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あっけなく降伏したエアフルトの司令官は誰か?

 イエナ・アウエルシュタットの戦いの翌日(10月15日)におけるクライマックスは、エアフルトの降伏であるように思われます。

 地図を見るとエアフルトは、イエナ・アウエルシュタットから(ハレと共に)近い距離にある「プロイセン領内の」都市であり、未だフランス軍にとって無視できないほどの兵力を持ってはいたプロイセン軍はこのエアフルトやハレを拠点としていくばくかのことができたと考えられた……そうです。

 ↓今まであげていた地図の都市の位置が若干よくなく、修正しました。
1806_1812Map02ヴァイマル用地図01ct



 ところがエアフルトは、そこに集まってきていた8000~9000程度の兵と共にあっけなく降伏してしまったのです。しかもそのエアフルトの降伏に責任があると見なされたのは、かのオラニエ公(父。後のウィレム1世)であったらしいということを今までいくらか見てはいたのですが、詳細についてまったく分かってませんでした。

 ……というか、上掲地図の左上に少し見えているオレンジ色の部分はオランダなのですが、この当時のオランダはルイ・ボナパルトの統治によるホラント王国?(ルイ・ボナパルトのWikipediaによると「ルイは1806年6月22日にハーグに入り、バタヴィア共和国はホラント王国と名を改めて、ルイはホラント王ローデウェイク1世となった。」とありますが、その6月22日がホラント王国の成立日なのかどうかよく分からない……)

 で、Wikipediaのウィレム1世の項によると、

1795年、フランス軍の侵攻により共和国が崩壊すると、父に従ってイギリスに亡命した。1799年にはイギリス軍に加わって、フランスの属国となったオランダ(バタヴィア共和国)に侵攻したが撃退された。父ウィレム5世は亡命中の1802年にオラニエ公の称号(祖父ウィレム4世以降は名目のみとなっていた)とともに家督を譲り、1806年にドイツで死去した。

プロイセン軍に参加していたウィレムは1806年のイエナ・アウエルシュタット戦役のうちのアウエルシュタットの戦いで戦ったのち、その2日後にエアフルトをフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏に関して、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義理の兄となっていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が介入したため、処罰を免れた[1]。

 

 と、そういえば祖国を失って外国の軍に参加していたのでしたね……軽く失念していました(^_^; ドイツに来ていた経緯とか状況とかも知りたいところですが、それはともかく。


 諸資料でエアフルトの降伏について調べてみました。

 まずは『1806 Coming Storm』(P65)。

エアフルト
 ヴァイマール公爵はその時ちょうど20km東にいて、エアフルトの高地に近づいていた。その町の中は悲惨な様子だった。6000人の負傷兵がおり、そのほとんどの者は死にかけだった。それゆえここは大軍が留まるには適しなかった。メレンドルフ元帥はこの様子を見て、Langensalzaへと退却を続行することを決めた。近づきつつあるヴァイマール公の部隊は平静で堅固な状態を保っており、援護部隊として行動するために準備をしつつあった。彼の歩兵と砲兵はHarzへと向かい、その間ヴァイマール公は西方の高地に彼の騎兵を配置させた。

 プロイセン軍騎兵がGera川を渡ろうとしており、それらがフランス軍騎兵に追撃されているのが彼には見えた。彼の軽砲兵による砲撃で彼らは追い返された。彼は部隊の出発を急ぐようにと、何度も何度も町の中に伝令を送った。荷馬車は出発したが、部隊の出発は遅れていた。

 午後2:30、フランス軍のPreval大佐が停戦の旗を持ってエアフルトに到着し、即座の降伏を求めた。衛兵は彼に待つように要請した。将軍達は会議室に集まった。フォン・メレンドルフ陸軍元帥(Wichard Joachim Heinrich von Mollendorf)は依然健在である8~9,000のプロイセン兵およびザクセン兵に望みをかけることができていた。この84歳の元帥は、誰もが忘れることのできないリーダーであり続けてきた。ロイテンの教会付属の庭での彼の輝かしい指揮は50年の昔の話であった。だが誰かが降伏を提案した時、彼は激しく興奮し、何とか塞がっていたアウエルシュタットで受けた傷が開いてしまった。メレンドルフ元帥は意識を失い、部屋から運び出されることになった。この元帥が倒れるのを見て、司令官【the commandant】は彼の運命と諦めた。

 この間、ヴァイマール公は暗くなるまで町の外で待っていた。少数の敗残兵達が出てきて、降伏が差し迫っているという消息を伝えた。その後ヴァイマール公はLangensalzaへと出発した。

 その晩遅く、エアフルトは付属の強力な要塞であるPetersbergとCyriaxbergごと、大量の火薬弾薬と共に降伏した。午後10時、ネイの第Ⅵ軍団がこの町の門をくぐった。



 ヴァイマール公の健闘、メレンドルフ元帥の冗談のようなエピソードが印象的です。ちなみにメレンドルフ元帥については、『ナポレオン戦争 第三巻』においてこう書かれています(P31)。

 主席王室顧問であるフォン・モレンドルフは82歳とさらに年上であった。彼はフリードリヒのもとで素晴らしい成功を欲しいままにしたが、過去30年間は安全で用心深い方策を勧めることによって、名声を維持することにのみ汲々としていたのである。



 それはともかく、「降伏を決定した」のは誰なのか? 『1806 Coming Storm』では「the commandant」がそれに当たりそうですが、それが誰なのか明示されていません……。


 で、次に参照したのが『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』です(P193)。

 ミュラは騎兵予備の半分と共にエアフルトに向かい、その間残りはスールトを援護してButtelstedtへと移動することになっていた。15日の正午少し前にミュラはエアフルトの前に到着し、そこでLarisch【プロイセン軍の少将】が町の外の北へ向かう高地上に、Gera川と町を背にして整列しているのを発見した。Larischの位置は川の峡谷で町を後ろにするという悪いものであったため、フランス軍が現れると、彼は麾下の歩兵を要塞へと退却させた。彼の騎兵はその退却を援護しようとしていたが、ミュラの数に勝る騎兵に引きずられて橋で川を渡られてしまい、1個砲兵中隊が押し込まれて捕虜となってしまった。エアフルトの弱体な要塞の中に今や、10,000から12,000のプロイセン兵が集まっていた。最初に逃亡兵がエアフルトに到着した始めた時には、賢明にも彼らを中に入れないようにすることが計画された。ところが幾人かの将校が、彼らの名前は突き止められていないのだが、この命令を取り消し、それゆえエアフルトの町は混乱した部隊でいっぱいになり、この場での再編成は不可能となってしまったのだった。

 これらの逃亡兵達をこの要塞に入れるのを許可したのは、致命的な失敗であった。この状態の彼らは残念ながら、要塞化されて安全だと思われる場所に避難することだけを考えていたのである。彼らを再びそこから出発させるというのは、まったくの問題外であった。

 メレンドルフ元帥は、エアフルトが明らかに大軍がいるのに適さないと見て、適切にもLangensalzaへの退却を続行することに決定したが、それを援護するのはヴァイマル公の部隊であり、この部隊は戦いを経ておらず、形はどうあれ士気阻喪していなかった。彼は荷列に直ちに出発を命じ、騎兵には午後4時に出発し、歩兵にはその一時間後に出発することを命じた。公もまた、エアフルトから急いで離れるべきである必要性を見て取り、彼の歩兵と重砲兵を午後1時に送り出す一方で、その彼の隊列とエアフルトにいる部隊の隊列の行軍を援護するためにエアフルトの西の高台へと彼の騎兵と騎馬砲兵を移動させた。この場所から彼は、Gera川を渡って退却するLarischの騎兵を追撃してくるフランス軍騎兵に砲撃を食らわせ、それらを止めることに成功した。彼はエアフルトの中に何度も何度も、部隊の行軍を急ぐように伝令を送ったが、無駄であった。

 午後2時30分頃、フランス軍のPre'val大佐が休戦の旗を持ってエアフルトに到着し、エアフルトの降伏を求めた。最初、その司令官【the commandant】は抵抗すると言っていたのだが、すぐに彼の勇気は雲散霧消してしまい、交渉が開始された。老いて、かつ激しく負傷していたメルレンドルフ元帥は必死で自らの義務を果たそうとしたが、興奮して傷口が再度開いてしまい、彼は気絶した状態で会議室から運び出された。その夜に降伏が調印され、そのために少なくとも10,000のプロイセン兵とザクセン兵が捕虜としてミュラの手に落ちた。ネイの歩兵が到着し始めたのは午後10時よりも後であり、ミュラの騎兵の戦力はエアフルトの守備隊の戦力にまったく及ばなかったのにである。エアフルトのみならず、強力な砦であったPetersbergとCyriaxbergも降伏し、そこには膨大な火薬と弾薬とが貯蔵されていた。このエアフルトの降伏こそはその後に続いた気弱なプロイセン軍司令官達の降伏の連鎖の始まりであり、プロイセン軍の逆境を激しく増大させ、ナポレオン軍の機動を容易にさせた。もしエアフルトがたとえ数日でも保持されたならば、皇帝がマグデブルクへと追撃のために発することのできた大部隊のうちのかなりの部分を、その面前に拘束したに違いないのである。



