fc2ブログ

1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍について

 今回も、OCS『Crimea』の1943-44年シナリオに絡めまして。1943-44年にクリミアで指揮をとるも、クリミア放棄を何度も進言していたエルヴィン・イエネッケ将軍についてです。


Erwin Jaenecke

 ↑エルヴィン・イエネッケ将軍(Wikipediaから)



 イエネッケは1911年に士官候補生として陸軍に入り、その軍歴の大半を工兵部門で過ごしました。最初に注目されたのはスペイン内戦中のゲルニカ爆撃(「史上初の都市無差別爆撃」(異論あり)とも言われます)に参加し、下記のような報告をしたことによるものと書かれています。

「ゲルニカはそれ自体、ドイツ空軍にとって完全な成功であった」


 ポーランド戦では第8軍の兵站主任参謀、1940年5月1日(フランス戦の10日前)から1942年1月31日までベルギーとパリで兵站主任参謀(ドイツ語版Wikipediaによります。『ドイツ軍名将列伝』には第2軍や第9軍の兵站参謀であったと書かれています)。

 1942年2月1日から、イエネッケ中将はプラハにあった第389歩兵師団の師団長となります。同年4月に同師団は東部戦線へと移送され、第17軍麾下で同年5月の第2次ハリコフの戦いに参加しました。


 ↓OCS『Case Blue』の第389歩兵師団ユニット。

unit8448.jpg


 その後、同師団はイエネッケ中将の旧友であったフリードリヒ・パウルス装甲兵大将(イエネッケの方が数ヶ月だけ早く生まれています)が指揮する第6軍の麾下に編入され、同年9月に第8軍団麾下でスターリングラード市街戦へと投入されます。第389歩兵師団と第305歩兵師団から編成されたイエネッケ戦闘団は1942年10月14日のトラクター工場への大規模攻撃に投入され、成功を収めました。

 1942年11月1日、パウルスが第4軍団長のシュヴェドラーを解任し、旧友のイエネッケを後任に任命しました。しかし11月19日に開始された天王星作戦の結果、スターリングラードの第6軍は包囲環に閉じ込められてしまいます。


 ↓OCS『Case Blue』の第4軍団司令部ユニット。

unit8447.jpg



 イエネッケはこれまでの軍歴から兵站について詳しかったため、空輸のみでの補給は現実的ではないと考えていました。ヒトラーによるスターリングラード放棄を禁じる命令に対して、イエネッケはパウルスに、行動を起こすように何度も必死で頼んだそうです。

 ドイツ語版Wikipediaには、イエネッケはこのように言ったと書かれています。
「無線機を集めて、独立した行動を起こそう。君はスターリングラードの獅子にならなければならない。君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」

 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』には、「君の首など、多くの兵士達の命に比べれば大したことはない。」というセリフだけが書かれていました。


 一方、『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のアルトゥール・シュミット(第6軍参謀長)の項には下記のように書かれており、「獅子」の件などはザイドリッツ将軍が言ったかのようです。

 11月27日、第6軍の各軍団長は軍司令部でフリードリヒ・パウルスとその参謀長【シュミット】と会談し、全員一致でパウルスに、【ヒトラーの】命令に反する脱出を促しました。ザイドリッツはパウルスに「獅子の道を歩め」と迫りました。これはカール・フォン・リッツマン将軍のことで、彼は第1次世界大戦中、同じような状況で命令に反して脱出し、その結果、危うくロシア軍の捕虜になるところから司令部全体を救ったのです。片腕のハンス・フーベ将軍は総統のお気に入りで、最近第14装甲軍団長に昇進したばかりでしたが、こう言いました。「ここに残って死ぬわけにはいかない!」。カール・シュトレッカーは懇願したと言います。親ナチ派の第8軍団司令官のハイツ将軍でさえ、死傷者がどれだけ出ようとも即時の脱出を要求しました。パウルスの個人的な友人で第4軍団司令官のエルヴィン・イエネッケ将軍は、パウルスの恩師の亡霊を呼び起こしました。「ライヒェナウ元帥ならすべての疑念を一蹴しただろう。」

 パウルスは答えました。「私はライヒェナウ元帥ではない」

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥は、親ナチ、勇猛果敢な将軍でパウルスの後見人のような立場にありました。パウルスの前に第6軍司令官でしたが、1942年1月12日に極寒の森の中を歩いていて心臓発作を起こし、死亡。後任に参謀長であったパウルスが任命されたのでした。】

 イエネッケは第6軍を救うため、旧友に対してさらなる説得を続けました。しかもザイドリッツは、長期の行軍に耐えられない装備はすべて破棄するよう、すでに第51軍団に命じたことを明かしました。ザイドリッツは、自分が着ていた軍服以外はすべて燃やし、自らその手本を示したとも言いました。すべての軍団長が熱狂的に賛成を表明。ナチスと見なされていた者たちでさえ、ヒトラーの命令に背く脱出を呼びかけました。

 しかし残念なことに、シュミットが最後の決定権を握っていたのです。「我々は総統の命令に従わなければなりません。」

 パウルスは言いました。「私は総統の命令に従うのが当然だ」


『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P90





 その後、戦闘指揮をとり続けていたイエネッケは、1943年1月17日にソ連軍の砲弾が近くに命中して傷を負い、23日に担架に乗せられて(最後の?)輸送機で包囲環の外部へと後送されました。『Hitler's Commanders』によるとこの件には2つの説があるそうです。1つは、16個の破片を身体に受けて本当に重傷を負ったのだというもの。もう1つは、破片が落下してイエネッケの頭を直撃し、実際に血が出たものの、その後イエネッケは電光石火の如く行動し、ほとんどギリギリのタイミングで医療避難【後送?】に成功し、回復するまで隔離された病院に閉じこもったのだ……とするものです。後者の説では、ヒトラーや総統の司令部の取り巻き達が、イエネッケの傷がいかに軽傷であったかを知っていたら、彼はスターリングラードから後送されることはなかったのではないかと指摘されているそうです。


 イエネッケは1943年3月までに現役復帰し、4月1日にはフランス南西部の第86軍団長に就任しました。
(第86軍団という数字は『Hitler's Commanders』、『ドイツ軍名将列伝』、『Unknown Generals - German Corps Commanders In World War II』によります。Wikipediaでは独英日版すべて第82軍団長となっていますが、『Unknown Generals』の第82軍団長のリストにイエネッケの名前はありませんでした)。

 2ヵ月後の同年6月、イエネッケはタマン半島のクバン橋頭堡を守る第17軍司令官に任命されました。


 ↓OCS『Crimea』の第17軍司令部ユニット。

unit8444.jpg





 クバン橋頭堡は、例えばOCS『Case Blue』の1943年1月の時点では↓のようになっていました。

unit8446.jpg




 OCS『Crimea』の後半(1943-44年)の最初のシナリオであるシナリオ3:「鉄十字勲章」は1943年9月26日ターンから始まり、↓のような初期配置となっています(44年1月22日ターンまでの36ターン)。

unit8445.jpg




 ちなみに、なぜシナリオ名が「鉄十字勲章(Cross of Iron)」であるのかというと、『Cross of Iron』(邦題:『戦争のはらわた』)という映画がこの1943年のクバン橋頭堡での戦いが舞台であったからのようです。





 OCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにはこう書かれています。

 新しいドイツ第17軍の司令官はエルヴィン・イエネッケ将軍でした。イエネッケはスターリングラードで師団を率いて重傷を負ったものの、任務に復帰してきたところでした。彼の麾下部隊の大半はケルチ海峡の向こうのタマン半島におり(ドイツ軍はそれを、クバン橋頭堡または、Gotenkopfstellung(ゴート人の頭の位置)と呼んでいました)、いつか再びカフカスへ攻撃を仕掛けることを考えていたのです。しかしクルスク以降のソ連軍の反攻にドイツ軍はよろめき、新たな兵力を必要としていたため、ヒトラーはしぶしぶブリュンヒルト作戦(クバン橋頭堡からの避難)を許可しました。ソ連軍はこの作戦を妨害することができず、わずか38日間で239,000人の枢軸軍部隊が撤退。クバン橋頭堡に進攻するソ連軍を指揮したのは、前年にセヴァストポリ防衛を指揮したペトロフ将軍でした。

 撤退部隊の大半はクリミアに残りませんでした。OKHはイエネッケからドイツ軍10個師団のうち8個師団を剥奪し、彼に4万人の戦闘部隊だけを残したのです。残りは2個師団のドイツ軍に加え、ルーマニア軍7個師団と少数の枢軸同盟軍とオスト部隊でした。ルーマニア軍の山岳部隊と騎兵部隊は優秀でしたが、スターリングラード以降、ドイツ軍はルーマニア軍の大半の部隊の能力を疑わしいものとみなしていました。『クリミア』のシナリオ3のマップ上には、イエネッケに残されていたユニットのみがあり、撤退の途中からスタートします。この撤退は続行され、1943年10月9日までに完了しました。



 後のイエネッケ自身の証言によると、橋頭堡からの撤退の期間、上層部からの命令で、その地域を経済的に麻痺させるために焦土戦術を実行しました(この時期、ドイツ軍はウクライナから撤退する際に焦土作戦を実行しており、イエネッケだけが特別なことをしたわけではないと思います)。フォン・クライスト元帥の命令によってパルチザン殲滅の措置を実行したとも証言しており(後にフォン・クライストはこれを否定しました)、イエネッケはすべての村を焼き払う「死の地帯」の設置を命じたり、ケルチ地域の採石場の洞窟でパルチザンをガス処刑したりしたそうです。



 イエネッケは当然ながらスターリングラードの再現を望んでいませんでした。『ドイツ軍名将列伝』によると彼は、早い段階からウクライナ本土への脱出計画を研究していたそうです。しかし、ヒトラーは同盟国ルーマニアに対する政治的影響を重視し、クリミア半島の死守を命じていました。ソ連軍がクリミアに押し寄せるにつれて、イエネッケはますます激しく半島からの撤収を主張し、自らの主導で半島を放棄する準備さえ整えました。このため、1943年10月下旬にはフォン・クライスト元帥によって指揮権を剥奪されそうになったそうです。

 10月になるとソ連軍がペレコプ地峡へ進撃してクリミア半島が孤立。11月、イエネッケは軍集団司令部、OKH、総統司令部に対して第17軍を海路で避難させるよう要請します。しかしスターリングラードと同様、ヒトラーはこれを拒否しました。

 1944年1月30日(シナリオ3「鉄十字勲章」の直後から始まるシナリオ4「ダモクレスの剣」の2ターン目)にイエネッケは上級大将に昇進しています。シナリオ4「ダモクレスの剣」の時期はクリミアでは軍事行動がほとんどなかったため、OCS『The Third Winter』と連結してのプレイ以外の単独でのプレイは推奨されていません。



Generałowie niemieccy i generał rumuński po wyjściu ze stanowska dowodzenia na półwyspie Kercz (2-835)

 ↑1944年1月、ケルチ半島におけるイエネッケ将軍(一番右? Wikipediaから)




 1944年4月7日(シナリオ5「解放攻勢」は4月8日ターンから5月12日ターンまでの11ターン)、ソ連軍のクリミア半島への総攻撃が開始されました。

 ↓OCS『Crimea』のシナリオ5「解放攻勢」の初期配置。

unit8443.jpg




 戦力不足のイエネッケは4月9日、数時間の逡巡の後、OKHに報告することなくケルチ地区の陣地を放棄してセヴァストポリ港への撤退を命令(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P449)。4月12日にヒトラーは、イエネッケに対してセヴァストポリ要塞をそのまま保持するよう命令を下しました。

 イエネッケの麾下部隊はひどく打ちのめされ、日々損害は増大していました。彼は、クリミアの部隊を撤退させようとしないヒトラーや、セヴァストポリが要塞ではなく罠であることを認めようとしないヒトラーに苛立っていました。それでもイエネッケは総統の方針に従い続け、4月24日には麾下部隊を鼓舞するための大げさで不正確な布告を発しています(『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P461)。

 イエネッケは4月27日にヒトラーに対して「さらなる増援がいつ到着するのか」を問い合わせ、またソ連軍が全面的な攻撃を開始した場合の「行動の自由」を要求したテレタイプを打電。これにはヒトラーもたまりかねたのか、翌日、イエネッケをベルヒテスガーデンに召還し、直接報告するよう命じます。

 この時の出来事として、『Hitler's Commanders』はこのように書いています。

 【……】ヒトラーは「豊富な」増援を約束。しかし、それがまだ訓練を終えていない新兵の4個大隊を意味することを知ったイエネッケは、第17軍をOKH(ヒトラーが総司令官)の直属軍にするよう要求することで、差し迫った惨事の責任をヒトラーに負わせようとした。
『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』P98



 『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』にはこう書かれていました。

 ヒトラーの面前でイエネッケは、第17軍の残りを直ちに撤退させなければ壊滅すると主張。ヒトラーは将軍がこのような言い方をすることに激怒し、彼に叫び始めた。

 イエネッケはヒトラーの補佐官の横を通り過ぎると、「総統に伝えてくれ、私は帰ったと」と言い残し、飛行場へと走り去った。ヒトラーはルーマニアで飛行機を止めさせ、イエネッケ上級大将を逮捕するよう命じた。
『Where the Iron Crosses Grow: The Crimea 1941-44』P464



 イエネッケは拘束され、軍法会議にかけられることになりました。彼は5月1日に罷免され、クリミア失陥の責任者として責任を問われることになったのです。しかしグデーリアン上級大将は捜査を遅らせることで裁判を長引かせ、イエネッケを有罪から救うことに成功しました。結局軍法会議は開かれなかったようです。


 イエネッケは1945年1月、ドイツが破滅的な状況に陥ると見てヒトラーに私信を送り、帝国の立場を説明し、ヒトラーは適切な結論を出すべきだとほのめかしたそうです。その結果、イエネッケは1月31日に除隊処分となりました。

 イエネッケは1945年6月11日(『Hitler's Commanders』)、あるいは12日(Wikipedia)にソ連軍の捕虜となりました。ソ連の軍事法廷は当初、自白に基づいて死刑を宣告しましたが、その後、判決を25年の強制労働に変更しました。1955年10月、ドイツ人捕虜の返還に関するモスクワでのアデナウアー首相の交渉の後、イエネッケは釈放されます。

 イエネッケは1960年7月に亡くなりました。

関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

クリミア

いよいよOCSクリミアが発売され話題になってきましたね。
私も買いました。
個人的にはウォーゲームで歴史に思いを馳せるではクリミア包囲戦などの記事をもっと書いて欲しいです。
今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR