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『戦死 インパール牽制作戦』から、花谷正第55師団長が高く評価されていたことに関する記述を抜き出してみました

 以前、↓というブログ記事を書いてました。

第2次アキャブ戦で第55師団長であった花谷正中将がとてつもなく酷い将軍であったことを知りました (2022/05/08)


 このブログ記事のコメントに、↓というのも頂いてまして、大変参考になりました。

 花谷中将は確かに非常に傲慢でパワハラ気質の軍人でありましたが、逆にそれが多くの兵隊に受けて尊敬されていたという話もあるそうです。ルイス・アレン氏の「イラワジ河脱出作戦」ては花谷中将の理不尽なパワハラに触れつつも「兵たちは日本の厳正な伝統を守るサムライとして、このタフな老人花谷を尊敬していたからである。」と述べていました。実際、花谷中将が離れたことで士気が低下した部隊もいたそうです。
 また能力に関してですが、第2次アキャブ作戦は失敗に終わりましたが、その後の防衛戦では戦力が低下した第55師団で4個師団からなるイギリス第15軍団の攻勢を跳ね除け、プチドン-モンドウ線で防衛に成功するなどかなりの活躍を示しているので指揮能力は高かったと思います。ビルマ方面軍参謀を務めていた前田博少佐は丸の「回想の将軍・提督」にて、第28軍参謀長を務めていた岩畔少将は「昭和陸軍 謀略秘史」にてビルマ戦線における花谷中将の指揮やその結果について非常に高く評価していました。ただ岩畔少将は「こんな乱暴な人は日本軍にもあんまりおらんのじゃないですか。」とも述べていました。
 パワハラ気質ではありましたが、タイ方面へ撤退する際に、置き去りになる将兵が出ないよう極力努力するなど全く兵隊に気を遣わない人ではなかったようです。ちなみにそれについての出典は高市章三氏の「ビルマ戦線の軌跡」です。





 その後、『戦死 インパール牽制作戦』を読んだのですが、花谷正 - ピクシブ百科事典に書かれていたパワハラ事案は、ほぼ全部この本から引かれてきたものではないかと思いました。が、本の方には百科事典に引かれてきたものの倍ほどは、パワハラ事案が書かれていたような感じを受けました……(T_T)




 もしOCS『Arakan』(仮)を完成させることができ、そのヒストリカルノートを書くことになれば、花谷正将軍のパワハラの件を「これでもかこれでもか」と盛り込んで、全世界に知らしめたいとも思いましたが、そんな分量を書くわけにはいかないって……(>_<)



 一方で、花谷正将軍が評価されていた側面についても、この本には何カ所も書いてあり、そこのところをまとめておきたいと思いました。
(著者の高木 俊朗氏は、Wikipediaでは色々書かれていますし、以前氏の『インパール』を読んだ後にインパール関係の洋書を少しばかり読んだ時には、バランスとしてどうなのかと思ったこともありましたが、『戦死 インパール牽制作戦』に関しては、個人的にはバランスは取ろうとされているのではないかと思いました)

 花谷正師団長の【第55師団への】着任の訓示も、人々をおどろかした。
「いかなる場合でも、最後まで抵抗をつづけよ。最後の一兵となり、弾丸をうちつくし、軍刀が折れた時、敵十名きたるとも、肉弾となって突入せよ。最後に天皇陛下万歳を高唱し、いさぎよく散華せよ」
 兵たちは“勇ましい師団長がきた”とうわさをし、“これはえらい目にあうぞ”と警戒をした。しかし、これは花谷師団長ひとりの信条ではなく、日本軍の戦闘精神の基本とするものであった。花谷師団長は、この強烈な実行者であった。陸軍部内で花谷中将が高く評価されていたのは、一つにはこのためであった。もう一つは、満州事変の計画者、推進者としてであった。
『戦死 インパール牽制作戦』P233

 花谷師団長は一部ではきらわれていたが、戦に勝つため、天皇陛下のおんためということになると、その強烈な指揮統率ぶりは最高の点数を与えられていた。『ハ』号作戦【第2次アキャブ戦】の時には、その痛烈な例が、連日のように見られた。
『戦死 インパール牽制作戦』P238

 この記述を読んで私は、この後に「戦に勝つための、最高の点数を与えられていた指揮統率ぶりの、プラスの側面の事例」が書かれているのかな? とも思ったのですが、書かれていたのは、「本当にやむを得ない理由で何とか退却してきたら、花谷中将に腹を切れと散々殴られるので、悔しさで、その後前線に出て再び帰って来なかった」というような事例でした……。で、

 こうした花谷師団長の指揮統率を、ビルマ方面軍司令部では信頼し、支持していた。それは、花谷師団長だからこそ、アキャブ方面の激烈な戦場を持ちこたえることができたというのだ。このことは一部の戦史にも受けつがれて書かれている。
『戦死 インパール牽制作戦』P241


 ここの高木氏の書き方は、皮肉だろうと感じます。「一部の戦史にも受けつがれている」という話は、この本の後の方にも出てくるのですけども、日本軍の公式戦史本では、そのようにしか書けないよね、まあ分かるけどね……というような諦め的な記述になってました。

 この本には書かれていない話なんですけども、ここでいう「ビルマ方面軍司令部」というのは実質上、その作戦課長であった片倉衷(ただし)なのではないかと。片倉衷は満州で、花谷正と共にパワハラで好きなように操った人物であり、自身もかなりのパワハラ気質で、ビルマ方面軍司令部でもものすごい発言権を持っていたようです。第55師団長に花谷を持ってきたのも片倉衷であり、その理由が、花谷のような人物でなければ今後見込まれるアキャブ方面での激戦を勝ち抜けないから、というものであり、そのために第1次アキャブ戦を勝利に導いた古閑武将軍は解任されたのでした(古閑将軍は部下に対する温情も深く、作戦指導も的確な人物であったと思われるのに)。

 また、ビルマ方面軍の司令官はあの河辺正三(かわべ まさかず)であり、牟田口廉也と関係の深い人物であったわけですから、その傾向は似たような感じがあったのでは。



 しかし、この時、【第55師団の高級部員(参謀?)の】山田少佐が隷下部隊の状況を“戦えるような軍隊でない”と見ていたのは正しかった。花谷師団長が自分の指揮統率に慢心しないで、山田少佐の言葉をうけいれたならば、『ハ』号作戦の悲劇は形を変えることができた。
 同じことは、ビルマ方面軍についてもいえる。方面軍の幕僚間では花谷師団長のことを『やせ馬にむちうつアラカンの虎』と批評した。花谷師団長の強引な指揮ぶりをさしていったのである。幕僚たちは冷静に、第55師団がやせ馬であり、むちうたれても動けない実状を見るべきであった。それをただ、アラカンの虎の猛威だけに期待をかけた。
『戦死 インパール牽制作戦』P254

 P325には、当時のビルマ方面軍参謀であった不破博中佐が記述した、戦史叢書『インパール作戦』の中の文が挙げられています。

 花谷師団長の激しい統率については、当時いろいろな話が方面軍にも聞こえてきた。余りにも峻厳冷徹で鬼のような師団長だという話であった。部下将兵の苦衷が察せられた。
 しかし、全般戦局が激しい統率を要求しており、インパール作戦が終結するまで、たとえ鬼となっても当方面の戦線を持ちこたえてもらいたいと思ったのは私ばかりではなかった》

『戦死 インパール牽制作戦』P325


 また、花谷師団長に最も殴られ続けた(一発や二発ではなく、数時間に渡って殴られ続けるので顔がボコボコに変形する……)栗田中佐は、若い中尉にこのように語っていたそうです。

「お前の気持ちはわかる。おれも陛下のおんため国のためなら喜んで死ぬが、花谷のためには死なんよ。あの男は一種の気ちがいだ。気ちがいのいうことを、まともに聞いていたんでは、命がいくつあっても足りないよ。おれが、なぐられながらも、エヘラエヘラしているのは、師団長に戦を勝ってもらいたいからだ。あの男は戦上手だ。日本は今、重大な危機に立っている。勝たなければならん時だ。師団長が戦に勝てるようにしてやるのが、おれたちのつとめだ。なぐって気が晴れるなら、なぐられてやる」
『戦死 インパール牽制作戦』P333


 しかし当然ながら、第55師団司令部内は異様な雰囲気になっており、発狂寸前になって後送されるものが出る状態でした。第55師団がアキャブ方面からヘンザダに移動した後……。

 第55師団司令部の内部が異常な状態になっていることは、ビルマ方面軍司令部でも気がついていた。これをよくするためには、師団長か【師団長に追従し、部下達を一緒にいじめていた河村】参謀長のどちらかを変えることが必要であった。しかし、ビルマの戦線が崩壊しようとしている時だから、花谷師団長を転出させることはできなかった。
『戦死 インパール牽制作戦』P342


 結局、河村参謀長が更迭され、代わりに小尾哲三大佐が参謀長に着任。小尾参謀長は、
「閣下、なぐったらいけませんぞ。師団長がおこったら、部下がいじけますぞ」
 と遠慮なく忠告し、花谷は部下を殴ることが少なくなったとのこと。これは、小尾参謀長の豪快な人柄などによるとP346にあるのですが、個人的には、もうだいぶビルマ戦線での敗勢がひどくなっていて兵士の数も少なくなり、花谷師団長自身が(自分の身を守るためにも)兵隊を大事にするという状態であったからではないかという気もします。

 この小尾参謀長は、「おれは師団長閣下を軍司令官にしてあげようと思っている。あの人は大将にはなれん人だから」と考えていた(P346)という話もあり、そうすると花谷将軍の指揮能力の高さを買っていたということでしょうか。「あの人は大将にはなれん人だから」の意味が良く分からないんですが(日本軍は、師団長、軍司令官、方面軍司令官あたりはすべて中将で、大将になれるのはよほどの場合であるもののようです)。



 一方で、個人的に非常に気になっていたのが、第55師団の直接の上位司令部であった第28軍の司令官であり、かつ温情で知られる桜井省三(せいぞう)中将が花谷師団長のことをどう考えていたのかでした。桜井中将の話はこの本で一箇所だけ出てきました。

 のちに【通称号】策第28軍の団隊長会同があった時、その席上で花谷師団長は棚橋大佐【第2次アキャブ戦で花谷師団長に反抗し、命令を無視して退却し解任された。戦後自決。】を非難した。名将といわれた軍司令官桜井省三中将は、
「言葉を慎め。貴官が棚橋を使いこなさなかったのではないか」と強く叱りつけた。棚橋大佐の苦衷を知る人もいたのである。
『戦死 インパール牽制作戦』P323


 尤も、桜井中将が花谷師団長を第2次アキャブ戦の時にもっとどうにかしてくれることはできなかったのだろうか……? と思ってしまうところなんですが、それは当時の様々な制約的に無理だった、ということなんでしょうかね~。

 一応、『ハ』号作戦の立案時に、花谷師団長(と、桜井徳太郎歩兵団長)は、英連邦軍の後方策源地に向かって突っ込むという作戦計画を立てていたものの、それを見た桜井省三第28軍司令官が、自軍の補給などを鑑みてある程度以内の作戦しか許さないようにしたという話があり、これはインパール作戦の時の牟田口廉也第15軍司令官と比較して語られることだったりします。




