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プロイセンが対仏戦争を決断(1806年8月7日)

 いよいよ時系列に沿って、1806年戦役に着手していこうかと思います(が、色々脱線もするかもですが)。

 まず1806年戦役の開戦に至る経緯なんですが、諸資料だとこの経緯を1805年のフランス軍によるプロイセン領侵犯(→1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯)から説き起こして、アウステルリッツの戦い前後の時にナポレオンにいいように弄ばれてしまったプロイセンの外交官ハウクヴィッツを中心に長々と語られることが多いのですが、めんどくさいのパスしまして(^_^;、もういきなり、プロイセン宮廷における戦争決定の日(1806年8月7日)の周辺についてのみで。

 手持ちの資料を割と総ざらえで見てみたんですが、8月7日周辺の細かいことを書いてある資料は少なく、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』(チャンドラー)、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』(ピーター)、『1806 Coming Storm』(ザッカー)あたりしか出してくる意味がないような感じでした。

 この3つの資料ですが、文の読みやすさ、意味の取りやすさにえらい差がありまして……。『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』は御大チャンドラーの晩年の本ですが、オスプレイ・キャンペーン・シリーズの1冊でして、入門者向けに書かれているのでしょう、英文も分かりやすい気がします。ピーターは「簡潔で時折意味が取りにくい」とPetre(ピーター)は2番目に読まれるべきナポレオン戦役本だそうですで紹介してましたが、まあ確かに時折そういうことがあるような気がします。かなり苦しかったのが『1806 Coming Storm』の当該部分で、「事実関係については他の本で知っているだろうから、ここで長々と当たり前のことを述べる必要はないよな?」というオーラを発しつつレトリックに凝りに凝った感じの英文で書かれているかのような……(T_T) ただ、この本、軍事行動が始まる前のプロローグ的な部分はそういう感じで書かれているんですが、軍事行動が始まった後は、別に普通の読みやすい英文であるような気がします。プロローグも分かりやすく書いて欲しかった……(>_<) そういうわけで、誤訳とかも(普段からですが)大いにあるとも思いますので、そこらへんご了承くださいまし。


 ではそれぞれの本の内容について入っていこうと思いますが、まず前提条件として、当時のナポレオンはアウステルリッツ戦役の後で、ヨーロッパ中央部に自分の血筋を王族として送り込んだり、ドイツ南西部に自分の保護下に入るライン同盟という枠組みを作ろうとして体制固めをすると共に、実はフランス国内の財政的・政治的には様々な問題を抱えてしまっており、1803年以来再度敵対関係に入ってしまっていたイギリスともどうしても和平を結びたい状態であったということを押さえといていただければ。なので、いったんプロイセンにあげてしまったハノーファーを、イギリスとの講和条件として使えないかとフト思って、持ち出すわけです。

『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』P9

 総合的に考えて、ナポレオンが故意にプロイセンとの戦争を誘発させたのだという説は疑わしい。一つには、彼が依然としてフリードリヒ大王によって作られた軍に対してかすかな尊敬の念を抱いていたこと。もう一つには、彼はフリードリヒ大王の孫【フリードリヒ・ヴィルヘルム3世。正確には甥の子】に対して軽侮以外の感情を表しておらず、恐らく(特段の根拠もないままに)断固とした行動を取ることなどできまいと信じ切っていたのである。それが、イギリス政府との交渉が長引いてきた中で、ナポレオンがプロイセンへの相談も全くなしに、全面的な平和のための代価としてハノーファー選帝侯領を元の持ち主であるジョージ3世に即座に返還するという案を突如として交渉の席に出してきた背景であった。実はナポレオンは1796年に「戦争の要諦とは統治と同様、各所への配慮である」と語っていたのだったが、しかしこれではプロイセンをわざと侮辱しているも同然であった。だが、この提案に対するロンドンの反応はごく小さいものですらなかった。ジョージ3世は病気で苦しんでいる最中であり、その臣下のイギリスの大臣達はハノーファーとの繋がりを負債とさえ見なしていたのだ。ところが、この単なる提示に過ぎなかったものが、ベルリンにおいては破滅的な青天の霹靂として受け止められることになったのである。

