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ドイツ軍陸軍総司令官であったフォン・ブラウヒッチュ将軍について

 ちょっと前に『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)という、古い和訳本(1979年初版)があることを知りまして、購入して読んでみてなかなか面白かったです。







 その中で、「一応名前は知ってるけど詳しくは知らない」陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ将軍の描写が、非常に無能で情けなくも面白かったので、大いに興味を持ちました。

Bundesarchiv Bild 183-E00780, Walther von Brauchitsch

 ↑フォン・ブラウヒッチュ将軍(Wikipediaから)



 一応、以前↓の動画でブラウヒッチュについて少し調べて紹介したりはしてましたが……。






 『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)の中の、1939年のポーランド侵攻作戦の時の話です。

 軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ将軍は、その時間のほとんどを、野戦の各軍および各軍団の司令部を訪問してつぶしていた。従って、作戦指導の責任は、ツォッセンにいるハルダー将軍にかかっていた。それにもかかわらず、ブラウヒッチュは旅先から、参謀総長の仕事にたえず干渉し、重要な決定を行なう際にはツォッセンにもどっては口を出していた。
 【……】
 陸軍総司令官であるブラウヒッチュは、その巡察旅行中に、各地から作戦実施について、いたずらに混乱させるだけの、しかも矛盾に満ちた指示を、しばしば送っていた。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P111,112



 次に、フランス侵攻作戦案について。

 ボックは日記の中で、ブラウヒッチュとハルダーが、この【ヒトラーの対仏戦で南旋回するという】野心的な計画に「完全に不意を」衝かれて、どれほど驚いたかを述べている。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P117



 さらに、1939年11月に、ヒトラーがフランス侵攻を命令するのに対しそれを止めるためにブラウヒッチュが反対の議論を行った時の話……(この時、ブラウヒッチュはハルダーらの後押しを受けて、ヒトラーに対するクーデタ的な企てを行おうともしていたようです)。

 だが、このヒトラーとの会談は、惨めな結果に終った。ブラウヒッチュは、攻撃反対の側の議論を繰り返し、ヒトラーのポーランド作戦介入を批判し、次いで最も悪いことに、ドイツ軍部隊に訓練と攻撃精神が欠除している点を指摘したために、ヒトラーを激怒させてしまった。ここでヒトラーは、ハルダーと共に控えの間で待機していたカイテルを、大声で呼びつけた。カイテルは入って行ったが、そこにはヒトラーが、あわれな陸軍総司令官に対し、悪口雑言と脅迫的な言葉を浴びせかけている「身の毛もよだつような光景」が展開されていた。
 "ツォッセンの精神"は、無惨にも踏みにじられようとしていた。ヒトラーは大声を張り上げ、ポーランドでの陸軍の失敗を持ち出し、これについては全く弁解の余地のないことを、ブラウヒッチュに無理矢理に言明させた。そしてドアを叩きつけるようにして出て行ってしまった。ブラウヒッチュの顔は「蒼白になり、表情は引きつっていた」という。
 ハルダーも恐怖におののいた。ヒトラーの脅迫的言辞を聞いて彼は、自分の陰謀がヒトラーの耳に入ったと思い、あらゆる証拠を完全に隠滅しようと決意して、ツォッセンに帰って行った。
 こうして、クーデター決行のあらゆる構想は忘れ去られたのであった。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P123



 この時ヒトラーが激怒した理由等に関しては、『Hitler's Field Marshals and Their Battles』の記述がより分かりやすかったので引用してみます。

 ヒトラーは、フランス侵攻の日程を1939年11月12日と決めた。11月5日の正午、ブラウヒッチュはヒトラーと会談し、自らの軍歴に致命的な傷を負わせた。彼は、陸軍の準備ができていないこと、冬の雨天が装甲部隊の前進を妨げ、ドイツ空軍の活動可能な日照時間を制限することで防衛側に有利に働くことなど、極めて妥当な指摘をした一方で、ポーランドでのドイツ軍歩兵は攻撃にあまり気合が入っていないという、なんとも愚かな発言をしたのである。さらに、一部の部隊では「反乱」が起きているとか、前線では規律が守られていないとか、1939年の陸軍の状態を第二帝国が崩壊した1918年の状態と比較するような発言もしている。

 これらの最後の主張は全く真実ではなかった。ヒトラーはブラウヒッチュが嘘をついていることに気づき、かんしゃくを起こし、たちまち真っ赤になって激怒した。彼はその部隊の名前を教えるよう要求した。彼【ブラウヒッチュ?】はまさにその日に彼らのところへ飛んで行って調査したものだと叫んだ。ヒトラーはブラウヒッチュ将軍のメモをつかんで金庫に投げ込んだ。このようにして総司令官がどのようにして全軍の評判を落とすことができるのか、私には理解できないと彼は叫んだ。「前線の指揮官の誰一人として、私に攻撃精神の欠如を指摘などしなかった!」と彼は怒鳴った。彼は、ブラウヒッチュにこの問題に関する詳細な報告書と、それらの結果の死刑判決の写しを提出するよう要求した。最後に彼はドアから出て後手に強く叩きつけて閉め、フォン・ブラウヒッチュは青ざめ震えていた。その日遅くツォッセンに戻った後でさえ、フォン・ブラウヒッチュはしばらくの間、まともに話すこともできなかった。ヒトラーは後に、この報告全体が嘘だらけだと一蹴した。

 この11月5日の会議で、ブラウヒッチュは完全に敗北した。

 それまでの彼は、ヒトラーへのクーデタに対する態度で揺れ動いていたが、二度とクーデターを支持するようなそぶりを見せることはなかった。

『Hitler's Field Marshals and Their Battles』P64,65



 ここらへんの記述から強く印象づけられるのは、1939年11月5日にフランス侵攻作戦の是非についてヒトラーvs.ブラウヒッチュ&ハルダーの対決があって、ヒトラーの側が完全勝利したこと。そしてそれ以前にはブラウヒッチュはヒトラーを止めようといくらか努力をしていたものの、これ以後にはその気力を失ってしまったということです(ハルダーらを焚きつけた人物も背後にいたようですが、それは置いておくとして)。


 手持ちの資料を探してみると、ブラウヒッチュに関する独立した人物伝は、『Hitler's Field Marshals and Their Battles』(Samuel W. Mitcham Jr.)と『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)にのみありました。前者がブラウヒッチュに対して非常に辛辣で批判的なのに対し、後者は一部擁護的であるのが興味深かったです。




 他にも、↓のような資料を参照しました。





 以下、一応総合的に、フォン・ブラウヒッチュ将軍について簡便にまとめてみたいと思います。


 フォン・ブラウヒッチュは、古くからのプロイセンの軍人の家系の出身であったそうです(「フォン」も付いてますし……)。

 砲兵との関わりが深く、88mm砲の開発に大きな役割を果たしたといいます。また1920年代に航空機と機動部隊との連携をテストする作戦を計画するなど、新しいアイデアに熱心でした。

 性格的には非常に温厚な紳士であり、名誉を重んじ、正義感が強く人に対する思いやりの念があり、同僚や後輩達から非常な信頼を得ていて、各方面から人気があったそうです。軍人としても彼は、健全で進歩的であると一般に見られており、また、戦車についても大部分の上級将官以上にその潜在的な能力を評価していました。

 政治的にはワイマール体制に熱心な忠誠を示し、ナチスの政策に対してはこれを公然と非難していました。演習で不品行を働いたSS部隊を追い出したことがあり、ゲッベルスが彼の私生活について不名誉な噂を流した時にはブラウヒッチュは彼に決闘を申し込んだともいいます。戦前、ナチスと険悪な関係にあったドイツ陸軍において、ブラウヒッチュは砲兵大将にまで昇進し、すべての機械化部隊を指揮する立場にまでなっていました。

 ところが、(ブラウヒッチュに批判的な『Hitler's Field Marshals and Their Battles』が詳述するところによれば)ブラウヒッチュは当時、不倫関係を続けている女性がおり、現在の妻とは離婚して、その愛人との結婚を望んでいたといいます。しかし離婚のためには莫大な慰謝料を請求されており、また不倫の果ての離婚と再婚というのは、公にされてしまえば当時のドイツではあらゆる名誉と公職を失ってしまうような性質のものだったらしいのです。この状況にブラウヒッチュは悩んでいた、と(擁護的な『Hitler's Generals』(Richard Brett-Smith)にも少しだけこのことに関する記述はあり、荒唐無稽な作り話というわけではなさそうです)。

