FC2ブログ

リュッヘルはイエナ会戦の敗北の責任を負うべきなのか?

 体調的にリュッヘルの『Who was who in the Napoleonic Wars』の項目を訳せそうな気がしたので訳してますと、興味を引く記述がありました。

 だが、彼が最も良く知られているのは、イエナの戦いにおいてホーエンローエの軍を助けにいった派遣軍団(軍と表記されることもある)の司令官としてである。彼はイエナの戦いが始まった時には戦場から離れたヴァイマールにおり、ホーエンローエからの救援要請を受け取ってすぐに出発したものの、主戦場の情勢は良好であり急ぐ必要はないとホーエンローエの文面からは受け取れた。その後急ぎ援軍を請うとの急使が届いたものの、イエナの戦いは彼が到着する前に終わってしまっており、彼の到着が遅すぎたのだという不当な非難が彼に浴びせられたのである。その時ホーエンローエはリュッヘルの15,000の兵を退却の援護に使用する代わりに彼に攻撃を命じたが、グレスロムシュタットの近くで勝利の勢いに乗るフランス軍によって打ちのめされることになった。
『Who was who in the Napoleonic Wars』P286



 リュッヘルの到着が遅すぎ、それゆえにリュッヘルが無能扱いされたことに関しては、どこかで読んだ記憶はありました。しかも到着した時に、本来すべきであったろう「ホーエンローエ軍の退却の援護」ではなく、フランス軍に突っ込んでいってボロボロにやられてしまったために、「勇気バカ」と評される所以となっているとも……。

 今見てみていると、『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』はそういう解釈になっているようです。多分これでもってそう覚えていたわけではないような気がしますが……。


Battle of Jena-Auerstedt - Map01

 ↑Wikipediaから。一番左の部隊がリュッヘルの軍で、真ん中やや下あたりがイエナの戦場です。それから、後で名前の出てくるUmpferstedtの町というのは、WeimarとFrankendorfの中間にある、矢印で半分隠れている町です。また、Frankendorfのすぐ東の川がザルバッハ川で、その川沿いにある町がCapellendorf(あるいはKapellendorf)です。


 リュッヘル - 0800時の後しばらくしてホーエンローエが増援を求めていた - は、ヴァイマールに小さな守備隊を置いて、1000時にこの戦場【イエナ】への行軍を始めた。彼の善意と勇気に疑う余地はなかったが、彼はその道程約6マイル【10km弱?】に4時間もかけた。その理由は現在に至るも不明である。
 ……
 だがこの時、リュッヘルがその失われた戦場へとずかずかとやってきて、敗走中の友軍を通り抜けて困難な方法に取りかかった。勇敢な心と力を持ち(頭は鈍かったかもしれないが)、フリードリヒ大王の教えを自らの戦争芸術にすべて内包すると公言し、フランス軍の質を口を極めて非難する彼は、単にホーエンローエの退却を援護しようとはしなかった。その代わりに、Frankendorfに小さな予備を置いた上で、彼の自らの小さな軍をくさび形の隊形にし、彼自身の戦いを勝利とするために、Gross Romstadtへと行軍していったのである。
『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars(Revised Edition)』MAP65の説明



 両方をリュッヘルの責任に帰している点では、チャンドラーの『ナポレオン戦争 第三巻』でも同様でした。

 主戦場に現れなかったことは、この敗戦の惨事に関して大いに責められるべきであった。現状では、彼の最も賢明な策はザルバッハ川の戦線に沿って防御態勢をとり、そこで同胞の退却を援護することだった。しかし、これは彼の趣味には合わなかった。
『ナポレオン戦争 第三巻』P71



 『The Jena Campaign 1806』を見てみると、リュッヘルの行軍についてのやや詳しい説明がありました(敵に突っ込んだことに関する記述もあるのかもですが、探すのが面倒なのでパスします(^_^;)。

 リュッヘルは午前9時頃にホーエンローエから救援の要請を受け、それに対して……彼の全軍をもって向かうと返信した。

 彼の部隊はかなり分散した状態であったのだが、午前10時を少し過ぎる頃には先頭部隊が行軍を開始した。Umpferstedtの近くでリュッヘルはホーエンローエからの二通目の伝令を受け取り、再度彼の小さな全軍でもってそちらに接近中ということを知らせ、またその中で行軍を急がせる命令を出したとも書いた。……

 ヴァイマールから到着すべき村【Vierzehnheiligen】までは6マイルに過ぎず、12時までにはその場所に到達して配置まで完了していてもおかしくなかった。……ところが実際には午後2時、つまり4時間も経っているのにその隊列の先頭はCapellendorfに達していたに過ぎず、今日に至るまでこの遅延に関しては、リュッヘルが行軍をわざと遅らせた以外の説明をできた者はいないのである。
『The Jena Campaign 1806』P158,9



