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シュヴァルツェンベルク将軍について

 今回はオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍について。1813~14年の戦役で有名で、特に1814年の時には連合軍側の最高司令官でした。この時期のゲームには必ず出てくるはずです。


Karel Filip Schwarzenberg
 ↑英語版Wikipedia Karl Philipp, Prince of Schwarzenbergから


 今回、彼に興味を持った最初のきっかけは先ほどのエントリと同じ『ナポレオンとバイエルン』からでした(P85~86)。

 シュヴァルツェンベルク将軍がバイエルンに見事にだまされるという面白い部分があったのです。

 1805年のウルム・アウステルリッツ戦役が始まる前の話です。オーストリアは以前からの宿願であるバイエルン併合をもって対ナポレオン戦争を有利に運ぼうと、シュヴァルツェンベルクをバイエルンに派遣しました(本文では「元帥」となってますが、元帥になったのは1813年になってからっぽいですね)。

 ……オーストリアの陸軍元帥シュヴァルツェンベルク侯爵が百騎の軽騎兵および竜騎兵の先頭に立ってニンフェンブルクに現れた。兵士が宮殿を取り囲んでいる間にシュヴァルツェンベルクは【バイエルンの選帝侯である】マックス・ヨーゼフに皇帝フランツII世の手紙を渡し、また皇帝の名において、バイエルン軍を遅滞なくオーストリア軍に合流させ、ナポレオンに向かって進軍させること、中立はいかなる形でも認められないこと、もし逆らうのであれば武力が行使されるが、従うのであれば国の無傷は保証する、と要求した。


 選帝侯は翌日まで待ってくれるように頼み、翌日の夜にシュヴァルツェンベルクに曖昧な内容のメモを渡しました。

 シュヴァルツェンベルクは行間に隠された二重の意味を見逃し、ゴールに来たと信じた。


 このメモをシュヴァルツェンベルクから受け取ったバイエルン大臣は二重の意味を理解して、相手が楽観的な気分になるようにしむけました。そして3日後に、

ぼんやりとではあるが視野に入ったバイエルンとオーストリアの部隊の統合のあり方について話し合うことで合意し

たのです。
 約束の3日後、オーストリアに友好的であることで知られたバイエルンのノガローラ将軍が送られてきたのですが、

ノガローラのはっきりしない使命に不安になっていたシュヴァルツェンベルクは、翌【9月9日】朝マックス・ヨーゼフ【選帝侯】のメモを手にしたとき大変驚いた。それには突然の出立の理由は彼を襲った健康状態によるものとし、次の言葉で終わっていた。「ご機嫌よう、我が友よ。お暇なときに貴方を心から愛する者を思い出して下さい」。バイエルンの交渉使節が……シュヴァルツェンベルクとマックに単刀直入に、バイエルンの軍隊は合流せず、武装解除もしないこと、武器使用もあり得ると説明したとき、ようやく彼も目が覚めた。

 ……【バイエルンは】二重の罠をオーストリアに仕掛けた。一つには前向きの結果を期待させることによって集結しつつあるバイエルン軍の進軍を襲撃させないことであり、もう一つは会談の場所の選択によってマックは国境を越えてしまっており、それによってオーストリアが先制攻撃の汚名を被らなければならないように最初から仕組んだことであった。



 チャンドラーの『ナポレオン戦争』のこの部分のは私は持っていないので、『歴史群像』のナポレオン戦争の連載で当該部分を探したところ(122号P157)、

オーストリア軍は、9月13日に先手を打ってバイエルンへ侵入した。

という感じで書いてありました(他にもいくらかありますが省略)。『ナポレオンとバイエルン』における記述はまああくまでバイエルン側からの視点が強いものなのかもしれないですが、詳しい話として面白いですねー。


 シュヴァルツェンベルクに改めて興味を持ったので、日本語版Wikipediaを探してみたのですがないようで、それへの不満から作られた「Biography: シュヴァルツェンベルク元帥」というページがありました(^_^; このページから目次ページに戻ると、ウォーゲーマーでもあるらしい作者の方の他の軍事関係のページへのリンクがあり、アイラウ会戦の騎兵のページとかバルクライ・ド・トーリィのページとかも含め、印刷させてもらいました。またじっくり読もうと思います。


 でもって、定番の『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was who in the Napoleonic Wars』のシュヴァルツェンベルクの項目を訳してみました。

Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philip, Prince(1771-1820)
 ウィーンで生まれ、1788年にオーストリア帝国軍に入隊。17世紀後半に家名の高まったフランケン地方の一族の子孫であったこの公子はまずトルコに対する戦役で名を上げ、その後オーストリア領ネーデルラントでフランス軍のデュムーリエ、そしてピシュグリュの部隊を相手に戦った。1796年に少将となり、1800年から師団を指揮。1805年にはウルムにおけるマックの絶望的な被包囲下の軍から脱出し、生き残った者達を再結集した。1806~1809年にかけてサンクト・ペテルブルクでオーストリア公使として務め、ワグラムの戦いとシェーンブルン和約の後、パリへと遣わされてマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉を補佐した。1812年にはロシア遠征における大陸軍の最右翼に配されたオーストリア軍団の指揮を執り、難局を事前に予測して多数の兵士を連れ帰り、ポーランドへと退却した。1813年8月にオーストリアがフランスに対して宣戦布告すると、彼は第6次対仏大同盟の連合軍における最高司令官に任命された。ドレスデンで敗北した後、ライプツィヒでの勝利をもたらし、翌年のフランス侵攻の際にはボヘミア方面軍を率いて幾度かの勝利を収めた。1815年6月にはオーストリア軍を率いて再度ライン川を越えようとするところであったが、彼が大軍を率いて駆けつける前にワーテルローの戦いで決着がついた。高等軍事評議会の一員に任命された後、1817年にまひ状態となり、その3年後に亡くなった。対仏大同盟連合軍の指揮官として彼は大きな諸問題に直面したが、どんな時にもその共通の利益を維持することをからくもやり遂げたのであった。
『Dictionary of the Napoleonic Wars』


Schwarzenberg, Field Marshal Karl Philipp, Prince zu (1771-1820)
 彼は、1670年に相当な地位を得たフランケン地方を起源とする古く高名な一族の出身であり、この一族の中には帝国のAdolf von Schwarzenberg(1547-1600)将軍や、ルターの友人で法学者であったJohann, Freiherr von Schwarzenberg und Hohenlandsberg(1463-1528)も含まれている。カールは1788年にオーストリア軍に入隊しトルコ軍を相手に従軍したが、最初に誰もが認める活躍をしたのは1794年のネーデルラントにおいてであった。その若さにも関わらず、彼はランドルシーの解囲を試みようとするフランス軍を撃退するための連合軍騎兵部隊の指揮官に任命され、ル・カトー=カンブレシやボーモンにおける戦闘(4月26日)で目覚ましい成功を収め、その功績を称えてマリア・テレジア勲章を授けられた。アンベルクとヴュルツブルクで従軍した後、彼は1799年に中将の位を得て、ホーエンリンデンの戦いにおける敗北からオーストリア軍右翼を救い、1805年には師団指揮官としてウルムで包囲されたマック麾下の部隊から脱出した一群の中にいた。1808年にロシア皇帝への大使として遣わされ、帰国してワグラムで騎兵師団を指揮し、和平後はマリー・ルイーズとナポレオンとの結婚の交渉のためにパリへと送られた。Rue de Montblancにある彼の自宅のある舞踏会で火事が起きて多数の客が亡くなったが、その中に彼の義理の姉妹であるポーリーヌ・シュヴァルツェンベルクもいた。彼女は娘を探して火の中に急いで戻ろうとした時に落ちてきた床によって亡くなったのだった(ポーリーヌの娘はアルフレッド・ヴィンディシュグレーツ(1787-1862)の妻となり、1848年のプラハでの革命騒ぎの時に殺された)。ナポレオンによって高く評価されたシュヴァルツェンベルクは1812年のロシア戦役においてオーストリア予備軍団の指揮を執った。元帥となり、1813年に彼はボヘミア方面軍の指揮官に任命される。1813~14年の戦役で彼は最高司令官となったが、そこでかなりの優秀さと共に、非難される臆病さをも示した。彼の職務は様々な同盟国間の意見の衝突によって困難なものとなり、特にライプツィヒにおいては3人の君主が同席したことが彼の軍事行動を曇らせることとなった。戦後は大きな名誉が与えられ、宮廷軍事局の長に任命されたが、1817年に脳梗塞で倒れた後は身体の一部に麻痺が残り、彼の最も偉大な功績であったライプツィヒを訪問中に再度の発作が起こって1820年10月15日に亡くなった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』


