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戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦の英連邦軍の指揮官達について書いていた原稿を、時系列順に公開していこうと思います。

 まずは、戦前にイギリス第7機甲師団を最高水準にまで訓練したパーシー・「ホーボー」・ホバート将軍についてです(しかしそれよりは、ノルマンディー上陸作戦に参加した様々な改造戦車を擁する第79機甲師団長としての方が有名でしょうけども)。


Percy Hobart

 ↑パーシー・ホバート将軍(Wikipediaから)


 ↓OCS『DAK-II』の初期の第7機甲師団。

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 当時の第7機甲師団に関する高評価については、OCS『DAK-II』の第7機甲師団:初期と後期 (2021/06/27)をご覧下さい。


 パーシー・ホバートは1885年に英領インドで、インド高等文官の息子として生まれました。1904年に王立陸軍士官学校を卒業し、当初はごく正統派の軍人としてキャリアを始めます。1906年にはインドの精鋭部隊に配属されましたが、知性が鋭いながら、唐突に口喧嘩をよく引き起こし、すでに異端の雰囲気を醸し出していました。

 第一次世界大戦ではフランスとメソポタミアで従軍。上級将校達の重大な管理ミスに大きな嫌悪感を示し、反抗と不服従を繰り返しますが、昇進後に自分が行ったスタックワークでは優れた仕事で評判を高めました。

 大戦終結で大英帝国においても軍事予算が大幅に削減される中、ホバートは特に優秀であるからと指名されてキャンバリー(ロンドン南西50kmにある、王立陸軍士官学校を中心とする町)の参謀大学の最初のコース(1919年)で学ぶことになりました。この時の同級生には、アラン・ブルックゴート卿メイトランド・ウィルソンバーナード・フレイバーグなど、後にイギリス陸軍で活躍するそうそうたる顔ぶれがいました。ちなみにバーナード・モントゴメリーはこの時指名されず、自ら上官に運動して、次の年(1920年)に参加がかないました。

 1923年にホバートはそれまでの工兵科から戦車科に移る決心をし、クエッタ(英領インドの町。現在のパキスタン)で戦車に関する機械的な知識、その取り扱いについて熱心に学びました。ホバートは探究心が強く、卓越した知性を持っており、戦車による機動戦の提唱者であるJ.F.C.フラーと文通もしながら、未来の戦争においていかに戦車が重大な役割を果たすだろうかという構想を学んでいったのです。1928年の終わりまでには、ホバートは独創的な考え方と優れた計画性で評判となり、イギリス軍の戦車科の中では知らぬ者はいないほどとなりました。しかし他国と同様、いや他国以上にイギリスでは伝統的な騎兵科と新参の戦車科の間の軋轢は甚だしく、ホバートは周辺から危険な野心家であると疑われるようになりました。

 ホバート自身、チームの一員として仕事をするのが苦手な気質で、彼のせっかちと配慮のなさが、仲良くしておくべき同僚達を敵に回してしまった側面がありました。しかも議論においても自分の正しさを主張して絶対に譲らず、また自分の意見の間違いを指摘されると、自分の全人格を否定されたように受け取ってしまうという面もあったようです。


 ただし、ホバートやフラーを批判する者達にも行きすぎた面があったとも思われます(もっとも、論争というものは常にそうなのでしょうが)。反戦車論者達は、ホバートやフラーらは「戦車万能論者」であり、歩兵も砲兵もない、完全に戦車だけの軍を作ろうとしていると批判したのです。しかしホバートもフラーも、戦車と歩兵、砲兵の協調の重要性は理解しており、また航空機と戦車の協調などについては非常に先進的な考え方を持っていたとも言われます(ただし、戦車とその他兵科との「比率」に関しては、戦車偏重に偏りすぎていたことが後に実戦で明らかになります)。