 出版年でいうと、1909年に『The Jena Campaign 1806』、1965年に『A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars』、1966年に『ナポレオン戦争』、『Who was who in the Napoleonic Wars』は1998年となります。その間に来るのが『ナポレオン戦争』の著者チャンドラーが1993年に出版した『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』で、この本ではリュッヘルは何も悪くないことになっていました(^_^;

 リュッヘルの一見したところ遅い行軍はしばしば非難されるが、実際には彼はむしろ良くやっていたのである。彼がホーエンローエの軍に合流すべく移動せよという命令を受け取った午前9時には、リュッヘル軍はまだヴァイマール周辺で野営中であった。彼はすぐに野営地を引き払い、歩兵を班単位で早いペースでイエナに向けて出発させた。Umpferstedtで彼らは小隊単位に組み直され、後方と側面の防御にまわされていた兵は回収され、砲兵は行軍隊形を解除された。そこまでの5kmを1時間ほどで進んできて、隊形を直すのに1時間かかり、ここまでで午前11時頃になっていた。午前10時半にはリュッヘルはホーエンローエから、イエナでの戦いはうまくいっており、全戦線において勝利の半ばにあるという報告を受けていたのである。そこからKapellendorfまでは4kmであった。これに約1時間かかった。正午頃、ホーエンローエから至急救援を請うとの急使が到着した。リュッヘルがKapellendorfに到着する直前、ホーエンローエはすでに敗北したとの知らせを彼の副官が持って到着した。この村のすぐ近くにマッセンバッハがやって来て、リュッヘルに攻撃をおこなうためにKapellendorfをそのまま通過するようにという【ホーエンローエの?】命令を伝えた。リュッヘルは麾下の部隊にKapellendorfを通過させ、戦いのための配置をおこなった。午後1時半、彼は攻撃のために前線に赴いた。午後1時までにKapellendorfに到着したということはつまり、彼は4時間で12kmを移動したのであった。野営地を引き払うための時間、Umpferstedtで隊列を組み直す(ここで街道を外れ、田野を横切らねばならなくなる)ための時間、困難な状況にあるとの最初の知らせが届いたのが正午であったことなどを考慮すると、リュッヘルの移動速度は遅いどころか、その状況において期待される速度よりもむしろ少し速いくらいであった。至急救援を請うとの最初の伝令が来てから彼は1時間半で戦闘に入っているのである。ホーエンローエの擁護者は非難の矛先を気の毒なリュッヘルに向けるかもしれないが、状況を誤判断したのはホーエンローエの方であり、退却を援護させるべき時にリュッヘルを攻撃に向かわせたのもホーエンローエであったことを我々は忘れるべきではない。
『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P64



 『ナポレオン戦争』でリュッヘルを散々非難していたお前が言うか、というほどのすがすがしさですが(^_^;、これが歴史学の世界における学問の進歩なのでしょうね~。学説への批判や新しい知見などから、こういう風に説が変化していくのが面白いです。

 この同じ時間帯に、フランス軍側ではベルナドット元帥がまさに同じような批判を喰らっている、というか喰らいまくっていて、しかしその説も色々批判を受けて、「どうもベルナドットは悪くないんじゃないか」というのが今の大勢になっているようです(例えば1806年10月14日 ドルンブルクなど)。


 ただ、個人的に若干気になるのが、野営地を午前9時の時点でも引き払ってなかったという点です。これはちょっと、いやかなり遅めではなかろうかという気もするのですが……?

 Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Rüchel, Ernst Friedrich Wilhelm Philipp vonを見てみると、そこらへんのこととも絡むのかもしれない、またちょっと違う視点からリュッヘルが擁護されていました。

 この日のイエナの戦いへ彼の軍団の到着が遅れたことは彼の責任ではなく、ホーエンローエとマッセンバッハが10月14日の朝の時点でさえも、戦いが起こるとは思っていなかったことに原因が帰せられるべきである。その日の戦いへのリュッヘルの軍団の参加についてはリュッヘルにとっての上級司令官達【ホーエンローエとマッセンバッハの両名のことを指している?】から命令されるという一方通行の関係にあり、彼らからリュッヘルに対して、10月13日の時点で翌日リュッヘルがどこにいるべきかが明らかにされる必要があったのだ。だが、プロイセンの上級司令部の連携の欠如のため、そのような命令が出されることはなかったのだった。




 「リュッヘルは悪くない」ということが新しめの資料では大勢となってきているのか……? という一方で、ホーエンローエとマッセンバッハはますます悪く言われる傾向が強まっているかもしれないという気がするのですが(^_^;、両名の擁護者って今後期待できるのでしょうか……?


 ところで今回、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』と『1806 Coming Storm』は参照しておりません。なぜならめんどくさかったからです(おい)。特に前者は、当該部分をまだ印刷してないので……。

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR