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OCS『South Burma』(仮)製作のために:1942年のビルマで戦った中国国民党軍について

 今回は1942年のビルマで戦った中国国民党軍についてです。

 中国軍については後回しにしようと思っていたのですが、1942年1月頃から?中国軍が少しずつビルマに入り始めて、守備を任せられるようになった英連邦軍が南下するという流れがあったということで、中国軍部隊移動の記述を捉えるためには最初からやった方が良さそうだと思い直しました。


 中国軍については、『Japanese Conquest of Burma 1942』の記述がかなり詳細でした。

 イギリス上層部は当初、1941年12月に蒋介石総統がビルマ防衛のための国民党軍を一個師団を除いて提供することを拒否した。これは、ビルマに対する中国の長期にわたる領有権主張、英連邦軍によるビルマ防衛の政治的必要性、最後に兵站の困難さを考慮した結果であった。ラングーン陥落後、マンダレーに向かう日本軍を撃退しようと中国遠征軍が派遣されたことは重要だったが、ビルマにおける指揮系統全般は複雑で、蒋介石とアレクサンダーの間には、植民地における互いの長期的政治意図に対する誤解と相互不信があり、関係は暗礁に乗り上げていた。この相互不信の犠牲となったのは、緊密な連携と相互支援が必要なときに、英中両国がすべての指揮レベルで効果的な協力関係を築けなかったことである。

 ビルマにおける中国軍の総指揮は、蒋介石総統から、1942年3月4日に中国に到着した58歳の米陸軍上級将校ジョセフ・スティルウェル中将に委ねられた。スティルウェルは、アメリカ大統領の中国駐在軍事代表、中国戦線連合軍最高司令官としての蒋介石総統の参謀、アメリカが指定した中国-ビルマ-インド(CBI)地域の全米軍司令官、中国に送られるレンドリース物資の管理、ビルマ公路の管理など、さまざまな職務を担っていた。この発表は、ビルマにいるすべての中国軍をアレキサンダー将軍の指揮下に入れるという以前の合意を破るものであり、イギリス軍上層部を大いに混乱させた。最終的には、気難しいスティルウェル(その気難しい態度から「ビネガー・ジョー」と呼ばれていた)が3月24日にアレキサンダー将軍の「総指揮」の下に進んで身を置き、ビルマ軍との作戦を調整することで解決したのである。中国遠征軍(CEF)の指揮系統は実際にはもっとずっと複雑であることが、メイミョーに司令部を設置する際にスティルウェル自身が気付いた。アレキサンダーを訪れたスティルウェルは、中国第5軍司令官である杜聿明(Tu Tu-Ming:といつめい)将軍がすでに中国遠征軍の司令官であると名乗っていたことを知った(彼自身は最終的に羅卓英(Luo Zhuoying)将軍に取って代わられることになる)。トングーの防衛戦において、苦境にあった中国第200師団を支援するために中国第22師団を派遣せよというスティルウェルによる命令を杜聿明将軍が無視したため、スティルウェルの権限の限界がすぐに露呈された。実際、不運なスティルウェルは、自分が名ばかりの指揮官であり、命令を下す権限も執行する権限もないことにすぐに気づいた。陸軍、師団、連隊レベルの中国高官でさえ、「個人の軍隊」に損失をもたらすかもしれない行動を避け、総統が望んでいると考えられることと対立し、アメリカの命令を指揮系統に照会して承認してもらえないのである。重慶で総統と直接対決した後、4月6日、蒋とその妻はメイミョーに行き、集まった中国の司令官たちにスティルウェルの権限を伝えた。同時に、彼の指示を認証するための公印には、CEF総統ではなく最高顧問/参謀長としてスティルウェルを記した。このような変更にもかかわらず、アレクサンダー将軍とスティルウェルが出す命令は、林蔚(Lin-Wei)将軍を長とするビルマ軍本部の中国参謀団、そして最終的には慎重な蒋介石の同意を必要とした。さらに問題を複雑にしたのは、林蔚将軍が軍事情勢の悪化に伴ってしばしば独自の矛盾した命令を発し、1942年5月早々に事実上崩壊し、スティルウェルと羅卓英が部下に自らの運命を託しインドに退却したことであった。

 陸軍や師団レベルの中国軍将校の指導力は、実にまちまちであることがわかった。同盟国との戦闘経験を持つ者はおらず、通訳、連絡員、地図の不足により、英中将校間の効果的な協力はさらに困難なものとなった。

 CEFは1942年1月から4月にかけて徐々にビルマに配備され、7万から13万の兵力を有し、 国民党中国軍が利用できる最高の戦闘部隊で構成されていた。杜聿明将軍率いる第5軍(第200師団、第22師団、第96師団、戦車隊、砲兵隊)、甘麗初(Kan Li-Chu)将軍率いる第6軍(第49師団、第93師団、新編第55師団)、張軫(Chang Chen)将軍率いる第66軍(新編第28師団、新編第29師団、新編第38師団)である。この戦闘序列は紙の上では印象的であったが、ビルマで戦った中国国民党の師団の戦闘力の高さは、ある中国の歴史家によると、その部隊にはタフで頑健、自立した兵士(多くは最近日本と戦った経験がある)がたくさんいたものの、「寄せ集め」であり、「精鋭、普通、未熟の混合」であった。中国の軍隊や師団の戦闘能力は、指揮官によって大きく左右され、ある者は高度なスキルを持ち、ある者は指揮官という任務にひどく不向きであった。英語を話す第38師団の師団長孫立人(Sun Li-Jen)将軍は、その中でも最高の人物であり、イギリス軍からは「知的で精力的、かつ注意深い」と評されたが、作戦調整に関しては「時間感覚に乏しい」とされた。同様に、第49師団を指揮する彭壁生(Peng Pi-Shen) 将軍は有能で力強い指揮官と考えられていたが、上官達の許可なく攻勢に出ることは繰り返し拒否した。他の中国軍師団長は優柔不断で、無能で、全般的に指揮に適さないことが判明した。スティルウェルのスタッフは、例えば甘麗初将軍を能力も想像力もなく、不利な状況に直面した場合、取り乱してしまうことが多かったと評している。

 戦闘に慣れた中国軍第200師団(8,500人)は、軽戦車、自動車、米軍のレンドリースの75mm榴弾砲と105mm砲を保有し、中国国民党軍の師団としては断トツに優れていた。同様に、新編第38師団は、将校と兵士が欧米で高度な訓練を受け、欧米の武器を十分に装備し、共産党軍と日本軍の両方との戦闘にかなりの経験を持っていた。ほとんどの中国軍師団は約6000人の非常に弱い師団で、訓練も装備も不十分な歩兵で構成され、対戦車砲、野戦砲、その他の重火器がひどく不足していた。対戦車砲、野砲、その他の重火器も不足していた。新編第56師団【新編第55師団の誤りか?】のようないくつかの師団は新しく組織され、その不幸な、ほとんど訓練を受けていない徴兵は作戦開始後にライフル銃が支給されただけだった。多くの中国軍部隊は輸送手段がなく、徒歩で戦場に向かい、丸腰のクーリーに武器を持たせていた。しかし、車両は後にビルマ公路からアメリカの車輛を「借用」して供給された。組織的な補給管理システムは存在せず、英連邦軍のリソースで食料やガソリンを供給できない場合、中国軍兵士達は「イナゴがその土地を食い尽くす」ように、不幸なビルマの人々から自由に盗んで生活していた。悲しいことに、医療班も事実上存在せず、中国人は病人や負傷者の世話をイギリスのリソースとアメリカ人宣教師ゴードン・シーグラーブ博士が運営する医療班に頼っていた。
『Japanese Conquest of Burma 1942』P21~24



 『Burma, 1942: The Japanese Invasion』の巻末のまとめの中にも中国軍に関する項目がありました。この本では中国軍がビルマに入り始めたのは3月となっていました。

2. 彼らは中国軍で最も優秀な部隊と言われ、確かに何度か非常によく戦ってくれた。しかし、彼らは時間に無頓着で、もちろん言葉の壁もあり、協力は困難であった。イギリス軍とインド軍にとって問題なのは、中国人と日本人(そしてグルカやビルマ人)を区別することであり、いくつかの不幸な間違いは避けられなかった。

3. 中国遠征軍のビルマへの移動は、それ自体が叙事詩のようなもので、ラシオの鉄道末端に到達するまでに、山間部を何百マイルも輸送された。ラングーンから反対方向に運ばれてくる弾薬、トラック、ガソリンなどのアメリカの戦争物資がなければ、論理的に不可能であっただろう。

4. イギリスは、ビルマにいるすべての中国軍に、彼らの主食である米と医療支援を供給することを保証した。ビルマ語を話すイギリス人連絡員を各編隊に配置する必要があった米の供給作業は、最盛期には1日に300台の大型トラックを使用する必要があった。

5. 中国には医療班がないに等しかった。負傷者や病人を近くの村に預ける習慣があり、自国の外で活動するのは初めてだったのである。イギリスは、自国の軍人と民間人の病人や死傷者のために医療支援を提供することで精一杯だった。ハットン将軍は、たまたまビルマにいたシーグラーブ医師率いるアメリカの民間医療団に、そのギャップを埋めるためにできる限りのことをするよう手配した。

6. 一般に、中国軍は軽武装で、迫撃砲も大砲も戦車もほとんど持っていなかった。どの編成においても、部隊の約3分の1が全く武装していなかった。非武装の隊員の仕事は、ポーターとして物資の運搬を手伝い、死傷者が出たときに武装することであった。スリム将軍の記録によると、中国の「師団」の規模は約8000人であった。しかし、全力でもライフル3000丁、軽機関銃200丁、中機関銃30~40丁を超えることはほとんどなかった。輸送手段は、1、2台の将校専用車と6台のトラック、そして数百頭の毛むくじゃらのポニーである。アレキサンダー将軍は、中国の大隊の戦力はイギリスの中隊の戦力とほぼ同じであると指摘した。したがって、中国の「軍隊」や「師団」と呼ぶのは、その有効戦力が英国や日本の全戦力の師団や旅団群とほぼ同じであるため、混乱を招く。したがって、この本では、中国の「軍」は「a/division」、中国の師団は「d/brigade」、中国の連隊は「r/battalion」と書くことにする。

7. スティルウェルはもともと蒋介石総統の参謀長だったが、総統からビルマの中国遠征軍総司令官にも任命された。そのため、アレキサンダー将軍のもとでビルマに赴任することになった。しかし、総統から肝心の指揮権を与えられていないことが判明し、すべての命令は副官の羅卓英中将を通じて伝達されることになった。さらに指揮系統は複雑で、ラシオには中国参謀本部があり、その長官は林蔚中将であった。彼は蒋介石総統のビルマにおける個人的な代理人であり、すべての重要な命令には彼の承認が必要であった。このような煩雑なシステムは、もちろん機動作戦には大きなハンディキャップであった。
『Burma, 1942: The Japanese Invasion - Both Sides Tell the Story of a Savage Jungle War』P369,370





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No title

 こんにちは。中国軍ということで出てまいりました。またご迷惑を顧みず長くなってしまいます。
 まず第5軍は以前書いたように機械化部隊ですが、輸送機関は1個師分なので自動車輸送の場合ピストン輸送になります。HJ「日本の進撃」では第200師のみ機械化歩兵師として扱っていたかと記憶します。
 第5軍の3個師のうち第22師というのは中国語資料の多くでは新編第22師。

 「中日装甲兵全史1938-1945」「抗戦時期国軍 機械化/装甲部隊畫史1929-1945」などによると、戦車隊とは装甲兵第1団のことで戦車営3(各戦車連3)、その他工兵などの支援部隊を持っており、各戦車連はT-26軽戦車7輌とCV35(33とする説あり)又はUE小戦車5輌が定数でしたが、ビルマ防衛線では輸送の関係で機銃戦車とルノーZBが主力でT-26は重量の関係で投入が遅くなったようです。(全装備数はT-26:47、ZB:12、CV35:53とする資料がありますがCV35にはUEも合算されているような気がします)
 ルノーZBは恐らくT-26の不足を補う装備と思われます。

