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『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回

 ブリュッヒャーに関しての記事を書くぞ書くぞと書くぞ詐欺をずっとしていたのですが、ようやくちょっと書き出しました。

 とりあえずまず、ブリュッヒャーが軍隊(最初はスウェーデン軍)に入る直前まで(大して分量はありません)。


 その前に、「前書きと参考文献について」。むしろこっちが長いです。

前書きと参考文献について

 「なんちゃってナポレオニッカー」として私は若い頃にはナポレオニックビッグゲームをいくらかやったりしていたのですが、英語も読めず、ナポレオン戦争に関する知識も大してない状態で、その後ナポレオン関係からは一度全面撤退しておりました。

 ただワーテルロー会戦に関してだけはなぜかある程度の興味は持ち続けていて、数年前にまたワーテルローにハマり込み、30歳を越えてからいくらか英語が読める様になってきていたので、ワーテルロー会戦に関する洋書を買い始めます。

 で、ワーテルロー会戦についての洋書を色々と苦心して読んでいるうちに、私の中に「ブリュッヒャー元帥について詳しく知りたい」という欲求がふつふつと大きくなっていきました。ブリュッヒャー元帥自身が面白そうだというのもありますが、フランス側、あるいはウェリントン側についてはある程度文献もあって知っているけどもブリュッヒャーやその周辺については知っている事が少なく、ワーテルロー以前のプロイセンの事が分からないと、ワーテルロー自体が良く分からない……という事情もありました。

 そこでまず、とりあえず日本語文献がないか調べてみたのですが、ブリュッヒャーについて詳しく記した日本語文献は私にはほとんど見つけられませんでした。渡部昇一氏の『ドイツ参謀本部』の2ページにも満たない記述が一番量が多いのではなかろうかという様な状態……。

 そこでやむを得ず英語文献を調べてみたのですが、これもほんの少数しか見つけられませんでした。ドイツ語文献ならばある程度豊富な様でしたが、英語もやっとなのに、ドイツ語が読めるわけありません。

 そんな中とりあえず買ってみた英語のブリュッヒャーに関する伝記本である『THE HUSSAR GENERAL : The Life of Blücher, Man of Waterloo』(Roger Parkinson 1795年イギリス。以下、『The Hussar General』と表記)なのですが、文学的表現が時々交じって訳しにくい事があるものの、ブリュッヒャーが1814年戦役でパリを陥落させた直後に鬱状態になって一室に閉じこもり、衰弱して死ぬ寸前だった……なんていう(それまでの私の限られた知識からすれば)意外な事が書いてあったり、グナイゼナウやシャルンホルスト、あるいは他のプロイセン軍の将軍達(ホーエンローエやヨルクなど)などに関しても触れられていてそれらも面白そう。



 本来私はワーテルローについて一番興味があるのですが、プロイセンが絡む1806年戦役や1813年戦役などにもかなり興味があっていつか調べようとは思っていたこと、ワーテルロー以前のプロイセン全体を理解しないとワーテルロー自体が良く理解出来なさそうであること、またブリュッヒャーとその周辺について、自分の中での理解を増すことと他の方々への紹介を兼ねて、ある程度の記事を書いてみようとすることは、意味のあることであろうと思い、『ブリュッヒャーとプロイセン』という枠組みで歴史記事を書いていってみようと思った次第です。

 ただ能力的に、様々な参考文献を見ながら……というわけには全然いきません。そもそも英語の能力でさえ非常に危ぶまれ、おっかなびっくりなのです(T_T)

 とりあえず最も参考にしていく基本的な文献は前述の『The Hussar General』です。この本は1975年に出版された本で、1990年代以降出てきたナポレオン戦争関係の「伝説」への批判的態度までは期待できませんが、参考文献や元資料を多く記してあって、その著者の態度には好感を持ちます。

 この『The Hussar General』の参考文献目録の項の最初のところには、こうあります(P258)。

 これまでに英語で出版されたブリュッヒャーの伝記は、2つしかない。最初のものは『The Life and Campaigns of Field-Marshal Prince Blücher』(London 1815)であり、ワーテルロー直後に書かれたに違いないが、それゆえこの伝記は明らかに不十分なものであった。この本には非常に多くの誤りが含まれていたが、とは言ってものびのびとした価値があり、作者は複数の目撃者をインタビューしている。

 2つ目の英語によるブリュッヒャーに関する著作は、Ernest F.Hendersonの『Blücher and the Uprising against Napoleon』(New York 1911)であるが、古くさく、タイトルが示している様にこれもまた不十分なものである。


 この1つ目の著作はGoogleブックス上で読めるのですが、「非常に多くの誤りが含まれていた」とあるので、参考にしない様にしようと思います(また、そこまで訳している余裕はないというのもあります)。

 2つ目の本は、実はあまり良く分からないうちに購入してしまっていました。正式な名称は『Blücher and the Uprising of Prussia against Napoleon, 1806-1815』ですが、Googleが元の本をスキャンして(しかし校正は全くせず)文字データだけをプレーンで印刷した体裁の本で、地図もなくスキャン間違いも含まれているのですが、しかしある程度は役に立つかなという気がしてます。



 その他で何度も参考にしそうなのは、『Dictionary of the Napoleonic Wars』(David G.Chandler 1979)と『Who was Who in the Napoleonic Wars』(Philip J.Haythornthwaite 1998)です。両方とも事典形式の本で前者はナポレオン戦争全般に関して、後者はナポレオン戦争時代の人物事典です。前者は多くの誤りも含まれているっぽいのですが……。



 その他日本語文献も参考にしていきますが、これはその時その時で出典を記していく事にします。

 また、ネット上の英語記事や、ネット事典であるWikipediaも参考にするつもりでいます。日本語版Wikipediaはドイツ諸邦の項目が充実していて助かります。英語版Wikipediaまで広げれば色々な項目がありますし、ドイツ語版Wikipediaにしか項目がないものも、ネット翻訳で英語にまで翻訳して読めばなんとか意味が取れるものがあります。

 「Wikipediaは信用できない」という批判もあり、実際私も日本語版Wikipediaのブリュッヒャー(ブリュッヘル)の項のどうも間違いではなかろうかと思われる部分を訂正してみた事もあったのですが、しかし「間違いが含まれている事に関しては本も同じ」……かと私は思っています。

 ナポレオン戦争に関する泰斗(その道に関する権威)と長らくされていたデヴィッド・チャンドラーの著作に多くの誤りがあった事が現在では分かっています。かといって最近ナポレオン関係に関して書かれた他の著者・著作には間違いがないというわけではなく、批判がされたり、あるいは相反する事が書かれている事もしばしばです。

 要は「一応どうも、自分が調べた範囲ではこれが正しそうだと思って書くけど、勿論間違っている可能性も多分にあり、その検証が容易になる様になるべく出典は書きますし、多くの批判や検証がなされて、より正しそうな知見が万人にとって得られる様になることを望みます。」という態度が良いのだろうと私は思っています。その意味で、そもそもその様な仕組みを備えているWikipediaの態度を私は好きですし、自分の書く記事でもその様にしたいと思うわけです(尤も、そもそもが大して調べたわけではない記事にとどまるわけですがぁ……)。

 あ、ただし、Wikipediaでも書籍でもそうですが、「なんとなく信用はしない方がいいような気がする」ものはあまり/ほとんど使用しない様にするつもりです。例えば柘植久慶さんや藤本ひとみさんの著作は、面白いのは面白いのですが、事実関係に関しては信用しない方がいいような気が非常にしてます。

 ただ、こういう「出典を明らかにして検証を待つ」という態度は、紙幅が大きくなければ出来ない事で、そういう意味で紙幅に(ほとんど?)制限のない電子書籍に、私は個人的に期待するわけです。

 また、地図も出来る限り作っていきたいと思っていますが、これも信用度に関しては大してない……という事は一応おさえておいていただければ。地図を作る作業をしていると、色々と分からない、あるいは矛盾することを抱えたまま、ある程度適当に出していっている感がありますし、多くの場合もまたそうなのだろうという気がします。

 出典表記に関しては、『The Hussar General』は基本文献である為に、ほとんど記さないつもりです。『The Hussar General』の中で元の出典が記してあるものについては、記していこうと思います。他の文献から取ってきたものについては、内容の多寡によるだろうと思います。ほんの少しの事であれば通り過ぎる事もあるかと思いますが、重要で多いものに関してはちゃんと記していくつもりです。




 以下、『ブリュッヒャーとプロイセン』第1回です。↓は関係地図(七年戦争当時)。

12100801

色分けで、赤いのは自由都市、空色?は種々の司教領、紫はオーストリアです。リューベックの北の紫っぽいのは何なのか分かりません(T_T)


 ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャーが生まれたのは1742年12月16日であり、これはオーストリア継承戦争でフリードリヒ2世が突如シュレージエンに侵攻した1740年12月16日のちょうど2年後にあたる(シュレージエンの領有は、1741年7月の講和でプロイセンに一旦認められた)。

