fc2ブログ

牟田口廉也は上司の河辺正三への反骨心でインパール作戦に突き進んだ?

 以前、大戦中を通じて南方軍総司令官であった寺内寿一(ひさいち)元帥について (2023/10/27)で書いてました『都道府県別 陸軍軍人列伝』で、牟田口廉也と、その上司であった河辺正三(まさかず)についてどう書かれているか、読んでみました。






Lieutenant General Reiya Mutaguchi, Commander of the 15th Army of the Imperial Japan ArmyMasakazu Kawabe

 ↑牟田口廉也と河辺正三(Wikipediaから)



 私はこの二人は、「仲の良い」、いわばインパール作戦に関する「共犯関係」のように今まで本を読んできて思っていたのですが、『都道府県別 陸軍軍人列伝』著者の藤井非三四氏は、むしろ牟田口廉也は河辺正三に対する反骨心を持っていたのだろうという書き方をされていて、興味深く思いました。

 例えば、↓では、牟田口と河辺は「仲が良い」という見方で書かれていると思います。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理 本当に、牟田口ひとりの責任だったか 広中 一成

日本語版Wikipedia「河辺正三」



 以下『都道府県別 陸軍軍人列伝』の中の文を引用していきますが、それぞれの県(地方)人性に関する分析の文は偏りがあるかも……。でも、この本はそこらへんが売りであるのでしょうね(^_^;

【盧溝橋事件の時】夜間に部下を展開させていた牟田口廉也は、すぐさま攻撃の命令を下した。報告を受けた河邊正三は、「なにっ、攻撃するっ」と不快感を表したとも、牟田口を叱責するかのように無言のままだったとも言われる。
 夜襲が成功して一帯が静穏になったとき、河邊正三はこだわりなく「それはよかった。これで安心しました」と牟田口廉也に語った。しかし、牟田口は数時間前の叱責じみた河邊の言動が忘れられなかった。
 河邊正三は北陸人のためか、秀才のためか、その性格は暗い。報告を受けたとき、「適当なところで切り上げて」となり、暖かい一言があればこじれることもなかったろう。
 牟田口廉也は一見豪放そうだが、佐賀県人の性か気が小さく、いつまでも根にもつ。それにしても、この廬溝橋での悪感情が昭和19年3月からのインパール作戦にまで持ち越されるとは、人間関係のむずかしさを痛感させられる。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P232,3

 それなのに牟田口廉也は、軍司令官になると積極的になった。インドに攻め入り、その独立を促し、戦争終結の糸口をつかむという夢みたいな話へと衝き動かしたものは、彼の奇妙な責任感であった。
 牟田口廉也は、支那駐屯歩兵第1連隊長として盧溝橋事件の渦中にいた。だから、この戦争のはじまりに責任があり、終結の決め手を演じるのは自分の責任だと思い込んだ。しかも当時、上司であった支那駐屯歩兵旅団長の河邊正三(富山、1期)は、今度も上司のビルマ方面軍司令官だ。
 二人してやるんだと言うよりも、あのとき、冷たかった河邊正三に見せてやるんだと、牟田口廉也は気負い立ったのである。【……】
 そんな責任を感じる必要はどこになかったし、戦線の西端で3個師団ぐらい動かしたところで大勢が決まるはずがない。ところがひとたび思い込むと、それに凝り固まる性格の牟田口廉也は、その道理に納得できなかったのだろう。この偏執的で頑固な性格を見て、なるほど佐賀県人と思う人は多いはずだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P612



 この見方の論拠については書かれていませんが、この本はそもそも論拠を挙げる性質のものではないので……。

 県人性への見方と共に、単なる著者の推測かもですけども、私は「色んな見方がある方が面白い」と思う人間なので、かなり興味を持った次第です。



 河辺正三については、私は少し前に読んだ『戦慄の記録 インパール』で、かなり印象深かった彼のセリフがありました。

 1937年の盧溝橋事件以来、直属の上司と部下という関係から労苦を分けあってきた河辺中将と牟田口中将。強固な信頼関係によって、インパール作戦をともに推し進めた二人の戦後は、あまりに開きがあった。
 軍事研究家の大田嘉弘氏は、戦後、この二人にそれぞれ面会している(大田嘉弘「インパール作戦」)。牟田口中将は「感情の高ぶるままに絶句落涙することが少なくなかった。一方、〔略〕河辺大将に対しては一言も加えるところがなかった」。しかし、河辺中将は、牟田口中将について、「牟田口はまだそんなことに悩んでいるのか」と述べていたという。
 大田氏は、「あれほど許し合った両将軍の仲を冷却させた原因は、陸軍中央部が、河辺中将に対しても、インパール敗戦の責任をとらせなかったことに因る」と述べている。
『戦慄の記録 インパール』P241,2


 河辺正三のいう「そんなこと」とは、たぶん「インパール作戦で多くの将兵を犠牲にしたこと」だと思ったので、私はこのセリフにある意味「戦慄」したんですが、あるいはそうではない?

 しかし今回、『都道府県別 陸軍軍人列伝』を読んでいると、河辺正三はどうも「将兵の犠牲」とかを気にしない人物であったかのように思え、そこらへん自分の中では整合性がとれたような気がしたんですが、どうなんでしょう。

 そして、河邊正三が表面に出てくるのは、作戦がどうにもならなくなった昭和19年6月、とうとう悲鳴を上げた牟田口廉也が攻撃中止の場合、後退する線について意見具申したときであった。これを受けた河邊は、「消極的意見を具申するのは意外とする所なり」と冷たく突き放した。そうしておいて南方軍には、ウ号作戦【インパール作戦】中止を要請しているのだから、そこに河邊の老獪さ、抜け目なさを感じさせる。
 【……】
 昭和19年8月、河邊正三は激戦がつづくビルマ戦線を離れて、参謀本部付として内地に帰還した。インパール作戦の責任を痛感して自決するのではないか、予備役編入を申し出るのではないかと周囲は心配したが、そんな憂慮はこの人には無用であった。
 すぐに河邊正三は中部軍司令官に就任し、同軍が第15方面軍に改編されてからの昭和20年3月9日、大将に進級した。まったく時期が悪く、東京大空襲が3月10日、13日から14日にかけては河邊が所在していた大阪がB29【、】280機の大空襲を受けた。そこで、「戦さに負けると大将になれる」と公然と語られた。
 そんな下々の声を気にするような河邊正三ではない。
堂々と新設された航空総軍司令官に就任し、杉山元の自決後には第1総軍司令官に就任した。インパール作戦という大悲劇の当事者が、これらの要職に平気で就任するとは、超エリートの心境というものは並の人間には推し量れない。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P234,5





 河辺正三の能力や人となりについては、これまで収集していたものも含めてこんなのがありました。彼は教育畑でしたが、ともに陸大恩賜であった弟の河辺虎四郎は作戦畑で、非常に賢くて勤勉で実力があったそうです。

 この【関特演の】とき、牡丹江正面の第3軍が独断専行して日ソ戦の口火を切るのではとささやかれた。その理由はさまざまあろうが、河邊が司令官では、部隊を統制できないのではないかと憂慮されていたのだ。
『都道府県別 陸軍軍人列伝』P233

 河邊も皇道派との距離の近さが中国への転任に影響したと言われていた。彼は学究肌で野戦の将に相応しいとは思えなかった。また、強烈な個性の持ち主にも見えなかった。
『牟田口廉也とインパール作戦』P81

 河邊の【ビルマ方面軍司令官】就任の辞は、将兵と聖戦の目的達成に邁進し、天皇の懸念を取り除くことを期す、という簡単なものだった(河邊正三「陸軍中将河邊正三就任の辞」)。虚飾を嫌う河邊らしいと言える。また、ここで言う「天皇の懸念」とは西陲(西端)の守護であるのは論を俟たない。これも作戦に重大な影響を与えることになる。
『牟田口廉也とインパール作戦』P147

 後世における評価は、ビルマ方面軍の長であった河辺、木村【兵太郎】両者に対してはなはだ厳しいものになっている。 すなわち河辺については、牟田口が提唱し河辺が承認したインパー ル作戦の失敗に対して、木村についてはラングーン撤退戦の不首尾に対して、かれら最高責任者の判断が問題とされている。
 このような対照的な結果は、飯田【祥二郎】の在任した期間が幸運にも日本有利の時期であり、その後の両者の時代が不利な時期であったという点だけでなく、両方面軍司令官の実戦指揮官としての適性にも関係しているものと思われる。
 戦後数十年の年月を経ていた昭和の末年に到っても、将官としての河辺正三を仰慕する人の数は少なくなかった。陸軍教育関係のキャリアも長く、かれの感化を受けた人も多かったものと思われる。飯田とは陸大同期で軍人としてはやや小柄であるが、その端正な風貌と品位に満ちた立居振舞いは、人をして自然に畏敬の念を呼び起させるものであった。河辺については詳しい伝記も出版されている(「軍事研究」臨時増刊、昭和四十六年刊)。
 かれはまた漢詩をよくし、多くの作品が平成に入って刊行された私家版の漢詩集「興観集」に収録されている。この漢詩の中で特に目を引くのはやはり盧溝橋事件について詠んだ数編の作品である。華北の一点から起きた暗雲がやがて全大陸に拡大し、運命の太平洋 戦争開戦に到ったことに対して、幾度か感懐をこめて振り返っている。
今後も同じ上下関係 河辺正三-牟田口廉也のコンビが関係した二度の出来事、盧溝橋事件とその拡大ならびにインパール戦は、日本の歴史の上で忘れられることはないであろう。
『隠れた名将飯田祥二郎』P210,212

関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

今までの訪問者数(2011/9/17以降)
プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

 ブログで書いた物のうち、

 OCS関係の記事は

「OCSの物置2」



 戦史物の記事は

「戦史物の物置」


 で、アクセスしやすいようにカテゴリ毎にまとめてありますのでそちらもどうぞ。

Twitter
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
オススメ本
バナーで応援コーナー
ぜひ見て頂きたいページへのリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR