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OCS『South Burma』(仮)製作のために:中国国民党軍の初動について、スティルウェル関連本から

 先日、中国軍の初動について地図付きで書いてましたが、その前に一度文字のみでまとめていたものがありました。

先日の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1月下旬~2月初旬にかけての中国国民党軍について (2023/10/10)
より前の:OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について (2023/03/31)

 より前の記事を読み返していますと、中国軍は英印軍から補給を受けていたようです。あ~、OCS的に問題なさそうで良かった(^_^;



 で、少し手持ちの資料で他に探してみたら、『中国=ビルマ=インド』(ライフ第二次世界大戦史)という本に、かなり面白く中国国民党軍の初動について、スティルウェルを中心にして書かれていました。





 ↓後述の本の地図を元に関連地図を作ってみました(P82の次のページのMAP 3から)。

unit8517.jpg



 ラングーンは陥落しており、一番南に3月19日時点での前線(赤い破線)があります。英印軍はプローム(Prome)から北の軸を防衛し、中国軍はトングー(Toungoo)から北の軸を守るという風に役割分担されていました。

 前回の地図で私は中国第5軍はプーアル?方面からかのように描いていましたが、今回の地図を見てると(ミト王子さんから教えてもらった話からしても)ビルマロード沿いに昆明方面から来たのかもです。

 紫色の破線のラインは後の資料に出てくる、蒋介石の考えていた防衛ラインです。


 その弱点だらけの防御線を日本軍の意のままにさらしておくよりはと、もともとが攻撃的なタイプの司令官であったスリムとスティルウェルは、ラングーンに向けて反攻に出ることを考えた。しかしこのような作戦行動に出るためには、スティルウェルは、配下の中国軍を移動させる必要があった。彼は蒋介石から第5軍、第6軍および第66軍の3つの部隊を与えられていた。それぞれアメリカ軍の1個師団にはほぼ相当する規模である。このうち第66軍は、ビルマ公路がサルウィン川の峡谷を渡るあたりのビルマとの国境を守るために、中国にとどめておくことになっていた。残る2軍のうち、第5軍の第200師だけが防御線の東端のトングー付近で実際に日本軍に対峙する位置にいた。しかもそこは、そのときすでに敵に包囲される危険にさらされていた。第5軍の残る第22師および第96師の2個師はまだ中国を発進していなかった。補給物資が到着するまで待つ必要があるというのが重慶側の説明であった。たとえ準備が整って前進したとしても、中央部のマンダレー付近までしか出てはならないことになっていた。スティルウェルは、トングーの第200師を救助するためにこの2個師をただちにビルマに移動する許可を求めたが、蒋介石はこれを拒否した。スティルウェルに与えられた中国軍のうち、残る第6軍は確かにビルマに入りはしたものの、ビルマ公路を東北部のシャン州まで下ってきただけだった。

 彼らがその地点にとどまって動こうとしないのは、タイ北部から国境を突破して日本軍が進入してくるのを阻止せよという、蒋介石の命令があったからであった【ちなみにこの時、日本軍はタイ軍と合同で、タイ北部国境からビルマへと侵入しようとするかのような囮作戦を行っていました】。

 3月19日、激しい議論ののち、スティルウェルはようやく、トングーの危機に陥っている第200師の救援のために第22師をビルマに移動させるという了解を取りつけた。- 少なくとも取りつけたと考えた。彼はさっそく、中国第5軍の司令官杜聿明に必要な命令を出した。ところが杜も、フランスで教育を受けたインテリだという第22師の師長廖耀湘少将も、怠慢ということにかけては大の達人だった。くる日もくる日も彼らは、何かと口実を見つけては第22師を戦闘に参加させずにすませようとした。鉄道輸送に問題がありすぎる、途中があまりにも危険である、日本軍の戦車隊が多すぎる、廖師長としては増援部隊を待ちたい、日本軍の先遣隊が入り込んでいるので連隊の移動は不可能である、などといった調子である。スティルウェルに話しかけられそうだと見ると、杜は自分の部屋に逃げ込んでしまったり、大声をあげて部下に当たってみせたりするのである。「腰抜けども」と、スティルウェルはあとで杜と廖のことを書いている。「撃ち殺してしまうわけにもいかない。首にするわけにもいかない。……といって話をするだけでは何の効果もない」。

 アレクサンダー将軍も、前線に杜将軍を訪れ、野砲をどこに配置したかと尋ねたとき、スティルウェルが直面している問題をある程度理解した。杜は野砲は引き揚げたと答えたのである。「しかし、それでは役に立たないでしょう」とアレクサンダーは尋ねた。

 「閣下」と杜は答えた。「第5軍はわが国最良の軍隊ですが、それは第5軍だけがともかく野砲をもっているからなのです。ですから、この砲は大切に扱わなければなりません。万一壊してしまったら、第5軍はもはや最強軍ではなくなってしまうのですから」。


 杜がこうした態度に出たのは、あらゆる可能性から考えて蒋介石の指示によるものと思われた。蒋介石は当初、自説である縦深防御理論を固守して、第200師を増援するというスティルウェルの案に難色を示したのであった。スティルウェルは蔣総統からビルマ戦線の指揮をまかされていたとはいえ、文書による辞令ではっきり司令官として任命されたわけではない。それで彼の指揮下に入った中国軍の将官たちも、いちいち重慶の指示を仰がないでは、スティルウェルの命令に従おうとはしなかったのである。

 蒋介石はビルマ作戦に関しては終始、しばしばスティルウェルを通り越して直接杜やその他の将官たちに指令を出すことをやめなかった。蔣は、2500キロも遠く離れたところから連隊レベルにいたる作戦命令まで自分で出そうとしたものである。しかもその命令は、「情勢の些細な変化を根拠として、行動と戦備を根本的に変更するといった具合のものであった」とスティルウェルは書いている。時には遠くからの指令が前線に届いたころには、時機を失して命令そのものがばかげたものになってしまっている場合もあった。全作戦を左右する重大な局面で中国軍が絶望的な戦いを続けていたとき、スティルウェルは総統閣下から次のような命令を受け取った。「兵士がのどがかわいているときは、士気回復に西瓜がよい。4人当たり1個ずつ、西瓜を配給せよ」。

 結局、第22師はトングーの戦闘には最後まで参加しなかった。第200師は孤軍奮闘を余儀なくされ、そのため、ラングーンに迫ろうというビルマ作戦中唯一の連合軍側の攻撃も、行動開始前に内部から混乱し、責任のなすりあいになって崩壊してしまった。
『中国=ビルマ=インド』P23,4



 これを読んで、「そういえばスティルウェル関係の本は何も買ってないけど、スティルウェル関係の洋書から攻めるという方法はあるなぁ……」と思ったので、少しそこらへんの洋書がないか調べてみました。その中で、『Stilwell's Mission to China』という本がネット上でPDFで提供されているのが分かり、見てみたらいくらか関係のことが描かれていました(前掲の地図は、その本の中にあった地図から作ったのですが、しかしその地図は以前に他のどこかで見た記憶があるものでした。が、今回探してみたものの見つからず)。

 輸送手段が乏しかったため、部隊の移動はゆっくりと行われた。中国軍第93師団(第6軍)の残りをビルマに移動させることは、1月19日にビルマ軍司令部からの要請でウェーベル将軍が同意した【ウェーベルは中国軍をビルマ戦に参加させることに反対であったため、許可を取る必要があった?】。

 その2日後、彼は第49師団にも同意した。中国陸軍省は2月3日、第6軍の3個師団の最後のもの【第55師団?】を移動させる命令を出した。

 ビルマ軍総司令官T.J.ハットン中将は、総統【蒋介石】がインドを訪問した際にこの問題について協議し、合意に達した。1月31日、ハットンは第5軍がビルマに入ることの許可をウェーベルに要請し、2月3日に総統はこれに同意、2月28日に移動が開始された。ウェーベル将軍の行動は、チャーチルとルーズベルトの介入に先立つものであった。ルーズベルトは、ビルマ防衛に中国が参加することを政治的、行政的な問題で妨げることは許されないと考えた統合参謀本部に促され、自らチャーチルにこの問題を提起した。こうして、中国の第一次ビルマ作戦への参加が始まった。第93師団の到着は予期されていたため、その補給に支障はなかった。

 第49師団は何かと問題が多かったが、3月中旬には快適に宿営できるようになっていた。臨時第55師団は、第6軍の中で最後に到着した新しい部隊で、統率が悪く、装備も貧弱で、訓練も不十分だった。
『Stilwell's Mission to China』P85

 3月6日の最初の会談で、総統はビルマで作戦する計画はないとはっきりと述べた。その後の会談で、彼はスティルウェルに自分の見解を明らかにしようとした。これらの会談で明らかになったのは、第5軍と第6軍が彼の持つ最高の部隊であり、彼らは日本軍を攻撃すべきではなく、もし彼らが日本軍に攻撃されて撃退したのであれば、攻撃に移ってもよい、と総統は考えているということであった。彼はイギリスに対する極度の不信感をあらわにした。より具体的には、総統は次のように述べたのである。「私の最終的な考えは、中国軍がマンダレーを防衛するべきなのであれば、サジ【ミイトキーナのすぐ東】を東西に貫く線を保持するということである。この場合でも、もしプロームから英軍が撤退すれば、その時は我々はマンダレーを中心としてミイトキーナからラシオに至る斜めの線を保持し、インドと中国の間の連絡線を途切れさせないように鉄道と幹線道路を守ることにする。」 翌日、彼はこう言った。「イギリス軍がプロームを保持する限りにおいて、我々はトングーを保持するのだ。」 

