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北アフリカ戦線:イギリス軍のベレスフォード=ピアース将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線の将軍達について手に入った資料でまとめていくシリーズの続きです。


 これまでの「北アフリカ戦線:」エントリは↓こちら。

北アフリカ戦線:イタリア軍のグラツィアーニ将軍について、まとめ (2018/10/31)
北アフリカ戦線:イギリスのチャーチル首相について、まとめ (2018/11/02)
北アフリカ戦線:イギリス軍のウィルソン将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Reluctant Enemies』) (2019/01/14)
北アフリカ戦線:イギリスのウェーヴェル将軍について、まとめ[増補改訂版] (2019/04/05)
北アフリカ戦線:イギリス軍のオコーナー将軍について、まとめ(付:OCS『DAK-II』『Beyond the Rhine』) (2020/04/10)
北アフリカ戦線:イギリス軍のニーム将軍について(付:OCS『DAK-II』) (2020/04/16)


 最近購入した『Churchill's Generals』と『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』でウェーヴェルやオコーナーについて追記していくべきでもありますが、とりあえずは時系列順に他の将軍についてのエントリを増やしていくことを優先します。


 さて、次の将軍なんですが、イギリス軍のカニンガム将軍についてまとめようとしたのですが、以前から作りかけであった「北アフリカ戦タイムテーブル」の図をいじっていたら、その前にベレスフォード=ピアース将軍についてまとめなければならないことが分かってきました。

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 ロンメルの第1次攻勢でオコーナーとニームが捕虜になってしまったあたりのイギリス軍司令部の経緯は↓こちら(OCS『DAK-II』:英連邦軍の軍団司令部について (2019/01/23)から)。今回のベレスフォード=ピアース将軍は第4インド歩兵師団長であったりしたので、そのあたりの記述を青色で塗ります。

 1940年7月17日、イギリス第6歩兵師団の司令部が西方砂漠軍の司令部として指定された。この組織はイギリス第7機甲師団と第4インド歩兵師団によって構成された。西方砂漠軍の指揮官はリチャード・ヌージェント・オコーナー少将であった。

 1940年9月、イタリア軍によるエジプト侵攻の時、西方砂漠軍は約36,000名の兵士と65輌の戦車を持っていた。

 1940年12月初旬から1941年2月のコンパス作戦の期間中、西方砂漠軍の突破により膨大なイタリア軍が捕虜となり、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの有名な【バトル・オブ・ブリテンに関して】「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって救われたことはなかった」という言葉をもじってアンソニー・イーデン【外相】から「かくも多くの人間が、かくも少ない人間によって捕らわれたことはなかった」という言葉を頂戴することになった。12月14日から、東アフリカに引き抜かれた第4インド歩兵師団に代わって第6オーストラリア師団が加わった。

 西方砂漠軍は1941年1月1日に第XIII軍団という名前で呼ばれることになった。1941年2月までに、キレナイカに残っていたイタリア軍はバルボ街道を退却中であり、イギリス第7機甲師団と第6オーストラリア歩兵師団がそれを追撃していた。イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれた。その結果、西方砂漠において連合軍は防御態勢に移行し、中東司令部は4月のギリシア戦役に注力することとなった。

 ひまわり作戦でエルウィン・ロンメル麾下のアフリカ軍団によって北アフリカのイタリア軍が増強され、ロンメルの前進によってキレナイカ兵団長(General Officer Commanding:GOC)であったフィリップ・ニーム中将が捕虜になると、4月14日に西方砂漠軍がノエル・ベレスフォード・ピアース少将の元で再び活動状態にされて西方砂漠のイギリス連邦軍の指揮を執り、エジプト・リビア国境で枢軸軍の前進を停止させた。
英語版Wikipedia「Western Desert Force」



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 ↑OCS『DAK-II』の英連邦軍司令部ユニット


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 ↑OCS『DAK-II』の第4インド歩兵師団ユニット


 ベレスフォード=ピアース(Beresford-Pierse)将軍ですが、「ベレスフォード=パース(Beresford-Peirse)」と表記されることもままあるようですが、そこらへんよくわかりません。

 写真はWikipedia上では見つかりませんでしたが、Wiki Tree上で見られます。


 まず彼は、第4インド歩兵師団長時代に非常に活躍し、大きな名声を勝ち取ったのですが……。

 【……】1938年から第4インド師団の砲兵部隊を指揮し、1940年初頭に同師団がエジプトに移されるのに伴って同地へ赴任。【……】ウェーヴェルの発案による「訓練演習」として、エジプトのイタリア軍野営地がオコーナーの西方砂漠軍によって攻撃され、見事に打ち破られた時に、ベレスフォード=ピアースは第4インド師団の指揮官を務めていた。

 この一連の大勝利、特に第4インド師団のニベイワ陣地への突撃と大戦果は、ベレスフォード=ピアースが優秀な指揮官であるとの評価を確立した。エチオピアに転戦し、第4インド師団を率いてケレンの戦いに参加、その名声を高める。「堅実で赤ら顔の、葉巻を吸う砲兵」(Barnett, 1983, 38)は大衆の想像力をかきたて、同僚達の間では「ナポレオンに次ぐ本当の大人物」(Greacan, 1989, 162)として尊敬を受けた。1941年4月に西方砂漠に戻った彼はナイトの称号を与えられ、中将に昇進して西方砂漠軍の司令官となった。

 彼の任務は単純であった。戦略的主導権を回復し、包囲されていたトブルク守備隊を解放し、枢軸軍をキレナイカの奥深くまで追い詰めることである。機甲部隊を増強された彼は、1941年6月の攻撃(バトルアクス作戦)でこれらすべてを達成することを望んでいた。ところが作戦は失敗した。あまりにも多くのイギリス戦車が故障とドイツ軍の対戦車砲で失われ、深い失望の中で、辛辣な批判が投げかけられた。ウェーヴェルは中東軍司令官を解任され、その3か月後に「名声が損なわれた」(Dill, 2nd Acc., LHCMA)ベレスフォード=ピアースは西方砂漠戦域から解任され、スーダン戦域の司令官となった。
『Biographical Dictionary of British Generals of the Second World War』位置No.1125/8068



 彼はブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の指揮を執ったのですが、その時のやや詳細な記述はこちら。

 【ブレヴィティ作戦の時】 ベレスフォード=ピアース将軍が全体と後方の指揮をとった。
 【……】
 この作戦【ブレヴィティ作戦】は5月15日に始まった。イギリス軍は当初成功を収め、ハルファヤ峠とカプッツォ砦を占領した。この時、近くにいたドイツ軍部隊が撤退した後も、ベルサリエリが残っていた。ベルサリエリが気がついた時には400ヤードの距離にマチルダがいた。彼らの47mm対戦車砲ではその装甲を撃ち抜けず、マチルダが彼らのいた低い石壁を乗り越えてきた時、目標をその履帯と車台に変更した。このやり方で7両のマチルダが撃破された。
 ロンメルが敵の弱さに気付いて反撃を準備し、バルディアに置いていた予備と第8装甲連隊を差し向けてきたため、英連邦軍は退却を余儀なくされた。ゴットもそのことに気付き、すんでのところで退却の命令を出したが、それはベレスフォード=ピアース将軍による留まれという命令を無視してであった。ゴットはハルファヤ峠は維持したが、占領した他のすべての地点は放棄した。
『Rommel's North Africa Campaign』P70

 「バトルアクス(戦斧)作戦」と名付けられたこの攻勢は、ノエル・ベレスフォード=ピアース中将の第13軍団司令部によって統轄指揮され、マイケル=オムーア・クレアー少将の第7機甲師団に所属する3個旅団(第4、第7の2個機甲旅団と第7支援旅団)と、フランク・メッサーヴィ少将の第4師団に所属する2個旅団(第22近衛、第11インド)が、50機のホーカー・ハリケーン戦闘機に支援されながら、それぞれ与えられた目標に向けて前進した。
 【……】
 6月16日、敵の攻撃部隊の連携があまり上手くとれていないことを見抜いたロンメルは、第5軽師団と第8戦車連隊で反撃を行うことを決定し、敵の第4と第7機甲旅団の中間部に兵力を集中する形で、逆襲に転じるよう命令した。10キロほど離れた場所で戦っていた第5軽師団と第8戦車連隊は、すぐに同一歩調の行動をとることができず、それぞれ夕方まで目前の敵との交戦を続けたが、翌6月17日の朝、両部隊は英連邦軍の間隙をすり抜けて、英連邦軍の背後へと浸透することに成功した。
 ロンメルが常套手段とする、こうした敵背後への浸透を初めて経験したクレアーとメッサーヴィは、自軍部隊の背後に突然敵の戦車が現れたことでパニック状態に陥り、上官のベレスフォード=ピアースからの許可を得ないまま、麾下の部隊に攻撃中止と反転を命令した。この日の午後、戦況を確認するために第13軍団司令部を訪問したウェーヴェルは、既に攻撃部隊が東への退却を開始していると知らされ、愕然として言葉を失った。
『ロンメル戦記』P243


 どちらの時も、ベレスフォード=ピアース将軍は「とどまれと命令」あるいは「退却の命令は出していない」のを部下達が無視して後退しているのですが、イギリス軍としてはどっちがよりマシだったのかは、資料からは良く分かりませんですね。


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 ↑OCS『DAK-II』ブレヴィティ作戦シナリオのセットアップ



 当時のベレスフォード=ピアース将軍の力量に関しても良く分からないのですが、両作戦の失敗の要因は、準備不足にあったようです。

 最終的な分岐点となったのは、北アフリカ戦役のさらなる展開によってであった。4月下旬にドイツ軍の戦車がトリポリに到着したというニュースを受けて、チャーチルは「タイガー」船団を地中海に急行させ、ウェーベルのための238輌の新しい戦車が5月12日にアレキサンドリアに到着した。特にウルトラがロンメルの兵站の劣悪な状態を明らかにしたことから、チャーチルはこの「虎の子達」がすぐに使用されることを期待していた。ウェーベルは攻勢に出ることを意図しており、新しく到着した戦車によって損失が回復できることを期待して5月15日にブレヴィティ作戦を開始した。残念ながらブレヴィティ作戦は失敗に終わり、6月15日に新型戦車を投入して行われた次の作戦であるバトルアクス作戦も失敗に終わった。実は新しい戦車の多くには深刻な機械的欠陥があったし、ウルトラはドイツ軍の質的優位性に関しても、またロンメルがどのように88mm高射砲を対戦車の役割で配備して攻撃を鈍らせるかに関しても、明らかにすることができていなかったのである。チャーチルはウェーベルが抱えていた問題に同情を示さず、またバトルアクス作戦の指揮官としてベレスフォード=パース中将を選任したことに批判的であった。ウェーヴェル自身この大失敗に非常に苦悩し、この時が第二次世界大戦中にただ2度だけあった、彼の鋼鉄の自制心が崩壊した時の1つとなった。ロンドンにこの失敗が報告され、ウェーヴェルは1941年6月22日に解任の電報を受け取った。
『Churchill's Generals』位置No.1729/8469


 枢軸軍は燃料不足と、連絡線に危険なほど近いトブルーク守備隊の存在が、戦闘の小康状態をもたらした。これは6月15日まで継続したが、ベレスフォード=パース将軍が指揮する第13軍団が、国境からデルナまで枢軸軍を後退させ、トブルクを解放することを狙ったバトルアクス作戦を実施した。ところが、準備のための時間が足りなかったことが大きな原因で、この攻撃は成功しなかった。装備の多くは戦場に到着したばかりであり、戦闘に備えて装備を準備したり、それを指揮する新チームを編成したりするための充分な時間がなかったのである。
『Churchill's Generals』位置No.4219/8469


 「北アフリカ戦タイムテーブル」を見ると、クルセイダー作戦やガザラの戦い(ヴェネツィア作戦)の前には非常に長い休止期間があるのですが、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の前にはそれが全然ないことが良く分かります。逆に、ブレヴィティ作戦とバトルアクス作戦の失敗により、「長い準備期間が必要である」ということが分かったのかもしれませんね。

 エル・アラメインの戦いの場合には、やや間隔が短いですが、これは英連邦軍が続々と増強されつつあったため、ロンメルが「今のうちにやらないとやられる」というプレッシャーの中で攻勢を発動した……ということが大きいようにも思われます。

 ブレヴィティ作戦の場合には、ウェーヴェルが「ドイツ軍側に第15装甲師団が到着することをことを知って、早めに攻勢をかけることをチャーチルに申し出た」という経緯があったようです。
 

一方、キレナイカのほぼ全域を敵に奪い返されたとはいえ、要衝トブルクを手中に保持していたウェーヴェルは、ドイツ軍上級司令部間の暗号通信を解読した情報「ウルトラ」を通じて、ロンメルが第一次トブルク攻撃の失敗によって苦しい立場に立たされていることを察知していた。
 そして、ドイツ・アフリカ軍団を構成する第二の師団である、第15装甲師団の上陸が着々と進んでいることを憂慮した彼は、敵の兵力が増強される前に、トブルクとの連絡を回復し、敵に打撃を与えるべきだとの結論に達し、英首相チャーチルの許可を得て、エジプトとリビアの国境で限定的な攻撃【ブレヴィティ作戦】を実施する準備に着手した。
『ロンメル戦記』P234



 ただし、バトルアクス作戦の場合には、チャーチルに要求された面が大きかったようです。

 「ブレヴィティ作戦」の失敗と、要衝ハルファヤ峠の失陥により、ウェーヴェルの自信は大きく揺らいだ。彼は、キレナイカのドイツ軍が既に容易には打ち崩せないほど強化されていることを実感し、当面は攻撃を控えて兵力を蓄積するのが良策だと考え始めた。
『ロンメル戦記』P238

 1941年6月、イギリス連邦諸国軍は戦車400両の増援を受け、ロンメルの率いる独伊軍に大攻勢を掛けてきた。これがイギリス中東方面軍司令官、ウェーヴェル将軍の構想になる戦斧(バトルアックス)作戦である。ウェーヴェルはもともとこの時点でロンメル軍に攻勢を掛けるつもりはなかったのだが、パウルス将軍が前月に総司令部に提出した報告書が解読され、これに目を通したチャーチル首相が、エジプト国境にいる敵軍が軽装備であることを知り、ウェーヴェルに攻撃するよう圧力を掛けたのである。
『ロンメル語録』P133

 英戦時内閣の首班チャーチルからの強いプレッシャーを受けたウェーヴェルは、仕方なく新たな攻勢計画の立案に着手した。だが、出来上がった計画の内容は、この攻撃に対する彼の「乗り気のなさ」を物語るような、工夫のない単調なものだった。前回失敗に終わった「ブレヴィティ」作戦と同様、今回も兵力を三手に分けて、平行して前進させるという手法を用いていたのである。
『ロンメル戦記』P239



 これらの流れにベレスフォード=ピアース将軍がどう関与していたかは、記述を見つけられないので全然分かりません。

 スーダンに左遷?された彼はその後インドに移され、インド独立までそこで仕事をし、引退したようです。

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Author:DSSSM(松浦豊)
 ボードウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、第二次世界大戦やナポレオン時代関係情報を集積したりしてます。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイしたり、VASSALでOCSをオンラインプレイしたりですが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! VASSALでのオンラインインストも大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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