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北アフリカ戦時のイギリス軍は、なぜ諸兵科で連携せずに戦車だけで突っ込む戦い方をしていたのか?

 現状の手持ちの資料からで、北アフリカ戦時のイギリス軍の戦い方の特徴について、いったんまとめておきたいと思います。



 資料を読んでいて特徴的だと思うのが、元々イギリス軍および英連邦軍は「バラバラ度」が強く、それがモントゴメリーによってようやく統合された後でも、ドイツ軍の標準レベルにも追いついたわけではなかった……らしいことです。

 モンゴメリーは大改革に乗り出し、軍紀を正し、彼の命令に疑問を挟む傾向のある多くの先任将校を更迭した。連絡、訓練、参謀の仕事が劇的に改善されたアラメイン戦、グッドウッド戦、マーケット・ガーデン作戦中に見られた交通渋滞を考えれば、改善されたと言っても、ドイツ軍の標準レベルに追いついたとは言えない)。とりわけモンゴメリーが決意したのは、これ以上イギリス軍の戦力を、逐次投入しないということだった。「ジョック・コラム」は廃止され、将官たちはその言葉を口にすることさえ禁止された。師団は以後、師団として戦うようになり、師団砲兵は師団長の指揮下に置かれ、「旅団グループ」は廃止された。所属師団から旅団を分離することは公式には禁じられたが、実際には特別な転属は続けられた。
 しかし最も重要だったのは、モンゴメリーが王立戦車連隊と総参謀の記章のついた黒いベレー帽を被ったことだった。歴史研究家のバリー・ピット【『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』などの三部作の著者】は「歩兵と機甲、その両方の知識がある一つの命令系統の下、両者の協力体制が約束された」のだと書いている。
 モンゴメリーにとっての最初の本当の試練は8月末のアラム・ハルファの戦いで、イギリス軍第22機甲旅団が、それまで見せたことのないような訓練と戦術的ノウハウを実演したのだった。前進してきたドイツ軍戦車はイギリス軍対戦車砲のスクリーンに引っかかり、待ち構えていたグラント戦車から反撃を受けた。ドイツ軍は突出してきたイギリス軍戦車を、いつも通り破壊できるだろうと完全に思い込み、自軍戦車を対戦車砲スクリーンの背後に後退させた。しかし、そうはならなかった。戦車隊には決して追撃しないようにとの厳命が下されており、ドイツ軍の88ミリ砲の射程外で停止し、一晩中、砲兵射撃を浴びせたのである。翌日もその日の夜も同じことが繰り返され、燃料が残り少なくなったロンメルは退却したのだった。
 両軍とも物理的な損害は大きくなかったが、イギリス軍はアラム・ハルファ戦の成功で士気が大いに高まり、諸兵科の集中、緊密な連携の効果が明らかとなった。砲兵の支援を受けた歩兵の攻撃という戦術の変換によりドイツ軍を出し抜いた、第2ニュージーランド師団長フレイバーグ将軍の功績も大きい。要するに、彼は歩兵が「戦車の従者」であり続けることを否定したのだ。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P79,80


 「歩兵と機甲、その両方の知識がある一つの命令系統の下、両者の協力体制が約束された」「砲兵の支援を受けた歩兵の攻撃」「彼は歩兵が「戦車の従者」であり続けることを否定したのだ」等々とあり、ある意味「よっしゃ!」という文脈で書かれているわけですが、ゲーマーからすれば(あるいはドイツ軍からすれば)、「いや、そんなの当たり前にできていて当然じゃん」という感じでしょう(著者も、それゆえに「ドイツ軍の標準レベルに追いついたとは言えない」と書いているわけです)。


 OCS信者としては、モントゴメリー以前の英連邦軍がどのようにルール化されているか、されるべきか大いに気になるところですが、『DAK-II』ではそこらへん何の縛りもないように見えます。私なりに大いにデフォルメしてルールを考えるとすれば、

・英連邦軍は、歩兵、機甲、砲兵の3種類の異なる兵科ユニットを一緒にスタックできません(ゆえに、一緒に防御することもありません)。
・歩兵と機甲は、同じ攻撃に参加できません。
・砲兵ユニットや航空ユニットによってDGになった敵ユニットに対して、歩兵と機甲は攻撃できません。独自の砲爆撃力を持つ支援グループ(歩兵)や旅団グループ(歩兵や機甲)等の、砲兵以外の砲爆撃によってDGになった敵ユニットに対しては、歩兵と機甲は攻撃できます。

 ……という感じでしょうか? まあ、OCSではそこまで戦術的なことを織り込むのは難しいとも思われ、BCSの『Brazen Chariots: Battles for Tobruk, 1941』などではどうなっているのか、気になるところではあります。




 で、なぜイギリス軍(英連邦軍)は元々バラバラだったのか? です。

 歴史的経緯や、精神的な傾向に由来するのではないかと推察されますが、どうも↓ここらへんが理由のように思われます。

 第8軍の最大の泣き所は、リーダーシップとドクトリンとにあった。概して、イギリス軍の戦術は、テンポが遅く、教条主義的で、保守的だった。戦前、イギリス陸軍は職業軍人で構成されており、植民地を維持するため、世界各地に散らばっていた。師団単位の作戦に参加した経験をもっていた旅団はごく一部で、軍団単位の作戦となると、殆ど皆無だった。そのため、イギリス軍は拠点防御においては、たとえ包囲下にあってもよく戦ったが、司令官たちの多くは、機動戦、特に攻勢時の機動戦を戦う準備ができていなかった。
 【……】
 なお悪いことに、砂漠という環境は、イギリス軍にとって不利に働いた。兵士の密集度が低く、開けた地形が続く砂漠では、より柔軟に部隊編成を行い、機動戦を展開した軍のほうが、有利に戦えたのである。
『コマンドマガジン Vol.15』質と量の戦いP26,27


 個人的に特に注目したのは、「教条主義的」で「小さい部隊で戦うことには慣れていたが、大きい部隊で連携して戦うことには慣れていなかった」という辺りです。「教条主義的」であるが故に後に述べる「2つの極論」に走り、またその片方の「戦車単独万能論」など、「連携せずに戦う」という方向性になったのではないでしょうか……?

 「連携せずに戦う」という方向性の故、こういうことになっていたようです。

 一見したところでは、ドイツアフリカ軍団も、砂漠のイギリス軍指揮官がその後二年間不平をもらし続けた、その場しのぎの兵や部隊の寄せ集めと大差なかった。しかしドイツ軍は勝利の波頭に乗っていた。彼らは自分たちの、将校、訓練、ドクトリンに自信を持っていた。彼らの師団は状況が変わるごとに組み合わされ、また組み直されて共に戦うよう訓練を受けた熟練した専門家のチームだった。この「戦闘団」体制は、歩兵中隊に至るまですべての部隊に日常任務を行なうために必要な固有の専門部隊と支援兵器とを供給するというドイツ軍の手法によって強化されていた。その組み立ては子どものレゴブロックに似ている。個々のピースがひとたびしっかりと組み合わされれば、最終的な形が不格好でも持ちこたえることができるのだ。
 それとは対照的に、イギリス軍の連隊制度は個別化することを促進してきた。つまり歩兵部隊、機甲部隊、砲兵隊のみならず、同じ兵科の異なる部隊がそれぞれの方針を採っていた。ふたつのイギリス軍連隊が確実に協力する唯一の方法は、指揮官が互いの妻と寝た場合だけだという砂漠のユーモアにそれが表れている。ロンメルの急速に集結しつつある軍勢に直面した将校や兵士は、ほとんど誰もドイツ式の戦争を経験したことがなかった。一九四○年の戦役に参加した兵士のほとんどはイギリス本国にいた。ドイツ軍がどのように戦ったかを示す手引き書やマニュアルはまだ執筆中で、迎え撃つためのドクトリンも開発途中だった。イギリス陸軍が戦術的な時代遅れから脱出して、一年前の戦場にいた軍ではなく、目の前に存在する敵ドイツ軍と戦う形勢に立てたのは1944年のことだった。
『パットン対ロンメル』P217,8



