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ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」についての、初見的考察

 1945年のビルマ戦線の崩壊局面における、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将の「敵前逃亡」という話は、今までいくらか見たことがありました。

 連合軍がラングーンに迫るのに対して、木村兵太郎中将は独断でさっさと逃げ出し、指揮や士気において大混乱をもたらした……ということのようでした。


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 ↑戦後、1947年の木村兵太郎。A級戦犯として死刑の判決を受け、絞殺刑に処されました。



 ただまあ、詳しいいきさつに関して読んだことはなかったのですが、新たに購入した戦史叢書の『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』の途中から読み始めると、その「敵前逃亡」についてある程度詳しい記述がありました(P231~5)。そしてそれを読んだ感じでは、木村中将がラングーンから撤退したのはむしろ妥当ではなかろうかという印象を受けたのです。






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 1945年4月22日に、英連邦軍の大規模機械化部隊群がトングーを南下していったことが判明します(現地の小規模日本軍部隊はただそれを離れた場所から眺めるだけで何もできませんでした)。ラングーンの失陥が目前に迫っていることが明らかになって、ビルマ方面軍の各参謀達が集まって検討した結果、ラングーンから撤退もやむなしという空気となります。地形的に考えて、ラングーンに留まるとラングーンだけで孤立することになるのに対し、ビルマ方面軍司令部をモールメンにすぐに移動させれば、シッタン川やシャン高原の線での抵抗を指揮するのに適当な位置を持つことになるためです。

 反対意見も出なかったため、撤退の命令案をまとめて木村中将に提出すると、すでに撤退の決意を固めていた木村中将は命令案にあっさり署名します。

 ところが翌日に方面軍の田中新一参謀長が司令部に帰還して撤退のことを知ると、これに猛然と反対。結局意見の一致を見ることなく(手続き上、別に参謀長の了解を取る必要はなかった)、23日夕方から25日朝にかけて木村中将と方面軍司令部の幕僚達は空路モールメンへと撤退したのでした。

 個人的には、地形上の問題としてモールメンへ司令部を移すというのはごく当たり前の判断のように思えます。OCSでは司令部が敵に踏まれたり孤立したりしないようにうまい位置に置いておくということはかなり重要であるため、そういう感覚に共感を覚えやすいということはあるかもです。



 ただし、モールメンへの方面軍司令部の撤退について、上級司令部や現地部隊に対して充分告知したり、撤退後にどうすべきかについての指示を与えずにいたため、その後現地が大混乱に陥ったということはあり、その面についての責めは確かに負うべきなのだろうなとは思われました。

 また木村中将は、あらかじめ4月13日に第28軍司令官の桜井省三中将から「早めにラングーンから撤退しておいた方が良い」と声をかけられたのに対して「撤退はしない」と返答しており、ビルマ方面軍全体としては(当時の日本軍の根性論的あり方からしても)撤退するなどあり得ないという空気でもあったのだろうとも想像できますから、いきなり撤退という判断になったのは「唐突」ではあったでしょう(実際、この時から撤退を準備し始めていれば、後世の責めを負う度合いはだいぶ低くなったと思われます)。

 ただ、1942年の連合軍側のラングーンからの撤退にしても、上級司令部のウェーヴェル将軍はラングーン保持を命令していたのに、ビルマ軍司令官アレクサンダーはいきなり撤退命令を出したのですから、単に木村中将を非難するだけでなく、アレクサンダーと比較してどうだったのかというようなことを検討した方が、戦後70年以上経つ現在としては建設的ではないかと思いました(その結果として、木村中将のやり方の方が悪かった、ということは大いにありそうだと思います)。1942年の時は、連合軍側がペグーで日本軍を阻止できると思い込んでいた(実際、そこでは連合軍側が勝っていました)ら、実はその北西を別の部隊に迂回されていてラングーンが北から攻められそうなことが判明して「もうダメだ」となった……という面があったのだろうと思います。1945年においては、トングーでいくらかでも抵抗できると思っていたのがまったく不可能で、大規模機械化部隊がラングーンに突進してくるようだということが明らかとなって「もうダメだ」となったのかもしれないと思います。


 あと、木村中将は『アーロン収容所』によれば、非常に根性論的なことを兵士達に言う人であったらしく、その面では「なんでやねん」という印象になるのはやむを得ないとは思います。

 私たちの小隊長は学徒出身兵で、二十年はじめにビルマの土を踏んだのだが、そのときの様子をこう話した。自分たち学徒出陣兵が、候補生となりビルマにやってきたとき、方面軍司令官K【木村兵太郎】大将【当時は中将だと思いますが、最終階級は大将】に引見された。その席の訓辞はこうであった。
「生っ白いのがやってきたな。前線は貴様らの考えているような甘ちょろいものではないぞ。お役に立つためには覚悟が必要だ。行け、立派に死んでこい」
 19年秋、病院に入っていた私たち兵隊は、ともかく歩行にたえるものはいっせい退院を命ぜられ、前線に向った。私と同行した右手を失った兵士もそうだった。私たちが驚いて、どうしてこんな障害者に前線復帰命令が出たのだろうと噂をしていたら、軍医が大喝した。
「片手で銃は持てなくとも馬のたづなはひける。すこしでもお役に立つものは前線へ行くのだ。K【木村】閣下のご命令なのだ」
 このK閣下はラングーンに敵が迫ると、一般市民を兵役に徴発して守備させ、自分たちは飛行機で脱出した。残された日本人は、一般市民といわず看護婦といわず、英軍の包囲下にほとんど全滅した。私たちの最後の戦闘場所、シッタン河の陣地で、私たちは髪をふり乱して流れてくる赤十字看護婦さんの屍体を毎日見た。「死んでこい」という言葉のつぎには「おれは飛行機で安全地帯へ逃げるから」と補足して述べるべきだったのだ。
『アーロン収容所』P171,2






 あと2つ、気になることがあります。日本語版Wikipedia「木村兵太郎」には、↓のように書かれていいるのですが、この記述に対してはいくらか別の視点を提供できるのではないかと。

4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。



 桜井省三中将が「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と言っていたというのは、『シッタン・明号作戦―ビルマ戦線の崩壊と泰・仏印の防衛』のP237にも書かれていました。

 しかし、『ビルマの名将・桜井省三』では、違ったニュアンスで書かれているように思いました。



方面軍司令部が戦闘の渦中に巻き込まれてはまずい。今のうちならまだ整斉と後退できるので、どうぞ早くモールメンにさがって下さい。そして速やかにシャン高原に戦闘司令所を推進するのが適当だと思われます。ラングーンの防衛は第28軍で引き受けますから
『ビルマの名将・桜井省三』P216


 ここでは「モールメンに下がって欲しい」としていますし、「シャン高原に戦闘司令所を推進する」というのは木村中将がそこにいるべきだというのではなく、適当な指揮官を任命してシャン高原に司令所を置くべきだ、という意味である可能性もあるのではないでしょうか。ただし、同書P220には「(作戦指揮所は)戦闘司令所ではないので軍司令官はいない」という記述があり、この記述からすると戦闘司令所には軍司令官がいるのが普通かもしれません。ただだとしても、シッタン川の東岸に木村中将がいた方がいい、ということではあるかとは思います。



 それから、田中新一参謀長についてです。Wikipediaの記述では、田中参謀長の方がまともなことを言っているように感じられるかもしれませんが、田中新一という人は日本陸軍の最強硬派で、参謀本部第1(作戦)部長として対米開戦を主張して開戦に導いた人物であり、ガダルカナル撤退を頑として認めず乱闘騒ぎを起こし、ビルマ方面軍参謀長としてもインパール作戦失敗後、防御態勢を取った方が賢明だと他の幕僚達が考えているのに積極的攻勢論を主張しまくって周りの人々を困らせていた人物なのです(ただし、ビルマに来て最初に指揮を執った第18師団長としては、非常に優秀であったと思われます)。

 正直、私自身、田中新一がビルマ方面軍参謀長としてビルマ戦線に与えた悪影響というのはかなりあったのではないかという印象を持っています。GameJournal誌16号P24で上田洋一氏は「連合軍が野戦指揮官としての田中を高く評価していることを考えると配属される部署【ビルマ方面軍参謀長のこと】が誤っていたと思えてくるのは筆者だけであろうか?」と書かれているのですが、私も田中新一が師団長にとどまっていた方が遙かに良かったのではないかと思えます(もちろん、反対意見もあることでしょう)。


 また、ガダルカナル撤退に田中新一参謀本部第1(作戦)部長が反対していた時、木村兵太郎は陸軍次官でその席におり、田中新一に対してその言動を詰問して「なにッ!」と反抗してやりとりがあったりしたそうです(『ビルマの名将・桜井省三』P221)。その後、彼等は方面軍司令官と参謀長という関係になるわけですが、その間ずっと「ただならぬ空気」だったそうです。そこらへんの悪影響もあったのではないでしょうか。



 しかし特に、木村兵太郎の人となりや能力については、私はまだまだ知識がないので、そこらへん詳しく知ってくると、意見も変わってくるかもしれません。とりあえず、今の時点での、私なりの「論争的」なものを提示してみました。


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 木村大将の能力に関してなのですが、第215連隊の中隊長として後期ビルマ戦に従軍していた磯部卓男氏によると、敵将のスリム元帥が自著の「DEFEAT INTO VICTORY」にて、木村大将に対して「木村大将は非常に高度に現実主義と道徳的勇気とを持っている指揮官」、「彼は速やかにメイクティラを回復しなければ致命的な危険に陥ることを直ちに認識した。日本軍の多くの指揮官に似ず、木村は情勢を変化させるために常に迅速果敢に行動した」と高く評価していたようです。ちなみに出典は「イラワジ会戦」です。
 また、木村大将の人となりに関してなのですが、意外なところだと辻政信大佐から高く評価されていたようです。辻大佐は自著「十五対一」にて、木村大将に対して「この司令官は個人としては尊敬すべき人格者であり、温容珠のような将軍であった。いまなおその人となりを思い浮かべて、敬慕に堪えないものがある。」と述べていました。しかし、その一方でラングーン放棄には批判しており、「責任はあくまで責任として自らも負い、中央部からも処理せらるべきではなかったであろうか。」と述べていました。ちなみに辻大佐は昭和20年5月18日に南方総軍司令部に出頭する際に、木村大将から「ビルマの敗戦はその一切の責任が木村にある。南方総軍に行ったらどうか総司令官閣下以下にそのことを伝えてもらいたい」と言われたそうです。

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 おお~、ありがとうございます! 大変参考になります。

 『Defeat into Victory』も『十五対一』も一応入手はしているのですが、まったく読めていません(^_^; また今後自分でも、情報集積していこうと思います。
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Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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