 訳していてまず思ったのは、シュヴァルツェンベルクの生まれた年の1771年というのは私の生年である1971年のちょうど200年前なんですよね。で、彼が最高司令官であった1814年というのは年齢的に43歳という年で、私だったらその年齢で3君主の調整役しながら最高司令官とか無理だし、イヤだなと思いました(^_^; そいでもって彼は1817年の46歳の時に脳梗塞を起こして3年後に亡くなるわけですね。ううーむ、身につまされる……。


 それから、『ライプチヒ戦場哀話』には会戦前日にシュヴァルツェンベルクが妻にあてて書いた手紙が載っているのですが、その前段の、将軍に関する部分を引用してみます(P19~20)。

 シュヴァルツェンブルク侯(1771-1820)という人は、1813年以来、同盟軍の最高司令官の地位に就いていたのだが、そんな彼が、今日では、たとえばブリュッハー、グナイゼナウ、あるいはヨルクのような将軍ほどには知名度が高くはない。どうしてであろうか?

 一つには、彼は名目上は最高司令官だったとはいえ、実際は、しばしば、ロシアのアレキサンドル1世、オーストリーのフランツ1世、そしてプロイセンのヴィルヘルム3世に干渉され、ひいてはまた、これらの君主の軍事顧問らにまで干渉されたことである。(ブリュッハーは、この会戦での勝利のあとで、シュヴァルツェンブルクに捧げた乾杯の辞のなかで、「お三方の君主を司令部に擁しつつ、それでも敵を屈服させた総司令官殿に捧げます」と述べている。)

 いま一つには、この人は、たしかに、たとえばグナイゼナウのような猛将に匹敵する資質が欠けていたといえよう。それだけに、この最高司令官があのような難局を切り抜け、しかも、うぬぼれないで謙虚であったことは、まことに見上げたものである。

 それはともかくとして、以下に載せる彼の手紙は、この貴族と夫人とが固いきずなで結ばれていたことを物語っているばかりでなく、きわめて高潔で誠実な心情をも示している。- ちなみに、この時機での総参謀長は、軍隊行進曲でも有名になったラデツキ(1766-1858)であった。

 後日談になるが、シュヴァルツェンブルクは、1820年に、中風のために半身不随になった身で、ライプチヒ近郊の古戦場を訪れた。その滞在中に病気が再発して、ついに、その生涯で最大の勝利を得た場所で永眠したのだ。遺体がその故郷に移送されるに際しては、ライプチヒ市も、おごそかな式をもって弔意を示したのであった。……




 他にも色々資料はあるでしょうけども、アクセスしやすくまとまっているのはこれくらい……?

 最後に、全訳してあって検索とチェックが容易な『The Hussar General』から。色々と面白い話があっていいです。

 シュヴァルツェンベルクは【1813年】8月17日にバルクライから総司令官の任を引き継ぎ、慎重であまりにも几帳面すぎたが、彼は王達の扱いが巧妙であることを見せつけた。
-P126辺り