 イギリス第8軍では、そもそも指揮官同士がお互いを嫌って信用しないというということも多かったらしいです。
(尤も、ロンメル麾下でも最初はロンメルへの反発があり、ロンメルの方が悪い面もあったようにも思いますが、ロンメルがそれらの反発する指揮官をクビにして、自分の意に沿う指揮官を任命して以降、チームワークが良くなったようです。そういうことをイギリス軍側は、モントゴメリーが果断にやるまでできなかったということなのでしょう)

 第8軍の指揮環境はといえば、これら【ドイツ軍の指揮環境】すべてからほど遠かった。上級将校は互いを嫌って信用しないのが普通で、命令がもとで議論が始まったり、協力したとしてもその場限りということが多かった。
『パットン対ロンメル』P257

 【……】アフリカ軍団はしっかりと組織された戦闘部隊であり、その指揮官達は共通の戦術ドクトリンと、規律の高さを誇っていた。対照的に、幾人かのイギリス軍の指揮官達の間の人間関係 - 特に機甲師団の間での - が最悪であることは皆が知っていることであり、しかも議論を元に命令を出すという一般的な傾向があった。
-南アフリカ軍公式戦史
『Rommel's North Africa Campaign』P150






 次に、より戦術的な話を。良く知られている、歩兵戦車と巡航戦車という枠組みについてです。

 【……】当時のイギリス軍に本当に欠けていたのは戦術であり、即ち戦車、歩兵、砲兵が連携する戦い方であった。
 【……】
 そこには2つの極論があった。1つは、戦車は歩兵の戦術的目標を制圧するための補助的兵器であるという見方。もう1つは他の兵器の助けなしで戦闘に勝利できるという見方である。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P76


 で、この2つの極論に従って、2系列のまったく異なる戦車群が開発されていくことになります。

 1つめの見方によりマチルダMk.IIのような歩兵戦車が作られ、歩兵を支援します。あくまで歩兵が主であり、戦車が従です。地点や地域の確保のためにその力を発揮します。

 2つめの見方によりクルセイダーのような巡航戦車が作られ、戦車だけで部隊を編成して突破行動を行います。足の遅い歩兵や砲兵は連れていきません。純粋に戦車だけの部隊です。なぜなら、戦車は他の兵器の助けなしで戦闘に勝利できる(ハズだ)からです。


 結果的に、こうなりました。

 【……】深刻だったのは、戦術の発展が偏向してしまったことである。歩兵と砲兵【と機甲】は、完全に独自の戦術にのみとらわれていた。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P76




 イギリス軍は、その空軍ともバラバラだったそうです(以下、ホバートらの戦車単独万能論についても触れられています)。

 1930年代半ばのイギリス陸軍では、ホバートなどの先進的な戦車派の将校たちは「最新の装甲機動戦理論に基づいて戦う友軍戦車は野砲の支援射撃がなくても敵の対戦車砲を脅威としないが、敵戦車は友軍の優れた防御戦術により2ポンド砲で阻止できる」という不思議な考えを抱いています。
 一方、先進的な戦車派の将校たちが期待していた航空支援とはどんなものだったのかといえば、それには具体的な姿というものがありません。航空優勢を獲得しなければ砲兵戦が戦えず、陸戦の勝利には航空優勢が不可欠であることが当時でも自明のこととして認められていますが、絶対に不可欠であるがゆえに考察が甘くなっているのが戦間期の装甲機動主義者たちに共通に見られる傾向です。よく考えてみれば、戦略爆撃空軍志向のイギリス空軍にはJu87シュツーカなど急降下爆撃機は1機も存在せず、そのうえ機動戦対応の空地連絡組織などは影も形もありません。それなのに、航空支援は空軍の仕事だとして、距離を置いて眺めてしまう姿勢は空軍独立の弊害の一つなのかもしれません。
 砲兵支援の放棄と、航空への非現実的依存と航空軍備の実態との落差は再び起きた世界大戦でイギリス陸軍の装甲機動作戦の大きな欠陥として作用します。空軍の独立が早く、しかも戦略爆撃志向で育っていたイギリスでは、似たような航空依存や砲兵軽視傾向があったドイツよりも陸軍と空軍との距離がいっそう遠いのです。このまま戦えば、敗北は決定したようなものでした。

