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牟田口廉也中将の「ジンギスカン作戦」に使用された牛について

 インパール作戦において牟田口廉也中将は、「歩く食糧」として牛や羊を部隊にもたせ、「ジンギスカン作戦」と自賛した……という話があります。

 『戦慄の記録 インパール』を読んでいると、この時の牛の様子について複数の詳しい記述があって興味を持ったので、英連邦軍にとってのラバの件と比較しつつまとめてみようと思ったのですが、ネット検索してみると日本版Wikipedia「インパール作戦」にジンギスカン作戦についてのかなり詳しい項目がありました(^_^;

ジンギスカン作戦

インパール作戦のような長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57,000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった[注釈 6]。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され[157]、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた[158]。

牟田口は車輛の不足を駄馬で補うために、1944年初頭から牛、水牛、象を20,000頭以上を軍票で購入[159]もしくは徴用し、荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させることとした。特にウシについては広大なチンドウィン川の渡河が懸念され、渡河中に先頭の1頭が驚いて頭を岸に回すと、他の全部が一斉に岸に向かって走り出すという習性があるので、先頭のウシについては銃爆撃に怯えないような訓練をさせた[160]。そしてウシは訓練の結果、1日13㎞の行軍が可能となった。牟田口はさらに家畜を輸送手段だけではなく、「歩く食料」として連れていくことを思い立ち、山羊・羊を数千頭購入した。これは、過去のモンゴル帝国の家畜運用に因んで「ジンギスカン作戦」などとも呼ばれた[159]。作戦計画において食糧は「各兵士7日分、中隊分担8日分、駄馬4日半分、牛2日分」を携行して輸送し、最後は輸送してきた牛を食べて3日分食いつなぎ合計25日分とされた[161]。これは既述の通り3週間以内という作戦期間に基づくものであった[162]。

牟田口はこの「ジンギスカン作戦」を自信満々に報道班員に披瀝している[40]。

インパールへ落ち着いたら、あとは現地自活だよ。だから生きたヒツジを連れていく。草はいくらでもある。進撃中でも、向こうでも飼料には不自由しない。種子も持っていく。
昔ジンギスカンがヨーロッパに遠征したとき、蒙古からヒツジを連れて行った。食糧がなくなったら、ヒツジを食うようにね。輸送の手間はかからない、こんな都合のいい食料はないよ。
その故知を大いに活用するんだ



しかし、ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動せず、逆に進軍の足かせとなってしまった。モンゴル帝国は家畜を伴いながらゆっくりと進撃していたが、第15軍の部隊はわずか20日でインパールに達しなければいけないという時間的制限を課されており、ヒツジの習性を理解しないで企画した作戦であることは明らかであった。そのため、ヒツジは作戦開始早々に見捨てられることとなった[163]。また肝心のウシもチンドウィン川の渡河で消耗したうえ、もともと農耕用であったビルマのウシはいくらムチで叩こうが急峻な山道を登ろうとはしなかったため、山岳地帯の移動でも順次消耗していった[164]。第31師団を例にとると、渡河から最初のミンタミ山脈踏破でまず1/3を消耗、次のアラカン山脈でも次々と損耗し、目的地のコヒマに到着できたのはわずか4%に過ぎなかった[165]。

本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄の戦後の調査では、日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存していたが、作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったという。

・騾馬:73日
・中国馬:68日
・日本馬:55日
・ビルマポニー:43日

また、輸送力不足は戦力的にも大きな影響を及ぼした。牟田口は乏しい輸送力でなるべく多くの食糧を輸送するため、険しい山脈を進撃する予定の第15師団(祭)と 第31師団(烈)については、火砲などの重装備は極力減らして軽装備とさせた。特に速射砲が減らされたが、これは敵が戦車をあまり装備していないという都合のいい想定に基づくものであった[166]。しかし、実際には多数の戦車が待ち構えており、対戦車火力に乏しい両師団は敵戦車に甚大な損害を被ることとなった。このように「ジンギスカン作戦」は輸送力強化にも、食料確保にも大きく寄与することはなく破綻し、結局のところ輸送は人力に頼らざるを得ず、兵士らは消耗していった[159]。

家畜を輸送力として有効活用できなかった日本軍に対してイギリス軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったという[167]。


 ある時点でのWikipedia上での記述らしきものも見つけました。

インパール攻略作戦において、日本陸軍第15軍司令官:牟田口廉也が、補給不足打開の切り札として考案した作戦。牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言うのが特徴。しかし近代戦においては、歩みの遅い家畜を引き連れて、迅速さを求められる拠点攻略を強行するという作戦には無理があり、実際、家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前に脱落し、たちまち破綻した。しかも水牛は味が悪く、現地の中国人でさえ食用にしないものであった。おまけに3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。結果、各師団とも前線に展開した頃には糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、戦闘力を大きく消耗する事態を招いた。
ジンギスカン作戦



