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プロイセン軍のプゥール将軍について調べてみました

 プロイセン軍のプゥール将軍について調べてみました。

 プゥール(プフュールとかプフルとか、色んな書き方がされてます)将軍というのは、1806年のちょっと前(1803年?)からのプロイセン軍の3人の参謀の一人で、たとえば以下のように書かれています。

 ……三人もの人物が参謀長の責務を共同で担っていた。プフル将軍、シャルンホルスト将軍、そして「プロイセンの奇才」マッセンバッハ大佐である。彼らの考えはしばしば一致せず、自分たちの個人的な野望のためにお互いによく正面衝突した。
『ナポレオン戦争 第三巻』P32


 この新構想の下に編成された兵站幕僚部は、同じくマッセンバッハ・プランに従って三班に分けられた。東方班はヴィトラ川右岸を担当して班長はフォン・プゥール少将(von Phull)、南方班はマッセンバッハが班長で中央ドイツ、南ドイツ及びシュレージェンを担当した。そして第三班、つまり西方班が西ドイツを担当し、班長がシャルンホルストである。
『ドイツ参謀本部』P60、1



 偉大なるシャルンホルストについてまとめることなんてとてもできませんが、マッセンバッハに関しては「プロイセンに付きまとう悪魔」マッセンバッハで一応一度まとめました。で、プゥールについても気になっていたので調べようと思ったのですが……。

 しかし、彼について見つかる記述が少ない少ない(^_^;

 とりあえず、例えば、

 フォン・プゥール少将は改革の必要こそ認めてはいたものの、元来は知識をひけらかすのを好むタイプで、いつも機嫌の悪い人間だった。
『ドイツ参謀本部』P61


 とか、

 プロイセンにおける主戦派は、王妃ルイーゼを筆頭に、ルイ・フェルディナント、ホーエンローエ公、リュッヘル、ブリュッヒャー。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその相談相手であった風見鶏のプゥールは躊躇中。ブラウンシュヴァイク公は和平派の筆頭で、それにカルクロイトとシャルンホルストも属していた。
『Jena - Auerstaedt:The Triumph of the Eagle』P4



 とかがありましたが、しかしその程度。そもそも実際に1806年戦役が始まってしまうと、彼の名前は全然出てこないのです。

 むしろ彼の名前が出てくるので目に入るのは、1812年のロシア戦役における、皇帝アレクサンドル1世の助言者としてでした。

 例えば……

 こうした机上の戦術家のなかで、もっともツァーリの信頼を得ていたのは、衆目の一致するところプロシャのプフュール将軍で、彼は、ジュリアス・シーザーとフリードリヒ大王の戦法から学んだというふれこみだったが、ロシアの政治軍事情勢にはまったく無知で、公には何の地位もなく、兵士たちの言葉を話すことさえできなかった。
『アレクサンドル一世』P261


 年功と能力に関するリストの最後を飾るのは、プロイセン士官のプフル将軍である。彼は不幸にもこの時期皇帝(ツァーリ)の特別な恩寵を受けておらず、臨時顧問の肩書きで従軍していた。名残惜しくもない1806年の戦闘におけるプロイセン参謀の一員として、彼の能力はとりわけ傑出したものではなかった。だがロシア軍の「陰の助言者(エミナンス・グリーズ)」として、その影響力は過分かつ分不相応なまでの重要性を備えており、1812年のロシア戦略が具現化される際に、このプロイセン人は大きな役割を果たしたのである。
『ナポレオン戦争 第四巻』P124


 確かにドリッサ駐屯地の大要塞化(プフルお気に入りの案である)は完了していたが、同地は戦略的な理由からまったく当てにならなかった。
『ナポレオン戦争 第四巻』P139



 ドリッサというのは一体どこかということなんですが、

Russia 1812 - The Road to Moscow

 の地図が分かりやすかったです。地図上で、ナポレオンやバルクライ・ド・トーリィが最初に北上した辺りにあります。


 ところがこれらの本にはこれ以上(多分)彼の名前が出てこないので、それでいったいどうなのか、どうなったのかということが分からないのですが、『ナポレオン一八一二年』にはかなり分かりやすい記述がありました。

