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ドイツ軍指揮官人物伝:フォン・ヴィータースハイム将軍(第14装甲軍団長)について

 ドイツ軍の指揮官人物伝として、第14装甲軍団長などを務めたフォン・ヴィータースハイム将軍について一応書けました(大戦後期に第11装甲師団長を務めたヴィータースハイム将軍というのもいるようですが、血縁などは確認できませんでした)。


 調べつつ書いていたわけですが、書くことがしんどくて、「なぜだろう……?」と思ってたんですが、先日分かりました! 「自分がよく分かってないことをさも良く知っているかのように書くことがしんどい」のだと! そこで、「そもそも素人が、調べながら書いているという体で書く」「分からないことは分からないと書く。複数の説があったらその複数の説を書く」という方針で書き直していったら、だいぶしんどくなくなりました(^^)


 以下、一応の完成稿のつもりですが、今後新たな情報を発見したらいくらでも書き直すということで。




グスターフ・アントン・フォン・ヴィータースハイム
(1884年2月11日~1974年4月25日)


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出典:SALON/Lagerplatz




 フォン・ヴィータースハイムは、その人物像に非常にシビれる、かっこいい将軍だと個人的に思いました。こういう人間でありたい!


 ブレスラウ(現在のヴロツワフ。ポーランドの南西部)に生まれたヴィータースハイムは第1次世界大戦に従軍して、1級鉄十字章と2級鉄十字章を受勲しました。

 第一次世界大戦後も軍にとどまり、第3歩兵師団参謀長を務め(その後任はマンシュタインでした)、1932年11月に大佐に、1934年7月には少将に昇進。

 総統ヒトラーがドイツの再軍備を宣言し、陸軍に参謀本部が復活すると、1935年3月(7月という資料も)にヴィータースハイムは参謀本部の第一部(作戦担当)の部長に任命されます。この時、マンシュタインはすぐ下の作戦課長に任命されており、第二部長はハルダーでした。

 当時の参謀本部には他に教育・訓練を担当する第二部、情報・兵站を担当する第三部もありましたが、作戦を担当する第一部は最も重要な部門であり、ベック参謀総長に次ぐ参謀次長とも呼称されるこの重要な地位にヴィータースハイムが就いたのは、彼が極めて優秀な将校であると周囲からも見られていたからに他なりません。

 1936年10月にヴィータースハイムは、作戦部長の役職を再びエーリヒ・フォン・マンシュタインに譲ります。

 マンシュタインの次にこの役職に就いたのはハルダーであり(ハルダーは1938年9月からは参謀総長)、しかも1940年5月から41年末にかけてはパウルスがこの役職にありました。この後の顛末を考えると、何とも表現しがたい感情を私は抱きますし、当人らにもそういう思いはあったのではないでしょうか。


 作戦部長の役職の次にヴィータースハイムが就いたのは第29歩兵師団長の役職(1936年10月6日)で、1937年秋に第29歩兵師団は第29自動車化歩兵師団に再編され、ヴィータースハイムは機動作戦向けの訓練を行って同師団を精強な師団の一つに育てあげて高い評価を得ました。

 1938年2月1日に歩兵大将に昇進し、同年4月1日(3月1日とする資料もあります)に第14自動車化歩兵軍団の司令官となります。もっとも、ここまでの昇進は順調だったと言えるのでしょうが、その後の実戦での輝かしい機動戦の指揮振りにもかかわらず、それ以上昇進させられることはありませんでした。その理由は、この数ヵ月後のヒトラーへの直言によって彼が不興を被ってしまったからであろう、と複数の資料が述べています。

 1938年8月10日、ヒトラーの別荘であったベルクホーフに国防軍の各軍集団、軍、軍団の参謀長らが集められました(ヴィータースハイムはその中で最も高位の人物でした)。ヒトラーは彼らにチェコスロバキアへの侵攻計画を発表し、この計画がいかに成功の見通しの高いものであるか、そしてフランスに対する防衛のためにライン河畔に建設中の西方防壁(ジークフリート線)のすばらしさについて、延々3時間に渡って講演を行ったのです。この講演はヒトラーが、戦争に反対する将軍達と、若手の参謀将校達との間にくさびを打ちこむための策略であったとも言われています。

