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第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦域のオーストラリア軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線などのオーストラリア軍について以前から興味を持っていたんですが、『World War II in Europe: An Encyclopedia』の「Army, Australian」の項目が興味深くまとまっていたこともあり、今まで集めていた情報込みで一度まとめてみようと思います。


 ↓OCS『DAK-II』のオーストラリア軍

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 第9オーストラリア歩兵師団にはアクションレーティング5のユニットがあり、上記の3個師団の中でも特に強いのが分かります。


 他にOCS『Reluctant Enemies』(シリアでの対ヴィシーフランス軍に対する英連邦軍の作戦を扱う)にもオーストラリア軍ユニットがたくさん入っていますが、スケールがかなり異なっていて細かい独立ユニットが多いので省略で。主力としては、OCS『DAK-II』のユニットにもなっている第7オーストラリア歩兵師団の第21歩兵旅団と第25歩兵旅団です。

 オーストラリア軍はエル・アラメインの戦い(1942年11月)を最後にヨーロッパ戦域から部隊をほとんど引き揚げた為、『Tunisia II』以降の西部戦線ゲームには出てきません。というのは、日本軍がその参戦(1941年12月)以降、オーストラリア本土に対する直接の脅威になっており、それ以後すべてのオーストラリア軍部隊は太平洋戦域で戦ったからでした。



 イギリスが対独宣戦をおこなった1939年9月3日(ポーランド侵攻から2日後)中にオーストラリアは英連邦の一員として参戦を決定。9月15日には(第一次世界大戦以来の)「第2次オーストラリア帝国軍(2nd Australian Imperial Force)」が発足し、まず第6師団が編成されます(その後、第7、第8、第9も編成されていきますが、他に太平洋戦域のみで戦った第3、第5、第11などもあり、どういう命名法則によるのか知りたいところです)。

 第6師団を構成する3つの旅団は1940年1月から順次、オーストラリアから船で中東へ向かい、パレスチナで訓練を開始します。しかし5月4日に出航した3つ目の旅団は、5月10日にドイツ軍がフランスへ侵攻してイギリス本土が危険となったことから、急遽英本土へ送られることになりました。第6師団は訓練と編成が整い次第フランス北部の戦場に投入される予定でしたが、イギリス大陸派遣軍がフランスを脱出し、フランスも降伏したことから、この計画は取りやめとなります。

 一方、イタリアもドイツの勝ち馬に乗る形で6月10日に英仏に対して宣戦布告したため、オーストラリアは翌11日に対イタリア宣戦布告をおこないます。イタリア軍はその植民地リビアから、イギリス軍がいたエジプト(名目上は独立国)に侵攻する可能性が強く見込まれており、第6師団はこのエジプト方面に投入されることになりました。

 リビア・エジプト国境では6月11日から小規模な戦いが始まっていましたが、第6師団はこれに参加させられることはなく、9月13日からのイタリア第10軍の大規模侵攻(グラツィアーニ攻勢)も3日で停止し、英連邦軍は退いただけでした。

 そして、第6師団がオーストラリアを離れてからほぼ1年にもなろうとする中、1940年12月9日からはコンパス作戦で英連邦軍が第7機甲師団と第4インド歩兵師団でもって攻勢をおこないました(その実行は味方にも厳重に秘密にされていました)。この作戦の大成功のニュースを聞いたオーストラリア軍兵士は心がはやったことでしょう。

 そんな中、作戦の3日目の12月11日には急遽、第4インド歩兵師団(非常に長く訓練を受けていた部隊で、コンパス作戦でも大きな戦果を挙げていました)が東アフリカ戦線に回されることになり、その代わり、それまでアレクサンドリア周辺に留め置かれていた第6オーストラリア歩兵師団がその後のリビアでの戦いに投入されることになったのです。