 当時の日本軍の精神主義に関して、第55師団の桜井徳太郎の長い訓示がこの本に挙げられていました。個人的に特に印象的だったところ等を引用してみます。

《【……】
 大和魂のこもった弾丸は必ずあたる、これが御稜威の御光であり、われわれの兵器である。火砲と運命を共にすることが、われわれの本領である。菊花のご紋章ある火砲より離れ去り、兵器を捨てるなどは、われわれの最大の恥辱である。魂の低さを物語るものである。
この本には、火砲を当てるのが非常に上手く、兵達にも慕われていた指揮官が、火砲と運命を共にして死のうとするのを部下達が必死に止めて、退却すれば他にも指揮すべき火砲があるから、と説得して、火砲を破壊して退却したところ花谷師団長に罵倒され殴られ、結局その指揮官は自決した、という話が出てきます。
 【……】
 決死玉砕して、最高度の魂の力を発揮せねばならぬ。これが、物的には、いかにも損害のごとく思わるるが、精神的には勝利である。
 【……】》
 この訓令に説いていることは、単なる桜井歩兵団長の考え方ではなく、当時の日本軍の基本の思想であった。同様のことは、政府が国民に対して、指導理論としていたといえる。この訓令にいっていることは、国家の主張であり、要求であった。いわば、これが大義名分であった。
 この限りにおいて、花谷師団長から自決を命ぜられ、あるいは無断撤退した者は、逆賊の行為とされなければならなかった。
 このように日本軍は、古風な精神主義で、第二次世界大戦の連合軍の新戦術と戦った。日本軍は、結果として、兵と肉体と生命を犠牲にするだけの戦いをつづけた。
それが持久戦の実相であった。
『戦死 インパール牽制作戦』P322,3



 ただ一方で、兵士を大事にした指揮官もビルマ戦線において結構いたという印象を持っています。桜井省三第28軍司令官(ビルマ戦初期は第33師団長)や宮崎繁三郎第54師団長(インパール作戦では第31師団歩兵団長)だけでなく、本多政材第33軍司令官や、あるいはビルマ戦後期にはとんでもない精神主義を振りかざす田中新一ビルマ方面軍参謀長も、フーコン谷で第18師団長をしていた頃には兵士を大事にして部下達にものすごく慕われていたようです。

 しかし問題は、(やはり?)その比率だということでしょうか。日本軍にも兵士を大事にした指揮官がいたけども、それは例えば2割とかで、4割は精神主義的、2割はとんでもない精神主義だった、とか……?(残り2割はどちらでもない勢で)

 一方で、イギリス軍やアメリカ軍は、基本的に、システムとして兵士を大事にしていたようです(例外はもちろんたくさんあるとしても)。

(↓この本の書評からの印象で)




 個人的には、「持たざる国」であった日本が戦争(戦闘)に勝とうとすれば、精神主義と兵士大事主義とどちらが有効であったのだろうか、ということに興味がありますが、どうなんでしょうか。兵士大事主義も、行きすぎればイラク戦争の時のラムズフェルド国務長官による「理想の組織」(アメリカ軍兵士を大事にするあまり、戦闘地域に留まらず、現地住民の尊敬も得られず、失敗した。現場指揮官達はその後、戦闘地域に留まり続けて自分達が犠牲になることも厭わない姿勢を示すことで現地住民に受けいれられ、成果を残せるようになった)に堕することがあるとは思いますけども。



 あとやはり、「花谷師団長のどのような指揮が、指揮官として上手かったのか」という実例が知りたいのですが、その例は『戦死 インパール牽制作戦』では見つけられなかった気はします。まあまた、今後注意しておき、実例が見つかったら追記していこうと思います。


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花谷中将の指揮官として上手かったことについてなのですが、太平洋戦争で仏領インドシナ、マレー、ニューギニアなど南方各地を転戦していた越智春海陸軍大尉の著した「ビルマ決戦記」では花谷中将の指揮官として非凡なところとして決断力を挙げていました。方面軍のムードや自己の名誉に拘泥せず、桜井兵団長が撤退を具申してきた際には、すぐに第28軍とビルマ方面軍に了解を取り、2月26日に桜井兵団に対して原戦線への復帰させたことが根拠のようです。越智氏は花谷中将を高く評価しており、作中では「戦術の面でも一流の才能を備えていた」とも述べていました。しかし、これの根拠は挙げられていませんでした。

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 おお! また大変参考になります。ありがとうございます!

 『ビルマ決戦記』、本棚を見てみたらすでに買ってありました(色々買ってはあるのですが、まだ読んでないものが大量に……)。また読んでみようと思います。

 もし他にも何か見つけられたものがありましたら、教えていただけると大変ありがたいです~。
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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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