 またそれだけでなく、ホバートは1928年に、女性関係でイギリス軍全体に知れ渡るほどのスキャンダラスな存在となりました。ホバートはクエッタでの教え子のある士官の離婚裁判に証言者として出席し、離婚の成立後わずか数ヵ月で、その元妻と結婚したのです。細かい事情までは参照した文献に書かれていませんが、当時のイギリス社会の価値観では、かなりショッキングな出来事であったようです。軍ではホバートの名を知らぬ者などいないほどになり、のちにウェーヴェル将軍がホバートを解任したことに関して、ウェーヴェルの妻がこの離婚事件でホバートに嫌悪感を抱いていたことが理由の一つになったのではないかと指摘するものもあります。実際ホバートは、彼を敬愛する部下達からは「ホーボー」という愛称で呼ばれましたが、軍の誰しもからそうやって愛称で呼ばれたわけでは決してありませんでした。



 一方、少し脱線しますが、このほぼ同時期である1927年にホバートの妹エリザベス(ベティ)が、将来のイギリス陸軍元帥モントゴメリーと幸せな結婚をしていた(悲しい別れになるとはいえ)ことに関してもここで触れておきましょう。

 ベティはもともと、1911年にオズワルド・カーヴァという人物と結婚して二人の息子をもうけていたのですが、夫のオズワルドが1915年6月にガリポリで負傷して亡くなってしまい、未亡人となっていました。

 モントゴメリーの方はというと、ずっと女性に無関心、社交的なことが嫌いで、軍人としての職務一筋の生活を送っていました(第二次世界大戦の後期、モントゴメリーは戦場に女性がいるのを極度にいやがるということが広く知られていたそうです)。

 モントゴメリーがカーヴァ夫人(ベティ)とその二人の息子たちと出会ったのは、1926年、彼が38歳の時に休暇でスイスを訪れた際のことでした。パーシー・ホバートを介してというわけではなく偶然であったようです。彼はまず、その12歳と7歳の男の子たちと仲良くなりました。その理由についてモントゴメリーは回想録の中で、「私は【中略】若い子らに力を貸すのが好きだったが、多分それは、自分の子ども時代が不幸だったせいかもしれない。私はその子どもたちとすぐ仲良くなり、その母親とも懇意となった。」と書いています。モントゴメリーの「子ども時代が不幸だった」というのは、彼の母親があまりにも厳格で、非常に強い恨みを抱くほどであったということを指しているかと思われます。

 翌年も再びこの一家と会い、休暇が終わる頃にはモントゴメリーはカーヴァ夫人への恋心でいっぱいになっていました。1927年に二人は結婚しましたが、連れ子の弟の方であったディック・カーヴァは後に、モントゴメリー中佐が2人の子どもを持つ未亡人と結婚するということは当時「非常に勇敢なことだった」と書いています。

 結婚生活は非常に仲睦まじく、幸せな毎日で、翌年に息子デイヴィッド(後の第2代アラメイン子爵)が生まれました。ところが結婚から10年後、1937年にベティは敗血症のため亡くなってしまいます。砂浜で虫に刺されたことが原因で、徐々に容態が悪化し、闘病生活の末にモントゴメリーの腕の中で息を引き取ったのです。妻の死は当時准将であったモントゴメリーを激しく打ちのめし、しばらくは何も手がつかないほどでした。

 連れ子の兄の方であるジョン・カーヴァはモントゴメリーの死後、こう書いていたそうです。「義父は非常に変わり者で、極端に独善的で、人に対して不寛容で懐疑的でありましたが、最高司令官になる可能性を持つまでの間、私の母は、それを社会的に許される範囲にとどめておいてくれました。そうやって母は、祖国のために貢献したのです。」

 モントゴメリーの義理の息子達は二人とも第二次世界大戦に従軍し、最終的にはそれぞれが大佐にまでなりました。弟の方のディック・カーヴァは第3次エル・アラメイン戦の時に第8軍の幕僚の一人として勤務しており、ドイツ軍が退却を始めた後、第8軍司令部の新たな位置を選定するために前線に送られてメルサ・マトルーで捕虜となってしまいました。モントゴメリーは義理の息子がどこで拘束されているかを赤十字を通じて照会し、小包を送るように依頼しました。多くのイギリス人捕虜と同様にディック・カーヴァも、イタリアが戦争から離脱しドイツ軍がイタリアを占領するまでの短い期間に脱走し(後で触れるリチャード・オコーナー将軍もこの期間に脱走しました)、最終的に1943年12月5日にイギリスの戦線に到達しましたが、モントゴメリーは彼をイギリス本国に送って療養させたそうです。




 さて、話をホバートに戻しましょう。

 ホバートはイギリスに戻って1931年に王立戦車兵団(Royal Tank Corps)の第2大隊長となり、自分の部隊を思うように訓練できる立場となります。彼はフラー流の機動戦の感覚を大隊の全員に植えつけるために、厳しくも合理的な訓練を課し、尊敬を得るようになりました。

 1934年にイギリス陸軍は乏しい予算の中から最初の戦車旅団(第1戦車旅団)を創設し、ホバートはその旅団長に任命されます。しかし当時、イギリス陸軍内では依然として騎兵科が強い発言力を持っており、限られた予算の配分を巡ってホバートは彼らと大きく対立せざるを得ませんでした。

 同年にこの第1戦車旅団の参加する大演習が行われたのですが、その際に反戦車派の審判官達は戦車部隊に著しく不利になるような制限を付けたり、判定をごまかしたりし、ホバートは激怒しました。そしてこの時の審判長が、後にエジプトでホバートの上官となるウェーヴェル少将であったことも、後の軋轢をもたらした一因であった可能性が指摘されています。

 イギリス陸軍における戦車推進派は次々に閑職へと回され、J.F.C.フラー少将とリデル=ハート大尉も疎まれて軍を辞職してしまっていました。しかしホバートは不動の姿勢を貫きます。ホバートはこの時までにヨーロッパにおける機甲戦の第一人者となっており、ドイツにおける装甲部隊の父ともされるハインツ・グデーリアンはホバートの機甲部隊を賞賛し、ホバートへの乾杯の音頭を取ったとも言われています。

 しかしそもそも、イギリスは島国でしたから軍全体の中で海軍と空軍の予算が優先されており、最も後回しの陸軍の中でさえも、戦略爆撃に備えての対空防御やインドの防衛の方が戦車部隊よりも重要だと考えられていました。イギリスは第一次世界大戦や戦後の戦車開発、ドクトリンでトップを走っていたのでしたが、1930年代の10年間にその地位から転落していきます。しかしそれにはそんな必然的な理由もあったのです。

 1937年に陸軍大臣に就任した野心的で精力的、かつ異端児であったレズリー・ホア=ベリシャはしかしホバートを応援し、イギリス初の機甲師団(当初の名称は「機動師団」。後の第1機甲師団)長に彼を任命しようとしました。ところが保守派が強硬に反対し、結局その師団長には戦車を扱った経験がまったくない、砲兵畑の人物が任命されることになりました。ですがある意味幸運なことに、1938年9月のミュンヘン危機でヨーロッパが戦争か平和かの瀬戸際に立たされたことからホバートは急遽、イタリア軍による攻撃が予期されたエジプトへと派遣され、イギリスの2番目の機甲師団となる「機動師団(エジプト)」(後の第7機甲師団)の司令官に任命され、その編成と訓練を任されることになったのです。

 9月25日に帝国参謀総長のゴート卿からエジプトへの派遣を知らされたホバートは、切迫感を抱いて飛行艇に乗り組みました。飛行艇にはアイアンサイド将軍(1939年から1940年にかけての帝国参謀総長)や他の上級将校達も乗っていました。



 1938年9月27日、ホバートはアレクサンドリアに到着します。当時はまだ「中東戦域軍(Middle East Command)」は設置されておらず、在エジプトの最高司令部は「エジプト駐留イギリス軍(British Troops in Egypt)」であり、その司令官はゴードン=フィンレイソン中将でした。

 ホバートがやってきたのを見て非常に驚いたゴードン=フィンレイソンの第一声はこうだったといいます。
「君が何をしにここに来たのか知らないが、私はまったく君を必要としていない」

 ゴードン=フィンレイソンは1928年にスキャンダラスな結婚をしたホバートを個人的にひどく嫌っていたのです。また、この当時のエジプト駐留イギリス軍司令部では、午後はあまり仕事をしないという古い習慣が続いており、ホバートはその雰囲気を妻に宛てた手紙の中で「現状にまったく危機感を持っておらず無気力だ」と表現しました。

 在エジプトのかつての騎兵部隊の兵士達の中にも色々な見方がありました。3つのユサール連隊のうち、第11ユサール連隊は機械化され始めてから10年を経過していましたが、残りの2つは前年に馬を引き渡したばかりで、馬との別れに未練がありました。実際多くの年輩の騎兵将校達は機械化されなければならなかったという事実を嘆き、変化への対応に消極的であることを隠そうとしませんでした。しかし幸いなことに、若い将校や兵士達の拒否反応は少なめで、機械化の概念を熱心に受け入れた者達もいました。

 ホバートが指揮することになった「機動部隊(Mobile Force)」は当初、「動けない茶番(Immobile Farce)」とまで揶揄されており、ホバートに対する見方は好奇心と懐疑の念が入り混じったものでした。しかし、将校や兵士達がすべての活動において予想外のスピードを要求されることにだんだんと慣れてくると、ホバートの類い稀な資質とリーダーシップによって得られるであろう利点が評価されるようになってきます。

 ホバートはメルサ・マトルー(Marsa Matruh)を拠点にこの師団に訓練を施しました。メルサ・マトルーは以前はほとんど知られていないちっぽけな村だったのですが、それまでフカ(Fuka)が終着点であったアレクサンドリアからの鉄道線が1936年2月にここまで延長されると、イギリス軍の重要な軍事基地として運用されるようになっていたのです。


 ↓OCS『DAK-II』のマップ。中央にメルサ・マトルーがあり、その少し東にフカがあります(クリックして拡大できます)。

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 1938年の秋から冬にかけては戦争が起こらないままより多くの兵員と装備が到着し始め、まだ師団規模には足りないまでも徐々に部隊が形を整え始めました。

 ホバートも徐々に将校達の協力を得られるようになってきて、1939年3月には大規模な演習を行い、それを見たゴードン=フィンレイソンも満足を表明しました。ただしこの時点でも師団訓練プログラムは、基本的な面をカバーしなければなりませんでした。例えば戦車部隊指揮官と乗員達はあらゆる停止の機会毎に即座に降車して車両を点検し、油の漏れやボルトの緩み、その他の小さな問題を大問題になる前に発見して直すことができるようにする必要がある……というような。機械化部隊へ改編したばかりの騎兵乗り達がこのようなメンテナンスの重要性を認識するまでには時間がかかりましたが、ホバートはあらゆる機会にこのことを強調しました。

 ホバートはこう書いています。

 私は今シーズン、分散性、柔軟性、機動性に集中することに決めました。機械化によって可能になったスピードと広い前線に慣れていない部隊には、このような問題はかなりの難題です。
 砂漠の中で必要とされる間隔の広さにより個々の部隊の孤立が避けられないので、方向を維持したり、部隊の進む道を指し示したり、コンパスなどによって現在地点を割り出したり、小さな印を見逃さないようにし、蜃気楼に惑わされずにしっかりと目を使うことを学んだりする必要があります。


 兵士達のほとんどは、砂漠の真っただ中での活動に消極的だっただけでなく、恐れてさえいました。しかし、砂漠の中で長期間活動することができればできるほど、奇襲を得るためのより大きなチャンスがあるのだと、ホバートは力説しました。連続した戦線のどこかにつけ込むことは難しいが、砂漠では敵側面が開けっぴろげなのだ、と。ただし、砂漠の奥深くで作戦を行うには、補給を確保しなければなりません。これに対するホバートの答えは、軍団規模の部隊をまかなえるような大規模な補給集積所をいくつか設置し、そこから大型トラックで物資を運べるようにするというものでした。このような補給集積所は1940年12月に行われたコンパス作戦で重要な役割を果たしましたし、後のノルマンディー上陸作戦では各軍団の後方兵站線の標準的な要素となりました。

