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ホーエンローエについて、まとめ

 ホーエンローエについて、まとめてみました。


Friedrich Ludwig, prince zu Hohenlohe-Ingelfingen
 ↑Wikipediaから


 ゲーム上のホーエンローエについても調べてみようと思って見てみたのですが、能力値的な差がつけられてなくてそこらへんの面白さはないですね(^_^;


 ↓『War and Peace』(AH)の指揮官シート

13063001

 プロイセン軍ではブリュッヒャーのみが2で、その他の指揮官は全員1です。能力値よりも重要なのは恐らく、その活躍した時期についてではないでしょうか。

 1806……ブラウンシュヴァイク、ホーエンローエ、リュッヘル
 1812……ヨルク(フランスの同盟国軍として)
 1813~14……ブリュッヒャー、ヨルク、ビューロー、クライスト
 1815……ブリュッヒャー、ビューロー




 ↓『1806』(OSG)のホーエンローエのユニット

IMG_001.jpg


 ↓『The Coming Storm』(OSG)のホーエンローエ周辺のユニット

IMG_002.jpg

 『1806』も『The Coming Storm』も、ブラウンシュヴァイク、ホーエンローエ、リュッヘル(あとダヴーとかランヌとかも)はみな最高司令官扱いで、[1] 10 という能力値で代わり映えがしません(^_^; ナポレオンのみ[3] 10 で、あと、下級指揮官だと能力値の差はありますが……。



 ホーエンローエの経歴記事ですが、ビューロー(兄)の時と同じように、複数の資料を参照してまとめてみました。ただ、ビューロー(兄)の時は諸資料で矛盾がほとんどなく、単純に足していったことが多かったのですが、ホーエンローエの場合には相互に矛盾する内容がいくらかあったので、そこらへんはもう記載しないようにしてあったりしてます。参照した資料は以下のもの。

・『Dictionary of the Napoleonic Wars』
・『Who was who in the Napoleonic Wars』
・『The Hussar General』
Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Friedrich Ludwig Fürst zu Hohenlohe-Ingelfingen
・『ドイツ参謀本部興亡史 上』
・『ドイツ参謀本部』
・『ナポレオン戦争 第3巻』
・『The Jena Campaign 1806』
・『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』


Friedrich Ludwig, Prince of Hohenlohe-Ingelfingen(1746-1818)

 ヴュルテンベルクのホーエンローエ地方の有名な一族の跡継ぎとして生まれる。当初、七年戦争の終盤に反プロイセン側(オーストリア軍)で従軍したが、戦後(1768年に)プロイセン軍に入った。公国の跡継ぎという身分の高さのためにすぐに少佐に、そして1775年に中佐へと昇進した。

 1778-1779年のバイエルン継承戦争に従軍した後、所領を継承。1791年にベルリン長官に任命される。1793年には彼はブラウンシュヴァイク公の下でプロイセン軍の1個軍団を指揮して何度も勇戦し、特に1793年11月28~30日にかけてのカイザースラウテルンの戦いで目覚ましい活躍をした。

 彼のプロイセン軍内での人気は群を抜いて高いものとなり、当時ブリュッヒャーも指揮官としてのホーエンローエを称賛し、「この素晴らしく勇敢な人物は、非情さと決然さの例を全ての人に見せていた。」と述べていた。

 1806年の戦争開始直前に彼は自身の公国の支配権を長男に譲り渡したが、この時にはこの小さい公国はナポレオンによるドイツ諸邦の再編成により、ヴュルテンベルク王国に陪臣化されていた。

 1806年戦役ではプロイセン軍左翼の指揮権を与えられた。だがこれはかなりの程度、不適切な任命であった。というのは彼はその時健康状態が優れず(重い中風にかかっていた)、軍事的判断能力に非常に問題のあった彼の参謀長であるクリスティアン・フォン・マッセンバッハ(彼もまたヴュルテンベルク出身であった)の過度の影響下にあったのである。イエナでの敗北にあっても彼はいつもの勇敢さを見せ、軍の一部をなんとか再結集して退却したが、再びマッセンバッハの影響下で1806年10月28日にプレンツラウで降伏し、その降伏は他のプロイセン軍要塞の指揮官達の決断に悪影響をもたらした。

 2年間を戦争捕虜として過ごして釈放された後ひっそりと引退し、1818年に人々に知られぬまま亡くなった。

  彼が非常に勇敢であったことに疑いの余地はなく、また当時としては珍しく本を良く読み、フランス軍部隊を観察し研究することもしたことがあった。だが、情報を吸収するキャパシティは不足しており、いくらかの軍事的才能を持っていたものの無分別でせっかちな決定をしがちで想像力に乏しく、雄弁な口のうまい人によって容易に道を間違えた。また嫉妬深く、過度なほどに強情で虚栄的であり、1806年戦役では近視のために15m先も明瞭に見えなかったにも関わらず眼鏡をかけたがらず、マッセンバッハの目に頼っていたという。

 イエナの戦いに参加していたMarwitzによると、ホーエンローエはその時の作戦上の主目的をすぐに、簡単に変更してしまいがちで、「何事も成し終えることがなく」、その指揮は支離滅裂で不合理、かつほとんど犯罪的なほどに不注意なものであったという。



 Marwitzとは誰なのかですが、Prussian Generals of the Napoleonic Wars 1793-1815: Marwitz, Otto Sigismund Albrecht Alexander von derがその人なのだとすれば、1806年戦役で抵抗もせずに降伏し、軍事法廷で禁固刑となった人物ということになります(^_^; まあだからといって、その証言が信用できるかできないかは……それぞれの人の判断ということになりましょうか。

 それから、ホーエンローエ家の所領はどこにあったかですが、Wkipedia上の「陪臣化」という項目に載っている地図の、北東の方の一角に「Hohenlohe」の記載があるので、これではないでしょうか。

Wuerttemberg1

 ↑Wikipediaから。


 あと、このまとめに入れるにはちょっと相応しくないかなと思っていれなかった逸話がいくらかあります。

 【フランス革命戦争で?フランス軍に対して】旧軍ならば完全に壊滅するような打撃を受けても、まもなく立ちなおるので、連合軍を指揮したホーエンローエ公は「気違いどもには勝てない」と言って匙を投げたと言われる。
『ドイツ参謀本部』P39


 ……フランス軍の新式の戦闘法が散兵射撃であることを認識したビューロウは、従来の洗練された数学的兵術をがらくたであるとして、強く否定した。だが当分の間、最高軍事参議院にも最高副官の中にも、この「はいつくばり者の福音(プロイセンの将軍ホーエンローエ=インゲルフィンゲン公は散兵戦術のことを軽蔑してこう呼んだ)」を信奉するものはいなかった。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P28



 【1806年戦役において】重い中風にかかっていた【ホーエンローエ】公について皮肉屋は、やっかいな痛み止めの塗り薬を主人があまりに愛好するので、公の本営は薬のためにこちこちになっている、と言った。
『ドイツ参謀本部興亡史 上』P47




 調べているとホーエンローエ家(多分このホーエンローエの子孫ではないのでしょうけども)は現在も存続しており、色々な著名人を出しているようです。その中にはこんなのもありました(^_^;

ソチ五輪で、あなたがホーエンローエ=ランゲンブルク公子フーベルトゥスを応援する8つの理由

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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