 一方でヒトラーは1938年、ナチスに対して批判的であったフォン・フリッチュ陸軍総司令官を首尾よく罷免に追い込んだものの、後継者の選定に苦心していました。できれば極度に親ナチスであるフォン・ライヒェナウ将軍を陸軍総司令官にしたかったのですが、陸軍に大きな影響力のあったフォン・ルントシュテットらがそのような人選はあり得ないと拒否していたのです(ライヒェナウは陸軍内で非常に不人気でした)。そんな中で出てきたのが、フォン・ブラウヒッチュの名前でした。ブラウヒッチュならば陸軍全体からも好意的に見られており、もちろんナチス側からはこれはやむを得ない妥協の産物であったのですが、温厚で気取らないブラウヒッチュならば御しやすいであろうとも思われたのです。

 ブラウヒッチュが呼び出され、彼の側の条件などが検討されました。この後も様々な駆け引きや、ブラウヒッチュの息子や妻や愛人(ナチスの熱狂的な支持者だった)まで巻き込んだ策謀が繰り広げられた結果、最終的にブラウヒッチュは1938年2月4日に陸軍総司令部(OKH)の陸軍総司令官に任命されました。そして同時にブラウヒッチュは、カイテルをドイツ軍の最高司令官とする新しい指揮系統(国防軍最高司令部:OKW)の創設を異議なく受け容れたのです。ブラウヒッチュはナチスの財源から巨額な現金を受け取って離婚を成立させ、秘密裏に再婚を成就させたようです。

 ブラウヒッチュを批判する論者からすれば、これは彼が自分の私生活のために、ドイツ軍がヒトラーの下に入ることを許容したという、とんでもない行為であったということになります(もちろん、これらの説が信頼できない可能性もあります)。

 続けて、ブラウヒッチュの同意の下に、ヒトラーの意に沿わない陸軍の多数の将官が大量に罷免、左遷されました。この時、訓練担当参謀次長であったフランツ・ハルダーも罷免リストに入っていましたが、カイテルの個人的な介入によって救われます。一方、ルントシュテットは最初の粛清は免れたものの、11月には他の反ヒトラー派の将官とともに退役を余儀なくされました。全部で16人の上級将官が退役させられ、44人が左遷されました。それらの後任には、親ナチスの人物が充てられたのです。

 ただしこの後もブラウヒッチュは、ハルダーの助けも得て、ヒトラーを何とか掣肘しようとします。しかしそれは結局うまくいきませんでした。その理由としては、ヒトラーの非常に強い性格とブラウヒッチュの弱い性格(誰にもヒトラーを手なずけることなどできなかったでしょう)、それに1938年から1940年にかけてヒトラーの破天荒で常識外とも思える政策のほとんどが成功し続けていたこと、軍人にはヒトラーに対する忠誠が要求されていたこと、さらにナチスに傾倒していた新しい妻の影響が大きかったと思われます。

 最終的にはブラウヒッチュは、フォン・マンシュタインの言葉を借りれば、「国家元首の軍事顧問の地位から、まったく疑義を挟まずに服従する下位指揮官の地位に降格」したのだと言えるのでしょう。

 しかしブラウヒッチュは陸軍総司令官として、様々な意味で広い視野を持ち、また伝統的な宗教的態度を維持しようとしていました。陸軍以外の人や同僚に対しても礼儀正しく、部下に対しても暖かく理解を示し、部隊の福祉や設備や食事にも気を配りました。その結果、部下達は彼の下で働くことを好みました。例えば、北アフリカ戦におけるロンメルに対する態度にしても、ハルダー参謀総長のそれは居丈高な雰囲気を感じますが、ブラウヒッチュはあくまで丁寧にロンメルに対していた感じを受けますし、ロンメルと様々な軋轢を起こした多くの将官がロンメルに解任されてドイツ本国に戻ってきた時、ブラウヒッチュは「あちらでは暑さがひどいから、貴官ら全員が互いに苛立っているのか」と聞いたそうで、根本的な人の良さを感じます。

 一方でブラウヒッチュは、1940年9月9日に、イギリスを占領した後には17歳から45歳までのすべてのイギリス人男性を大陸に移送して労働をさせるというヒトラーの指令書に署名しており、もはやヒトラーに対して抵抗する意志を失って、良識を犠牲にせざるを得ない状況にもあったとも思われます。

 バルバロッサ作戦についてもブラウヒッチュは、ソ連侵攻の必要性や有益性を一度もヒトラーやOKWに問うことはありませんでした。侵攻作戦で軍集団を率いることになった3人(フォン・レープ、フォン・ボック、フォン・ルントシュテット)は3人ともブラウヒッチュに抗議しましたが、彼は「不安を共有しているが、何もできない」と答えただけだったといいます。ヒトラーが陸軍に「哀れみを持たず人種戦争」を起こせと命じた時も、赤軍の政治将校は降伏しても射殺せよというコミッサール指令を出した時にも、ブラウヒッチュは何も言いませんでした。何人かの将校がヒトラーに抗議するように要求しましたが、ブラウヒッチュは総統の怒りを買うとして、要求を受け容れませんでした。彼は完全に諦めてしまっていたのです。

 ブラウヒッチュはヒトラーの命令に屈辱と恐怖を感じつつも、自らの良識とのせめぎ合いの中で苦しんでいたのでしょう。ハルダーは1941年7月28日の日記の中で、ブラウヒッチュはもう限界だ、と記しているそうです。11月10日にブラウヒッチュは最初の心臓発作を起こしました。11月中旬には仕事に復帰しましたが、タイフーン作戦が行き詰まり、ドイツ国防軍の最初の大敗北のスケープゴートにされることを覚悟したのか、12月6日に辞表を提出します。ヒトラーは10分ほど部屋を行ったり来たりした末、「今、陸軍総司令官の交代を認めることはできない」と答えました。ブラウヒッチュは何も言わずに立ち上がって部屋を出て行ったそうです。

 12月16日にヒトラーは副官から、ブラウヒッチュがフォン・ボック、フォン・クルーゲ、グデーリアンらと限定的な撤退について話し合っていたことを知らされます。3日後、ヒトラーはブラウヒッチュを解任しました。ヒトラーとブラウヒッチュの最後の会談は険悪な雰囲気の中2時間続き、最後にヒトラーは「ナチスの精神を陸軍に植え付けることのできる将軍がいないので、自分が陸軍の指揮を執る!」と叫びました。しかし彼は、優しい声で「我々は友人であり続ける」とも言ったそうです。

 ブラウヒッチュはひっそりと引退しました。1944年のヒトラー暗殺事件の際には、ヒトラーに「自分はまったくこの事件に関与していない」旨の文書を送り、再び協力することを申し出ます。しかし、ブラウヒッチュが現役に復帰することはありませんでした。

 1945年5月初旬、ブラウヒッチュは自宅でイギリス軍により逮捕、投獄されます。ほとんど目が見えず、健康状態が悪化していたにもかかわらず、2人用の部屋に5人で押し込まれ、戦争犯罪人として裁判を受ける予定でしたが、1948年10月18日、ハンブルクのイギリス軍の軍用病院で心不全のために死亡しました。

 『Hitler's Generals』の著者であるリチャード・ブレット=スミスは、「参謀将校が他国を攻撃するための緊急事態計画を準備しなければならないのは当然であるということを考えれば、ブラウヒッチュが有罪になったとは考えにくい。また彼は、ドイツ軍の古い伝統を維持し、彼が嫌っていたSSの過剰な行為を防ぐために最善を尽くしていたのだ。」と記しています。

 「フォン・ブラウヒッチュがヒトラーに立ち向かわなかった弱さを批判するのは安易である。」ともブレット=スミスは記していますが、私もそうだろうと思います。ただし、ブラウヒッチュが「並外れた能力」を持っていたとも言えないのでしょう。

 ブラウヒッチュ自身が、前任者であったフォン・フリッチュの言葉を引用して、自身の苦悩を最も端的に表現しているそうです。
「ヒトラーはドイツの運命であり、この運命を止めることはできなかった。」

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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

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