 ところが、砂漠の中での激しい訓練は車両に負担をかけ、ホバートとエジプト駐留イギリス軍司令部の間には摩擦が生じるようになっていました。ある時、砂漠での使用を想定されていない新型のトラックが送られてきて様々な障害が発生したことから、司令部は「陸軍省規定の輸送手段を大きく誤用したもの」とホバートを批判しました。ゴードン=フィンレイソンのホバートへの嫌悪感も何ら解消しておらず、むしろ司令部の幕僚達の中にもその反感が広がってしまっていました。ゴードン=フィンレイソンは、ホバートが司令官からの指示なしに機動師団のための物資を要求し、訓練を計画、実施することを「司令官を軽んじるものだ」と不満を漏らしていました。ところが、近代戦を理解していないゴードン=フィンレイソンとその幕僚達は、否定的な指導をするばかりで何ら前向きな指示をできなかったため、ホバートとしては国家の非常時という危機が迫る中、まったく何もしないか、あるいは反感を食らってでも事を進めるかしかありませんでした。そして、何もしないというのはホバートの性格的に全くあり得ないことだったのです。

 機動師団の各部隊は徐々に、それぞれの付くべき位置をはっきりと自覚し、役割を果たし始めました。ユサール連隊は正面と側面に広いスクリーンを形成して、敵の威力偵察に対して最初の遅滞行動を行い、砲兵隊は攻撃が行われる前に脅威となる敵部隊を打ち砕くために行動を起こし、戦車部隊は攻撃または反撃を行います。歩兵は占領した地点を確保し、あるいは司令部を守備するのです。

 弾薬や無線機などを含めて、あらゆるものが深刻なほど不足していましたが、ホバート麾下の部隊は今やどんな状況にも即応できるようになり、協同して行動することが可能になっていました。そして1939年の半ばまでに「機動師団(エジプト)」は、アフリカで最強の打撃群と言えるまでに成長していたのです。

 【1939年6月?】ゴードン=フィンレイソンが陸軍副総監に就任するためにイギリス本国に戻ることになったため、ホバートにとっては状況が改善するかとも思われました。ところがゴードン=フィレイソンはイギリスに戻ると、ホバートの指揮官としての適性を批判する機密報告書を書いたのです。曰く、「一緒に仕えたり理解したりするのが難しい」「司令官として持っているべき自信に満ちた態度がなく、判断が衝動的で一貫性がない」「最高の指揮権や任命を受ける資格がない」「他人の意見に耳を傾けることに著しく消極的であり、将校達に対してイライラしている」「他の兵科に大きな価値を置かない印象を与える」「不安を引き起こし、司令官としての彼の立場を揺るがしている」「その結果、彼は部下から協力的な態度を得られず、彼らを不幸にし、損なっている」「ホバート将軍による将校や部下を管理する方法は最高の結果をもたらすものではない。私は彼を昇進にふさわしい指揮官とは思えない」などなど……。

 ゴードン=フィンレイソンはエジプトから去りましたが、彼のその後についてもここで触れておきましょう。陸軍副総監に就任した後、彼は次にイギリス大陸派遣軍司令官への就任が内定されていたのですが、最終的にそのポストはゴート卿に割り振られ、その代わりに彼は内地の西部地域守備軍(Western Command)司令官に任命されました。この人事に彼は抗議し、また彼の妻が「陰謀」があったと主張したため、退役軍人名簿に載せられてしまいます。彼はそれからの2年間というイギリスにとって真に深刻な時期に、より高い勲章とポストを求めて周りの人間を困らせました。アラン・ブルック参謀総長は彼について「インド戦域軍司令官になりたいがために、(陸軍省を)嗅ぎまわっていた」と表現したそうです。


 さて、ゴードン=フィンレイソンの後任として1939年6月15日、メイトランド・「ジャンボ」・ウィルソン将軍がカイロに到着しました。ウィルソンはかつてホバートと参謀大学で同級生だったことがありましたから、ホバートとエジプト駐留イギリス軍司令部との関係改善が期待されました。そして、実際最初はそのように見えたのです。