 意志の弱いフリードリヒ・ヴィルヘルム3世や、あるいは彼のフランス贔屓の大臣であるハウクヴィッツなどの、ポツダムにおける「非戦派」の人々ならば、これまでにもナポレオンのドイツに対する構想によって憤りを感じていたとはいえ、この新しい提案を受け入れた可能性があったのかもしれない。だが王の美しく気の強い妻であるルイーゼ王妃や、彼女を筆頭とする宮廷における「主戦派」 - その中にはフランス嫌いのカール・ハルデンベルク、老齢な指揮官であるブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントとホーエンローエ公フリードリヒ・ルートヴィヒの二人も含まれていた - にとっては全く受け入れがたいものであった。秘密裏に数日間、激しい議論が交わされた。ついに「主戦派」が勝利したがしかしそれも、よく言われるように意志の強い王妃が、妻に甘い夫が「名誉を重んじる道」に賛意を示すまでかたくなに夫婦の権利を拒否したからであった。8月7日、この取り返しのつかない戦争に関する決定が秘密裏についに行われ、同盟国探しが急がれた。10日、プロイセンは動員を開始した。


 3箇所についてコメントを。

 まず「ジョージ3世は病気で苦しんでいる最中であり」ですが、病名は「ポルフィリン代謝異常症」というもので、詳しい症状については1810~1820年のイギリスをご覧下さい。

 「この新しい提案を受け入れた可能性があったのかもしれない」ですが、同じチャンドラーの『ナポレオン戦争 第三巻』P28によると、「自分たちだけであれば、王も彼の新しい宰相ハウグヴィッッも平穏な生活を求めてどんなフランスの行為も大目に見る覚悟があったかもしれない」と書いてある一方で、その数行後に「そのときである。ナポレオンがジョージ3世にハノーヴァを返すという、裏切りの申し出が発覚したのだ。このことは国王にとってさえ耐えられない屈辱だった。」とあります。1805年、フランス軍がプロイセン領を侵犯)に書きましたように、1805年の時には国王が激怒しなかったという資料は私は見つけてないのですが(とはいえ、激怒したから当時何ができたのかというと、ほとんど何もできなかったわけですが)、1806年の8月7日については、詳しい資料ほど、また詳しい資料であれば大体、「王自身が激怒したということはなく、王はまだ非戦派にとどまった可能性があった(が、主戦派につきあげられて開戦を決定せざるを得なかった)」という感触を受けます。

 「夫婦の権利を拒否した」からであった、というくだりからもそういう印象を受けます。同じチャンドラーで割と書き方が異なっているのは、その後の資料発掘とかの問題なんでしょうか?(書かれたのは『ナポレオン戦争』が1966年で、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』が1993年) あと、「夫婦の権利」とは何か、という問題なんですが、一般的には色っぽい話だと思うんですが、そういうこと持ち出す局面かなぁという気もします。何か結婚当時に二人の間に約束があったりしたことを指しているのかもとも思ったのですが、良く分かりません。


 王とその顧問官たちが依然として「主戦」的でなかった証拠として、次のようなことも挙げられそうな気がします。

『1806 Coming Storm』P12
 しかしフリードリヒ・ヴィルヘルムはその性格からこの動員令を全軍に適用せず、王国の西と中央部に駐屯している部隊のみに適用した。ナポレオンは警戒されていたのであって、脅威を与えつつあった訳ではなかったからである。……動員は、それが即座の攻勢に使用されるのでなければ、自殺行為も同然であった。王と彼の顧問達は、現実の状況が彼らの意図を越えてしまうまで、防衛的な方法での限定的な動員ということに固執し、防衛的作戦に向けて趨勢を推し進めた。




 次に、『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』です。

『Napoleon's Conquest of Prussia, 1806』P13,14

 だが、ナポレオン自身が絶えずプロイセンを侮辱し、苛立たせたことが、プロイセンを戦争に突き動かした本当の原因であった。その最後の一突きとなった侮辱とは、ナポレオンがプロイセンをしてイギリスと反目させるためにプロイセンに提供していたハノーファーを、自身がイギリスと和平を結ぶために再度イギリスへと返還しようとしたことであった。かような状況においては貴族派【主戦派のこと?】の意見が、戦争以外に救済はないとして優勢にになるのも驚くべきことではなく、8月7日にベルリンにて戦争が決定されたのであった。

 クラフト公【ホーエンローエの子孫か?】はナポレオンが「プロイセンに対してほとんどどんなに侮辱をしたとしても、プロイセンが敢えて武器を取るということはあり得ないと信じていたのだろう」と考えている。彼はそう考えてはいなかったはずだというのも信憑性に乏しいが、彼がどんなことを言っていたにせよ、【プロイセンにとっては】このような侮辱がこのまま続くよりは、敗北の可能性の方がまだましだというところまで来ていたのは間違いない。確かに9月10日などという時点においてさえ、彼はベルティエに決裂の可能性を信じない旨、書き送っている。だが、そう書いた胸の内を誰が正確に知り得ようか?

