー将軍は、モントゴメリーのわがままに譲歩してブラッドレーを嘆かせたり、パットンの主張に譲歩したりという場面でばかり出てきていました(^_^;


 しかし私が特にアレクサンダー将軍について調べてみようと思ったきっかけとなったのは、OCS『Sicily』のヒストリカルノートにこう書かれていたことからでした。

 ハスキー作戦の連合軍における命令系統の最高司令官はドワイト・D・アイゼンハワー中将であり、副司令官および第15軍集団司令官はサー・ハロルド・アレクサンダーであった。……この命令系統におけるデメリットは、国籍間や陸海空軍間での良好な協調が必要とされることだった。これらの集団の努力を統合させるための強力なリーダーの不在(アイゼンハワーは離れた場所におり*、アレクサンダーは無力であった)のために、この作戦は弱体化させられ、数々のチャンスが失われもし、また真の破滅をもたらすこともなかったのだった。
The Gamers『Sicily』P30~31

  *……『モントゴメリー回想録』P198によれば、シチリア戦の最中アイゼンハワーはアルジェにいたらしいです。

 結局、シチリア戦は本来可能であったはずの包囲殲滅戦にはならなかった。ハスキー作戦自体の核となる戦略的見通しの欠如が、アレクサンダーの無規律で無力なリーダーシップや、連合軍指揮官達がまったくささいなつまらない小競り合いを繰り返したことなどと相まって、バラバラな、まとまりのない戦役をもたらした。
The Gamers『Sicily』P34


 なかなかに辛辣ですが、本当にそうなのか、詳しいことが知りたいなぁ、と……。


 調べていってみると、彼はダンケルク撤退の時にその冷静さで名を上げ、チャーチルに長用されることとなったとか。

 ダンケルク包囲網を巡る戦いにおいて、彼は第Ⅰ軍団を指揮した。ここで彼は名声を挙げた。チャーチルは周りの全てが混乱している中での彼の冷静な様子に強い印象を受けたのだった。
『British Commanders of World War II』P4


 ただ、ダンケルクにおいて彼がどんな風に冷静であったのかが分かる資料がないかと思って探してみたのですが、見つからず……。以前に購入していたフランス戦の洋書4冊もひもといてみたのですが、あまりそれらしい描写はなく事実関係の話を出ない感じで。一番それらしかったのは、ダイナモ作戦についての和書(!)である『五月の嵐』にあった、以下の部分。

 本国に上陸後、アレクザンダー司令官はただちに陸軍省に行き、イーデンに帰国報告をした。
 イーデンの回想録にいわく、
「アレックスは戦闘の経過を報告した。それが終わったところで私は『ご無事でなによりでした』と労をねぎらった。彼はニヤッと笑って、さりげなく『なんの、これくらい、大したことではありませんよ』と答えた。」
『五月の嵐』P305


 ただしこの本には索引がなく、目視検索で探したので、もっといい箇所があるかもしれません。

 その後アレクサンダー将軍はビルマに派遣されたもののボロボロに負け、次にチュニジア戦に登場します。カセリーヌ峠の戦いの直後くらいからです。


 和書では、『第二次世界大戦将軍ガイド』にアレクサンダー将軍の項目があり、チュニジア戦について特に詳しく書かれていましたが……。

 ……1943年3月【チュニジア攻略にあたって】、連合軍地上司令官アレクサンダーは、最終的な作戦行動から大部分のアメリカ軍を排除してしまう計画をたてていた。彼は、アメリカ兵を
「無教育で、ろくに訓練もうけていない」
「精神的にも、肉体的にも軟弱だ」
といい、アメリカ軍をほとんど信用していなかった
『第二次世界大戦将軍ガイド』P101

 ……アレクサンダーは、攻撃態勢を立て直し、「ストライク」と呼ばれた作戦を計画していた。この作戦は、第1軍が枢軸軍の橋頭堡を突破して敵の部隊を分断し、港湾施設を破壊する暇を与えず、チュニスを占領するという、電撃的、全面的な攻撃を迅速に加えるというものであった。作戦行動を迅速に遂行することは、枢軸軍がケープ・ボン半島のつけ根に広がり、天然の要害をなしている丘陵地帯の向こう側に撤退するのを阻止するためにも必要であった。
 ……
 始め【第1軍司令官の】アンダーソンは、敵の前線に突破口ができたならば、戦車部隊を旋回させて戦場の残敵を掃討すべきであると提案したが、アレクサンダーは、この提案が迅速さを信条とする「ストライク作戦」に反することに我慢ならず、戦車部隊は側面の小競り合いなど無視してチュニスへ急行すべきであると命令した。「剣は心臓に刺さねばならなぬ【ママ】」とアレクサンダーは後にいった。
 連合軍は怒濤のごとくビゼルトとチュニスに押し寄せた。その進撃があまりに急だったため、チュニスにいるドイツ軍は敵の襲撃などまったく気がつかず、いつものように街を歩いたり、カフェでお茶を飲んだりしている横をイギリス軍の戦車部隊が通り過ぎていくという異様な光景が見られたのである。こうしてアレクサンダーはチュニスを占領することになった。
 このアレキ【ママ】サンダーの成功には、アメリカ軍との協調が重要であったろう。財産家で、物に動じぬ軍人精神を持ち、礼儀正しい厳格主義者であったアレクサンダーにとって、アメリカ兵は確かに虫が好かなかったかもしれない。しかしもしこれに変にこだわり、連合軍がまとまりを欠いていたなら「ストライク作戦」も危うかったろう。
 ……
 アレクサンダーは、こまかいことにこだわらない、さっぱりした性格によって、熱っぽく、とげのある話をする多弁家モントゴメリーともうまく協調していくことができた。また、彼はその内部に強靱な克己心を持っていた。チャーチルは、こんな彼をほとんど欠点を見出し得ぬ人物と評したという。
『第二次世界大戦将軍ガイド』P103~104



 「ストライク作戦」の電撃戦ぶりに関して非常に興味深いですが、どうやって米軍と協調していったかがよく分からず(^_^; しかし、『カセリーヌ峠の戦い1943』にそこらへんのことが結構詳しく書かれていました。

 アレクサンダーはいまだ米軍の作戦能力に確信をもっておらず、主戦場から離れた地点での戦術的勝利が容易に望める、適正な規模の一連の作戦を実施させることで、戦闘経験に乏しい米軍部隊に経験を積ませるとともに、第1機甲師団のような士気潰乱を経験した部隊に自信を回復させることができると考えていた。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P72

 アレクサンダーはこの【パットンの】攻撃案をやや冒険的にすぎると判断し、パットンに対し第2軍団にマクナシィを通過させて押し出しマハレ周辺のドイツ軍兵站線を襲うという、より限定的な作戦の実施を命じた。
 ……
 エル・ゲタール戦の勝利は米軍将兵の士気を大いに高揚させ、アルニムは米軍がカセリーヌ戦から成長したことを思い知らされたのである。
 アレクサンダーは米第2軍の作戦能力を信頼し始め、かつマレト防御戦へのモントゴメリー攻勢への支援が立派に果たされたことで、3月25日、より野心的な作戦の立案に入った。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P82,83



 しかし、英米軍の軋轢に対してはアレクサンダーもアイゼンハワーも苦労したようです。

 【1943年4月上旬の】フォンドゥーク=ピション峠を予定通りに突破するのに失敗したことで、英米の将校団の間では非難の応酬が始まっていた。英第9軍団長ジョン・クロッカー将軍は、諸峠を迅速に制圧できなかった原因は、米第34師団の訓練不足に求められると主張した。しかし、米軍将校団は軍団の攻撃計画のまずさが原因であると反論した。アイゼンハワーとアレクサンダーは論争を止めさせようと即座に介入し、第34師団には徹底した再訓練が実施された。しかし、一旦ひびの入った英米の協調関係は、以降の作戦においてもなかなか修復されなかったのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P86



 OCS『Tunisia』と『Sicily II』をこれまでにやったのですが、チュニジア戦の初期では英米軍がそれほど明確に分けられては戦ってない印象があるのですが、シチリア戦では英米軍ははっきりと戦区を分けて戦ってます。そのことについて同書について書かれていました。

 チュニジア戦において英仏軍と混用され混乱を経験したことで、ヨーロッパ戦域の米軍は、軍レベル以下の規模で英軍の指揮下に置かれることを激しく厭うようになっていた。単純に見て、米軍部隊が軍団や師団レベルにおいて英軍の指揮下で快適に作戦を実施するには、英米間の指揮方法、戦術ドクトリンにはあまりにも多くの違いがありすぎた。一部には例外もあったが、総じてカセリーヌ戦後の米軍は、シチリアのパットン第7軍、イタリアのクラーク第5軍、ノルマンディのブラッドレー第1軍にように、少なくとも軍単位としての一体性を保ったのである。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P95,96



 さて、シチリア戦におけるアレクサンダー将軍についての評価ですが、例えば『Sicily 1943』では。

 アレクサンダーは人気があり、尊敬された指揮官で、アイゼンハワーのように、彼はイギリス軍とアメリカ軍の間の協調関係を早期の難しい時期に発展させたのだった。しかし、彼は麾下の指揮官達に作戦的あるいは戦略的構想を与えることに失敗し、彼の遠慮がちな指揮スタイルはモントゴメリーやパットンのようなよりアグレッシブな指揮官達がシチリア戦中に自分のやり方を押し通すことへのドアを開いてしまっていた。
『Sicily 1943』P15



 『British Commanders of World War II』ではより手厳しい評価となっています。

 アレクサンダーによるダンケルクでの第Ⅰ軍団の指揮はチャーチルに大きな印象を与え、彼はその後重用されることとなった。次の任地ビルマ戦役での破滅的な結果への非難は彼には向けられず、彼の部下達に非があったとされた。多くの問題のある決断、例えば日本軍の圧倒的な戦力に対してラングーンの保持を決めたなどは彼によってなされたものであったにも関わらず。シチリア島、およびイタリア本土における連合軍司令官としてアレクサンダーは、モントゴメリーやアメリカ軍のマーク・クラーク、それにジョージ・パットンなどの一筋縄ではいかない部下達の手綱を統制するのに失敗した。
 後にリデル・ハートはこうアレクサンダーを評した。
「彼は生まれながらのリーダーであり、それは努力を要しないものだった。彼は一目で人々の信頼を掴んだ……だが、彼が控え目な人物であったことは、彼の力量を阻害した。」
 リデル・ハートはさらにこうも言っている。
「アレクサンダーは非常に知的であったが、根本的に怠惰であった。というのは、成功を収めたのがあまりにも速くあっさりとであったので、彼には尽力しなければならないという機会がなかったからである。地中海戦域でアレクサンダーに仕えたアンドリュー・カニンガム提督は、世辞を言わず、辛辣な性格であったが、アレクサンダーはペテン師で、最高司令官として不適格だと考えていた。彼は自分が変更する覚悟のないものに関しては自分の意見を持たなかった……彼は海軍についての知識がなく、空軍についてもほとんど知らなかった。」
『British Commanders of World War II』P5