 7月末、ウィルソンは機動師団と共に砂漠で3日間を過ごし、装備の質はともかく、訓練の水準に感銘を受けます(ただしウィルソン自身には、戦車に関する知識はあまりありませんでした)。演習の閉会式では演習を絶賛し、ホバートの指導を支持します。このすぐ後【8月2日?】、ホバートは休暇で妻と共にイギリスへと出発しました。

 その同じ日【8月2日】、ウェーヴェル将軍が1939年6月に新たに創設されていた中東戦域軍司令官としてカイロに到着します。しかしその管轄範囲は広大で、ウェーヴェルはあらゆる方面に目を配らなければならなかったため、在エジプトのイギリス軍と対リビア(イタリア)方面はウィルソンに任されていました。4ヵ月後の11月になってもウェーヴェルはリビア戦線も、メルサ・マトルーに司令部を置いていた彼の麾下の唯一の機甲師団も視察していなかったのです。

 ホバートが休暇を過ごしていた1939年8月には独ソ不可侵条約の締結(23日)という衝撃的な事件があり、またドイツ軍がポーランド国境へ集結し、ポーランドとは英仏両国が相互援助条約を結んでいたことから、戦争は避けられないものと思われました。ホバートは休暇を切り上げてエジプトへ戻るように命じられ、メルサ・マトルーで機動師団と合流します。9月1日にドイツがポーランドへと侵攻、そして9月3日の英仏両政府による対独宣戦によって戦争は現実となったものの、イタリアは依然中立の立場を維持していました。

 その後の不安な数ヵ月間、エジプト・リビア国境でパトロールが行われ(ただし、ムッソリーニを刺激はしないよう、回数は抑えられていました)、高地で演習と訓練が続けられます。しかしそのうちに線路や車両の摩耗、消耗が代替品の量に比してあまりにも早く進んでいることが分かってきました。イタリア参戦の切迫度が薄れてきたこともあり、ウィルソンは一度機動師団をナイルデルタへと撤退させ、兵士の休息と装備の整備をさせることに決定。ただその前に、師団の訓練状態をテストするために砂漠で通信部門の演習を行うことにしました。

 ところが、ウィルソンはこの演習計画の内容についてホバートと話し合っていなかったのです。ホバートはこの演習を師団の全部門に対するものだと思い、演習担当者達によって設定された状況に対して、彼が実際に行うであろうように対処することにしました。そしてその結果として、担当者達にもホバートの意図が分からないままになってしまいます。

 演習が始まると、ホバートが(ウィルソンが想定していた)後方からではなく前方で部隊を率いていたため、重要なコードキーの場所が分からなくなって通信が完全にできなくなり、大混乱が発生。無線コードを流出させるわけにはいかないため、ウィルソンは砂漠の中にあるホバートの司令部と自ら連絡を取るため、飛行機に乗らなければなりませんでした。案内役を付けるようにという申し出を断ったウィルソンは一人の副官と共に出発しますが、この副官は地図を読み、コンパスを参照して理解することができず、結果として道に迷った二人はホバートの司令部に着くまで何時間もかかってしまいました。そして恐らくは自分のイライラのためか、ウィルソンは機動師団の将校達の前で、ホバートを激しく批判したのです。


 ホバートはウィルソンが提起した批判に対して反論する手紙を書きましたが、問題の解決には結びつきませんでした(ホバートを主人公とする資料では、この手紙はあくまで弁明のために書かれたかのように記されている一方、ウェーヴェルを主人公とする資料では、逆にこの反論の手紙によってより二人の間の関係が悪化した、つまりホバートがウィルソンを批判したかのような書き方になっています)。11月10日にウィルソンはウェーヴェルに手紙を書き、その中には「ホバート中将の能力でこの機甲師団を満足に指揮できるかどうか、私には自信が持てません」「私はそれゆえ、機甲師団に新しい司令官を任命することを要請します」と書かれており、これがホバート解任の決定的な理由となりました。また、ウェーヴェルがイギリス本国から中東へと出発する際、ゴードン=フィンレイソンからあの機密報告書を見せられていたようだとする資料もあります。もしそうだとすれば、それは国王規則(軍内部で守るべき施行規則)への重大な侵害であったのですが……。

