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ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について

 OCS『Crimea』のシナリオ2に関連して、ケルチ半島から独断撤退して投獄され、のちに処刑された伯爵ハンス・フォン・シュポネック中将について調べてみました。


Hans Graf von Sponeck

 ↑ハンス・フォン・シュポネック(Wikipediaから)



 資料としては、主に『Hitler's Commanders: Officers of the Wehrmacht, the Luftwaffe, the Kriegsmarine, and the Waffen-SS』のP59~64と英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」を使用しました。それ以外の資料を使用する時はソースを記すことにします。




 軍人であった伯爵エミール・フォン・シュポネックの第4子として生まれたハンス・エミール・オットー・フォン・シュポネックは士官学校で学び(カールスルーエ士官学校は首席で卒業しました)、1908年に士官に任命されました。サッカーと体操に秀でた優秀な将校であった彼は女性にももて、1910年に結婚(一回目)して2人の男の子を授かっています。

 第一次世界大戦ではフランスとロシアで戦い、3度負傷。1915年秋には、通常の戦時教習課程(短縮課程)を受けることなく参謀本部に入ることを許されるという名誉を得ました。

 戦後も軍に残ることができ、昇進を重ねます。1934年から1937年まで歩兵第48連隊長を務め、この時期に離婚しています。

 1937年12月にフォン・シュポネックは空挺部隊設立のためにドイツ空軍に転属しました(ドイツ空軍は事実上ゼロの状態から拡大しており、優秀な将校を必要としていました)。1938年2月には少将に昇進。

 1938年に起こったブロンベルク罷免事件*の軍法会議(1938年1月?)においてフォン・シュポネックはフォン・フリッチュ上級大将の無実を主張し、この軍法会議の議長であったヘルマン・ゲーリングの逆鱗に触れています。彼は同年に再婚し、翌年に新しい妻との間に男の子が生まれました。
*:国防相であるヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥と、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に関するスキャンダルが相次いで発生し、両者が罷免された。冒険的な外交政策に反対する陸軍の上層部を一掃する目的による、ナチスの謀略事件であるとされる。


 一方、1938年に彼は第22歩兵師団(空輸歩兵として訓練を受けたことから一時期第22空輸師団とも呼ばれました)の師団長に任命されているようなのですが、その経緯について資料間でいくらか差異があると思われます。私なりに一番ありそうな所だけを抜き出しますと恐らく、1938年7月に陸軍に再転属(ドイツ語版Wikipedia)、そして10月か11月に第22歩兵師団長に任命。

 『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』は任命を1938年1月としていますが、ミスか、あるいは非公式の引き継ぎ時期か何かかもです。同書は同師団の編成過程を詳しく記していますし、空軍と陸軍の軋轢があったこと、特に、第22歩兵師団が「第22空輸師団」という名前となって空挺作戦の一部に投入され、かつそれがドイツ空軍に移管されないことをドイツ空軍側は認めざるを得なかったということを書いています。

 同書はフォン・シュポネックについて、「才能(talents)」があり、また、第22空輸師団は通常の歩兵師団よりもスポットライトを浴びるものであったため、彼はその役職に不満はなかった、と書いています(P25。わざわざそう書くだけの傍証があるわけでしょうか)。また、クルト・シュトゥデントとフォン・シュポネックは、最前線に立つべきという考えの点で志を同じくしていたというような記述もありました(P14)。


 フォン・シュポネックが第22空輸師団長に任命されたのは、彼が空軍にいた経験によるものであろうと『Hitler's Commanders』は記しています。

 1939年のポーランド戦には師団の1個連隊のみが参加しただけでした。1940年5月からのオランダ攻略戦では、空軍の第7航空師団の空挺降下に続いて、第22空輸師団は占領された航空基地へ空輸されて戦いました。


 ↓OCS『The Blitzkrieg Legend』の第22空輸師団ユニット。

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 師団長のフォン・シュポネックも部隊と共に首都ハーグへ飛びましたが、この時、戦勝パレード用の馬を一緒に積んでいったそうです(『German Airborne Divisions: Blitzkrieg 1940-41』P29)。しかし、ハーグにおいて第22空輸師団は苦戦し、彼自身が危うく捕らえられそうになったり、負傷したりし、王家を捕らえるなどの3つの任務すべてに失敗しました。尤も帰国後、彼はヒトラーから騎士十字章を授与されています。




 バルバロッサ作戦で同師団は南方軍集団に加わり、通常の歩兵師団として作戦に参加しましたが、元々特殊な作戦のために訓練されていたため兵士達の質は高く、クリミア攻略作戦においてフォン・マンシュタインは同師団を最高の部隊として信頼して運用したといいます。


 ↓OCS『Crimea』の第22歩兵師団ユニット。

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(OCSで、ドイツ軍の通常の歩兵師団でARが5というのは珍しく、他にぱっと思いつくのは『Guderian's Blitzkrieg II』の第78歩兵師団くらいです)




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ1「通過儀礼」の初期配置。

unit8450.jpg


 画像中央下あたりにある、ARが5の3ユニット(4ステップ)が第22歩兵師団です。

 フォン・マンシュタインが赴任する前の時期の、クリミア攻略戦の指揮を執る直前に戦死したリッター・フォン・ショーベルト将軍について (2023/12/27)で書いていた、ドニエプル川北岸のベリスラウ(Berislav/Beryslaw:F17.35の北側のヘクス)に最初に到達したのは第22歩兵師団だったそうです。

 そしてフォン・マンシュタインが赴任した後のシナリオ1の時期の最初の数ターン(9月下旬~10月初旬)、第22歩兵師団はクリミア半島方向ではなく、東のメリトポリ方向とその南岸を押さえる任務を負っており、その任務に成功します。

 ただしOCS『Crimea』のシナリオ1ではその戦いはオミット(除外)されており、第22歩兵師団は初期配置位置から動けず、第4ターン(10月5日ターン)に1/6の確率、次のターンには2/6の確率……と確率が上昇して制限が解除されるようになっています。ここらへんのメリトポリ周辺やその向こう側ではこの時期、かなり激しい戦いが行われていたそうなのですが、デザイナーズノートによると、シリーズデザイナーのディーン・エスイグ氏からユニット数を少なめにするようにアドバイスされており、デザイナーはここの戦いをオミットすることを決断したのだということでした。




 一方、この時期にフォン・シュポネックと同師団はその地で、ユダヤ人大量殺戮に加担していました。

 以下、英語版Wikipedia「Hans Graf von Sponeck」から引用してみます。

 1941年10月7日、伯爵フォン・シュポネックは自分の師団に、ユダヤ人市民を検挙し、見つけだし、引き渡すことによって、保安警察(SiPo:ズィポ)および親衛隊保安局(SD)と緊密に協力するように命じました。1941年10月に第22歩兵師団に占領された直後のヘニチェスク【F27.24】とメリトポリでは、ズィポとSDのアインザッツグルッペン【特別行動部隊】Dの部隊によるユダヤ人の大量射殺が記録されています。メリトポリだけで、2,000人のユダヤ人男性、女性、子供が虐殺されました[6]。後にイギリスのトレントパーク収容所に収監された、フォン・シュポネック将軍の部下の上級将校の一人であったディートリッヒ・フォン・コルティッツ大佐(後に将軍)【ヒトラーのパリ破壊命令を無視して降伏したことで有名です】は、収容所内で密かに録音された会話の中で、ドイツ軍のソ連侵攻の間、ユダヤ人を殺す作業に積極的に参加したことを率直に認めていました[7]。

 坐骨神経痛と腸の不調のため、フォン・シュポネック将軍は1941年10月14日に師団から病気休暇を取得。1941年12月3日にシュポネックが帰還すると、マンシュタインはクリミア最東端のケルチ半島を占領していた第42軍団(麾下に第46歩兵師団)の指揮権を与えました。フェオドシヤ【↓の画像のF33.08】では、シュポネックの指揮区域内で1941年12月10日前後に、1,052人のユダヤ人がアインザッツグルッペンDの部隊によって殺害されました。1941年12月10日、フォン・シュポネック将軍は、自分の指揮区域内で発見されたすべてのユダヤ人を原則として「パルチザン」として扱い、ダビデの星印をつけ、「労働力として配備する」ように命じました。彼はまた、捕らえられた赤軍兵士は、たとえ軍服を着ていたとしても、直ちに射殺するよう命じ、地元での反ドイツ活動や妨害行為に対する民間人への報復行動を承認しました[8]:




 ↓OCS『Crimea』のシナリオ2の初期配置のケルチ半島。フォン・シュポネックの第42軍団司令部がパルパチ地峡部にあります。下のノヴォロシースクボックスには、シナリオ2の開始時期(42年12月26日ターン)からケルチ半島へ上陸作戦を行うためのソ連軍ユニットや艦船が置かれています。

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 歴史家のエリック・グリマー=ソレムは次のように述べています。

「フォン・シュポネック将軍のケースは単純ではありません。彼は麾下の部隊が壊滅の危機にさらされた時、ヒトラーからの命令を拒否する道徳的勇気を持ち、そのために軍法会議にかけられ、後にナチスによって処刑されました。一方で、彼は犯罪的なコミッサール指令の遂行を拒否しませんでした。フォン・シュポネックは厳密な意味でのナチではありませんでしたし、彼自身、体制のいくつかの側面に批判的でさえありましたが、彼の命令と彼の軍隊の行動は、彼が反ユダヤ人種主義を内面化していたことを疑う余地はありません。シュポネックは、ナチス政権の大量殺戮政策を実行するためには、イデオロギー的なナチスである必要はなかったことを示しています。ナチズムの下で、戦争の状況下では、被害者と加害者、英雄と追従者の境界線は、一人の人間の中で渾然一体となってしまったのでしょう。」[9]。





 1941年12月初旬からのソ連軍の冬期反攻の一環として、クリミアでもケルチ半島への上陸作戦が12月26日に開始されました(OCS『Crimea』のシナリオ2はその時点から始まります)。この上陸作戦は、フォン・マンシュタインにとって最悪のタイミングで実行されたものになりました。第11軍がセヴァストポリ攻略戦の最中で兵力を集中しており、延びきった態勢にあったためです。ケルチ半島を守備するフォン・シュポネックの第42軍団の麾下には、たった1個師団(第46歩兵師団)しかありませんでした。

 最初の上陸はケルチ【F45.10】付近へのもので、28日までにフォン・シュポネックはケルチ市近郊の2つの主要な上陸拠点のうちの1つを全滅させましたが、すべては掃討できず、しかもいくつかの上陸地点は戦線の後ろ側にあってソ連海軍によって補強されつつありました。フォン・シュポネックは最終的には孤立して壊滅させられてしまうだろうことを予見して、フォン・マンシュタインに撤退の許可を求めました。ケルチ半島を放棄し、その付け根であるパルパチ地峡まで下がれば、ソ連軍の攻勢を封じられると考えたのです。

 この部下の状況判断に、マンシュタインはまったく同意しなかった。ひとたびソ連軍がクリミアに強力な拠点を構えたならば、それを撃退するのは極度に困難になり、大規模な反撃作戦が必要となろう。そんな事態(正しく、それは現実となった【OCS『Crimea』のミニシナリオ1「立ち退き通告」(トラッペンヤークト作戦)はその作戦を扱っています】)を恐れたのだ。ゆえに、マンシュタインは、「上陸直後で、敵がまだよろめいているうち」に「[敵を]海に追い落とせ」と、シュポネックに命じた。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P387



 一方、『Hitler's Commanders』や英語版Wikipediaでは、フォン・マンシュタインが拒否したというよりは、この冬期反攻の時期にヒトラーが撤退が禁じる命令を出していたため、それに(フォン・マンシュタインが)従って撤退が禁じられたのだという感じの書き方になっています。

 また『Hitler's Commanders』は、フォン・シュポネックによるより強い2回目、そして必死の3回目の撤退許可要請も拒否されたと書いています(『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』には2回目までだけが書かれています)。


 12月29日までに、フォン・シュポネックの前方部隊(第46歩兵師団と少数の部隊)は1万人にまで減少していました。その日、新たなソ連軍部隊(2個師団)がフェオドシヤ(F33.08)付近に上陸したという知らせが届きます。フォン・シュポネックは予備兵力をすべて投入してしまっており、ケルチ半島内に留まるのが不可能なことは明らかでした。フォン・シュポネックは30分考えて決断を下したといいます。ヒトラー/フォン・マンシュタインの命令に背き、パルパチ地峡まで後退するよう、麾下の部隊に命じたのです。

 恐らくこの時のこととして、ドイツ語版Wikipediaは「シュポネックは上級指揮官であるエーリヒ・フォン・マンシュタイン指揮下の第11軍に相談することなく、ケルチ半島からの撤退を命令。命令を迅速に実行し、無線機を破壊することで、第11軍が命令を撤回することも不可能にしました。」と書いています。この無線機の件はOCS『Crimea』のヒストリカルコメンタリーにも挙げられているのですが、私が今回参照した他の資料には言及されていません。
(私が大好きな「大陸軍 その虚像と実像」のR/Dさんの考え方からすると、「無線機の破壊」なんていう非常に面白いエピソードは、それが面白いがゆえに史実である可能性は低そう(虚説がミームになったものだという可能性が高い)ということになりそうですが……?



 この撤退は摂氏-7度の氷雪の中で行われ、何千人もの凍傷患者が発生し、車両が動かなくなってしまう中で行われたと『Hitler's Commanders』には書かれています。

 パルパチ地峡にたどり着いた彼らはフォン・マンシュタインが差し向けた増援の力も借りて、追撃してきたソ連軍部隊による1942年1月1日の戦車部隊の攻撃を、大きな損害を出しながらも撃退することに成功します。しかし同日のうちに、フォン・シュポネックは第42軍団の指揮権を剥奪され、マッテンクロット歩兵大将に譲るように命令されます。

 この解任を誰が命じたかについても、資料によってバラバラで困ってしまいます(T_T) ↑の英語版Wikipedia「Franz Mattenklott」なんかは「フォン・マンシュタインが激怒して解任した」と書いてますが、他の資料には誰が解任したか書かれていないですし、フォン・マンシュタインが激怒したなんてことも書かれていません。

 一方、『Hitler's Commanders』などは、このソ連軍の冬期反攻の時期にドイツ軍将官の不服従が相次いでおり、それらへの「見せしめ」としてフォン・シュポネックの解任と軍法会議が、スケープゴートとして必要とされたのだ、という風に書いています。


 この軍法会議の開催について、『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』にはこう書かれています。

 死に至るまで【……】、シュポネックは、第46師団に撤退を命じたのは正しい行動だったと主張しつづけた。あとになって、マンシュタインも相当程度それに同意したとみられる。1941年12月29日の事件【独断撤退】の結果としてシュポネックを軍法会議にかけるのではなく、第72歩兵師団長だったフランツ・マッテンクロット歩兵大将と交代させることを、マンシュタインは望んだ。けれども、軍法会議は開かれた。マンシュタインは、その期日も知らされず、かつての部下のために正式に意見表明する機会も与えられなかった。1942年1月23日、職務怠慢と戦場における不服従の罪で、シュポネックは死刑を宣告された。一ヶ月後、ヒトラーは、この判決を6年間の「要塞禁固」に減刑している。
『ヒトラーの元帥 マンシュタイン』上P388



 解任されたフォン・シュポネックは、軍法会議のためにベルリンに出頭し、裁判は1月23日に開始(同日判決?)されました。軍法会議の議長は、かつてフォン・シュポネックに激怒したゲーリングでした。この軍法会議では重要な証人の陳述は認められず、被告は裁判中ずっと起立していなければならなかったといいます(ドイツ語版Wikipedia)。フォン・シュポネックは「プロイセン軍将校として、部下達を救うために戦術的な状況から必要とされれば、上官の命令に反してでも独断で行動するように教えられてきた」と主張。この抗弁は一蹴され、「現場での過失不服従」の罪で有罪、死刑判決を受けます。