 だが連合軍の方でも、直近の成功にも関わらず、より大きな反目の様相を見せていた。ベルナドット、シュヴァルツェンベルク、アレクサンドル皇帝、フリードリヒ・ヴィルヘルム、ブリュッヒャー ー の全員がお互いに、その部下達と共に反目していたのである。フリードリヒ・ヴィルヘルムは依然としてベルリンを心配し、その地域における行動を主張しており、その要請はビューローによって極めて優れた才気と勇敢さによって答えられた【6月6日のルッカウの戦いのことだと思われます。ビューロー将軍について、まとめを参照】。だがビューローは、ベルナドットの考え方によって絶えず邪魔されていることに気づくことになった。すぐにブリュッヒャーも、この皇太子による同様の躊躇を経験することになる。だがベルナドットと、連合軍総司令官であるシュヴァルツェンベルクは、追撃がおこなわれるべきであるという一般戦略には同意し続けていた。これはシュヴァルツェンベルクの参謀長であるヨーゼフ・ラデツキー将軍によって描かれたものであり、「不適当な苦闘は避け、敵を疲れさせ、敵の弱まった部分を優越した戦力で攻撃を挑み、全体として敵を打ち破る」というものであった。
 原則として、そのような戦略はよさそうに思える。ところが実際にやってみると、その達成は極端に困難であることが分かり、特にシュヴァルツェンベルクは様々な王侯や国際的な利害からの実に多くの異なった圧力の影響下にあったのだった。ブリュッヒャーは、自身はこの連合軍総司令官に対して不賛成でありながら、シュヴァルツェンベルクの困難な状況を充分理解していた。というのは、後に彼は「司令部に3人もの王侯を抱えながら、それでもなんとかして勝利を勝ち取った最高司令官」への乾杯を提案したのだった。王侯のうちにの一人はオーストリア皇帝フランツで、シュヴァルツェンベルクとの関係は困難がなかったが、他の2人は彼に絶えず心配を与え続けた。
「ロシア皇帝は良い人だが弱く、」シュヴァルツェンベルクは書いている。「(プロイセン)王はおおざっぱで下品で、思いやりがなく、私にとっては、その哀れで勇敢なプロイセン人達が愉快だと思うのと同じくらい不快であった。」

 ……
 フリードリヒ・ヴィルヘルムの副官であったクネセベックは、連合軍司令部の混乱をこのように描いている。

「ここで我々が何をなすべきであったかを語るのは大変に難しい。なぜならば、我々は戦争の会議を仕上げたことが一度もなかったからである。シュヴァルツェンベルクは良識のある人であったが、彼は君主達の信頼や、自分自身への信頼を持っていなかった。それゆえ、延々と議論が続いた。ロシア軍の将軍達は命令に従おうとしなかった。皇帝は時折、自分自身で命令を出した。その結果、ある命令の後に別の命令が出され、誰も、誰が料理人で誰が執事であるのかを知らなかった。」
-P136辺り


 ラデツキー将軍による戦略というのは、いわゆる「ライヘンバッハ・プラン」のことですね。ライヘンバッハ・プランの立案者についてはR/Dさんの1813年7月12日 トラッヘンベルクに詳しく、非常に興味深いです。『The Hussar General』は「文学創作的な点が多すぎて、事実とフィクションの境界が曖昧」という評価(→ブリュッヒャー本の評価を参照)で、ブリュッヒャーを主題としているからにはシャルンホルストをライヘンバッハ・プランの立案者にしてしまいそうな感じですが、意外でした(^_^;

 ライプツィヒは65km南に位置していた。ブリュッヒャーはナポレオンの態勢が整っていない状態にしており、それに24時間以内にベルナドットがエルベ川を渡ってブリュッヒャーの右側面に位置する。彼らの軍勢を合わせれば総計140,000名にも達した。ライプツィヒの南ではシュヴァルツェンベルクの連合軍主力が220,000名で前進している。10月5日には先頭の部隊がライプツィヒから78kmのZwickauに到着したが、その最後尾は70km後方のKomatauまで伸びていた。この連合軍の環はブリュッヒャーとベルナドットが5日に南へ進軍し始めた時に確実に狭まり、ブリュッヒャーはMulde川の右岸を、ベルナドットは左岸を進んだ。だがすでにこの2人の指揮官の間での不一致が起こっていた。というのは両方ともが、他方の軍がMulde川を渡るべきだと主張したのである。主力軍からの知らせもブリュッヒャーを怒らせた。シュヴァルツェンベルクはあまりにもゆっくりとした前進で、ナポレオンに攻撃のチャンスを与えたのである。
-P141辺り


 【1814年戦役の作戦計画について】 スイスの迂回路を通るという軍事的根拠は乏しいものに見えた。このルートはラングルの高い高地へのアクセスを与えるものであり、ラングル自体の周辺からいくつもの大河川が発していた。この計画の提案者は、軍がこれらの川を渡る時、その川が発する辺りで渡った方が、下流で渡るよりもより容易であると主張した。ラングルの高地は、フランス国内戦役における「指揮のための場所」との言い回しをされたが、この計画への批判者達にとってはその様な専門用語は、ナポレオン戦争の発展によって時代遅れとなってしまっている戦争方法であるように感じられた。例えば、クラウゼヴィッツは、大量動員における新しい柔軟な戦争形式よりも「代数的な行動」を信じるような古い方法論的な将軍を非難している。クラウゼヴィッツが「軍事的博学の聖遺物」を崇拝するそれらの人々を批判する時、彼は恐らくシュヴァルツェンベルクのことを念頭に置いている。クラウゼヴィッツの教育に欠けたブリュッヒャーは、自分自身のことをもっと力強い方法で表現した。彼はラングル高地を取ることで彼が見ることのできる唯一の利点は、それはまたフランスの水源にもなっているわけだが、もし彼がその頂に立って排尿したとしたら、半分は地中海に注ぎ、半分は大西洋に注ぐだろうことだ、と言った。