 こちらの方が文章量が多くて詳しいのですが、これも「the commandant」と書いてあってしかもそれが誰であるのか明示されてない。ただ、エアフルトがもし降伏しなかった場合の影響について書いてあるが目を引きます。


 それと前後して参照してみたのが、英語版Wikipediaにあった「Capitulation of Erfurt」の項。

■降伏
 14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いの後、多くの避難民がエアフルトに来た。最初、彼らは入ることを拒絶されたが、のちにその複数の門は開けられ、すぐにエアフルトは少なくとも12,000名の士気阻喪した兵士達でいっぱいになった。幾人かの将校らは彼らを元の連隊に戻そうとしたが、兵士達はそれに従おうとしなかった。15日の昼までに、ミュラは彼の騎兵の先頭部隊と共にエアフルトの近くまで来ていた。von Jung-Larisch少将がエアフルトの正面の戦線に立っていた。彼の占めていた位置はGera川を背にした良くないものであったため、彼は麾下の歩兵にエアフルトに退却するように命じた。ミュラの騎兵はJung-Larischの騎兵に突撃して川向こうに追いやり、1個砲兵中隊を捕らえた。この行動の損失は記されていない[10:Petre,193]。

 ザクセン・ヴァイマール公の師団は10月14日の戦いを経ておらず、エアフルトの西にすぐに現れた。メレンドルフ元帥は北西のBad Langensalzaに向けてエアフルトから秩序正しい退却を組織することを試みて、ザクセン・ヴァイマール公にこの移動を援護するよう命じた。荷馬車列がこの退却の先頭となり、騎兵がそれに続き、その後に歩兵が続くことになっていた。だがアウエルシュタットの戦いで負傷していたメレンドルフは倒れてしまい、この行動を遂行することは不可能となった[11:Petre,194]。

 午後2:30、ミュラはフランス軍大佐Claude Antoine Hippolyte Pre'valに休戦の旗を持たせてエアフルトに赴かせた。この大佐は即座の降伏を要求したが、プロイセン軍側の要塞司令官は最初これを拒絶した。エアフルト近くに留まっていたザクセン・ヴァイマール公は多くの部隊が退却に参加することを望んでいたが、そうした者はほとんどいなかった。夜になって、ザクセン・ヴァイマール公はLangensalzaに向けて退却した。Johann Friedrich Winning将軍の派遣部隊と合流した後、彼は12,000の兵と24門の大砲を、14個大隊、30個騎兵中隊、3個砲兵中隊の中に持つこととなった[12:Petre,195]。

 メレンドルフ抜きで、この要塞司令官【the fortress commandant】の決心は弱まり、砕けた。この夜、彼は降伏文書にサインした。その条項にはPetersberg要塞と大量の弾薬と弾丸の引き渡しも含まれていた[12:Petre,195]。

 結局、オラニエ公の指揮下にあった約12,000のプロイセン兵とザクセン兵が捕虜となり、65門の大砲が接収された。



 注釈の「Petre」というのは前掲の『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』の著者で、基本的にそれをもとに、少し情報が追加されて分かりやすく書かれているようです。が、降伏したという「the fortress commandant」の名前がまたもや書かれていないような!? ただ、最後の行に「オラニエ公」の名前が出てきます。「どういうことやねん……」と怪しんでいたら、このページの一番上の右のまとめ的な部分の「Commanders and leaders」の項には「Prince of Orange」とばっちり書いてあるのを発見。

 『ということはやはり、ここまでの資料に出てきた「the commandant」とはオラニエ公のことなのか? しかしなぜその名前をはっきり明示しないのか???』

 と疑問だらけ……。


 ところがその後、『Clausewitz Excerpts from Notes on Prussia 1806』という資料を見つけて読んでみたら、ごく短い文であるにも関わらず、メレンドルフ元帥の代わりにオラニエ公がなっていたことが注釈に書かれていました。

 フランス軍のミュラはまだエアフルト正面におり、そこでメルレンドルフ元帥は約14,000名の兵士と共に16日の朝に降伏した(注:正式な降伏調印は15日から16日にかけての夜におこなわれた。倒れていたメルレンドルフ元帥の代わりをオラニエ公が務めていた。14,000ではなく、約10,000名が降伏した - W.D.Files,E III,64.)



