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ブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる


 承前。今回はブラウンシュヴァイク公(父)が亡くなる+αまでです。

 ↓ブラウンシュヴァイク公の足取りに関する地名等を入れた地図を作ってみました。ブラウンシュヴァイク公はアウエルシュタットの戦場からハンブルクにまで至り、そこで亡くなります。薄い黄色い範囲がブラウンシュヴァイク公国です。

1806年戦役用02ブラウンシュヴァイク死用2



 まずは、両目を撃たれたブラウンシュヴァイク公へのコメント欄で、Schaluppeさんに教えて貰ったドイツ語版Wikipediaでの記述を引用してみます。

 1806年10月14日のイェーナ・アウエルシュタットの戦いで、ハッセンハウゼン近郊において側面から飛来した銃弾が彼(公)の両目を打ち砕いた。彼は担架に乗せられて10月20日にブラウンシュヴァイクに辿り着く。視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。ナポレオンへの手紙の中で公は自らの中立国への寛大な処遇と、彼自身のためにはただ安らかに死ぬに任せてくれるよう願っている。ナポレオンがそれを拒んだため、公は10月25日に再びブラウンシュヴァイクを去るとツェレとハーブルクを経由してアルトナ、すなわち中立国デンマークの領域に至った。彼はオッテンゼンの、アム・フェルデ5番地にある宿屋に泊った。そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。ひとまずオッテンゼンのクリスティアンス教会に埋葬されたが1819年、最後の安息の地をブラウンシュヴァイク大聖堂の地下に得ている。



 アルトナとオッテンゼンは両方とも、ハンブルクの一地区にあたります。

https://www.google.co.jp/maps/@53.5637684,9.9725797,11.5z


 ↑を見てもらって、「ハンブルク」と書いてあるのの左上の辺りに両方ともの地名があります。

 「視力に障害を負う年長の息子たちの断念を経て、公は最も若いフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エールスを後継者に指名した。」の件ですが、視力障害があったとすればそれは三男のはずで、長男はすでに亡くなっていたので「たち」というのは次男を含んでいるのでしょう。後継者となったのは四男でした。

 死ぬ直前に別れを告げることができた「最年長の息子たち二人」というのは、普通に解釈すれば次男と三男でしょうか。後継者となっていた四男(黒公爵)は(後述のOSGの本によると)11月7日の時点で、リューベック(ハンブルクから50kmほど北東)でまだ抵抗を続けていたブリュッヒャーの近くにいて何やら接点を持っていたらしいのですが、事情をちょっと私もまだ把握しきれてませんのでそこらへんパスで。



 次に、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』から引用してみます。

 彼は惨めな状態で戦場から退却したが、その夜にHartz山脈を越えて遠くブラウンシュヴァイクへと向かうことを決断した。彼に一言の不満を漏らす者もなく、彼にかけるべき言葉もまた見つからなかった。彼は【軍医の】Folgerに言った。
「私は以前から、盲目になって当然だったのだ。よいよい。この老齢なのだから、盲目も悪くはない。」
 ブラウンシュヴァイク公国では大臣達が、フランス軍が24時間以内に来るだろうからと、ブラウンシュヴァイク公に公国に留まらないようにと懇願した。
「それは予想以上に早いな。」ブラウンシュヴァイク公は返答した。
「だが、彼らから逃げ出して何の利益があろうか?」
「殿下はどれほどの危険に御身をさらしているかご存じないのです」
 ブラウンシュヴァイク公に対して、征服者が個人的に激怒しているとの噂が存在していたのである。
「私はフランス人達を、君達よりも昔から知っている。彼らは戦場で負傷した老将に敬意を表するだろう。将校達は舞踏会を開いたり劇場へと足を運んだり、兵士達は女の子達と少しばかりいちゃつきたいだけだ。兵士用宿舎に心を配れば、彼らはそれ以上を望むまい。私がどんな状態かを知るために、フランス皇帝の使者が途上にあるに違いないのだ。」
 ……ブラウンシュヴァイク公は、1793年当時に彼の参謀長であった老Wolfradtから、彼が公国にいると軍事的占領の恐怖をさらに悪化させる口実になるだろうという説得を受けてようやく折れた。彼はどこか他の場所へ移ることに同意したのである。
「思うに、」彼は言った。
「私は長い旅に耐えることができないほど弱ってしまっている。だが、私がここにいることで私の臣民達への災難が大きくなりそうだということならば、私はここを去らねばなるまい。もはや躊躇すまい。」
 イギリスへ渡ることができるかもしれないということで、彼はLuneburger Heideを越えてHamburgへと運ばれた。公国から出発する前に、彼は家族と臣民達への慈悲を請う手紙を征服者へと送った。その返事は、今やナポレオンの所有に帰したベルリンで発行された官報である『Gazette』【ガゼット・ナシヨナルール・モニトール・ユニベルセル(大陸軍公報)】の声明に含まれていた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P125~127