 プロイセン大使であったルケシーニによってもたらされたその知らせは、ハノーファーの返還の提案についてであったが、ナポレオンがプロイセン領ポーランドをロシアに割譲してロシアと和約を結ぶ準備ができているという噂についても付け加えてあり、それが最終的にプロイセン宮廷をして戦争は不可避であると確信させることになった。


 いつもそうしてるんですが、【】は私による注釈です。なるほど、ちょい分かりにくい気がします(^_^;

 具体的な8月7日周辺の出来事について書いてあるというよりは、ナポレオンによる侮辱が大きな原因であったことがメインの文章かと思いますが、他の資料にはない、プロイセン領ポーランドをロシアに割譲する案(の内容)について書かれているのが目をひきました。


 最後に『1806 Coming Storm』。正直、動詞の意味するところとか、主語が何かとか、文の繋がりとかが分からないことがままあって、誤訳の可能性が高いのに、文としてはなるべく綺麗な日本語になるようにしてあるのでそれがよくない可能性も?(^_^;

『1806 Coming Storm』P11

 プロイセンは今や、ある大国【ロシア】と同盟して形の上ではフランスとの戦争状態となったが、王に最も信頼されていた相談役ら ー 首相のクリスティアン・フォン・ハウクヴィッツ伯爵、王の秘書官のヴィルヘルム・ロンバルト、パリ駐在のプロイセン大使のジローラモ・ルケシーニ - は、公開状態での国交断絶を諫めた。だが、宮廷の他の者達は、より好戦的であった。「愛国的な上級将校達の一派が……美しく好戦的な王妃を中心として結成されていた」 彼女にとって、1806年という希望のない年は、侮辱から被害へと発展した。一つの慰めはハノーファーという領土を与えられたことだったが、7月の終わりにはルケシーニが、ナポレオンによるイギリスへのハノーファー返還という秘密の提案を報告した。

 ルケシーニの、対仏同盟の味方とも敵ともどちらとも取れる振る舞いで彼は、宮廷の「主戦派」への誠意を示さなければ激しい非難にさらされた。それゆえ彼は、7月29日にパリから外交特使経由で報告を送った。ロンバルトがヤーマスからの報告を読んだ時、そこにはハノーファーはプロイセンから取り上げられるであろうと書かれていた。ロンバルトの任務の中には、このような全ての秘密条項を王に伝えるということも含まれていた。このフランス人のごまかしの言葉は、熱狂的な一触即発の状態を作り出した。「最初の伝令使が8月の5日か6日にベルリンに到着した時、それは異常な興奮状態を作り出した。二番目の伝令使も9日に到着したが、最初の伝令使によって作られた効果を増大させただけだった。それはあっという間に爆発的状態となった。」

 プロイセン人達の興奮はフリードリヒ・ヴィルヘルムを説得しようとする中でもますます増大し、戦争の炎をかき立てた。ナポレオンによる、さらなる屈辱がもたらされるという噂ももたらされた。シュタイン、ルイ・フェルディナンド王子、それにリュッヘル将軍とブリュッヒャーは、憤然たる抗議の行進を先導した。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまさにその日に、軍隊の一部を動員した。


 8月7日について何も書いてない辺りからしてすでに、レトリックが重視され(過ぎ)ていると思うんですが……。最初の伝令使がハノーファーの件だったとして、二番目の伝令使の内容とか、「さらなる屈辱の噂」とか、内容が何も書かれてないじゃないですかー。「まさにその日に、軍隊の一部を動員した」の「まさにその日」っていつなのかとかも、この文からだけでは分からないし……動員開始日は、『Jena 1806: Napoleon Destroys Prussia』によると8月10日ですが、『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』P172によると8月9日となっていました。

 ただ、なんか当時のベルリンの雰囲気は良く伝わるような気がします。そういう辺りの記述も、資料があれば知りたいところではありますし……。

 この辺りの文に付いている注を見ていると、Thiersというのが多くて、アドルフ・ティエールの著作から引かれているのが多いっぽいんですが、その本はフランス語版だけで英語版はない?かと思われるので、当然パスするということで……(^_^;


 以下、2016年3月4日追記:

 すみません、R/Dさんのブログをまとめて印刷したものをたまたま読んでいたら、ティエールの英訳本について書いてありました(^_^;

バイレン 史料

 英訳本はこちら→ History of the consulate and the empire of France under Napoleon, tr. by D.F. Campbell

 
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Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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