 ……アレクサンドルは故意にナポレオンを広大なロシアの領土に引きずり込んで、本土から引き離すことによって彼を破滅に導こうとしているわけではなかった。西部地区をそう簡単に明け渡しては、皇帝(ツァーリ)の作戦は意気地がないと激しく抗議されるにきまっている。彼は出来るだけ西に拠点を置くことに決め、ドリッサの要塞を基地にしてドヴィナ河沿いの防衛線を12万の軍隊で固めさせた。
 だが、どんな要塞なら敵の機動作戦に対応出来るのか? 時代はもはや中世ではない。要塞を包囲する必要はなく、これを迂回して孤立させることだって可能だ。ドリッサ要塞を皇帝(ツァーリ)に提案したのはプロイセン人の軍事顧問プフール大佐だった。彼はこの防衛施設の建設に2000人を投じ、6ヵ月かかって完成させた。この要塞は離れ島が堅固という意味でなら確かに守りは堅かったが、島と違って果てしない陸に囲まれている。視察に来たベニグセン参謀総長は、馬鹿なものを造ったと思った。これでは敵を遮断するどころか逆に味方から遮断される。要塞の裏手にはドヴィナ河の支流、ドリッサ河が流れていた。これは防衛になるか、それとも撤退時の障壁になるか? ベニグセンは「選りにも選ってこれほど不利な地点に建設された要塞を見たことはないと愕然とした」と報告している。かりに戦略上ここを保持する必要があるにしても、「位置的に極めてやりにくい。」味方同士は支援しにくく、敵は茂みやくぼみに隠れながら接近出来る。砦の両翼には浅瀬もあった。フランス軍なら砦の背後に回ることも、これをまったく無視することも出来るであろう。当時ロシア軍に従軍していたクラウゼヴィッツもベニグセンに同意した。プフールは理論家に過ぎず、戦闘というものを書物でしか知らないばかりか、ロシアについての知識もなく、ロシア語すらしゃべれなかった。
 ドリッサ要塞の放棄、それに引き続くプフールの不面目は、ロシアの無策と、皇帝の総司令官としての不適正を露呈した。アレクサンドルは有能な軍人ではなかった。
『ナポレオン一八一二年』P58,9



 ここまで見てくると、プゥール将軍はかなりダメダメな人物に見えます(^_^; 尤も、ロシア語が喋れないということはそこまで問題なのだろうかという気がするのですが、どうなんでしょう……?(同じくロシア軍に参与していたクラウゼヴィッツとか、あるいはヨルク将軍とかってロシア語が出来たのでしょうか? ヨルクはブリュッヒャーと同様、ドイツ語を読み書きすることさえ問題があったらしいですが……)


 ところが、英語版Wikipediaを見て驚愕! そこにはプゥールがロシアの焦土戦術の提唱者(であるかもしれない)というようなことが……。

Karl Ludwig von Phull
 カール・ルードヴィヒ・フォン・プゥール(あるいはPfuel)(1757年11月6日~1826年4月25日)はプロイセン王国とロシア帝国に仕えたドイツ人の将軍。プゥールはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の参謀総長であった。ロシア軍に仕えた時には、ナポレオンのロシア侵攻に対して焦土戦術を首尾良く主導した。

 プゥールはブランデンブルクのPfuel家のヴュルテンブルク系統で、Ludwigsburgに生まれた。彼はシュヴァーベンの将軍であったCarl Ludwig Wilhelm August von Phull(1723-1793)とAuguste Wilhelmine von Keßlau (1734-1768)の息子である。

 プゥールの最初の結婚は1790年5月2日にポツダムで、Henriette Luise Charlotte von Beguelin (1763-1810)の間で行われたが、彼らは1800年に離婚した。彼らの間には一人の娘、Emilie Hernriette (1792-1864)が生まれていた。プゥールは1801年9月18日にCharlotte Poths (1766-1808)と再婚したが、この2回目の結婚も1803年に破局。プゥールとPothsの間には一人の息子、Eugen (1801-1857)が生まれた。プゥールは1810年10月4日にベルリンで、Sabine Henriette von Wedel (1773頃-1840)と3度目の結婚をしたが、この結婚も最終的には離婚に終わった。

 プゥールは1777年にプロイセン軍に入り、フリードリヒ2世の近くで仕え、1781年にプロイセンの幕僚の一員となった。第1次対仏同盟の1793年のライン戦役に参加し、1798年には大佐、1805年には少将へと昇進した。1804年以来、参謀事務次官【? the Departementschef of the General Staff】として、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いの時にはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の参謀総長であった。

 第4次対仏同盟におけるプロイセンの破局の結果、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はプゥールをロシア皇帝アレクサンドル1世に仕えさせることにした。プゥールはこのロシア皇帝の信頼を勝ち取り、ロシア軍少将となり、アレクサンドルに軍事戦略を指導した。

 ナポレオン・ボナパルトのロシア侵攻に対してロシアが焦土戦略で挑むということに関して、プゥールがどう関与したかには議論がある。1812年9月14日にナポレオン・ボナパルトがモスクワを撤退した後、プゥールはロシア将校達からの突き上げによりスウェーデンを経由してイギリスへと逃げざるを得なかった。1813年12月12日のプゥールへのアレクサンドルからの手紙にはこうある。「神の導きによりて、ロシアのみならずヨーロッパ全体を救う結果になったかの計画を着想されたのは、あなたでした。」[注1:Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Bd. 26, Leipzig 1888 page 93]

 1813年にはハーグで、ネーデルラントのフレデリック王子【1806年のオラニエ公であったのちのオランダ王ウィレム1世の次男で、1815年にオラニエ公であったのちのウィレム2世の弟にあたる。母はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妹であり、16歳の時にはライプツィヒの戦いにも参加。ワーテルローの戦いの時には18歳で約10,000名のネーデルラント軍部隊を指揮していたが、それを受け入れさせられたウェリントンの意図的にか、あるいは幸運でか、会戦から西に離れた警戒部隊の中におり、戦闘には参加しなかった。】を指導した。1814年のパリ陥落後、プゥールはハーグとブリュッセルにおけるロシア大使に任命された。彼の機知に富んだ3番目の妻であるSabine Henriette von Wedelはブリュッセルにおいて評判の高い家を作り上げた。妻が感情的に不安定になり、プゥールは1821年にシュトゥットガルトに引退し、そこで5年後に死去した。



 ううーん、焦土戦術の主導者、というこの説はどうなんでしょう……。「議論がある」とは書いてますが(^_^; アレクサンドル1世の手紙の内容が傍証ということなんでしょうけども、アレクサンドル1世はものすごく外面の良い人間であった(それでナポレオンもだまされた)らしいので、信用できるのかなぁという気が個人的にはしますが……。

 ただ、説としては面白いので、できるなら傍証をもっと知りたいですね。


 その後、プゥールの肖像画がないかなぁと思って画像検索していたら、肖像画と共に、かなり納得できる感じの記述のページを見つけました。

Weapons and Warfare History and Hardware of Warfare


Karl Ludwig August von Pfuel, (1757-1826)
 しばしば「プゥール」と呼ばれることもあるプフュールは、有名なヴュルテンブルクの貴族の家に生まれた。彼は1774年にヴュルテンブルク軍に入り、1779年にプロイセン軍へと移った。1781年初頭にプフュールはプロイセン幕僚の一員となり、対仏戦役に参加。1806年のプロイセン崩壊の後、彼は1807年1月8日にロシア軍に入り、少将の位を授けられた。
 1809年9月11日に中将へと昇進し、彼は1810~1811年にかけてロシア軍総司令部において、ドリッサ計画として知られる、フランス軍が侵攻してきた場合のロシア防衛のための戦略的計画を立案した。この計画は、第1西方軍が要塞化された野営地へと退却してそこにフランス軍を拘束し、その間に第2西方軍が敵の側面や後方へと攻撃を行うというものであった。この戦略の大きな欠陥にも関わらずプフュールを完全に信頼していた皇帝アレクサンドルは、多くのロシア軍上級将校達の反対をよそに、そのための要塞をドリッサに建設することを命じた。1812年の戦役が始まった時、アレクサンドルは自軍をドリッサに配置することの危険性を理解し、ミハイル・バルクライ・ド・トリー将軍にロシアのさらなる奥地へと撤退することを許可した。プフゥールはサンクトペテルブルクへと呼び戻され、1813-1814年戦役の間は、いかなる軍事的意思決定にも参加することはなかった。戦後、彼はオランダのロシア大使に任命され、そこで1821年に退官するまで務めた。彼は1826年4月25日に亡くなった。


 『The Russian Officer Corps in the Revolutionary and Napoleonic Wars, 1792-1815』という本を元に書かれたもののようですが、本の方も気になりますが、サイトの方がより気になりました(^_^; このサイトはなんかすごいサイトなんでしょうか……?





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