 ヴィータースハイムはこの侵攻を行う軍集団の参謀長となるとされており、ドイツ西部国境地帯の軍事的状況について把握していました。

 ヨードルとマンシュタインは後に、この会議の時のことに関してこう書いています。ほとんどの参謀将校達はヒトラーの主張に納得できないでいたが、ヴィータースハイムが、ヒトラーの計画の欠陥について表明し、異議を唱えることのできた唯一の人であった、と。

 ヴィータースハイムは起立して冷ややかにこう述べたといいます。
「西方防壁は、もしフランス軍が攻撃を決断した場合には、よくて精々3週間しか持ちこたえられません。」

 これに対してヒトラーは激怒してこう怒鳴ったと、ヨードルの日記の中で書かれています。
「貴官に言おう……(西方防壁は)3週間どころか、3年間は持ちこたえられると!」

 ヒトラーは自分の計画に対するヴィータースハイムからの敵意に憤激してその後の一切の意見や質問を禁じ(それゆえ発言できたのはヴィータースハイム一人に終わった……という考え方もあります)、5日後に上級軍司令官達に、チェコ問題は武力で解決すると一方的に通知しました。尤も最終的には、イギリス首相チェンバレンの宥和政策により、ズデーテン地方が割譲されてこの時侵攻計画が実際に発動されることはありませんでした。

<2021/09/25追記>

 『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)という本を新しく購入して読んでいたら、上に書いていた逸話のニュアンス(?)が少し違ったように書かれていました。



 その後に続いた討議で参謀長たちは、フランスが何もせずに同盟国が侵略されるのを黙視するだろうか、という疑問を表明した。ヒトラーは彼らの議論に静かに反論していたが、フォン・ヴィーテルシェイム将軍が、ドイツの西方の防衛線は三週間以上持ちこたえることはできない、という彼の上官アダム将軍の見解を引用すると、激怒した。
「西の壁は、もし将軍たちが兵士たちほど勇敢であるならば、いかなる敵も防ぎ得る」と彼は怒号した。
『ドイツ参謀本部』(バリー・リーチ著)P92


 私が感じた差異は3つです。
1.参謀長達は疑問を表明していた(ヴィータースハイムが最初に発言したのではなかった)。
2.ヴィータースハイムが述べたのは、上官のアダム将軍の見解であって、自分の見解というわけではなかった。
3.ヒトラーは「もし将軍たちが兵士たちほど勇敢であるならば」というような、ある意味印象的な、あるいは皮肉な言葉を言っていた。

 ヴィータースハイムの手柄でないことはそのように記述されるべきだと思いますし、また、ヒトラーが単にバカに見えるようなセリフだけを言っていたわけではない(軍の将軍達に反感を持っていたことも強かった?)のならば、それもより正確に書かれるべきだと思いました。

<追記ここまで>

<2022/02/10追記>

 『ヒトラーの元帥 マンシュタイン(上)』P184には、

(それは、彼の上官たる軍司令官のアーダム将軍の見解とも一致していた)

と書いてありました。



<追記ここまで>


 1939年の対ポーランド戦では、ヴィータースハイム歩兵大将の指揮する第14自動車化歩兵軍団は南方軍集団(ルントシュテット上級大将)の第10軍(ライヒェナウ砲兵大将)麾下でワルシャワ南方へ進撃。

 その後、対フランス戦が準備されていくことになりますが、その途中の1940年2月14日、ハルダー参謀総長臨席で2回目の兵棋演習が行われました。その席上、演習統裁部が非常に高圧的に装甲部隊の行動を抑えようとするのに対して、装甲部隊を率いて先頭を進む予定であったグデーリアンと、その後に続行予定であった第14自動車化歩兵軍団長のヴィータースハイムの二人が揃って文句を言ったと、グデーリアンの回想録に記されています。
「こんな状況ではとても本計画の遂行に自信が持てません。このような装甲部隊の使い方は明らかに誤りです。もし、このようなやり方で命令されるならば、やがて軍上層部に対する不信という危機がやってくるのは目に見えています。」

 1940年の西方攻勢では、A軍集団(ルントシュテット上級大将)のクライスト装甲集団(クライスト騎兵大将)の麾下で、第19装甲軍団(グデーリアン装甲兵大将)が突き進む南翼を守る役割を果たします。


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 ↑OCS『The Blitzkrieg Legend』の第14自動車化歩兵軍団司令部ユニット。


 1941年のユーゴスラビア征服に参加した後、バルバロッサ作戦では南方軍集団(ルントシュテット元帥)の第1装甲集団(クライスト上級大将)の麾下で戦います。特にキエフ包囲環を形成する上で先鋒となり、困難を克服して素晴らしい進撃を指揮したことで高い評価を得ました。

 ブラウ作戦直前の1942年6月21日、ヴィータースハイムの指揮してきた第14自動車化歩兵軍団は第14装甲軍団へと改称されます。

 ブラウ作戦では当初は第1装甲軍(クライスト上級大将)、その後スターリングラード攻略を目指す第6軍(パウルス装甲兵大将)の麾下として、先鋒となって進撃します。


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 ↑OCS『Case Blue』の第14装甲軍団司令部ユニット。


 8月22日には麾下の第16装甲師団(フーベ中将)がドン川を渡ってスターリングラードの北辺へと向かい、翌23日にスターリングラード市街地北辺のヴォルガ川岸へと到達。スターリングラードに最初に到着した師団となりましたが、第14装甲軍団全体が非常に薄く延びきった状態になってしまい、しかも燃料が尽きかけていました。翌日以後、この狭い回廊をソ連軍が閉じようと反撃してきたため、第14装甲軍団は危機的状況に陥ります。ドイツ空軍が補給物資を空中投下したものの、ほとんどが無人の地か敵支配地域に落ちてしまいました。

 この後、ヴィータースハイムは解任されることになるのですが、そのいきさつに関する説明が資料によってまちまち(細かいバージョン違いなども含めて)で、また日付も書かれていないことが多く、調べていて「何が正しいの?」とえらい難儀しました。

 諸説紛々の中、ある程度の資料で共通して出てくる説明の枠組みとしては、こういうのがありました。「回廊を守るのに装甲部隊を使うのではなく、歩兵を使うべきだと薦めたら、パウルスに激怒されて解任された」。しかしこの説明では、パウルスは何に怒ったのか良く分からないような……?(尤も、スターリングラード攻防戦でパウルスは極度の緊張状態からの顔面神経症や赤痢に悩まされていたらしいので、元々後世褒められていない判断力がさらに鈍っていたということはあるでしょうけども)

 何やらすっきりと分かった感がしないので、ズブズブと検索し続けたり、資料を探すということを延々繰り返していましたら、段々と「ほぼ確実」と言えるのはこの情報だろうというアタリがついてきたように感じました。

 その情報源は『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』という本で、この本には以下に挙げる逸話について「AOK 6, Ia Kriegstagebuch Nr. 13, 5 Sep 42, AOK 6 2394811 file.」というような出典が記されています。そして、スターリングラード戦に関しての英語文献で最も詳細と思われるグランツのスターリングラード三部作の第2巻『Armageddon in Stalingrad』がヴィータースハイムとパウルスの衝突について記述する際には、この『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』を原典として挙げているのです。

 以下、その情報を記します。


 8月26日午後、ヴィータースハイムは「現在の部隊ではヴォルガ川岸に留まりつつ、後方との連絡を維持することは不可能……今夜、撤退しなければならないだろう。決断を請う。」と無線で伝えました。パウルスは「撤退してはならない。」と返信し、ともかくも他の軍団を東に向かわせ、第14装甲軍団との距離を詰めようとします。

 9月5日、第14装甲軍団はソ連軍の部分的な侵入や、攻撃の可能性を封じるために急遽部隊をあちこちに移動させましたが、その間にも「人員と物資の損失が目に見えて大きく、弾薬も大量に消費されてしまった」と報告します。

 9月6日の午後、ヴィータースハイムはパウルスに電話し、戦線が「限界に達している」ことと、「たとえスターリングラードへの攻撃を無期限に延期することになっても」、スターリングラードの北辺の戦線を守るにはより多くの歩兵と強力な航空支援が必要であることを伝えます。しかしパウルスはそれに激しく反発し、北辺の戦線を強化する為の前提条件としてスターリングラードの占領が必要なのだ、それゆえ、第14装甲軍団はスターリングラードが陥落するまでそこを保持しなければならない、と断言します。

 この後、どちらの資料においても具体的な出来事の説明はないまま、9月14(あるいは16日)にヴィータースハイムは解任された、としています。『Moscow to Stalingrad: Decision in the East』の方にはその理由の説明はありませんが、『Armageddon in Stalingrad』では「これは明らかに、彼が以前に、スターリングラード北辺の危険な位置から彼の軍団を退却させるのを要求した【8月26日】ことと、彼がスターリングラードで第6軍が防御の時に来ているという提案【9月6日】と、またスターリングラードを巡る戦いに戦車を使用するのは間違っているという提案【時期不明】が理由であった。」とありました。


 一方、もう一つの注目したい資料として、当時パウルスの副官として勤務していたヴィルヘルム・アダムの回想録の英語訳である『With Paulus at Stalingrad』という本があります。ヴィータースハイム解任の知らせを本人に運ぶ役割を担わされたのがこのアダムであり、その時のことが詳しく記述されています。ヴィータースハイムの人物像について知るのに非常に重要な記述であるので、丸々引用させてもらいます!


Bundesarchiv Bild 183-F0316-0204-005, Russland, Paulus in Kriegsgefangenschaft

 ↑左からパウルス、シュミット、アダム(Wikipediaから)



 フォン・ヴィータースハイム将軍は第6軍司令官にヴォルガの陣地を放棄することを再び提案した。彼はこの広大な都市が奪えるとは思えなかった。パウルスはこの提案を拒否した。それはB軍集団と陸軍最高司令部の命令に反していたのだ。それは二人の将軍の間で深刻な意見の相違となった。パウルスは、最終的な成功を疑う将軍は、このような深刻な状況で指揮を執るには適さないと考えた。パウルスは陸軍最高司令部にフォン・ヴィータースハイム将軍を解任し、第16装甲師団長のフーベ中将を後任とすることを提案した。この提案は直ちに承認された。

 翌日にはもう、陸軍最高司令部からフォン・ヴィータースハイム将軍宛の文書が届いた。私はフィーゼラー「シュトルヒ」で軍団司令部へと赴き、その文書を渡して受領書をもらってくるという任務を与えられた。

 ヴィータースハイムは草原の真ん中の移動司令部用のバスに乗っており、軍団参謀長が一緒だった。私は初めてこの将軍と向かい合った。彼は背が高くて細身で、無口で、己を非常に律する人物のように見えた。彼の髪は白髪に覆われていた。彼は謙虚な態度で、無言で私から文書を受け取り、バスの中の遠くの隅に座り、それを開いた。

 私はバスの入口のところに座っていて、隣には軍団参謀長がいた。私が出発する前、パウルスは私に、ヴィータースハイムと彼の参謀長は同じ意見を持っていると言っていた。将軍はどのような思いでいることか! 私も参謀長も、とても彼を見ていられなかった。そして、彼はしっかりとした足取りで私達のところに戻ってきた。

「さあ、アダム、文書の受領書だ。」
 彼は、私が決まりが悪い様子をしているのに気付いて、付け加えた。
「副官の仕事も、必ずしも楽しいものとは限らないね。」

 彼は完全に自分を律しているように見えた。彼の声に震えはなかった。彼は参謀長の方を向いて言った。
「フーベ将軍を呼んでくれ。彼は今日、私に報告することになっている。」

 私は席を外した。私が司令部用のバスを降りようとした時、ヴィータースハイムが私に呼びかけた。
「パウルス将軍によろしく!」

 フィーゼラー「シュトルヒ」は、ほんの数歩のところにあった。私は乗りこんだ。私の前に座っているパイロットがエンジンをかけた。騒音とスピードが増し、プロペラは埃と草を渦巻かせた。短い離陸滑走の後、私達は地上を離れ、第6軍司令部に戻るために飛んだ。自分の中の感情や考えがぶつかり合う中で、私はパウルスのことを考えた。彼のこの解任の提案は、確かに迅速なものだった。ヴィータースハイムは成功に疑問を持っていた。そのような態度は、攻撃し続けている2つの軍(第6軍と第4装甲軍)がこの都市を奪うだろうという見解を持つパウルスには、耐えられないように思えた。

 すでにドン川を越えていた。着陸の準備をした機体が、新しい司令部所在地であるゴルビンスカヤの南口にゆっくりと停止した。

 私はパウルスにヴィータースハイムの受領書を渡しながら報告し、受取人がよろしくと言っていたことを伝えた。『アダム、彼はこの報告をどう受け止めるのだろう?』

 パウルスは何も言わずに受領書を読んだ。彼は何事もなかったように、参謀長にフーベを司令部に召喚するように命じた。私はその禁欲的な冷静さに大きな感銘を受けた。
「将軍、ヴィータースハイムはどうなるのでしょうか?」
「彼は必ず、また別の戦区の指揮官に任命されるだろう。彼は有能な将軍だが、ここでついに臆病風に吹かれてしまった。装甲部隊の第一陣が撃退されたからといって、攻撃を諦めるわけにはいかない。フーベは理想的な装甲部隊指揮官だ。ところで、第14装甲軍団は依然、危険な状態にある。彼らを援護するはずだった第51軍団は、ロシア軍の強力な防御に撃退され、何日も立ち往生しているのだ。明日はフォン・ザイトリッツ将軍と一緒に、第295歩兵師団に行くつもりだ。君もそこに来てくれると助かる。この師団はかなりの損害を被っている。我々はこの隙間をどのようにして埋めるかを考えなければならない。」





 この解任の告知について、ある資料は「パウルスはヴィータースハイムに直接会ってそれを伝える勇気を持たず、副官に伝えさせた。」と皮肉に記述しています。また、「ザイトリッツ将軍の方がはるかに傲慢で規律に反することを行う人物であったのに、勇敢で有能なフォン・ヴィータースハイム将軍を解任したパウルスの人物判断は、彼の軍事的判断と同様、深刻な欠陥があった。」と評している資料も。

 サミュエル・ミッチャムはその著『Hitler's Commanders』の中で、「ヴィータースハイムは一流の軍事的天才とは思われていなかったが、堅実で、経験豊富で、非常に有能な将軍であったことは確かだ。第6軍の司令官としては、優柔不断なフリードリヒ・パウルスよりも彼の方がはるかに良かっただろう。もちろんヴィータースハイム自身もそのことを分かっていた。彼が新人(パウルスのこと)に抜かれたのを恨んでいたのは間違いない。」と書いています。

 とは言っても、ヴィータースハイムは1884年生まれ(当時58歳)、パウルスが1890年生まれで、6歳しか違っていません(ちなみにマンシュタインは1887年生まれ。パウルスと知古であったロンメルは1891年生まれ)。また、パウルスの副官であったアダムも1893年生まれとパウルスと3歳しか違わず(1942年当時49歳)、しかも彼の息子は1940年のフランス戦中の5月16日に戦死していたそうです。


 第14装甲軍団長を解任されたヴィータースハイムは、「総統予備」に回された、という資料と、「補給トラックの指揮官という、彼の階級や経験よりも遙かに低い職務」に就かされたという資料があります。その後、ヴィータースハイムは完全に解任され、軍の役職に就くことはありませんでした。他の戦域の指揮官にも任命せずに完全に解任してしまうというこの人事は、以前からヴィータースハイムに対してわだかまりを感じていたヒトラーがそうしたのかもしれません。

 ヴィータースハイムはその後、1945年にソ連軍がドイツ国内に侵入してきた時、ポメラニア(ポーランドとの国境の海岸地域)で国民突撃隊の一兵士として戦ったそうです(泣ける!)。

 戦後は、ほとんどのドイツ軍の高位将官と同様に、ニュルンベルク軍事法廷で証言を行いました。亡くなったのは1974年なので、90歳まで長生きしたということになります。







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No title

西方防壁が3週間しかもたないと言ったのに、実際にはフランスは攻撃を試みるも失敗し諦めるという結果だったので…軍事分析が間違っていたから軍や軍集団レベルでは優秀ではないと評価されたのが昇進できなかった理由に思えてしまいます。
ただ慎重な所は平時の参謀本部員としてはむしろそれくらいが理想なのかも…
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プロフィール

DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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