 ウェーヴェルは11月中旬【15日? 16日には代理師団長が任命されているので】にホバートと面会し、機動師団の指揮権を引き渡すように命じました。ホバートが解任されるということを知った機動師団の将校達の間には瞬く間に大きな失望が広がります。部下達の中でも、ホレス・バークス将軍(1940年には第7機甲師団の中の第4機甲旅団の副司令官。一時期本国に戻ってホバートを助け、その後第10機甲師団長となってエル・アラメインの戦いに参加)と「ストレイファー」ゴット将軍(第7機甲師団長、第13軍団長を歴任し、第8軍司令官に任命された直後、乗っていた輸送機が撃墜されて死亡した)は、ホバートに対してこの解任命令と戦うように勧めました。

 あるホバートの伝記本には、こう書かれています。

 できることは何もないと、ホバートは知っていた。彼はここに留まることができないので、品位を保ったまま去るのが最善の方法だった。結果的には、彼は勝利のうちに去ることになった。なぜなら、彼の車が彼の司令部から滑走路までの1.5マイルを走った時その沿道には、彼の師団の男達、砲兵、歩兵、騎兵、戦車兵が並んでおり、全員がみずから自分達の司令官を激励し、忘れられない別れになったからだ。彼らは誰一人として、なぜホバートが去っていくのかを知らなかった。ただ、司令官が去っていくのであれば、彼らは去っていく司令官に対して、自分達が彼に対して完全な信頼と親愛の情を抱いていることを示して見送らなければならないと思ったのだ。ホバートとその妻には、全部隊の将校達から彼の去就に対する衝撃と落胆を表す手紙が殺到し、また、これまでホバートとの協力関係を築き、緊密に協力してきたリチャード・オコーナー少将からは、機動師団について「今まで見た中で最高の訓練を受けた師団だったのに」という悲痛な手紙が届いた。


 結局ホバートは40年以上勤務した軍を退役し、イギリスに戻りました。鬱になりがちでもあった彼の当時の心情は察するにあまりあります。

 しかし彼の祖国への奉仕はそれで終わりになったわけではありませんでした。1940年5月14日、ドイツ軍に侵攻されたフランス軍の戦線が突破された日に、アンソニー・イーデン陸相が民兵防衛組織への志願を呼びかけるラジオ演説を行いました。この「地域防衛義勇隊(後のホーム・ガード)」に志願したホバートはただの一兵卒から、すぐれた組織作りの才能が認められて瞬く間に昇進。その後紆余曲折を経て第79装甲師団長となって様々な改造戦車を開発し、義弟モントゴメリーの指揮下で対ドイツ戦を戦うことになるのです。


 一方エジプトではその後、1940年2月16日に「機動師団(エジプト)」は「第7機甲師団」と改称されます。この師団の、ホバートの薫陶を受けた将校や兵士達は、何か事ある毎に「ホーボーはいつもこう言っていた」と語ったそうです。

 また、改称とほぼ同時期に、師団のマークが元の「赤地に白の円」から、「砂漠のネズミ」のマークへと変更されています。この時の師団長であったマイケル・クレイ将軍の妻がカイロの動物園で砂漠のトビネズミをじっくり観察してデザインしたマークを将校達や兵士達が見て気に入ったのです。また、最終的に戦車や車輌、軍服などに使用されたデザインは、後にリビアで戦車の中で戦死したケン・ヒルという兵士が描いたものでした。この新しいエンブレムは人気を博し、第7機甲師団の兵士達が自分達を「砂漠のネズミ」と呼ぶようになったのみならず、北アフリカで戦った他の連合軍兵士達も、自分達をそう呼ぶようにさえなるのでした。

7th armoured division insignia 1944 3000px

 ↑「砂漠のネズミ」のマーク(Wikipediaから)






 色々な資料を参照しましたが、↑をかなり詳しい資料として使用しました(ただし当然ながらホバートを褒める立場から書かれているので、扱いには注意が必要なんだろうと思います)。

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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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