 ブリュッヒャーの家系は、元々から「von」称号を持つ貴族の家系であったという。ブリュッヒャーの父親はこの一家の分家であり、歩兵大尉としてヘッセン=カッセル軍に仕えていたが退役し、妻、9人の息子(*1)、1人の娘と共に、メクレンブルク・シュヴェリーン公国に移住した(*2)。移住した先は港町ロストックに近いGross-Renzowであった(*3)。

*1:『Blücher and the Uprising of Prussia against Napoleon, 1806-1815』には息子は6人とあるが、「軍に入隊した彼の6人の息子」とあるので、成長した息子が6人であったという事かもしれない。ただ『The Hussar General』では後段でも、「軍隊に入った9人のブリュッヒャーの兄弟」という表現が出てくる(P5)。

*2:ブリュッヒャーが後述の父親の移住の前に生まれたのか、移住後にGross-Renzowで生まれたのか、やや不分明である様に思われる。『The Hussar General』と『Blücher and the Uprising of Prussia against Napoleon, 1806-1815』は、ブリュッヒャーの誕生について記した後に移住について触れている。また、『The Hussar General』は「9人の息子と……共に……移住した」と記すが、その次の文章でブリュッヒャーについて「9人の息子の一番若い子」と書いており、つまりブリュッヒャーは九男であり、だとすれば移住時には既にブリュッヒャーは生まれていたかの様に解釈できる。
 だが一方で、『Dictionary of the Napoleonic Wars』と『Who was Who in the Napoleonic Wars』のブリュッヒャーの項目では明確に、「ブリュッヒャーはロストックの近くで生まれた」と記されている。

*3:このGross-Renzowの位置をGoogleマップで調べてみたが、不明。



 ブリュッヒャーはロストックの公立学校で学んだが、彼の全人生においてそうであったように彼は刺激的な環境を好みはしてはも退屈な授業や本を読むという事を好まなかった様であり、ドイツ語の読み書きの能力は欠けたままであり続けた。彼の綴りはしばしばひどいものであり、文法の扱いも粗野なものだった。特に与格を間違う事が多く(英語で言うところの)「I」と「me」を混同し、ドイツ語の長い単語を勝手に分割してしまう事が多かった。

 だが、ブリュッヒャーは無教養ではあったが、それは軍将校としての経歴の障害にはならなかった。また、教養のない将軍というのはまれではなく、後にブリュッヒャーと親しい仲間となるヨルク将軍も同様であった様である(*4)。

*4:『Life and Times of Stein』Vol.3 P22(Seeley,J.R. Cambridge 1878)
http://books.google.co.jp/books?id=ADwYAAAAIAAJ&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false


 一方でブリュッヒャーの話し言葉には、自然で現実的な、完璧な力強さがあったという。


 鋭く、洞察力のある知性を持っているにもかかわらず、ブリュッヒャーは体系的な学問を受けた事がなかった。他の人々とのつきあいによってのみ、彼は万人から良い言葉を見つけ、非常な機転を持ちつつ毅然として行動し、尽きることのない上機嫌と彼の謙虚さが自然に良い態度を生み出し、彼が行くところどこでも、彼に友人を勝ち取らせた。彼は知識を軽蔑した事は決してなかったが、それをあまりにも尊重しすぎた事もなかった。彼は自らの教養の無さついて率直に話していたが、彼はまた、その様な教育なしに彼が達成し得たものについて非常に良く理解していた。(*5)



*5:『Geschichte der Befreiungs-Kriege 1813, 1814, 1815』Vol.1 P219(Förster, Frederick Berlin 1890)


 ブリュッヒャーの父は、この末っ子のゲプハルトが農場経営者になる事を望んでいた。ゲプハルトが14歳の時、彼は兄のうちの一人であるウルリッヒと共に、スウェーデン領ポンメルンのリューゲン島の近くに行かされる事になった。そこでは姉がフォン・クラックウィッツという人物と結婚しており、ゲプハルトは農場経営を教わることになっていたのである。あるいは父は、他の全ての兄弟がすでに軍隊に入っていた事から、ゲプハルトを軍隊から遠ざけておきたいと思って彼をそこに行かせたのかもしれなかった。だが、ゲプハルトとウルリッヒが出発したまさにこの1756年にプロイセンのフリードリヒ2世は七年戦争を始め、その中で彼らはいてもたってもいられず、戦争に参加する事になるのである。

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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