 ヒトラーが刑を減刑したいきさつについても資料間の食い違いがあり、英語版Wikipedia他ではフォン・マンシュタインが減刑を提案したからだとしてたりしますが、『Hitler's Commanders』は「フォン・マンシュタインは彼を助けるために指一本動かさなかった」と書いてたりします。
(この件では、より記述において慎重であろう書籍となっている2つのソースがフォン・マンシュタインの減刑提案を否定していることからすると、フォン・マンシュタインは減刑提案してないのではないでしょうか)




 フォン・シュポネックはゲルマースハイム(フランス国境近くの街)の軍事刑務所に送られ、囚人としては恵まれた生活を享受しました。時々街に出て、本やタバコを買うことも許されました。妻(二人目の)は1ヵ月につき7日の頻度での面会が許され、末の息子(1942年に3歳になっていました)とも面会できました(一方、ドイツ語版Wikipediaは、家族は拘留され、財産は没収されたとしています)。

 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の後、治安当局者のハインリヒ・ヒムラーはフォン・シュポネックの処刑を命令しました。その背後には、ゲルマースハイムを含む管区の長であり、ナチ党の初期からのメンバーであったヨーゼフ・ビュルケルの圧力があったとWikipediaにはありました。

 7月23日午前7時13分にフォン・シュポネックは銃殺刑に処されました。彼は聖餐を受けることを許され、拘束も目隠しもされないという彼の要求は尊重されました。フォン・シュポネックの妻は前妻も含めて2人とも処刑に立ち会い、共同で彼の遺体の引き渡しを求めました。遺体はゲルマースハイムの墓地に埋葬され、彼の墓で弔辞を述べたり演説したりすることは禁じられましたが、主の祈りは捧げられました。


 フォン・シュポネックの長男は戦闘機パイロットとしてノルウェーとドイツ上空で戦い、大尉で終戦を迎えました。次男は騎兵部隊で大尉となっていましたが1943年、東部戦線のドン川戦区で戦死。

 二人目の妻との間の末の息子であるハンス・クリストフ・フォン・シュポネックは西ドイツにおける最初の良心的兵役拒否者の一人となり、外交官としてキャリアを積みます。彼は国連事務次長補およびイラク担当国連人道調整官を務め、国連内でも非常に尊敬されている人物であるそうです。


 戦後の西ドイツでは、ヒトラーに反抗して兵士達の命を救ったとして伯爵フォン・シュポネックを記念してゲルマースハイムの街の空軍基地、通りなどに彼の名前が付けられました。しかし、2014年に発表されたエリック・グリマー=ソレムの論文でフォン・シュポネックが数多くの戦争犯罪を犯していたことが明らかになり、市民の抗議活動が起こり、空軍基地などは改名されました。



 実は、以前書きました第90軽師団で後衛を指揮して活躍するも、チュニジアで降伏したテオドール・フォン・シュポネック将軍について (2022/09/23)で、このテオドール・フォン・シュポネックは今回のハンス・フォン・シュポネックの弟であると、『Rommel's Desert Commanders: The Men Who Served the Desert Fox, North Africa, 1941-42』の著者であるミッチャム氏が書いていたためそれを信じてそのように記述していたのですが、今回調べてますと二人は親の名前も全然違うし、ミッチャム氏以外の資料でこの二人が兄弟、あるいは親戚関係にあるとの記述さえ見つけられませんでした。なので、苗字は同じですけども基本的に二人は無関係なのだと思われます。当該ブログ記事は訂正しました。


 ミッチャム氏の著作は今までも、推測が先走っていると思われたり、本が違うと記していることが違ったりと、信頼性が低い気がビンビンにしてはいたのですが、またもや大きな問題が発見されてしまいました(T_T) ロンメル麾下の指揮官関係で興味深い本を書いてくれる大変ありがたい方なんですが……。

 また、ハンス・フォン・シュポネック関連にしても、資料によっては出てくる「無線機を壊して撤退した」「撤退にフォン・マンシュタインが激怒した」「フォン・マンシュタインが減刑を提案した」などの、ある意味興味深い記述は、どうも信頼できないのではないかということが明らかになったのではないかという気がしています。


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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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