 ビルマにおける英連邦軍側のラバの使用については以前、↓でいくらかまとめてました。

チンディット部隊の荷物を運んだラバ達について(付:『Burma II』) (2021/04/26)


 ↑を見ていると英連邦軍のラバの使用については結構訓練期間などもあったということもあり、個人的に気になったのは、ジンギスカン作戦では牛や羊についての事前の訓練があったのかどうか、でした。が、やってはいたのですね。


 他にもこういう記述も見つけました。

 ビルマのコブがある牛は、こぶに棒をひっかけて荷車を引くことはできるが、荷を積むことはない。それをどうにかして荷を積む訓練を重ねた。それも急峻な地形では荷がずれて牛が進まない。三週間分の食料しか持っていないため、それまでにインパールを陥落させる必要があった。牛の歩みを待つと、食料がなくなる。仕方なく、放牧した。一石二鳥どころではなかった。
『未帰還兵』P29



Burma07

 ↑ビルマ(現ミャンマー)の牛と牛車(Wikipediaから)



 以下、『戦慄の記録 インパール』から引用してみます。

「集めた牛や羊は、何万だからね、数がすごかった。"畑やる牛から何もかも日本軍が軍票を払って持って行って、もうビルマに牛なくなっちゃって、仕事できなくなっちゃった"って、ビルマ人が嘆いていた。それぐらい、すごい数だった」
 集めた牛や羊は、兵士一人で二頭ほど引いて歩いた。1944年3月15日、目の前に立ちはだかるチンドウィン河を渡ることになった。
「雨期でないから、まだ雨はあまり降ってないもんで、チンドウィン河の水もいくらか少なかったけどね、それでも大きな川だからね。船と言ったって、そんな大きな船じゃない。板がはってあるだけで囲いなんてない。そこに、みんな牛を乗せた。もちろん、人間も兵隊も乗った。牛が嫌がって大暴れする。それを扱う我々は、みんな素人だから抑えようとしてもうまくいかない。そのうち、暴れる牛と一緒に川に落ちてしまう。牛も沈んだけど、兵隊も相当沈んでしまった。みんな流された
『戦慄の記録 インパール』P72

 【……】佐藤哲雄さん(97)は、牛や羊を引き連れての渡河を指揮した。
「とりあえず一週間、二週間分の食糧の代わりとして牛が配給になったんだわ。川の流れが強いために牛が騒ぐもんだから、鼻環切れたり、ロープが切れたり、向こうへ着くのは半分ぐらいしかなかったんだわ。日暮れからすぐ行動を開始したけども、渡りきるまでは、夜が明けるちょっと前だな、そのくらい時間かかった。
 それで今度は山越えでしょ。〔牛たちは〕食うものないから、山越えるまでには、そのまた半分ぐらいになっちまったんだ。だから、結局最後に兵隊のところに配置になった牛なんて、ほんのわずかずつしかいなかったんだわ
想像以上に牛の扱いに手こずったことを、佐藤さんは記憶していた。
みんな、こんな牛持ってって、足手まといになるから却ってダメじゃないかという意見が多かったんだけども。上からの命令である以上は連れて行ったけれども、面倒くさくなれば牛を放してしまう。そうすると牛はどこでも行ってしまう」
牟田口司令官が自ら考案した〝ジンギスカン作戦〟は、絵に描いた餅だった。
『戦慄の記録 インパール』P73,4

 牟田口司令官の思いつきで連れて行った牛も足手まといとなった。荷物を運ばせようにも、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しかった。もともと農耕などに使っていた牛が多く、性格的にも臆病で、悪路を進むのを嫌がった。兵士は牛のお尻を押したり、叩いたり、最後には尻尾に火を点けて進ませようとしたが、動かなくなった。これでは兵士の方が疲弊してしまうと、渡河から一週間ほどで放棄した部隊が多かったようである。
『戦慄の記録 インパール』P104



 ただ、『戦慄の記録 インパール』を読んでいるとすぐにすべての牛や羊を失ってしまったかのような印象も持ったのですが、Wikipediaによるとコヒマには4%が到着したということで、あんな奥地にまで4%も到着したのであれば、ジンギスカン作戦が100%ダメな考えだったとも言えないかなという気はしました。

 OCS『Burma II』でも、水牛なしでは日本軍はインパール作戦の実行は全然できない感はあります。

unit8868.jpg



 ただ、恐らくジンギスカン作戦を思いついてから実行するまでの期間が短く、訓練も少しはやったものの、細かい検証(たとえば、渡河においてはどうなのか、険しい地形ではどうなのか……等)が足りなかったのだろうし、「うまくいく」という前提で数を集めてとにかく実行させるということが姿勢として勝っていたのだろうな、という気はします。

 それに対して英連邦軍側は、ラバ等の動物を作戦に用いるにあたって、1943年から1944年にかけてかなり長い期間をかけ、検証を繰り返し、うまくいかせるための合理的努力を日本軍の何倍もやったんだろうな、と思います。


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