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ナポレオン時代のドイツ道路事情

 『愉しいビーダーマイヤー』の3回目。

 ナポレオン時代のドイツの道路事情について。

 ……ドイツの駅馬車の有名な遅さ……の原因としてまず当時の道路事情が挙げられる。徳川幕府の政策同様、18世紀末まで西欧でも、英国以外の国では外敵の侵入や経済の混乱を恐れて、道路の整備に力を入れず、継子扱いにしていた。ローマ時代以後荒廃するに任されていた幹線道路の改善に手をつけたのが、機動力を重視する近代戦の開祖ナポレオンで、本国はもちろん、占領した国の幹線道路を拡張し、道の両側をポプラ並木にすることを奨励した。だがナポレオンのために幾度か決戦場を提供することになったドイツの道路は重装備の各国軍隊の往来のために、やっと解放戦争に勝ったものの、そのときは昔以上にひどい状態になっていたのである。たとえば1824年、大建築家のシンケルがイタリアから帰国した際、バンベルクからテューリンゲンの森を経てワイマルまで行ったが、絶えず転覆の危機にさらされ、夜間は一歩も進めず、ゴータ付近では雨のため道が泥の海と化して、それが乾くまで待機しなければならなかった。だがワイマルから北東のエッカルツベルガまでの道路は大臣ゲーテの努力によって立派に舗装されていた。

 死者や重傷者が出る転覆事故は始終起こった。たとえばE・T・A・ホフマンが1813年5月20日、ライプツィヒへ向かう途中、乗っていた満員の馬車が転覆し、妻のミーシャが頭部に重傷を負った。そのとき同乗していた某伯爵夫人は死亡している。
『愉しいビーダーマイヤー』P111,112



 ナポレオンによる道路整備についてちょこっと検索してみたのですが、たとえば↓とか。

なぜ日本の道路は左側通行なのか? 調べて分かった歴史の裏側


 Napoleon: Man of Peaceというページには、ナポレオンはフランス帝国内で20,000マイル(約32,000km)、それ以外の地域?で12,000マイル(約19,200km)の道路を完成させたと書いてありました。地球1周が40,000kmですから、それ以上の長さを整備したことになります。


 ゲーテによる道路建設については、『ゲーテとその時代』にも詳しい記述がありました。

1806_1812Map02ヴァイマル用地図01フランクフルト

 ↑参考地図。緑色の領域がザクセン・ヴァイマール公国で、ここの大臣をゲーテはやっていたのです。

 道路建設も彼が力を入れた仕事の一つである。道路建設局長としてのゲーテは、当初はとぼしい予算をやりくりして道路を補修することで満足していたが、財務庁長官になった1782年から方針を変え、赤字覚悟でエルフルト-ワイマル、およびワイマル-イェーナの幹線道路を完成しようとした。目的はエルフルトを通っているフランクフルト-ライプツィヒ間の一大通商路にワイマルとイェーナを連結し、ワイマルの経済を振興することである。この大きな目的をゲーテは局長在任中で達成することはできなかったが、ともあれ1786年に彼がイタリアに旅立った時、エルフルト-ワイマル道路は完成し、ワイマル-イェーナ線も完成に近づいていたのだった。
『ゲーテとその時代』P129,130



 イエナの町の重要度がちょっと気になったんですが、例えばこんな風に書かれていました。

 この国の主な都市にはワイマル(住民約6000人)のほかアイゼナハ(8000人強)とイェーナ(4000人強)がある。……イェーナは大学町である。……ワイマルは第一に宮廷都市……
『ゲーテとその時代』P115,117



 あと、ぱらぱらめくっていて、ザクセン・ヴァイマール公であるカール・アウグストの母がブラウンシュヴァイクの公女であったという記述が目に留まりました。

 しかしこの田舎の小宮廷都市【ヴァイマールのこと】が、実はゲーテが来る少し前から文化・学芸都市への道をすでに歩み始めていたのだった。カール・アウグストの母、アンナ・アマーリアの意向に沿って、である。彼女はブラウンシュヴァイクの公女、母はプロイセンのフリードリヒ大王の妹のフィリピーネ。……【七年戦争】戦後情勢が安定すると、およそ文化の香りを欠いていたワイマルの宮廷に……生家のブラウンシュヴァイクの宮廷にみなぎっていた学芸の雰囲気を移し替えようとしたのである。
『ゲーテとその時代』P118



 アンナ・アマーリアは我らがブラウンシュヴァイク公(父)の4歳年下の妹で、没年が1807年ですからブラウンシュヴァイク公(父)が死んだ1806年にはまだ存命で、つまりカール・アウグスト公はプロイセン元帥のブラウンシュヴァイク公(父)の甥っ子であったわけですね(あと、フリードリヒ大王の妹の孫に当たる)。そりゃー、1806年当時、プロイセンに与してもおかしくないですねー(それでもって、蹂躙されたヴァイマールにおいてカール・アウグスト公の妻ルイーゼがプロイセンに与したことをやむを得ないことだとナポレオンに言うわけです。→ヴァイマール公妃ルイーゼの勇気)。


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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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