 青文字にした箇所はOSGの『SPECIAL STUDY NR.2 1806:The Autumn of No Return』のP13にも少し英文が違った形で書かれており、それを見て若干和訳を修正してあります。

 OSGの同書P15によれば、ブラウンシュヴァイク公の手紙がナポレオンの元に届いたのは11月3日でした(ドイツ語版Wikipediaの記述では、公からの手紙がナポレオンによって拒否されたので10月25日にブラウンシュヴァイクの町を去った、とありましたが、辻褄が合いにくいですね)。この手紙を読んでナポレオンは激怒したそう(というか前記引用ですでに、ナポレオンが激怒しているという噂があったと書かれていましたが)ですが、その激怒の理由はブラウンシュヴァイク公が1792年7月25日に発した「ブラウンシュヴァイク宣言」にありました。

 この辺のことを『ドイツ史 2』から引用してみます。

 戦争が始まると亡命者たちはみずから軍団を組織してプロイセン・オーストリア軍と行動をともにした。もちろんその行動に軍事的価値はない。しかしこの戦争が革命対反革命のイデオロギー戦争となるうえでは、ほとんど決定的な役割を果たしたのであった。それを象徴するのが、連合軍総司令官ブラウンシュヴァイク公が7月25日にコーブレンツで発した宣言であって、この悪名高い「ブラウンシュヴァイク宣言」は亡命者たちの起草した草案を、非政治的なブラウンシュヴァイク公が無思慮にうけいれたものなのである。なかんずくその結びの部分は草案そのままであったとされている。もし国王一家にほんの少しでも危害や侮辱がくわえられたなら、もしその安全、生命、自由のための対策がただちに講じられなかったなら、「永久に忘れられない復讐がなされ、パリ市は軍事的執行と完全な破壊にゆだねられ、犯罪者は当然の報いとして死刑に処せられるであろう」。この宣言がパリに届いたのが7月28日、民衆がテュイルリ宮殿の国王一家をおそったのが8月10日である。
 こうして悪循環のリレーが始まった。ヴァルミで形勢が逆転したのち、92年の11月に今度はブリソがいっている。「われわれは全ヨーロッパが炎に包まれるまで休むことはないでろう」。そしてショメットはこう予言した。「パリとペテルブルク、パリとモスクワのあいだの地域はまもなくフランス化され、コミューン化され、ジャコバン化されるであろう」。
『ドイツ史 2』P134,135




 で、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』では先ほどの引用の後に「大陸軍公報」の内容が来ています。

「ブラウンシュヴァイク公はなんと言うだろうか」 公報は続ける。
「もし私がブラウンシュヴァイクの町を破壊すれば、15年前のように彼は、私が支配する偉大な国民の首都を攻めると脅迫したのか? ブラウンシュヴァイク公は1792年の無慈悲な宣言【ブラウンシュヴァイク宣言】を否定していた。それはそのうち、理性が激情を上まわるようになれば信じられるようになるのかもしれない。しかしそれにもかかわらず、再び彼は自らの高名を浅はかな若者達の愚行に貸し、侵攻してきた。そしてそれがプロイセンを破滅させたのである。だが彼が成すべきは、ご婦人方や廷臣達、それに若き将校達に自分達の収まるべき場所を自覚させ、また自らの年齢に伴う権威、広い博識、高邁な精神、高い地位の義務を自覚することであった。彼はこれらを成すことができる強さを持たず、プロイセン王朝は打ち倒され、そしてブラウンシュヴァイク公国は我が所有に帰した。"ブラウンシュヴァイク将軍"に伝えよ。あなたは一人の将校としては、充分な待遇を得ることになるであろう。だが、私は"プロイセン軍"の将軍のうちのある一人の中に、統治者という地位を認めることはできない。」
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P127


 ↑この内容は「なかなか読ませるものがあるなぁ」と私は思いました。「浅はかな若者達の愚行」というのの「若者」には、王や王妃達が含意されているのではないかと思いましたがどうでしょう。

 ですが、恐らく、この「大陸軍公報」が届く前に、ブラウンシュヴァイク公は亡くなったのだろうと思われます(↓下記引用の2つ目の文がそういう意味ではないかと)。

 そのようにして、ライン同盟の中のこの小さな公国の併合の布告が発令されたのである。だがそれが届く前に、彼は賞賛も非難も届かないところにいた。彼の北への旅は最初のうちは桁外れの身体的頑強さを示し、受けた傷の苦痛の大きさにも関わらず、よく耐えていた。
「もし神が」彼は言った。
「両目のうち片方でも残しておいてくれるなら、満足せねばなるまい。」
 だがこの旅路の2日目に激しい炎症が傷を襲い、彼の脳にまで影響を及ぼすようになった。この様な状況の中、彼は29日に、Altonaの近くにあるOttensenに到着した。
「彼がその町へ運ばれていく様子は、」ブーリエンヌが書いている。
「運命の浮き沈みに関する興味深い実例を提供した。彼は10人ばかりが担う惨めな担架に乗せられており、将校達もおらず、メイドたちもおらず、物珍しさに惹きつけられた乞食達と子供達の一群が付き従っていた。彼はある一軒の粗末な宿に宿泊したが、あまりにも激しい疲労と両目の激痛のために極度に消耗し、彼が到着した翌日には彼の死の知らせが広く知られることとなった。見舞う者もないまま、彼はその月の10日に息を引き取った。」
 最期はMetzner大佐の腕に抱かれてであった。彼はOttensenにある、ちょっと前の1804年に亡くなっていたklopstockと同じ墓場に埋葬された。Klopstockは1792年に彼の指揮を辞任するように彼に求めていた人物である。その墓場にはまた少し後になって、ハンブルクにおけるダヴーの厳しい圧政から真冬に逃げ出さざるを得なかった犠牲者達が葬られた。この地は1806年以降の抑圧と暴政の数年間において愛国的ドイツ人達の聖地となり、リュッケルトの愛国的な詩にうたわれた。
『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』P128,129



 「見舞う者もないまま」とここにはありますが、ドイツ語版Wikipediaでは「そこで1806年11月10日、負傷のため71歳で没する前に妻、妹と最年長の息子たち二人に別れを告げることができた。」とありましたし、『キャロライン王妃事件』P38には「公爵も一ヶ月後に他界したが、愛人が付き添っていたという。」とありました(尤も、妹や息子達がいて、愛人もいたのかというとどうかという気もしますが……)。

 ブーリエンヌはフランス側の人間ですし、その回想録の信憑性は色々と問題があるそうで、噂的に聞いたことを書きとめただけなのではないかという解釈もあり得るかもです。が、『Charles William Ferdinand, Duke of Brunswick』が他の資料でそこらへん書かなかった(書けなかった?)のはなぜかという問題もあるか……。

 ハンブルクにおけるダヴーの圧政というのは、1813年からのハンブルク防衛にあたってダヴーが、数万におよぶ市民を無理矢理追い出し、うち数千人は行くあてもなくそのまま市外にとどまって-8度という気温の中で病死して……ということを指していると思います。


 その後、1807年のことですが、こんなことがあったそうです。

 バーデン辺境伯の娘が嫁いでいるブラウンシュヴァイク大公の国土がナポレオンによって蹂躙され、大公家の私有財産も没収された。それを悩んだバーデン辺境伯夫人の依頼で、フォン・ベルクハイムはナポレオンに今は亡きブラウンシュヴァイク大公の後継者の息子たちやその嫁である辺境伯の娘に対し、多少は寛大な措置をとってくれないかと頼んだ。しかしナポレオンはブラウンシュヴァイク大公には対仏戦争の責任がある。そしてブラウンシュヴァイクが加勢しなかったらプロイセンはけっして、ナポレオンに対して挑戦しなかったろうと述べた。……
 その後再度ベルクハイムが、ブラウンシュヴァイクが実はナポレオンと戦う意志がなかったのだと言うと、彼は激怒して答えた。
「何を言うか! ブラウンシュヴァイク大公こそ、12年前(フランス革命軍が同盟軍と戦った頃)のあの低劣なマニフェスト【ブラウンシュヴァイク宣言】を書いた当の人物ではないか。彼はそのなかで、パリを破壊する、石ころ一つ残しておかないと言ったではないか! いったいパリが彼に何をしたというのだ? 数人の単純な人間がパリで何やらけしからんことを企んだからだというのか? あのマニフェストを書いた連中が私に対して行なった侮辱には報復せねばならない。私が彼らのもとに押しかけたように、もし彼らが私の領内に侵入したら、彼らは私を放っておいてくれると、あなたは本当に信じるのか? 彼らが私を放置しておくはずはないし、私もそれを望まなかったであろう。戦争においてはだれしもおのれの義務を果たすべきだ!」
『ナポレオン大いに語る』P119,120



 バーデン辺境伯の娘というのはマリー・フォン・バーデンのことで、四男の黒公爵と結婚していましたが、1808年の出産時に死去していたんですね……ブラウンシュヴァイク公(父)の子ども達の世代は基本的に不幸だと思いますわ……。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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