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北アフリカ戦線:イギリス軍のニーム将軍について(付:OCS『DAK-II』)

 北アフリカ戦線、イギリス軍のフィリップ・ニーム将軍について。


OConnor_Captured.jpg

 ↑英語版Wikipeida「Philip Neame」から、捕虜になった3人のイギリス軍将官。中央がフィリップ・ニーム中将。左はジョン・クーム准将、右はガンビア=パリー少将(クーム准将はベダ・フォムの戦いを実現させた戦闘団の指揮官で、ガンビア=パリーは第一次ロンメル攻勢で壊滅させられたイギリス第2機甲師団長)。


 ニーム将軍はベダ・フォムの戦いの後に栄転していったオコーナー将軍の後任として着任したのですが、直後に(戻ってきていた)オコーナー将軍らと一緒に捕虜になってしまったため、全然有名でない人物かと思います。

 ところがニーム将軍は、第一次世界大戦(20代)の時にヴィクトリア十字章(イギリスの軍人に授与される最高の勲功章)を受勲しており、しかもその受勲者の中で唯一、オリンピックで金メダルを受賞した人物なのだそうで(1924年のパリオリンピックで金メダルを取った射撃競技チーム4人の内の一人)。

 尤も、同時に捕虜になったオコーナー将軍の軍事的能力が激賞されるのに対して、ニーム将軍は割とダメダメな評価で記述されているようです。

 もうひとつイギリス軍にとって不幸なことは、実戦指揮のヴェテランであるオコンナー将軍がエジプト国内の司令官に栄転し、その後任に砂漠戦の経験がない、工兵出身のニーム中将が着任したことである。
『欧州戦史シリーズ VOL.5 北アフリカ戦線』P61

 英中東軍司令官ウェーヴェル将軍は、広大な担当戦域での各所でおこる危機に気をとられて、特定の戦域にじゅうぶん注意をはらうだけの余裕がなかった。
 ウェーヴェルとしては、部下の将軍はもちろん信用しなければならない。しかしウィルソン中将はベンガジ南方の高地地帯を防備できる兵力について、まったくあやまった印象をあたえたままギリシャへ出発してしまった。ウィルソンの後任のニーム中将は、防備には自信がないようで、じっさいにはまったく適応しないような戦術計画を提案してきた。
『ロンメル戦車軍団』P23,4

 ところで、この時イギリス軍に指揮系統の混乱がおこって、これがロンメルに有利にはたらいた。
 ウェーベル総司令官はパルスにあるニーム将軍の司令部にやってきて、この戦線はニームにはまかせておけないと判断した。
 そこで彼は、ベダフォム戦での勝利者、休養中のオコナー将軍に交代を命じ、
今迄やむをえなければベンガジを攻撃してもよいと命じていたのを取消した。
 これで英第2機甲師団は、師団長ガンビヤ-パリーの希望に反して分割されることになり、4月2目、支援歩兵部隊は、ウェーベルの命令でベンガジに派遣された。
 もともと第2機甲師団の戦車部隊と第3戦車旅団の装備は、中戦車23両、軽戦車25両にすぎず、そのうえ20キロぐらい走ると一両が故障するというありさまであった。
 またオコナーは戦闘の中途で交代するのをきらって、ニームの助言者として働くという条件で帰ってきたので、イギリス軍の指揮がゴタゴタするのも当然であった。
『ロンメル戦車軍団』P29

 4月3日にキレナイカ西部でロンメルが開始した大攻勢によって、現地の英連邦軍が大混乱に陥っているとの報告を受けたウェーヴェルは、同地を統轄するキレナイカ兵団(旧第13軍団)長ニームを罷免し、オコナーを復帰させることを決断していた。
 これを知ったオコナーは、戦局が流動的な状況下で司令官を交代させることは、却って悪い影響を及ぼすとの理由でこの任命に反対し、ウェーヴェルと自分が現地に赴いてニームと共にエジプト防衛の態勢を整えましょうと提言、ウェーヴェルもこれを了承した。