 ところが、『Allied Commanders of World War II』では彼は大いに弁護され、評価されていました。

 1940年5月にドイツ軍が突破した後、アレクサンダーは麾下の部隊を卓越した指揮で海岸まで退却させた。そして彼が最初にイギリス全土に知られるようになったのは、ダンケルクにおいてであった。5月31日に第Ⅰ軍団の指揮と後衛の組織化を任されると、彼は残りのイギリス軍部隊を冷静に、パニックにならずに海岸から出発させ、自分自身は最後の船群が出るまでそこに残り続けたのである。……【ビルマでは】不可避的に、彼はひどい敗北を被った。……だがアレクサンダーは少なくとも残った部隊を救い出すことに成功し、それ以上の損害や、屈辱的な包囲、降伏などは回避したのであった。
 「トーチ」作戦のために北アフリカのイギリス軍を指揮することになり、1942年8月に左遷されたオーキンレックに代わって彼は中東における最高司令官に就任した。その心の広さから彼は、勝利のために裏方のまとめ役に留まることに満足しており、第2次アラメイン戦で枢軸軍を打ち破るための前線司令官としての役割をモントゴメリーに委ねた。自分が注目を浴びることを嫌うというのが、生来の恥ずかしがり屋であった彼特有のキャラクターであった。
 1943年のカサブランカ会談でアレクサンダーはアイゼンハワーの代理司令官に任命され、チュニス、それにシチリア島を攻略するための地上部隊の指揮官となった。彼は困難な立場の中でアメリカ軍兵士達の尊敬を獲得し、如才ない外交的手腕によって彼らを連合軍組織の中に溶け込ませていった。その後彼はチュニスの占領によって大きな勝利を収め、その称号を獲得した。
 ……この【シチリア】戦役で彼は、連合軍内の海軍と空軍の激しい対立と論争に巻き込まれた。ドイツ軍部隊の大部分がイタリア本土に逃げてしまったことと、アレクサンダーがモントゴメリーを抑えることができなかったことも大いに非難された。しかし実際には、指揮官があまりにも多すぎたこと、アイゼンハワーが明確な指示を与えていなかったことにより、彼が不当な非難を受けるような立場に置かれてしまっていたということなのだ。
『Allied Commanders of World War II』P5

 「アレックス」は歴史的な意味合いにおいては「偉大な」軍人ではなかったし、真に天才的なひらめきにも欠けていた。だが彼の大きな長所は、物事を処理していくための純粋にプロフェッショナルな能力とその適性とにあった。同時代の幾人かの将軍達と異なって彼は、自分の思うとおりにならないとすぐに怒ったりする人間でも、大衆を引きつけるような人物でもなかった。貴族階級出身という背景によって、彼の中に自分に対する自信と伝統的な礼儀正しさが染みこんでいたことは、大きな強みであった。彼は兵士達をして心からの献身の情を呼び起こさせたし、彼の評価はその後の批判によっても損なわれることはないだろう。
『Allied Commanders of World War II』P6



 このようにけなす意見と褒める意見の両方があるのは個人的に大変興味がありますし、その両方の側面があるというのが恐らく本当のところなのだと思います。本当にまったく無能なのだとしたら、その地位にとどまることもなかったでしょうし……。



 『カセリーヌ峠の戦い1943』に、アレクサンダー将軍に関しては触れられていませんでしたが他の将軍達についての評価が載っていたので、参考にそれも。

 またチュニジア戦は、将来の作戦に備えて、主要な地位にある多くの司令官の特質を確認するのに役立った。アイゼンハワーの指導力には問題無しとはしがたいものがあったが、しかし困難に直面しての指揮統率能力は適切であった。カセリーヌ戦以前においては無名の一師団長に過ぎなかったブラッドレーは、上級野戦司令官として急速に頭角を現した。パットンもまた、煌めく将軍のひとりであったが、その粗野な言動はのちのシチリア戦で人品に疑問をもたれることになった。英軍においては、アンダーソンの作戦指揮は拙劣であったと評価され、チュニジア戦後は閑職へと追いやられた。
『カセリーヌ峠の戦い1943』P94





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 ゲームをしないウォーゲーマー……でしたが、最近はOCSだけはひたすらプレイしたり情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになりつつありますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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