『「砲兵」から見た世界大戦』P50,51



 結果として、例えばこういうことが起こっていたそうです。

 【クルセイダー作戦の時】大変興味深いことに、第1機甲旅団からヴァレンタイン戦車の増強を受けていたニュージーランド第2歩兵師団は、待機中であり、救援を申し出たのに対し、イギリス軍機甲部隊はその協力を得ることを嫌い、拒否したのである。この戦争中に英連邦軍内の様々な部隊間で、きちんとした協力体制が取られるには、まだあまりにも早すぎたのだ。
『Rommel's North Africa Campaign』P107,8

 【ガザラの戦いの時、連携改善の努力にもかかわらず】悲しいかな、期待されていたように、高いレベルでの諸兵科連合は実現しなかった。機甲旅団は以前同様、自前の戦車だけで戦い続け、同じ師団に属する自動車化歩兵、歩兵師団【旅団?】はお構いなしだった。ある1つの目標に対し、諸兵科連合部隊が集中攻撃を行う光景は、ついに見られなかった。
 司令官たちは、どう見ても戦前に受けた訓練と経験に縛られていたようで、旅団規模の【機甲旅団や歩兵旅団同士の?】諸兵科連合部隊を指揮できる状態ではなかった。戦闘部隊の基幹は師団ではなく旅団であり、旅団グループの存在は、その考え方を強調しただけだった。命令系統に根差す問題が、ようやく顕在化した。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P78


 OCSレベルのゲームをプレイする場合、こういう風な連携の取れなさは、前述のような特別な制限ルールでも付けなければ、想像するのも難しいですね(^_^;
 あるいはTCSのようなかなり戦術級に寄ったゲームを多人数でプレイしている場合ならば、一人のプレイヤーが勝手に戦車部隊で突っ込んだり、味方プレイヤーが支援を申し出たのにそれを拒否する、というようなことは起こりえるでしょうか(^_^;




 ところが、このような傾向のあった英連邦軍ですが、1940年末から1941年にかけて、イタリア軍相手には大勝を収めます。それはイタリア軍がこのような英連邦軍よりもさらに拙劣であったのと、ほとんど自動車化(機械化)されておらず、当時オコーナー将軍が行った迂回戦術などに抵抗できなかったためだと思われますが、この勝利によって英連邦軍は、ある意味「間違った教訓」を得てしまったのでした。

 【……】練度も士気も高い同師団【第7機甲師団】は、装備状態は劣悪なれど数で圧倒するイタリア軍を容易に撃破した。この初期のイタリア軍に対する武功が、不幸にも「全戦車」主義【戦車単独万能論】に拍車をかけることになり、「ジョック・コラム」を編成することが戦術上、重要であるという過てる認識へと誘導したのだった。
 当時の砂漠戦では、第一次大戦で失敗したことは、機動力、広域展開、襲撃に毛の生えたような「戦術」でカバーできるという考えが支配的だった。砂漠戦というロマンチックな響きにも助けられ、任務部隊や装甲車、トラック乗車の歩兵、砲兵で構成される「哨戒グループ」が脚光を浴び、最も成功を収めた司令官、ジョック・キャンプベル准将(戦功十字章授章)の名が広く知れ渡るようになった。主に機甲師団の支援グループから部隊を引き抜いたため、ジョック・コラムが一番影響を与えたことは、ただでさえ少ない機甲師団の支援歩兵、砲兵を分散させたことだった。しかし機甲師団の戦車兵たちは、当時はあまりそのことを気にかけなかった。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P77



 また、その後に現れたドイツ軍に対して当時イギリス軍は砲兵が劣勢で、それゆえに残された強みは「機動戦」しかなく、「戦車単独万能論」に基づいて戦車を単独で突っ込ませて、ドイツ軍にやられてしまう……(イギリス軍の指揮官は「機動戦が苦手」という話が前掲引用にありましたし、そこらへんとの整合性が気になるところではありますが、「軍団規模や師団規模のイギリス軍指揮官は機動戦が苦手なのだが、機甲旅団指揮官などはホバートやオコーナーなどの薫陶を受けており、そのイタリア軍相手の成功体験から、戦車だけで突っ込む機動戦を志向した……というようなことでしょうか?)

 【……】逆に言えば火力主義に転換したはずのイギリス陸軍にはフランス敗戦後から2年間にもわたって十分な砲兵火力が揃わず、火力面でドイツ陸軍より劣勢だったということです。
 そのためドイツ陸軍との第2ラウンドである北アフリカの戦いは、イギリス陸軍にとって1930年代の機動戦ブームの残り火を引き継ぐ"昔ながらの"機動戦に逆戻りします。
 イタリア軍のエジプト侵攻を受けた際に、兵力不足のイギリス陸軍は同じく兵力不足の空軍と協同しながら、残された唯一の戦術である高速機動戦によってイタリア軍を押し返します。イタリア軍の敗因には戦術的な拙劣さもありましたが、何といっても機動戦はイギリス陸軍が世界に先駆けて長期間にわたって研究して来た戦術です。年季が違います。しかも幸運なことにイタリア軍の航空兵力はイギリス空軍よりもさらに弱体で、補給の困難なエジプト国境地帯で十分な戦力を発揮することができません。
 そして敗走するイタリア軍を追ってイギリス軍の追撃が始まりますが、その追撃戦がリビアのトリポリに迫り、エルアゲーラに達する頃、イギリス軍にもイタリア軍と同じ症状が現われます。イギリス空軍の1日あたりの出撃機数がわずか15機以下にまで落ち込んでしまうのです。そこへ増援されたロンメル指揮下のアフリカ軍団とドイツ空軍はトリポリに近いという地の利を生かし、400機のエアカバーを得て圧倒的な反撃を実施し、イギリス軍をエジプト国境まで押し戻してしまいます。
 ……
 なにしろ北アフリカの戦場では、イギリス軍は航空兵力で弱体であるだけでなく、砲兵火力においてもドイツ軍に劣っていたので、攻勢も防御もすべて機動戦に頼る以外に道が残されていないのです。
『「砲兵」から見た世界大戦』P58,9

 イギリス陸軍は長い間、戦車戦闘は主に戦車間で戦わなければならないとする考え方を持っていた。これに対して戦車後発国家のドイツ軍は、それがゆえに第1次世界大戦当時から自己の戦車の限界(数の問題も含めて)を十分意識していたし、したがって防護膜として対戦車火砲を用いることを心がけていた。両軍の間の認知と実行の深刻な不均衡は、イギリス軍が乱戦の中に突進していく傾向があったのに対し、ドイツ軍は隠蔽した低姿勢の対戦車火砲の火網の援護を受けて戦闘を遂行するという違いとなった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P77

 ドイツ軍の防御戦術は、イギリス軍が熱望した戦車戦をできるだけ避け、戦車、地雷原、砲兵、対戦車砲のコンビネーションで対抗する、というものだった。ドイツ軍の戦車は囮の役目を果たし、対戦車砲が待ち構える場所へと、イギリス軍戦車をおびき出した。いつも目視できるドイツ軍戦車の数が少ない割に自軍の損害が大きいため、イギリス軍の戦車兵は当初、ドイツ軍戦車の砲ははるかに強力であると信じ込み、「強力な砲か厚い装甲か」論争がいつまでも続いたのだった。
『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」P77