 この時のことを、アラン・ムーアヘッドは『砂漠の戦争』の中でこう書いています。

 【コンパス作戦において】シディ・バラニでりっぱに使命を果たしたインド軍【第4歩兵】師団は、ニュージーランド軍【コンパス作戦の間、その少し後ろのメルサ・マトルーに留め置かれていた第2ニュージーランド歩兵師団の内の第4、第6歩兵旅団】とともに後方へ引き揚げ、まだこの作戦で使ったことのないオーストラリア軍【第6歩兵】師団の大部分と交替する。この決定にあたって、ウェーヴェルは、いやが上にも戦意の高まっていたニュージーランド軍のはげしい恨みをかった。輸送用の車輌を取りあげられ、それがオーストラリア軍にあたえられるに及び、彼らはさらに傷つけられた。しかし、オーストラリア軍の間では、ウェーヴェルの処置は絶大な人気を博した。彼らは一年もぶらぶらさせられていたので、ますます、危険なまでに御しにくくなっていた。すでに奇襲部隊として勇名をはせていたオーストラリア兵たちは、今や、その健康状態は最高、士気はいやが上にも高まり、その攻撃的性格がはやりにはやっている時に、賢明にも、機会をあたえられることになった。勇敢な兵士であり、敵の攻撃にさらされても持ちこたえるようにみっちり訓練されているという評判のニュージーランド軍は、こと志と違った場合、貴重な支えとなってくれるだろう。
『砂漠の戦争』P52



 『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』にはこのように書かれています。

 ニュージーランド政府は、在エジプトの同国軍司令官バーナード・フレイバーグ少将の「ニュージーランド師団は完全な編成でなければ出動しない」という姿勢を強固に支持していたため、オコーナーはマトルーの後方にいる第4ニュージーランド歩兵旅団の兵士を呼び寄せることができず、当の歩兵達も不満を募らせていたが、輸送車の運転手達が語る「ここを我慢するのが、本当の勝利だ」という応援の言葉に、今は耳を傾けざるを得なかった。

 幸いなことに、オーストラリア政府と、第6オーストラリア歩兵師団を指揮するイヴン・マッケイ少将はニュージーランドとは異なる態度を取っており、その第16旅団はすでにソルームまで進出していて、それ以上前進することを強く望んでいた。さらに、第17旅団は戦いたくてうずうずしており、移動手段が使用可能になればすぐにでも駆けつけるつもりであったし、第19旅団にいたっては訓練が不足しており、しかも輸送手段をまったく持たなかったにもかかわらず、師団の他の旅団が戦闘を開始する時に自分たちがいなければ、反乱に近いことになると明言していた。

 しかし、これまでの戦いと同様、これからの戦いでも、輸送が大きな問題だった。この戦争は3トントラックの戦いだった。

 オコーナーとマッケイは、共にパレスチナに赴任していた時以来の付き合いで、非常に友好的な関係を築いていたので、実際の解決法をどうするか以外の問題はほとんどなかった。二人はシディ・バラニにあったマッケイの司令部で短い会議を開き、マッケイはソルーム地域の指揮を執り、バルディア攻撃の責任も負うこととなった。彼らはその後、必要な前進を計画し、まもなくオーストラリア第16旅団が出発した。

 【……】

  第6オーストラリア歩兵師団の兵士たちは、第4インド歩兵師団の長年勤続した正規兵のような厳しいプロフェッショナリズムに欠けていたとしても、体格と体力でそれを補っていた。【……】

 【……】

 オーストラリア軍の兵士達は大男だった。ある人が驚いて見てみると、身長が6フィート【約183cm】以上ない兵士は、幅が3フィート【約91cm】あることでそれを補っているようだった。そしてまた、幅が3フィートあっても、それは全部骨と筋肉だった。彼らの巨大な手に握られたライフル銃は、まるで少年のエアガンのようであり、彼らは軽機関銃をライフル銃のように扱い、戦争後半には対戦車兵器を簡単に持ち運んだものだった。オーストラリア軍兵士の行進の列は道路を揺らしたし、バーで2人のオーストラリア軍兵士が口論で激し始めたりすれば、そのバーにはもう誰もいられなくなってしまう有様だった。

 そしてまた、第二次世界大戦で最初に戦ったこのオーストラリア人兵士達には、さらなる長所もあった。それは、25年前のガリポリやフランスで確立された武勇の伝統に対する絶大な誇りであり、大隊長や上級将校の中にはその時に自ら戦った者もいたし、あるいは父や叔父がその時に戦ったという者達も、今、バルディアに向かって行進している兵士達の中にいたのだ。大隊の名前には2nd/1st、2nd/2nd、2nd/3rd、2nd/8thというように、「2nd」という数字が付けられ、第一次世界大戦の時の部隊が再び結成されたのだということを表していた。彼らは、戦時中の反軍的な雰囲気と平時の軍事予算の削減にもかかわらず、オーストラリアの市民軍に入隊し、自分達の父親と同様に優れた兵士であることを証明しようと決意していたのだ。
『Wavell's Command: The Crucible of War Book 1』2761~2833





 オーストラリア兵に関しては、このような記述も。

 オーストラリア人は乱暴なことも多かったが、戦場では恐れを知らぬ兵士たちで、味方の連合軍からは非常に尊敬されていた。
『外人部隊の女』P119

 シドニーの波止場やリヴァライナの牧羊小屋から集められたオーストラリア兵たち - 不気味な汚れた顔に大きな軍靴、ポケットに押しこんだリヴォルヴァー、大きなぶかっこうな手で小銃をつかんでどなり散らし、始終、ニンマリと笑っている彼らは、見るからに精悍そのものだったので、敵は一目見ただけで勇気をくじかれてしまったに違いない。
『砂漠の戦争』P57

【ベダ・フォムの戦いの後】
 オーストラリアの兵隊となると、上官を無視して、街なかをぶらついたり、むかしながらの習慣で、おんぼろの二人乗の馬車に10人も乗り込んで走らせたりしながら、彼らの父親が第一次世界大戦末期に"駐留"した町を、ひややかに眺めていた。時おり彼らは《ワルツを踊るマチルダ》や《オズの魔法使い》の歌をがなりたてた。カフェのおやじや、通訳や、ハエタタキ売りや、エロ写真売りなどは、親しみというよりは、むしろ恐さが先に立って、おずおずと彼らに接していた。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P20,21

 【ガザラの戦いの後】
 【自由フランス軍所属の著者が、】つばの広い帽子をかぶったオーストラリア人の大隊が前線に戻ろうとするのにすれ違った。ドイツ軍の進撃を食いとめるために砂漠へ戦いに行くのが嬉しくてたまらない様子で、みな歌を歌いながら行進していた。
『外人部隊の女』P198



 コンパス作戦からベダ・フォムの戦いへの時期でイタリア兵達は、オーストラリア軍兵士が獅子の如き激しい雄叫びを上げて突撃してくるのに心底恐れおののき、そのためもあって多くが降伏してしまったのでした。捕虜となったイタリア軍兵士達の間では「オーストラリア軍兵士が来ている革ジャンパーは銃弾が通らない。そうでなければ、あんな恐れを知らない突撃などできるわけがない」という噂が広まり、オーストラリア軍兵士の革ジャンパーを恐る恐る触りに来てみるイタリア軍兵士もいたとか……。







 しかしこの時期の戦いで、オーストラリア兵やニュージーランド兵による民間人殺害もあったようです。

 残念ながら、北アフリカ戦役でも非道な行為が行われている。
 最も残虐であり、しかし歴史の片隅に追いやられている事件は、1940年から41年にかけての、デルナ~ベンガジ突出部の略奪であろう。連合軍が前進し、その後、退却した際に、大規模な略奪が行われたことに、疑問を挟む余地はない。そこで行われたことといえば、ベンガジのイタリア人女性の虐殺(前進してきたドイツ軍が、その証拠を撮影している)、略奪行為(ニュージーランド兵による蛮行がすさまじかったという)、破壊、レイプ、そして殺人。
 前進してきたドイツ軍とイタリア軍は、非道な行いに対し、オーストラリア兵を告発した。略奪行為の一部は、イギリス軍上級司令部が奨励したものもあったという。現在、オーストラリアの公式の見解としては、確かに当時、虐殺は行われたが、それはニュージーランド兵によるものだ、ということになっている。しかし、一部のオーストラリア兵も略奪に関与したという考えは、否定できないであろう。
 もっとも、彼らは退却してきたイタリア軍とアラブ人がデルナとベンガジをさんざん略奪した後で、追い打ちをかけたのではあるが。
 オーストラリア政府はこれまで、1940年と41年にベンガジの市民を処刑したことを示す、文書による証拠の存在を明らかにはしていない。だが、現地のアラブ人がレイプされ、略奪され、殺され、同じようにイタリア人入植者が殺害されたことは間違いないのである。連合軍による略奪行為のうち、オーストラリア兵がどの程度関与していたのか、真相を知ることはできない。
 イタリア軍は、ANZAC(オーストラリア、ニュージーランド軍)の兵士は、投降したり負傷している枢軸軍兵士を処刑している、と主張してきた。第9ベルサグリエーリ連隊に所属していたセルジオ・タミオッツォは、1941年4月30日のトブルク要塞の外郭陣地に対する夜襲の際、オーストラリア軍が反撃に転じた後に捕虜・負傷者を虐殺する光景を目撃している。またメルサ・マトルーでは、ニュージーランド兵が投降を申し出たドイツ兵と負傷者を、銃剣で刺殺した例が報告されている。
『コマンドマガジン日本版Vol.15』P62,63




 これらのことからでしょうか、イギリス軍の上級将校達の間では、オーストラリア軍やニュージーランド軍の兵士達は厄介者扱いされてもいたようです。

 だが、問題はより根深いところにあった。イギリスの上級将校達はANZAC(Australian New Zealand Army Corps)の将校や兵士達に対して多くの偏見を持っていたのである。ウィルソン将軍は彼らを「厄介なやつら」呼ばわりしており、オーキンレックは決して彼らを好んでおらず、オコーナーでさえもがオーストラリア兵達を酔っ払いの無秩序な、略奪家であると非難していたのである(それらはある程度事実であった)。ANZACの部隊が真に理解され、この戦域における「イギリス将軍連」から受け入れられるようになるのは、モントゴメリー将軍の到着を待たねばならなかった。
『Rommel's North Africa Campaign』P54




 一方で、オーストラリア側にも、宗主国であったイギリス側に対する不満がありました。

 海外に出たこれらのオーストラリア軍部隊は、イギリス軍司令官の命令に従っていたが、このことは、国粋主義を強めるオーストラリア人の怒りを買うことになった。【……】

 オーストラリア軍に欠けていたのは方針だった。オーストラリア軍は戦争に参加することは望んだが、イギリス軍に吸収されて自分たちのアイデンティティが失われることは避けたかった。しかし、最初の海外派遣部隊となったオーストラリア第6師団は、明確な方向性が示されないままイギリスに提供された。同様に、日本軍に対してどのように防衛するかについても何の考えも示されなかった。そのため、オーストラリア軍部隊がギリシャへ、さらにクレタ島へと、連合国軍の救援に駆けつける体のいい消防隊のような役割を担うことになってしまったのは、ある意味で自業自得だったと言える。イギリスの彼らに対する態度は、しばしば軽蔑的であった。ギリシャからの撤退命令が相談もなく出されたことは、オーストラリア陸軍総司令官サー・トーマス・ブラミー将軍を怒らせた。

 オーストラリア軍兵士達は、イギリスが自分たちを大砲の餌食【消耗品のように使い捨てられる兵士】にしているという思いを常に抱いていた。その根本的な原因が植民地問題であったことは間違いないが、イギリス政府がオーストラリア人を見下していたこと(特にウィンストン・S・チャーチル首相がそうであった)や、オーストラリア軍が単独で活動することが少なかったこともあって、その思いはさらに強まっていたのである。その結果、戦争が長引けば長引くほど、特に日本が参戦し、オーストラリア人にとっての焦点がヨーロッパや北アフリカ戦域からそちらに移った後は、英豪関係の緊張が高まっていった。


 第6師団が配備されて間もなく、第7師団が合流した。彼らは主に歩兵として使用され、北アフリカ、ヨーロッパ、そして後にはアジアで活躍した。彼らは粘り強く勇敢に戦い、帝国の他の国よりも多い19個のヴィクトリア十字章を獲得した。オーストラリア軍はいくつかの装甲部隊を持っていたが、装備の不足に大きく悩まされていた。

 オーストラリア軍で最初に従軍したのは第6師団で、1941年2月のベダ・フォムでのリチャード・オコーナー将軍の西方砂漠部隊の勝利に重要な役割を果たした。この勝利は、戦争中の英国の陸上での最初の成功であった。第6師団はその後クレタ島に派遣され、英軍指揮官達に駆り立てられた無意味な従軍を余儀なくされた。

 最も有名なオーストラリア軍の活動は、1941年のトブルクでのものである。その頃、オーストラリア軍はレスリー・モースヘッド将軍(その決断力から「ミン冷酷帝」と呼ばれた【アメリカで1934年に始まった新聞連載漫画『フラッシュ・ゴードン』に出てくる主人公の敵である、惑星モンゴの冷酷な皇帝ミンのあだ名から】)の指揮の下、中東に3個師団を置いていた。トブルクでは、第7師団の第18旅団と、新たに到着した「新兵」の第9師団の第20、第24、第26旅団が防衛線を形成し、ドイツのエルヴィン・ロンメル将軍の戦い慣れしたアフリカ軍団の攻勢に対抗した。オーストラリア軍は4月から11月までの6カ月間、その位置を維持し、ドイツ軍によるその重要な港へのアクセスを阻止した。この1万5千人のオーストラリア軍の堅固な戦いぶりから、彼らは「トブルクのネズミ」と呼ばれるようになった。この活躍により、連合国はその後、「クルセイダー作戦」に乗り出し成功を収めた。しかし、これらの従軍により政治的な緊張は高まり、多くのオーストラリア人政治家は"彼らの兵士達 "を解放してオーストラリアに戻し、日本軍を牽制することを求めた。

 第9師団はその洗礼を受けて強靭な部隊となり、オーストラリア軍歩兵部隊の典型となった。第9師団はエル・アラメインで大きな功績を残し、ドイツ情報部はイギリス第8軍の中で最も優秀な部隊とみなした。戦争末期には太平洋戦域に戻り、日本軍と戦った。

 【……】

 オーストラリア側は、オーストラリアへと繋がる重要な戦略拠点であり、東南アジアにおけるイギリスの力の要である シンガポールの連合軍戦力が充分であるかどうかを懸念していた。イギリスは、中東でのオーストラリア軍部隊の重要な戦力を失いたくないという思いから、絶えず彼らにそれを保証していたが、1942年2月、イギリスの保証にもかかわらずシンガポールは陥落し、それに伴って英豪の緊張が高まっていった。

 自分たちの能力を証明し、日本軍が攻勢に出ている中で、オーストラリア軍兵士達は故郷に戻って日本軍と対峙することを求めた。装備や資材の不足は相変わらず続いていたが、兵士達は自信を持っていた。しかし、イギリスはひそかに厳しい態度をとり続け、シンガポールを失ったのはオーストラリア軍のせいだとさえ言った【第8オーストラリア歩兵師団がマレーとシンガポールの戦いで敗れたことを指しているものか】。彼らは、オーストラリア軍をイギリスの利益を守るのに適した東部の別の場所で使おうと、移送を遅らせようとした。議論がエスカレートするにつれ、オーストラリア人はアメリカに接近していった。この関係は、戦争が進むにつれて大きくなっていった。

 結局、オーストラリアの師団は中東から移されたが、第9師団が本土の安全確保のために戻ってこれたのは1943年になってからだった。【……】

『World War II in Europe: An Encyclopedia』Volume.1 P601


 1943年末になるとオーストラリアは、自国を対等の同盟国として扱わない米英指導部の侮蔑的態度を深く恨むようになっていた。1945年春にサンフランシスコで国際連合が発足するまでに、オーストラリアは世界情勢について大国に反対する中小諸国の多弁な指導者になっていた。戦争終結時もオーストラリアは、今や脅威になりつつあったソ連よりも、イギリスとアメリカに対してより敵意を抱いているかのようであった。
 もしオーストラリア軍に南西太平洋戦域の指揮権が与えられていたら、もしオーストラリアが最低限東インドの一部でも奪回を認められていたら、そして、もしオーストラリアが西側連合国の戦略決定の場で発言を許されていたら、おそらくオーストラリアが米英と疎遠になることはなかった。ところがワシントンとロンドンの政治家や将軍たちにとっては、当時のオーストラリア国民の感情は、さしたる関心事ではなかった。なぜなら、オーストラリアの国家安全保障はひとえに米英同盟に依存していたからである。
『ヒトラーが勝利する世界 歴史家たちが検証する第二次大戦・60の"IF"』P263,4




 さらに、ドイツ軍やロンメル将軍が、オーストラリア軍兵士達をどう見ていたかに関しては。

 オーストラリア軍は特にイタリア人に対して粗暴だと【ロンメルは】見たが、その粗暴さに彼はむしろ愉快さを感じていて、"悪意"を見ていなかった。彼はオーストラリア人を個々の戦闘員として高く買っていたが、手に負えない傾向があると考えていた。彼らの構成する1個師団はいいが、オーストラリア軍となると、統率が容易でなかろうと語った。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P181

 ロンメルは41年の夏にこう語っていた。
「オーストラリア軍部隊の戦い方は見事で、彼らの練度は我々を遙かに上回っている。現在ある部隊だけでは、トブルクは取れそうもない。」
 ドイツ軍のBellerstedt少佐は言っている。
「オーストラリア軍兵士は、ドイツ軍兵士よりも明らかに優れている。1)個々人の武器の取り扱い、特にスナイパーライフルについて。2)地形の偽装能力について。3)偵察、観察能力について。4)あらゆる方法で奇襲を行ってくる能力について。」
 DAKのSchorm中尉【副官?】は彼の日誌にこう書いている。
「我々の敵はイギリス軍とオーストラリア軍だ。攻撃に関しては素人だが、度胸と強靱さは大したものだ。疲れを知らず、頑強に苦痛に耐え、防御において素晴らしい……オーストラリア軍は桁外れの屈強な兵士達だ。
『Rommel's North Africa Campaign』P62,63

 実情調査にあたったある参謀将校は、アフリカ軍団がオーストラリア軍に対してこれ以上正面攻撃をすることは不可能だと、軍の最高司令部に内密に報告している。「オーストラリア兵はひとりひとりが強靭で容赦ない戦士で、守備に長けている(中略)冷酷で接近戦に熟練しており(中略) いかなる苦難にも耐え得る」
『パットン対ロンメル』P222,3





 第9オーストラリア歩兵師団に関しては、このような記述も。

 陸軍少将レズリー・モースヘッド卿。トブルク防衛線を頑張りぬいたオーストラリア第9歩兵師団の師団長だったモースヘッドは、師団将兵に規律がなく、軍内部のしきたりを平気で無視するという批判がイギリスで起きたとき、長い時間をかけて勇猛な部下たちをかばい続けた。
『ロンメル語録』P128

 1941年4月からその年の暮れまでトブルクはアフリカ戦線の焦点だった。防御にあたった勇猛なオーストラリア第9師団は、勇猛さではひけを取らぬ少将レズリー・モースヘッド卿に率いられ、目覚ましい戦い振りを示した。
『ロンメル語録』P134

 第9オーストラリア師団は、ロンメルにしろ誰にしろ、そうやすやすと撃破できる相手ではなかった。この種の戦闘、分隊と個々の兵隊のねばりと果敢さがものをいう戦いは、オーストラリア兵の最も得意とするところだった。
『ロンメル将軍』(デズモンド・ヤング)P119

 歩兵部隊で、いちばん優秀なのは、オーストラリア第9師団であったが、それにしても、この師団の実力のほどは、まだ未知数であった。しかも3個旅団のうち1個旅団は、トブルクのイタリア軍の防御施設をつかえるようにするために、派遣しなくてはならなかった。
『ロンメル戦車軍団』P24

 トブルク要塞に立て籠もって、ロンメルの第一次攻撃をほぼ完全に撃退し、ドイツ軍に甚大な損害(戦死・負傷・行方不明者併せて1200人以上)を与えたのは、レスリー・モースヘッド少将に率いられた、オーストラリア第9師団だった。
 オーストラリア第9師団は、1940年に本国で編成された後、1941年3月に遠く離れた北アフリカへと配備された部隊で、実戦経験が一度もないまま、ロンメルの最初の攻勢を迎え撃つこととなった。だが、乾燥した砂漠の多いオーストラリアは、気候が北アフリカと似通っているため、ドイツ軍・イタリア軍・イギリス軍などの、ヨーロッパで生まれ育った兵士から成る部隊よりも早く、この環境に適応することに成功していた。
 彼らは、トブルクへの退却の過程で多少の損害を被っていたが、将兵の士気は高く、要塞守備隊の指揮系統も効果的に機能していた。そして、ドイツ空軍の熾烈な爆撃(4月から6月にかけての3か月間に計1000回以上)にもかかわらず、トブルクの港湾機能はいまだ高い能力を保っており、エジプトからは着々と弾薬や食糧などの補給物資が船で搬入されていた。
『ロンメル戦記』P233,4

 【ガザラの戦いの後】
 オーストラリア第9師団も戦線に投入されつつあった。この最後のニュースはいいニュースだった。トブルクを守り抜いたのは、第9師団だったのだ。彼らの勇名もニュージーランド軍にだけはおよばなかったが、まさに追いあげているという感じだった。
『砂漠の戦争』P207

 【エル・アラメインの戦いの前】
 しかし、心からよろこんでアラメーン・ラインに乗りこんできたこの第9師団は、私が中東で会った他のオーストラリア兵とはまったく違っていた。彼らの話しぶりは、はるかにおだやかだった。彼らは自信に満ちていて、もはや相手に感銘をあたえようと努めることもなかった - 彼らは自分たちの真の姿をはっきりと知っていたのだ。トブルクがオーストラリア兵の前にその真の姿、実力をえぐり出して見せたのである。その後の休養が、その発見についてじっくりと考える時間をあたえてくれた。彼らの規律は、私が知っていたいかなるオーストラリア軍のものよりも、はるかに四角四面なところがなかった。練兵場の規律ではなく、四角四面なところがない中にも、要点だけはピシッと締った前線の規律となっていたのである。彼らは黒人のように、能率よく働いた。モースヘッド将軍が彼らに新しい防御施設を構築させたのは、彼らが新しい配置についてからまだ二時間もたっていない時だった。そういうことまでやってのけながらも、彼らはまだ、大英帝国きっての奇襲部隊の一つにかぞえられていた。
『砂漠の戦争』P214

 【アラメイン戦で】これは7月10日に攻撃に移り、サブラタ師団を蹴ちらし無電傍受中隊を壊滅させたオーストラリア第9師団であった。
『砂漠のキツネ』P236




 個人的に一番ヤバく感じたのはその体格の大きさの話でしたが、しかし彼らが父達の武勇に誇りを持って、自分達も勇敢に戦おうと決意していたという辺りは非常に感動しました。








 また、北アフリカ戦線におけるオーストラリア軍に関する興味深い記述を見つけたら、追記しようと思います。

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 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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