 その後に『Jena to Eylau』を見たのですが、ばっちりメレンドルフ元帥の代理となっていたオラニエ公が降伏したことが書かれていたという……(P9)。

 一方その間、15日には、エアフルトが不名誉にもほとんど必然性を欠いたまま、ミュラの騎兵に対して降伏していた。敗走する部隊の中で最も階級の高かったメレンドルフ老元帥はこの地に到着し、激しい疲労のために部屋に運び込まれていた。その代理となっていたオラニエ公がエアフルトの降伏に調印したのであったが、これはオラニエ公が王と義兄弟でかつ王の将軍となっていたことに対する二重の裏切りであった。この要塞司令官は意志の弱い人物で【The fortress commandant, a weak man,】、この降伏を受け入れ、その場にいた将軍達も誰も反対しなかった。良好な状態に保持され、Langensalzaへ向かっての行軍の準備を完了して待っている部隊もあった。だがその移動は実行してみようと試みられることもなく不可能だと判断され、またその試みがもし失敗してしまったらという最悪の可能性が根拠もなく、また検討されることもなく皆に受け入れられたのであった。



 私のそれまでのもやもやを返せ~!! しかしなぜ最初の方に挙げた文献は、オラニエ公の名前を明示しないのでしょうか? フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妹の夫だから? って、むしろそこらへんを最も斟酌しそうなドイツ帝国将校の『Jena to Eylau』の著者のゴルツがちゃんと書いてあるのに、恐らく最新の本である『1806 Coming Storm』(ただし研究本というよりはゲーム向けの面白資料本により近い可能性も……?)にも書いてないということはなんらかの意味があるのでしょうか?


 ところで、前掲書はその後次のように続きます(P10)。

 自らの軍団と共に近づきつつあったヴァイマール公も、エアフルト要塞の中や周辺に群がっている部隊を撤退させるために真剣な努力は傾けなかった。ところがそのような中、その後の18日にPletzユサールのvon Hellwig中尉はエアフルトから護送されている途中の約4000名の捕虜をGothaとEisenachの間で奪回するという非常に大胆なことをやってのけた。現在ではこの英雄の名前はほとんど忘れられてしまっているが、大きな災厄の中での偉大な行為という二重の意味で、不朽の名声を得るのに値するであろう。



 別の資料(とりあえず「エアフルトの降伏」の英語版Wikipediaにあるのは確実)で、この「捕虜を奪回される」という失態を犯したフランス軍指揮官はナポレオンに大激怒されたと書いてあったような気がします。これは確かに、プロイセン軍の中の誉められるべき例であるように思います。


 あと、メレンドルフ元帥ですが、『1806 Coming Storm』では「誰かが降伏を提案した時、彼は激しく興奮し、何とか塞がっていたアウエルシュタットで受けた傷が開いてしまった。」と非常に印象的だったのですが、『Napoleon's Conquest of Prussia - 1806』では「老いて、かつ激しく負傷していたメルレンドルフ元帥は必死で自らの義務を果たそうとしたが、興奮して傷口が再度開いてしまい、彼は気絶した状態で会議室から運び出された。」と若干トーンダウン。ところがそれが『Jena to Eylau』では「敗走する部隊の中で最も階級の高かったメレンドルフ老元帥はこの地に到着し、激しい疲労のために部屋に運び込まれていた。」と、そもそも会議に出ることもなく倒れていたかのように書かれています。Wikipediaではメレンドルフがなぜ倒れたについては言及しておらず、そこらへん用心深さを感じます。

 個人的には、メレンドルフ元帥が「降伏の提案を聞いて激しく興奮して倒れた」のであったならば、その代理となったオラニエ公が降伏を決めることはむしろ難しくなったのではないかという気がします。むしろその会議の場に出ることもできず倒れていたならば、オラニエ公としては降伏するしかないと思った、というのの方があり得るような……。また、『ナポレオン戦争 第三巻』にあるような「安全で用心深い方策を勧めることによって、名声を維持することにのみ汲々としていた」というメレンドルフ像にもその方が合致するような気がします。


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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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