 砲兵については崑崙関の戦いの際は、第200師がソ連製76.2mm野砲12門の1個営、他の2個師は同砲4門の1個連。ビルマ戦までに米軍火砲を装備できたかは個人的には懐疑的です。もっとも崑崙関で大きな損害を受けた栄誉第1師は第5軍から外され第96師が代わりに加わっています。
 「鉄血 崑崙関」ではこの頃第5軍には直属の野戦砲兵は無かったらしく、戦車防御砲営(ドイツ製3.7cm砲16)を持っていましたが、「民国軍事史略稿」では第1軍、第2軍、第5軍、第74軍の四個攻撃軍のみ1940年頃には野山砲混合の砲兵団があったとしています。
「中日装甲兵全史」によればその後、野砲営、山砲営に加え砲兵第54団第5営(ソ連製3.7cm砲)を合わせ「第5軍砲兵団」を編成したとしていますから、もともと野砲と山砲を大隊規模で持っていたとも読めます。

 第5軍騎兵団は装甲車連1、自動二輪連2、戦車防御砲連(3.7cm砲6)、騎兵連を持ち、ドイツ製sd.kfz220,221,222計13輌を装備していましたが、作戦前乃至作戦中に米国製M3A1装甲偵察車41輌を受領しています。(「中日装甲兵全史」)

No title

 第6軍の3個師のうち新編第55師とされているものは中国語資料の多くでは暫編第55師としています。
 第6軍と第66軍の軍直轄砲兵は詳しい資料がありません。当時一般的な軍は山砲6門からなる1個営を持つものとされていましたが(「民国軍事史略稿」)、第10軍のように三八式野砲12門の1個営を持つ軍もありました。

 遠征軍全体の支援砲兵は第5軍砲兵団、陸軍戦防砲直属第1営、砲兵第13団第1営(ドイツ製105mm軽榴)、砲兵第18団第1営(ソ連製76.2mm野砲と推定)からなる遠征軍第1路砲兵部隊とのこと。(「国民党砲兵紀実」「抗戦時期陸軍武器装備 野戦砲兵篇」)

>新編第38師団は、将校と兵士が欧米で高度な訓練を受け、欧米の武器を十分に装備し、共産党軍と日本軍の両方との戦闘にかなりの経験を持っていた。

 「国民革命軍陸軍沿革史」によれば新編第38師は1941年12月に税警団駐貴州部隊を改編したばかりのもので、ビルマ防衛戦時点で戦闘経験が果たして豊富と言えるか微妙と思います。装備は税警団出身ですから良かったのかも知れませんが、十分な米式装備と訓練を受けたのはインドに敗退後のことのように思います。
 

>どの編成においても、部隊の約3分の1が全く武装していなかった。

 詳細は不明なのですが、もしかしたら補充団のことかも知れません。
 中国軍の師は日中開戦時に多かった4団制をすぐに3団制に改編していますが、別に補充団を持つものもあり、軍の単位で1個補充団を持つものもありました。少なくとも崑崙関の頃の第5軍の各師はこれを持っていました。
 建前としては補充団も普通の歩兵団と同様の編制装備を持っていることになっていますが、実際にはそうでなかったのかも知れませんね。
 

>中国の「師団」の規模は約8000人であった。しかし、全力でもライフル3000丁、軽機関銃200丁、中機関銃30~40丁を超えることはほとんどなかった。

 「民国軍事史略稿」によると、1940年頃の国民党軍の師(4個の攻撃軍を除く)は定数で人員約1万名、歩兵銃3,100、軽機162、重機54、迫撃砲36、戦車防御砲4を持っていたとされます。概ね一致しますね。

No title

 おおお……。中国語資料なのですね……大変参考になります!(>_<)

 中国軍ユニットのレーティングの参考にさせていただきますね。なかなかに微妙な様相っぽいですが……(^_^; 

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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