 ……

 それゆえ、ブリュッヒャーと彼の支持者達は、その軍事的目標 ー 敵主力の撃滅 ー が最初になされるべきであり、それは政治上の配慮よりも優先されるのだとさえ信じていた。だが、シュヴァルツェンベルクは、大勢の国王達や大臣達や政治的助言者達に囲まれて、それらの他の政治的要素を回避するチャンスを失っていたのであった。

「私が耐えなければならないものは、本当に非人間的なものであった。」と、シュヴァルツェンベルクはいつものおだやかな態度ではあったが、大声で言った。
「私は愚かな人々や、あらゆる種類の間抜け達や、頭がおかしい計画者達や、陰謀者達や、馬鹿者達、大口をたたく者達に囲まれていた……私はかなりの頻度で、私は彼らの重みでつぶれてしまうのではないかと思った。」
-P171辺り


 ブリュッヒャーとグナイゼナウは激しく不同意であった。
「もし主力軍が接合に効果を及ぼせるほど充分に遠くまで前進したなら、」ブリュッヒャーはシュヴァルツェンベルクに書いている。
「我々は絶対的に決定的な打撃を与えるのに充分なほど強力になるに違いないと私は考えている。」
 だが、その主力軍はラングルで無駄に過ごしていた。シュヴァルツェンベルクは血気にはやるプロイセン元帥と、それに負けず劣らず性急な彼の参謀長を罵った。彼は妻に向けて怒りの手紙を書いている。

「ブリュッヒャーと、その上にグナイゼナウは……戦争の一つ一つのルールすべてを足下に踏みにじるような、完全に子供じみた怒りで、パリへの進軍を強く要求している。ChalonsからNancyへの街道を守る為に相当の部隊を置くこともなく、彼らは狂った様にBrienneへ突進しているのだ。彼らの後方と彼らの側面に関わらず、彼らはパレ・ロワイヤルでの【plan parties fines?】以外の何もしていない。それは、このような重要な瞬間にあっては、本当に浅はかなことだ!」

 ブリュッヒャーとグナイゼナウは、戦争のルールを曲げることの方を好み、シュヴァルツェンベルクの教本を固守する厳正さの方を疑わしく思い続けていたのである。さらに言えば、彼らは後方を無視するというよりはむしろ、彼らの為に主力軍がその機能を果たしてくれることを当てにしていたのである。だが、ラングルでの議論は致命的に重要なほぼ2週間の間続いた。それで、ブリュッヒャーはChalonsへと押し進み続けたのではあるが、彼の前進には支援がともなっていなかった。
-P176【ライン川渡河の辺り】


 シュヴァルツェンベルクは行動を起こさなかった。その代わりに彼はブリュッヒャーの攻勢主義を批判し続けた。

「我が老ブリュッヒャーはあまりにもまた再びパレ・ロワイヤルを望みすぎており(彼はその日のうちに妻に向けて書いている)、目の前の敵が確かに弱かったのだとしても、敵は彼の側面にもいるのだということを考えることなしに、狂った様に前進し続けているのだ。彼が戦力を放縦にもてあそぶことが彼の破滅に繋がらなかったとしたら、それはまさに奇跡だろう。」

 ブリュッヒャーを孤立無援のままに放っておき、連合軍部隊を分割するということを通してより多くの戦力の喪失をもたらしたという事に関してシュヴァルツェンベルクは罪を負ってはいたものの、彼の批判にもいくばくかの正当性があった。ブリュッヒャーはいつも通りに、戦う為に前進することを決めたのだった。特に、捕虜としたあるフランス人が彼に、ナポレオンは今やパリを守る為に首都へと引き返したということを保証した時に。
-P182辺り【6日間戦役の辺り】


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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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