 しかし、このオコナーの提案は、結果的には完全な裏目に出てしまう。
 4月6日、ドイツ軍は何本もの道路が交差する交通の要衝メキリの南方に到達し、道路沿いに退却していた英連邦軍の部隊と司令部に次々と襲いかかった。同日から4月7日にかけて、ニームとオコナー、そしてこの年の2月にベダ・フォムでイタリア軍を壊滅的敗北に追い込んだ立役者の一人である、戦車部隊指揮官のクーム准将がドイツ軍に捕らえられ、翌4月8日には第2機甲師団長ガンビア=ペリーも捕らえられた。
『ロンメル戦記』P218,9



 イタリアの捕虜収容所に送られたニームは数々の脱走計画に加わり、ニームが設計した(工兵出身なので)トンネルを使用して6人が脱走に成功したとか。

 イタリアが降伏するとニームは解放されて、オコーナーらと共になんとかイギリスへ帰還しますが、(オコーナーが第8軍団長になったのとは異なり)陸軍から仕事は与えられなかったそうです(>_<)



 OCSのユニットの中にニームがその長として関わったものはないかと調べてみますと、ニームは1940年2月~8月にかけて第4インド歩兵師団長であったそうなのですが、OCS『DAK-II』はイタリア軍のグラツィアーニ攻勢が始まる1940年9月12日ターンから始まるので、この第4歩兵師団は該当しないと考えるべきか……。

 ↓OCS『DAK-II』の第4歩兵師団ユニット

unit9746.jpg




 イギリス第13軍団(西方砂漠軍から1941年1月1日に改称された)の司令官であったオコーナーの後任としてニームはやってきたので、第13軍団(あるいは西方砂漠軍)司令部ユニットはニームのものとして表せるかと思いきや、英語版Wikipedia「Western Desert Force」によると(和訳はこちら)「イタリア第10軍の降伏によってコンパス作戦が終了した2月には第XIII軍団は解散され、その職責は平穏時の司令部であるキレナイカ兵団司令部【HQ Cyrenaica Command】に引き継がれ」ており、ニームはそのキレナイカ兵団司令部の司令官として着任していて、ニームが捕虜になった4月7日より後の4月14日に西方砂漠軍司令部が再度活動状態にされている(西方砂漠軍が第13軍団と再び改称されるのは1941年10月)ので、こちらも該当なしなのか……?

 これら司令部ユニットがOCS『DAK-II』でどのように処理されているのかチェックしてみたところ、

1月1日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット→第13軍団司令部ユニット(置き換え)
2月15日ターン 第13軍団司令部ユニット→第1オーストラリア軍団司令部ユニット(置き換え)
2月26日ターン (除去)第1オーストラリア軍団司令部ユニット
4月8日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット(再登場)
9月26日ターン 西方砂漠軍司令部ユニット→第13軍団司令部ユニット(置き換え)

 ということで、「第1オーストラリア軍団司令部」を英語版Wikipedia「I Corps (Australia)」でチェックしてみましたところ……。

 2月には、第1【オーストラリア】軍団がリビアのキレナイカの支配権を受け継ぎ、イギリス軍第13軍団に代わって、一時的にキレナイカ兵団司令部の名称を採用した[7:Johnston, Mark (2008). The Proud 6th: An Illustrated History of the 6th Australian Division 1939–1945.P32]。



 おお~。ということは、この第1オーストラリア軍団司令部ユニットが、ニームが司令官であったキレナイカ兵団司令部を表すものと言える……? しかしすぐに除去(ギリシア派兵の為か? Wikipediaからは良く分かりません)されてしまうし……( ̄~ ̄)


 ↓OCS『DAK-II』のイギリス軍司令部ユニット

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DSSSM(松浦豊)

Author:DSSSM(松浦豊)
 ウォーゲームの中でも、OCS(Operational Combat Series)だけをひたすらプレイしたり、関係情報を集積したりしてます。また、ナポレオン時代のプロイセンと、あと若干イギリス軍関係を調べたり。自宅(尼崎会)でOCSを置きっぱなしプレイがメインになってますが、時々はゲームクラブのミドルアース大阪などに行ったりも。

 尼崎会では、OCSに興味のある方を常時募集しております。OCS初心者の方にも分かりやすい、やりやすいところからお教えいたします! 見学だけ等も大歓迎です。ブログのコメント等で、気軽にご連絡下さい(*^_^*)

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