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アメリカ第1歩兵師団、第104歩兵師団を指揮した「テリブル」テリー・アレン将軍について(付:OCS『Tunisia II』『Sicily II』『Beyond the Rhine』)

 大木毅さんが訳された『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』という本を読み始めているのですが、その中でアメリカ軍のテリー・アレン将軍という人物に興味を持ったので、調べてみました。




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 ↑テリー・アレン将軍(Wikipediaから)



 この本で、ドイツ軍の将校は兵士達の先頭に立って模範を示す戦いをするように教育され、そしてそれを実行していたのに対し、アメリカ軍においてはそうではなかったということが語られています。

 ある調査で、「最良の戦う軍人」の特徴を訊かれたアメリカのベテラン歩兵たちは「戦闘でいつも部下とともにいて、自ら模範を示す」将校だと指摘している。だが、そうした将校が希少なのは明白だった。徴集兵の四分の三は、「たいていの将校は、良い仕事をするよりも、自分の昇進に関心がある」ということで一致している。この数少ない将校の一人は、「小官は、自分も泥まみれのフィールドで濡れたボールを追うことぐらいしか、諸君に約束してやれない。しかし、諸君とともに必ずそこにいる」と、おのが部隊に告げた。そして、この約束を実際に守ったから、部隊の尊崇もおのずから得られたのである。*102
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P142,3


 この約束をした将校がアレン将軍で、その注102には以下のように記されていました。

 102. Astor, Terrible Terry Allen, 257. 残念ながら、この本も、アメリカの将軍伝の多くと同様、アレンの人生を聖人伝的に描いたものである。アレンは第二次世界大戦の第1歩兵師団長、おおいに物議をかもした人物で、飲酒で問題を起こしたり、自慢たらたらの演説をしたことで知られている。だが、彼が、おのれの部隊とともに前線にあったという事実には、異論の余地がない。アレンは、さまざまな問題を起こしたかどで解任されたが、のちにヨーロッパ戦線で第104歩兵師団の指揮を執った。
『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』P353






 ここらへん読んでかなり興味を持ったので、とりあえず検索してみたら、英語版Wikipedia「Terry de la Mesa Allen Sr.」にその人物像がかなり詳しく記述されていました。

 あと手持ちの『The Battle of Sicily』に少し記述があったので、その2つとOCSのユニット等を交えながら、紹介してみたいと思います。





 まずはテリー・アレン将軍が「テリブル(ひどい)」テリーというニックネームを付けられていたことですが、その由来については参照した資料からは分かりませんでした。が、結構破天荒な人物であることと、「テリブル・テリー」と韻を踏んでいるからであろうとは思います。

 フルネームはテリー・デ・ラ・メサ・アレンですが、「デ・ラ・メサ」というのは母方の祖父がスペイン系であったことに由来しており、その祖父は南北戦争で戦い、軍人の家系であったようです(アレン将軍の息子はベトナム戦争で戦死したそうです……)。

 戦間期までの経歴は省略しまして、まずはWikipedia上の「コマンドスタイル」の項から。

 すべての報告が、アレンが第1歩兵師団の将兵達、特に下士官達から尊敬されていただけでなく、心から好感を持たれていたことを示している。戦中の多くの期間にアレンの上官であったジョージ・パットン将軍のように、アレンは通常、司令部をできるだけ最前線に近い前方に置いていた。ただしパットンとは異なり、アレンは自分の軍人としての見映えに大いにこだわるというようなことはなく、多くの場合軍服は汚れたままで、散髪もしてない状態であった。また彼は、ヨーロッパや北アフリカ戦線で、折り畳み式ベッドや据え付けのベッドではなく、地面で寝ることを好んだ唯一のアメリカ軍の将官であったともいう。しかし自分自身の外見への無頓着な態度にもかかわらず、アレンは指揮下の部隊のだらしなさや無能さを許さなかった。彼は兵士達が武器と装備を完全に機能する状態に保つことを要求し、常に戦闘準備ができているように部下達を訓練した。

 後に戦闘に巻き込まれて死亡した従軍記者アーニー・パイルはこう書いていた。
「テリー・アレン少将は私が好きな人物の一人だ。彼が、状況が最悪だろうが最高だろうが気にしないこと、彼が他の人達よりも生き生きしていることや、空軍以外で私が唯一ファーストネームで呼べる将軍であることなどが理由だろうか。彼がこの世界で何のために生き、存在しているのかと言えば、それは戦うためだ。彼は前の大戦で撃たれまくったが、再び撃たれることを少しも嫌がっていないようだ。彼にとってこの戦争は理性的な戦争ではない。彼はドイツとイタリアを、害獣のように憎んでいる。」

 第1歩兵師団が敵と最初に遭遇する時に備えるためにアレン少将は、基本教練や軍事セレモニーなどではなく、リアルな戦闘訓練、武器への習熟、それに野外での肉体的コンディションを重視した。アレンは、部下達が実戦に近い戦闘訓練に多くの時間を費やせば費やすほど、高度に訓練されたプロフェッショナルなドイツ軍との戦闘に備えることができると考えていた。アレンは夜襲を明らかに好んでいたが、それはその方が死傷者が少なくて済むと彼が考えていたためであり、また中隊や大隊規模の夜間移動に多くの時間と労力を費やしたものだった。


 第1歩兵師団はイギリスに送られて上陸作戦の訓練を行い、1942年11月8日のトーチ作戦でアルジェリアのオラン【アルジェリア北岸でかなり西の方にある町】周辺に上陸し、その後東進してチュニジア戦、さらにシチリア侵攻作戦に参加します。


 ↓OCS『Tunisia II』のアメリカ軍歩兵師団(初陣であり、まだ全体的にARは高くありません)。

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 ↓OCS『Sicily II』のアメリカ軍歩兵師団(第1歩兵師団だけがAR4になりました)。

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 北アフリカの連合国最高司令官ドワイト・D・「アイク」・アイゼンハワー将軍は、1943年3月3日【カセリーヌの戦いの少し後の時期】にマーシャル陸軍参謀総長に宛てた手紙の中で、第1歩兵師団の2人の指揮官に対する信頼を表明している。
「テリー・アレンは満足のいく仕事をしているようだし、ルーズヴェルト【アレンの副官を努めていたセオドア・ルーズヴェルト元大統領の息子】もそうだ。」

 アレンの成功にもかかわらず、第2軍団司令官【1943年4月から】オマール・ブラッドレー少将は、アレンとルーズヴェルトの指揮スタイルを強く批判していた。ブラッドレーはこう書いている。
「【1943年5月にチュニジアでの戦いに勝利して】連合軍が礼儀正しくチュニスをパレードしている時、アレンの乱暴な第1歩兵師団は、自分達のやり方でチュニジアでの勝利を祝っていたのだ。アルズー【第1歩兵師団がトーチ作戦で上陸したオラン近郊】からチュニジアまでの道すがらのすべての町々で、第1歩兵師団はワインショップを掠奪し、町長達を憤慨させていた。しかし、この師団が本当に暴走したのはオランでのことだった。その問題は、オランに長く駐留していた補給部隊が、前線からの戦闘部隊に対してクラブや施設を閉鎖したことから始まった。この排除に苛立った第1歩兵師団は、“二度目の解放”のために町に押し寄せたのだ。」
【『The Battle of Sicily』位置No.1824によると、この時彼らは酔っ払ってオランの多数の酒場を破壊し、第1歩兵師団の「Big Red One」と呼ばれる腕章を付けていなかった者達を多数入院させたという。】

 ブラッドレーは続けている。
「テリー・アレンも、副師団長のセオドア・ルーズヴェルト・ジュニア准将も、戦闘指揮官としての(並外れた)才能はあっても、規律を守るという強い動機を持ち合わせていなかった。彼らは規律を、能力の低い、人当たりの良い指揮官が使う松葉杖に過ぎず、歓迎されざるものだと考えていたのだ。」
 にもかかわらず、ブラッドレーはこう認めていた。
「予測不可能なテリー・アレンに勝る部隊指揮官はいない。」

 ブラッドレーのアレンに対する怒りは、シチリア島でのアメリカ第7軍司令官パットンの感情とは対照的だった。パットンとアレンは、特に戦術やリーダーシップについて議論した際にはしばしば口論となり、侮辱し合うこともあったが、パットンはアレンの、戦う師団を作り上げる能力を評価していたのだ。連合国軍最高司令官アイゼンハワー将軍が講話で、アレンの第1歩兵師団の「規律の悪さ」に触れたと聞いたパットンは、彼に反論した。
「俺はやつに、あんたは間違ってるって言ったんだ。それに、とにかく、戦いに送り出す前に犬を鞭打つなんてことをすべきじゃない、ってな。」
 また、連合軍によるシチリア島上陸作戦の中で最も困難であろうとパットンが正確に予測していたジェラへの上陸戦闘を、第1歩兵師団に担当させることにパットンはこだわった。ジェラへの上陸戦闘にフレッド・ウォーカー少将の第36歩兵師団(以前アレンはこの師団で、ウォーカーの副師団長を務めていた)が使用されることを知ったパットンは、アイゼンハワー将軍に抗議した。
「俺はあのクソッタレ部隊(第1歩兵師団)のやつらが欲しいんだ。あいつらなしでは俺はやらん!」
 パットンの要求は受け容れられた。

 パットンが、メッシーナから退却しようとするドイツ軍への対応と、下士官兵を平手打ちにしたことに関する公式調査に忙殺されていたため、ブラッドレーはこの機会にアイゼンハワー将軍に、アレンとルーズヴェルトの両名の解任の許可を求めた【この時期、パットンは第7軍司令官で、ブラッドレーはその麾下の第2軍団司令官であり、第2軍団の麾下に第1歩兵師団が配属されていた】。ブラッドレーはこの要求を表向きには、第1歩兵師団のトロイーナ(Troina)への最初の突撃が失敗したため、上級指揮官の交代が必要である、と正当化していた。実際には、トロイーナへの最初の攻撃は、その数日前にアレンの第1歩兵師団に一時的に配属されていた第9歩兵師団の第39歩兵連隊が行っていたのである。しかしこれはアレンを解任するための格好の口実であり、彼の横柄で独断的な指揮スタイルは、確かに効果的ではあったが、ブラッドレーの理想の指揮官像とは相反するものであった。さらに悪いことにブラッドレーの考えでは、「師団全体がアレンの横柄な態度を当然とみなすようになってしまっている」のだった。

 ブラッドレーは自分の行動がアレンの解任の原因になったと考えていたが、最近の研究では、アレンのアメリカ合衆国への帰国はシチリア作戦が始まる前にアイゼンハワーとパットンによって計画されていたことが示唆されている。実際、アイゼンハワーの個人的な書類には、この問題に関する意見がはっきりと記されていた。
「アレン将軍が不手際のために解任されたとほのめかすのは、彼に対してひどく不公平だ。この件に対する答は、アレン将軍が再び師団長となることを私は歓迎するということだ。」

 1943年8月7日【シチリア島での戦闘が終わる10日前】、アレンは第1歩兵師団長をクラレンス・R・ヒューブナー少将に引き継いだ。




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 ↑OCS『Sicily II』のトロイーナ(Troina)周辺。中央にTroinaがあります。


 捕捉として、『The Battle of Sicily』位置No.4662によると、実際にトロイーナ周辺の激しい戦闘で第1歩兵師団は人員の40%にもあたる死傷者を出して士気も規律も低下したため、ブラッドレーはこの状況を容認できないと考え、パットンの許可を得た上でアレンを解任してヒューブナーを後任に任命したとなっています。

 パットンはルーズヴェルトの解任にはあまり乗り気でなかったものの、最終的にはブラッドレーの意向を受け容れたそうです。『The Battle of Sicily』位置No.1824によると、パットンは第1歩兵師団には大きな信頼を寄せていたのですが、その指揮官であるアレンをあまり信頼していなかったということが書いてあるので、「シチリア戦の前にアレンを本国に戻すという合意がアイゼンハワーとパットンの間でできていた」というのは、そこらへんの関係なのかもしれません。


 アメリカ本国に戻されたアレン将軍ですが、マーシャル参謀総長の力添えで、新たに第104歩兵師団の指揮官に任命されました。


 ↓OCS『Beyond the Rhine』の第104歩兵師団(『Beyond the Rhine』の連合軍は特殊部隊を除いてAR5は存在しないので、AR4は実質上最高ランクですが、他にもAR4の歩兵師団はたくさんあるのはあります)。

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 1943年8月9日、アレンは『タイム』誌の表紙を飾った。1943年10月15日、彼は「灰色オオカミ」師団として知られる第104歩兵師団【師団マークが灰色オオカミだった】を率いる新しい指揮官に就任した。第1歩兵師団の指揮権を剥奪されたにもかかわらず、アレンは自分自身のスタイルでリーダーシップを取り続けた。第104歩兵師団の退役軍人たちは、アレンのことを「自信に満ち溢れ、頑固で、決断力に富み、活動的だった」と回想している。一方で、アレンはティンバーウルフ師団において「モールディンズ」【モールディンというカートゥーン作家の描く、ボロボロに疲弊しているアメリカ軍兵士達】と呼ばれるような、無精ひげを生やした、だらしのない部隊は許さないと指令を出した。

 アリゾナ州とコロラド州で第104歩兵師団を訓練しながら、アレンは戦闘に勝利するための自分の原則を強調した。「やつらを先に見つけ、戦力を集中し、ぶちのめせ」「まず高地を取れ」「自分たちの死傷者を最小限に抑えながら、敵に最大のダメージを与えるんだ。それは夜襲、夜襲、夜襲だ。」 同師団は、敵の砲撃や機関銃による死傷者を減らしつつ、敵に最大限のショックと混乱を与えるために、夜間攻撃作戦を徹底的に訓練した。

 約34,000名の兵士がアレン率いるこの師団に所属し、1944年9月7日にフランスに上陸してから195日間連続で戦った。この師団の最初の実戦は、1944年10月、オランダのアフツマールとズンデルト【オランダ最南部の隣接する二つの村】の奪取だった。その後、ジークフリートラインを通過してライン川まで進み、インデ川を渡ってケルンに入った。この師団を指揮している間中アレンは不服従の態度を示し続け、戦闘準備を妨げる「臆病な」規則の数々を心底軽蔑していたが、その特質は今や、上官を怒らせるものではなくなっていた。第104歩兵師団が新しい戦線を確保した後、ドイツのケルンに到着したアメリカ第12軍集団司令官ブラッドレーはアレンに会って言った。
「テリー、君の率いる若い灰色オオカミ達【第104歩兵師団】が、第1歩兵師団や第9歩兵師団と並んで欧州戦域で最も優れた攻撃師団として位置づけられているのを見て、私は驚き嬉しく思っているよ。」
 アレンはこう答えたという。
「ブラッド、第1と第9はマジやべぇやつらだぜ」

 同師団はその後、ルール包囲環の完成に貢献した。最終的には、連合軍による西部ドイツ侵攻の一環として、ドイツの中心部にあるミュルデ川までの約350マイルの掃討作戦を行った。西部戦線での戦いで、第104歩兵師団はいくつかの作戦で夜戦での強さを発揮した。

 1946年6月、ヨーロッパ戦勝記念日とヨーロッパにおける第二次世界大戦の終結から1年以上が経過した後、第104歩兵師団はアメリカに戻り、活動を停止した。



 アメリカ陸軍の師団長クラスの人間を私はまだほとんど知らない状態ですが、この人物は大変興味深いですね!

 『Tunisia II』、『Sicily II』、『Beyond the Rhine』をプレイする上でも、今回のようなエピソードを知っていればより楽しめそうです。

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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