 戦術に関しても、総統はスティルウェルを厳しく制限した。スティルウェルは、部隊を約50マイル離して師団を縦に配置することになった。第5軍の第200師団は、イギリス軍がプロームを保持する限り、トングーに留まることになっていた。第6軍はシャン州を頑として保持する。第5軍の残りの2個師団は、補給が十分に整えられた時点でビルマに入り、マンダレーまで前進することになっていた。防御が繰り返し要求され、警告されていたにもかかわらず、スティルウェルはラングーン奪還のための攻勢を主張した。スティルウェルの心には、3つのことが渦巻いていた。すなわち、インドへのルートをカバーするためにビルマ北部を保持すること以外の総統の禁止令と、おそらく5月15日ごろから始まるであろうモンスーンの雨の接近と、マンダレーから北側のビルマの地形(マンダレーのすぐ東の平原から急峻な断崖が劇的にそびえ立っている)である。スティルウェルのビルマにおける作戦意図は、ラングーン奪還を目指すことであった。なぜなら彼は、日本軍は実際には弱いのではないかと思い、大胆な作戦が大きな利益を生むかもしれないと考えたからである。この計画が失敗した場合には、中国軍は北方へ後退し、マンダレー東方の高地に陣取り、日本軍の北上に対して側面からの脅威を与えればよい。モンスーンの雨は、日本の任務を非常に複雑にすると予想された。
『Stilwell's Mission to China』P97

 スティルウェルの説得により、総統は戦術に関する制限をいくらか緩和した。緊急時には第5軍第22師団が第5軍第200師団をトングーで助けるかもしれないが、第5軍第96師団はマンダレーに留まる。総統の態度は極度に防御的であり、アレクサンダー将軍【英印軍】を支援するのは緊急時にのみだった。さらに3個師団(第66軍)が約束され、うち1個師団はマンダレーに、2個師団は国境に留まることになっていた。総統は、日本軍1個師団に対抗するには中国軍3個師団が必要であり、日本軍の攻勢時には中国軍5個師団が必要であると見ていた。
『Stilwell's Mission to China』P99


 最後の1:3とか1:5の比率ですが、中国軍の1個師団は他国の1個連隊相当なので、実際には1:1とか1:1.5くらいの比率かとも思われます。ウォーゲームの種類によっては1:1なら攻撃側はビシバシやっても大丈夫、というようなものもありますが、OCSや『激マン』シリーズなんかは4:1か5:1の戦闘比は欲しいところなので、そっちの感覚でなら理解できる気はします。



 この『Stilwell's Mission to China』のP103以降には、この後の中国軍の動きも書かれているようでしたが、とりあえず今回はこの辺で。戦史叢書とかでも書かれているかもですが……。


<2023/10/16追記>

 戦史叢書『ビルマ攻略作戦』を読んでいたら、日本軍側の諜報による中国軍の初動についての記述がありましたので、追記しておきます。2月中旬頃までに南方軍が入手していた情報だそうです。

2 蔣軍の入緬状況
(1) 滇緬公路【ビルマ公路のこと】方面
 ビルマ進入を企図しある蔣軍は第5、第6軍にして、第200師(第5軍)は12月27日下関(筆者注 龍陵東北方200粁)を通過せるが如く、新編第22師(第5軍)も移動中にして、2月上旬ビルマに進入せしものの如く、第49師(第6軍)は2月15日ラシオに在るが如し。
 第5軍長は2月10日には未だ昆明に在りたること確実なるも、既に移動を開始し、2月15日第6軍長、第49師長とラシオにおいて会見しあり。現在ラシオ附近に集中しありと判断せらるる蔣軍兵力は第5軍の第200師、新編第22師、第6軍の第49師にして合計2万6千乃至3万にして、近く増加し或は既に到着しあらんと判断せらるるもの第96師(第5軍)暫編第55師(第6軍)計1万8千乃至2万、総計4万4千乃至5万なり。
(以上A情報、確度甲)(筆者注 A情報は無線諜報)
 マンダレーよりの帰還住民報によれば、ラシオより鉄道によりマンダレー附近に南下し、其の一部はトングー附近に進出しあるが如し。(確度甲)

(2) ケンタン方面
 A情報によれば、第93師(第6軍)は2月11日既にケンタン附近に到着しあり。
 其の師部(筆者注 師団司令部)はケンタン附近に、第277団はモンパヤック附近、第278団はミヤウンダ附近、第279団はロイムイ附近に在り。
 筆者注 以上いずれもケンタン州の北部タイ国境方面

『ビルマ攻略作戦』P168,9



<追記ここまで>

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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