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北アフリカで第4インド歩兵師団を指揮し、後にモンテ・カッシーノの破壊を主張したトゥカー将軍について

 『Fighting Rommel: The British Imperial Army in North Africa during the Second World War, 1941-1943』を再び読み始めたのですが、北アフリカでの英連邦軍の改善について色々主張していたというフランシス・トゥカー将軍について頻繁に触れられているので、まずはトゥカー将軍について簡単にまとめておこうと思い、資料を漁ってみました。


 資料としては、現在手持ちでは↓に項目があったのでそれと、Wikipediaを参照しました。

『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』

英語版Wikipedia「Francis Tuker」



 写真はここですとか。




 フランシス・トゥカーは第1次世界大戦ではグルカ連隊の将校としてオスマン帝国に対する戦闘に参加し、作戦の改善に関する論文を書くなど、この頃から批判的、あるいは執筆系の人物である傾向を示していました。軍隊内でのニックネームは「ガーティー(Gertie)」であったそうですが、何に由来してなのか今回参照した資料には書かれていませんでした。「ガーティー」は普通、女性の名前として使われるようです。

 戦後は帰国してキャンバリーの参謀大学で学び、その後またインド軍でグルカ部隊などを指揮。

 1940~41年にはインド軍の軍事訓練局長を務め、1941年10月1日に新編の第34インド歩兵師団の師団長に任命されました。

 その2ヵ月後の12月30日(クルセイダー作戦後の、ロンメルがエル・アゲイラなどに退却していた時期)には、地中海戦域の第4インド師団長の職務をフランク・メッサーヴィから引き継ぎます。この時の退任メッセージで同師団には「NONSTOP」というコードネームが与えられ、その名にトゥカーは相応しかった……と『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』には書かれているのですが、英語版Wikipedia「4th Infantry Division (India)」にはそのようなコードネームについては何も書かれておらず、むしろその師団マークから「赤鷲(Red Eagle)師団」として知られていたそうです。

4th indian infantry div



 ↓OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団。

unit9746.jpg



 第4インド歩兵師団はそれ以前のコンパス作戦、エチオピア(東アフリカ)での戦いでも非常に活躍した師団でしたが、トゥカーはその後3年間、同師団の師団長として指揮し、この師団を自分の理想とする戦闘部隊に育てあげました。ウェーヴェル将軍は後にこの師団についてこう評したそうです。

「この師団の名声は、第10軍団【カエサルが最も信頼した軍団】、半島戦争の軽師団【ウェリントン麾下の最も強力な師団】、ナポレオンの老親衛隊などと並び称される、戦史上最も偉大な戦闘部隊の一つとして語り継がれるに違いない。」


 トゥカー将軍は戦後の書籍でも、「独創的で独立した精神」(『Plain Cook and the Great Showman: First and Eighth Armies in North Africa』P202)、「ほぼ確実に、西方砂漠(北アフリカ戦域)における最も優れた戦術家」『Fire-Power: The British Army Weapons & Theories of War 1904–1945』P242)と評価されているそうです。


 ところがトゥカー将軍の名前は、欧米においてもほとんど知られていないらしく、その理由として、『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』には大きく2つが挙げられています。

 トゥカーは他者の愚行を許容できず、特に、彼がもっと有能であるべきだと考える上官や同僚の軍団司令官達を目の敵にしたため、結果として多くの重要人物をこき下ろしてしまったのだ。【……】トゥカーに不利に働いたもう一つの単純な要因は、彼の健康状態だった。トゥカーは関節リウマチの発作に悩まされ、しばしば重要な場面で病床に伏すことになった(師団長ともなれば、ほとんどの場面が重要な場面であるが)。結局1944年2月、トゥカーは関節炎により、彼が愛した第4インド歩兵師団の指揮権を放棄しなければならなくなった。
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』P81


 前者の傾向性について、同書では他にもこういう記述がありました。

 しかし、トゥカーは物事を主張しがちで、馬鹿にされるのを恐れず、常識に反するほど高くつくやり方を要求したため、思うような支持は得られなかった。

 トゥカーは、同時代の人々からは強引すぎると思われていたかもしれないが、同時に、優れたトレーナーであるという評判を得ることができた



 オーキンレックは、トゥカーの唯一の欠点は「常に地に足を付けてないこと」だと言ったそうです。



 トゥカーはイギリス軍の装備や戦術を批判し、改善を主張。トゥカーの三原則は「機動的装備群を、勝敗を決する会戦地点に送り込み、そして決定的勝利を得る」というものでした。


 ガザラの戦いの時には第4インド歩兵師団はまだ訓練中であったため、トゥカーは北アフリカにおける英連邦軍のオブザーバーとなることを要請されます。ところが、第8軍司令官リッチーは早速に、トゥカーが認めることができないような行動に出ました。側面を守るために、互いに連携できない距離に部隊を分散させてしまったのです。しかも、リッチーが構築していた地雷原は、士気と訓練度が高ければ機能したかもしれないものの、それだけの質を第8軍はまだ得ていなかったのです。

 トゥカーは英連邦軍の左翼を指揮するために派遣されましたが、バラバラの部隊が連なっていたため、自衛するには弱く、再編成するには機動力が足りず、意味のある反撃をするには力不足であり、崩壊してしまいます。むしろロンメルの側が、トゥカーの三原則 - 「機動的装備群を、勝敗を決する会戦地点に送り込み、そして決定的勝利を得る」を実行したのでした。

 戦闘開始から11日目の6月6日、トゥカーは中東戦域軍司令部に戻り、オーキンレック自らが第8軍の指揮を執るように要請しましたが、オーキンレックはこれを拒否。1週間後、第8軍はガザララインを放棄して、混乱したまま東へ撤退。結局オーキンレックは、6月25日になってリッチーを罷免し、自ら指揮を執ることを余儀なくされたのです。



 戦線がエル・アラメインに移り、中東戦域軍司令官がオーキンレックからハロルド・アレクサンダーに代えられ、第8軍司令官はモントゴメリーに代えられました。

 トゥカーはアレクサンダーについてこう書いていたそうです。

 私の会った高官で、アレクサンダーほど知性の片鱗もない司令官はいない。彼がかつて正しい作戦はもちろん、作戦計画なるものすら作ったのを見たことがない。たぶん一度も作らなかったのだと思う。イタリアでは、作戦を担当しようとさえしなかった。彼には自分の戦術がない。万事風の吹くまま、流れるままだ
『ビルマ 遠い戦場(上)』P68



 トゥカーはモントゴメリーについても、あまりに堅苦しく、想像力に欠ける人物だと考えており、最初は好ましく思っていなかった程度だったのが、後には反モンティ陣営にしっかりと身を置いていたそうですただし、モントゴメリーのやり方で勝利がもたらされた(そしてその後常勝であった)ことに関しては、たとえそれがトゥカー自身が考えていたほど見事なやり方ではなかったとしても、高く評価していたとか



 ↓OCS『Tunisia II』の第4インド歩兵師団ユニット。

unit8380.jpg




 チュニジアで、フォン・アルニム将軍の降伏に立ち会ったのはトゥカーでしたが、その勝利の瞬間に際しても彼は冷めていたそうです。
 私達はもう帰るから、アルニムに彼が持っているリボルバーとその他の個人的な武器を私に渡すように言った。彼はガチャガチャと音を立ててリボルバーをテーブルの上に放り投げ、次にペンナイフを投げた。私はリボルバーをジャケットの中に入れ、ペンナイフは私の幕僚に投げ渡した[......]アルニムの指揮車内での会話の間中、彼は自分達が何をされるかを恐れており、絶対に彼と部下達をフランス領アフリカ軍部隊に引き渡すべきではないと力説していた[......]私は、あなたと部下達は私の師団に引き渡され、あなた達の護衛はイギリス兵かインド兵かグルカ兵になるだろう、選択の余地はないと言った。私自身は、この会談では冷淡で無愛想だった。外交官でもない単なる軍人として、このような状況では、ドイツ軍司令官に対して少しも友好的な態度をとることはできなかった[......]戦争自体まだ勝利していないのだ[......]
『Command: How the Allies Learned to Win the Second World War』P97(原典はトゥカーの『Approach to Battle』P377-9)



 トゥカーと第4インド歩兵師団はその後、イタリア戦に参加。モンテ・カッシーノ修道院の破壊をトゥカーが主張したことに関しては、Wikipediaに詳しく書かれていたので引用してみます。

 トゥカーのイタリア滞在が終わりに近づいた1944年初頭、モンテ・カッシーノの戦いの最中、連合軍の司令官たちは、モンテ・カッシーノの修道院に対してどのような行動を取るべきかという論争を繰り広げていた。ドイツ軍はここを非軍事地帯と宣言していたが、多くの上級司令官は、ドイツ軍がこのような戦略的に重要な場所を占領しないとは信じられなかったのだ。トゥカーは、ナポリの書店で自分の師団が攻撃すべきモンテ・カッシーノの修道院建設の詳細を記した1879年の本を見つけた。彼は軍団長のバーナード・フレイバーグ中将にメモを書き、占領されないように破壊すべきだと結論づけた。彼はまた、少なくとも10フィート(3m)の厚さの石積みで作られた150フィート(45m)の高さの壁があるため、野戦工兵がこの場所を処理する方法はなく、また1000ポンド爆弾でも「ほとんど役に立たない」ため、ブロックバスター爆弾による爆撃が唯一の解決策であると指摘した。イタリアの連合軍を指揮していたハロルド・アレキサンダー将軍は爆撃に同意し(ブロックバスター爆弾は使用しなかった)、廃墟はドイツ軍に占領され、5月18日までその位置を維持した。



 その後トゥカーは重病になり、1944年2月から戦場の指揮を離れます。回復するまでの間、インド(セイロン島)方面の軽い任務をこなし、1945年7月14日にビルマの第4軍団の臨時司令官となりました(司令官のフランク・メッサーヴィが1ヵ月間休暇をとっている間)。そして7月から8月にかけて、日本軍のシッタン・ベンド作戦に対する戦いに参加しました。

 ……ということはつまり、現在作ろうとしているOCS『South Burma』(仮)の最終盤に登場する、ということになりそうです(軍団司令部ユニットだけですけど)。



 戦後は様々な執筆活動や芸術活動を行い、1967年に死去しました。


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