 ドイツ軍のパンツァー師団はチームワークを重視しており、戦車は攻防両面において対戦車火器と野戦砲兵とに密接に統合されていた。対してイギリス軍は兵科内【兵科間?】の協同が貧弱であったし、戦車があまりにも多くのことをなそうとしていた。ロンメルの組織的対戦車火網の前に、貧弱な装備と不安定なドクトリンしか持たないイギリス軍はなす術がなかった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P76



 この状況に対してイギリス軍は試行錯誤しながら何とか兵科間の連携を図っていき、それはある程度達成されるわけですが、その果てに選択したのは「ドイツ軍と同じ様な機動戦ができるようになること」ではなく、「機動戦をそもそもしないこと(火砲と航空爆撃による戦いに持ち込むこと)」でした。

 こうした理由で、ドイツ軍の機動戦に巻き込まれ、ともすればドイツ軍の優れた砲兵火力の前に誘い出されるか、あるいは追いこまれる形で損害と撤退を重ねていたイギリス軍に一つの変化が訪れます。ドイツ軍がいかに巧緻な戦術で誘導を図っても、イギリス軍はけしてその策に嵌まらなくなってきます。ドイツ流の機動戦理論によって理詰めで追い詰められていたイギリス軍の弱体な機動戦は、ある時点から二度と再現されません。
 ドイツアフリカ軍団のどんなに巧みな誘引策も無駄になる事態が訪れることになり、友軍の集中火力の前にイギリス軍主力を誘引できなくなったことで、ロンメルのアフリカ軍団は今までのように容易い勝利を得られなくなります。それというのも、イギリス軍がこの時点できっぱりと機動戦を放棄してしまったからです。エルアラメインの戦いの前に、そうした兆候が現れます。それは1942年の夏のことです。
『「砲兵」から見た世界大戦』P60


(エル・アラメインの戦いのの時期のイギリス軍の変化が非常に重要だったという視点はいくつかの資料で述べられており、『コマンドマガジン31号』「全戦車編成から全兵種編成へ」の参考文献に挙げられている『Dance of War: The Story of the Battle of Egypt』はそこに関してのみ扱った本のようです。)







 イギリス軍には元々、フラー、リデル・ハート、ホバートなどの「機甲戦論者」達がおり、戦間期に「戦車を中心とした戦い」の有効性を主張して(軋轢を起こして)下野していってしまうわけですが、彼らは戦後、自分達は正しかったのであり、それを邪魔したのが守旧派だったのだと主張しました。ところが、『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」によれば、守旧派による妨害というのは彼らが主張するほどではなく、むしろ彼らの主張がイギリス軍に取り入れられていたのだ、と。むしろ彼らの「戦車単独万能論」ゆえに、イギリス軍において戦車が活躍できず(諸兵科連合するドイツ軍に突っ込んでいってボロボロに負けて)、機甲部隊の発展を阻害したのだ……としています。

 1942年夏以降、武器貸与法に基づいてアメリカ製M4戦車がイギリス機甲部隊の主力となり、ロンメルを敗北に至らしめたのが、2年の長い道程を経て大きな代償を払った結果であった。この勝利は機甲軍の華々しい戦略貫通攻撃【突破的な攻勢のこと?】というよりも、むしろ皮肉にも連合軍の非常に優越した勢力による消耗戦の結果であった。イギリス陸軍に主たる障害を課したのは皮肉にもフラーを始めとする戦車ファンの未来派と純粋主義であった。
『戦略戦術兵器事典④【ヨーロッパW.W.II】陸空軍編』「戦車先進国イギリスはなぜ失速したか」P76





 ただ、今のコロナの状況化でイギリスは、教条主義的なやり方ではなく大規模な実験(マスクなしのダンスパーティーとか)でもって試行錯誤的により良い対処法を探そうとしているとのことで。でもこういう実験は日本ではものすごく忌避されるでしょうねぇ……(私はバランス主義者&試行錯誤主義者なので、理論よりも実験が大事だと思っているのですが)。






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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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